秀と百々人のこわい話 信じられないのに、どうしようもなくそれが現実なこともある。
地方ロケに出向いた秀と百々人、それに鋭心と付き添いのプロデューサーは、帰りのターミナル駅で解散した。鋭心とプロデューサーはそれぞれ用事と次の仕事があり、そのまま新幹線に乗って帰るふたりを秀と百々人は見送った。もちろんふたりも一緒に帰ればよかったのだが、今までさほど縁がない土地だったため、せっかくなら観光でもして帰ろうかと秀がこぼして、百々人がそれに乗ったのだった。二人とももう成人済みであるし、次の仕事もレッスンの予定も最短で二日後であったことから、プロデューサーも了承した。
「ぴぃちゃんとマユミくんにもお土産買って帰るね」
「くれぐれも怪我などしないように、気を付けてくださいね」
「適当に観光するだけだって。俺たちも夜には帰るつもりだから」
「また話を聞かせてくれ」
あまり話し込んでいては目立ってしまう。適当なところで、じゃあ、と軽く手を振って改札に入っていくふたりを秀と百々人は見送った。その背中が人波にまぎれたところで、「行きますか」と秀が踵を返し、百々人もその後を追った。
「郷土資料館がけっこうおもしろそうなんですよね」
秀が、スマートフォンでブラウザを立ち上げる。開きっぱなしだったタブを開けば、「■■郷土資料館」というホームページのアクセス情報が出てくる。
「僕、あのかき氷の違う味が食べたい。ロケのやつ」
「資料館と、あそこの店の近くを結ぶバスがあったはず…あった、6番ターミナルですね」
すばやく「××こおり」という店の所在地と、市の交通情報ページを行き来して、乗るバスのあたりをつけた。百々人はそれを横から見て、「また来たって思われちゃうかな」と笑う。
「あっ! あと二分でバス来ます。走りますよ!」
「え、次でもいいよ」
百々人はそう言ったが、秀が「だめ!」と言って、軽く走り出した。
「次は三十分後です!絶対乗る!」
ええ、と不満をこぼしながらも、百々人もその後を追った。途中で秀がスマートフォンを取り落とし、それを拾ってやった。なんともぐだぐだな状況だが、それが妙におかしくて、走りながら笑うという、傍から見たら挙動不審な二人連れになってしまった。
百々人は、キャップを少し深く被りなおしながら、秀とこんなふうに笑いあえるようになるなんて、数年前の自分は信じないだろうなと考えた。世の中、何が起こるかわからない。それこそが人生なのかもしれない、なんて、妙に感慨深くなってしまう。
そう、世の中、想像だにしないことだって、簡単に起こってしまうのだ。
それはいかにもお約束な展開ではあったが、本当に単なる偶然だった。
轟音を響かせながら、滝のように地面に打ち付ける雨は、まったく弱まる気配を見せない。天井と背後、それに左右を錆びついたトタンで囲まれた簡易なバス停で身を寄せ合い、秀と百々人はそれを呆然と見ていた。
郷土資料館にも、かき氷の店にも無事に寄れて、あとはのんびり駅に戻ろうかということになったのは、午後三時頃のことだった。まだ時間もあるし、少し歩こう。そう言いだしたのは百々人だった。あたりは人の気配もほとんどなく、すぐそばには山が迫り空気も気持ちいい。話しながら適当に歩いていたふたりは、空が暗くなったのほほぼ同時に感じた。上を見上げれば、真っ黒な分厚い雲がいつの間にか垂れこめている。これはまずい、と思った時には、水滴が頬に落ちてきた。それから雨脚が強まったのは一瞬のことだった。
「あそこでやり過ごしましょう!」
秀が指差した心もとないトタンの小屋でも、二人にとってはオアシスに等しかった。そこまでほぼ全速力で走り、なんとか完全な濡れネズミにはならずに済んだ。ほう、とどちらともなくため息が出る。それからしばらく、二人で放心したように土砂降りを眺めていた。
ばりばりと、雨粒がトタンを叩く音が響く。さきほどから、一向に弱まる気配がない。いつの間にか、あたりはすっかり薄暗くなっている。
「うそ、ここ、圏外だ…」
百々人が呆然とつぶやくと、秀もスマートフォンを取り出して「うわ、ほんとだ」と同じ状況を確認した。かき氷店ではもちろん電波は来ていたのだが、いつの間にか電波塔からずいぶん離れてしまったらしい。
秀はバスの時刻表を確認した。
「え、も、もう終わってる…」
「…冗談でしょ?」
「残念ながらマジです。三十分くらい前に今日のバス終わってますよ」
「……。」
自分でも時刻表を確認して、百々人は黙り込んだ。秀の言うことが正しかった。
圏外でタクシーも呼べない。バスも来ない。あたりはもう薄暗いし、二人に土地勘はない。おまけに、冬でないとはいえ、雨に打たれて体が濡れている。このまま放置すれば、体調が悪くなる可能性はそこそこ高い。
