複数島と少尉殿ーーこれは困ったことになった……と深刻に捉えているのは、実は月島軍曹ただ一人である。鯉登少尉の借りている家に今、四人の『月島基』がいる。
一人はまだ少年だ。月島の推察では、おそらく六歳くらい。少年は事態が全く理解ができないらしく、そして考えても無駄なことは早々に頭から追い払うのが一番手っ取り早いとわかっているのか、ごま塩頭の老人と手遊びに夢中だ。彼がそういう、誰かと一緒にやる子供の遊びと縁がなかったのは月島もよく知っているので、やめろとも言いづらい。
彼の相手をしている老人ーーと言っても五十絡みで、若くはないが枯れてもいない。少々筋肉が落ちたが、それでも他の同年代に比べたらがっしり逞しい身体付きだ。子供の相手を、穏やかな顔でしている。面倒見がよく、厠に行きたくなった少年がそれを言い出せないのを察して促してやったり、台所を借りて飴湯を作ってやったりしていた。俺がああなるとはとても思えない……となんとも複雑な気持ちで老人の一挙手一投足を眺めている。
あともう一人……この世には敵しかいないと言いたげな顔で、部屋の隅の板の間にあぐらをかいている。軍服がまだ身体に馴染んでいない様子だ。首が短いのか、襟に慣れるまで時間がかかった覚えが月島にはある。月島に見られているのが気に入らないのか、ギラリと殺気に満ちた目で見返された。
「何見てんだよ」
万事こんな調子なんだったら、そりゃ喧嘩に明け暮れて当たり前だな……と過去の自分に嘆息する。なんだよ、と続けて噛みつこうとするので流石に厳しく言い返した。
「言っとくが、お前はまだ新兵、俺は軍曹だ。口はばったいが、技術も体力も経験も段違いだぞ」
「俺の方が若い」
「喧嘩に若さが役に立ったことは、未だかつてないな」
むうと口をつぐんだからには、心当たりくらいはあるのだろう。郷里では負けたことのない月島だが、さすがに軍に入ってからはそうもいかなくなったものだ。きちんと習得した武道は、野良喧嘩とは比べ物にならないほど理に適った身のこなし方をする。
それにしてもどうしたもんか……今ここにいない鯉登少尉に想いを馳せる。嗚呼少尉殿。なんであんたはそう柔軟な思考を持っているのですか。それが若さなのか持って生まれた聡明さなのか、俺にはもう判断つきませんよ。
「待たせたな!」
当の少尉殿が、息せき切ってガラリと襖を開けた。新兵は、慌ててあぐらから正座に直した。少年は突然の声に驚いて、老人の腕に縋っていた。老人は少年の腰を軽く支えて、自分の膝に乗せた。薄く唇に履いている笑みに、月島はどうしようもなくイラついた。この老人はずっと余裕のある態度で、新兵よりもこちらの方がカンに障る。
鯉登少尉は軍服ではなく、着流しだった。風呂から急いで帰ってきたので、まだ髪の毛がしっとり濡れている。月島は立ち上がり、少尉の首元に引っかかっていた手拭いで拭いてやった。
「そんなに急がなくともよろしいでしょう」
「待たせたら、居なくなってしまうかもしれないだろう」
「……願ったり叶ったりでは?」
「私が嫌なのだ」
少尉は何が嬉しいのか、興奮した面持ちで着流しの膝下をさっと手で捌くと、きちんと正座した。月島も釣られるように、その後に膝を付く。
「お前たちが全員月島として、折り入って頼みがある。私は、この月島としか同衾したことがない。しかしかねてから、果たして月島は他に経験のない私をどう思っているのか案じていたのだ。ここで問題だったのが、私が他の男には興味がないと言うこと。お前たちが全員月島だなどと、こんな幸運もう二度とないだろう。どうだろうか、私と誰か同衾してみないか? 今、準備してきた。よろしく頼む」
ぴんと胸を張って堂々としたものだ。その場が呆気に取られた雰囲気になり、少尉は「ん?」と首を傾げた。
最初に反応したのは、老人だった。ぷふ、と噴き出しひとしきり笑うと、はー、とため息をついた。
「いやはやそうだ、思い出しました。あなたはいつも好奇心に満ちていた。世の中に、自分の知らぬことがあるのが我慢ならんのですよね」
「うむ。未来の私もそうか? 月島」
「はい、少尉殿。大変お懐かしゅうございます。今では大分ご出世なさってますよ。詳しくは申しませんが、お楽しみになさいませ」
「それを聞いて安堵した。お前がずっと一緒なのだと知れれば、この世に怖いものなどない」
少尉は、くるりと月島に振り返り、眩しいほどの笑顔をくれた。
「なあ月島!」
「あなたそんなこと考えていたんですか!!」
絶句していてすぐ怒声が出したせいで、唾が妙なところに入って盛大にむせた。ゲホゲホ咳き込む月島に、少尉は慌てて寄り添い、背中を叩いた。
「大丈夫か、月島」
「全然大丈夫じゃありませんよ、どういうつもりなんですか、俺がいつあなたに不満など言いました」
「だって例え不満があったとて、お前は私に言わないだろう。だが今言った通り、私もお前以外は嫌なのだ。全員月島だなんて、千載一遇だと思わんか?」
「……それはどうだか、わかりませんよ」
「なぜだ」
「もしも、その子供が本当に俺なのだとしたら、今の俺はこのことを覚えているでしょう。そこの新兵も、過去の俺だとしたら、やはりそうです。それに、俺がこんなに長生きしますかね?」
老人を指し示したが、彼は穏やかに笑っている。自分にこんな笑い方ができるだろうか? 老人がどんな道を辿ったのか、聞いてみたいと月島の胸の中央がぎゅうと痛む。
「……おっちゃんたち、みんな月島なのか?」
少年が不思議そうに尋ねてきた。
「珍しいな。島に月島は俺と父ちゃんだけらすけ」
月島は、突然頬を渾身の力で殴られた心地がした。まだ幼い彼は……今、郷里の島に住んでいる。少尉は少年に向けて破顔一笑し、「おいで」と両手を広げた。彼は戸惑ったように、自分が腰掛けている老人を仰ぎ見た。老人はやっぱり優しく笑って、少尉の元へと促した。
恐る恐る近づいてきた少年を、少尉は全身で受け止めるように抱きしめた。
「ふふ。痩せているな。もっとしっかり食べねばならんなあ」
「そら無理だあ、ぜぇんぶ父ちゃんの飲み代になるすけ」
「そうか……それは困るな。なんとかしてやりたいのだが」
心底困った様子で顔を覗き込んでくる少尉に慌てて、少年はかぶりを降った。
「ちよがよく小魚分けてくれっから、大丈夫だ。もうちょいしたら、俺も軍人になる」
うん、と少尉は頷いた。
「お前はあのように頼りがいのある男になるからな」と背後の月島を示す。少年は、んん? と首を傾げて困惑している。
ーー何がどうなってこうなっているのか、全然わからない。