何も言わずとも、二人して同じ考えに至ったのが交差する視線でわかった。
「とは言え、この辺人通りもないんですよね」
おそらく一番良いのは、なんとか人を捕まえて、電話を貸してもらうこと。タクシーを呼べさえすれば、なんとでもなる。しかし、秀の言う通り、あたりには人っ子一人見当たらなかった。このあたりはほぼ山の中と言って差し支えなく、民家があるようにも思えない。もう薄暗くなっているし、下手に動くとより一層状況が悪化しないとも限らない。
「野宿は…嫌だなあ」
「何か動物がいないとも限らないし、ダメでしょ。でもな、他にどうすれば…」
万事休すかとあたりを見回した秀が、「あ!」と声を上げる。
「どうしたの?」
「あれ、明かりついてますよね? 民家かもしれない」
秀が指をさすほうを見て、百々人もそれを見つけた。そしてタイミングよく、バケツをひっくり返したような雨の勢いがとうとう弱まった。まだ降ってはいるが、ぽつぽつと言った程度だ。これならあの明かりまで走っていけるだろう。再び雨脚が強くなって、さらに日が落ちては敵わない。
秀と百々人は互いの目を見て、どちらからともなくうなずいた。
「あらま、雨に降られたんですか?」
がたがたと建付けの悪い引き戸を開けて中に入った二人を見て、中年の女性が開口一番そう言った。
「そうなんです。あの…表に民宿ってありましたけど、営業してますか?」
「ええ、やってますよ。お部屋も空いてます」
割烹着を来た女性は、どうやら女将らしい。「ちょっとお待ちくださいね」と一度中に引っ込み、タオルを手にもう一度現れた。
「とりあえず頭はこれで拭いてください。風邪をひいたらいけませんしねえ」
ありがとうございます、と二人してそれを受け取って、少しためらってからキャップと伊達眼鏡を取る。ちらりと女将の様子をうかがったが、芸能人だとはバレていなさそうだ。若干不名誉な気もするが、今回は助かった。
髪の水分を取る秀と百々人を少しの間見守って、頃合いを見計らって女将が帳面を差し出した。
「ここに名前と連絡先を書いてくださいね。お友達? うちは一人部屋っていうのはないんだけど、一室でも構わないかしら」
秀がちらりと視線を寄こすので、百々人は無言でうなずいた。
「大丈夫です」
そう返答して、秀が代表者として氏名と連絡先を記入した。その帳面を返すと、女将にうながされて靴を脱いで廊下に上がる。ぎしりと床板が軋んだ。外観からそんな気がしていたが、どうやら年季の入った建物のようだ。
「さ、こちらどうぞ」
女将に先導されて、二人は一階の一番奥の部屋に通された。
民宿と言うだけあって、ほとんど民家のような造りの建物だった。廊下の土壁が歳月を感じさせる。床板は飴色に光っていて、ところどころぎしぎしと軋んだ。数歩歩けば、すぐに目的の部屋についた。
襖を開けて中に入る女将につづいて、ふたりも部屋に入った。廊下の印象とたがわず、そこも年季の入った和室だった。左手に床の間と掛け軸、正面に障子のはまった掃き出し窓がある。窓の向こうにはさほど手入れされていなさそうな庭が見えた。畳は日焼けし、ささくれ立っている。だが、泊めてもらえるだけでありがたい。
「民宿って泊まったことあるかしら? お布団は自分で引いてくださいね。あと、お手洗いとお風呂は共同なの。でも、大丈夫よ。今日はお客さんは他にいないから、気兼ねせずに使ってくださいね。お手洗いはお部屋の正面、お風呂は反対側の廊下の突き当りにありますよ」
そう説明しながらあちこちを開けたり閉めたりしながら、女将は浴衣とタオルを用意した。
「濡れたままじゃ、風邪をひいちゃうわ。よかったらお風呂どうぞ。その間にお夕飯の準備をしておきますから」
「ありがとうございます、助かります」
「ありがとうございます」
じゃあごゆっくり。そう言いおいて、女将は襖を閉めて去っていった。
怒涛の展開に、秀の口から自然とため息が漏れる。ひとまず荷物を適当に置いて、次は風呂か、と浴衣を手に取ったところで、百々人が妙に静かなことに気づいた。
「どうかしました? まさか、体調悪いですか?」
「…ううん、そうじゃない」
どこか上の空な様子に、秀はハテナを浮かべる。
「じゃあ、とりあえず風呂に…」
「ねえ、アマミネくん」
歩き出しかけた秀を、百々人が呼び止める。そして、こう言った。
「僕たち、ここに来たの、初めてだよね?」
「え…? そうでしょ。少なくとも俺は、この県に来たのも初めてで…」
「…ごめん、そうだよね。変なこと言っちゃった。忘れて」
そう言うと、百々人も浴衣とタオルを手に、部屋を出ていく。しかし、その何か言いたいことがあるのに飲み込んだかのような様子に、秀は引っかかりを覚えた。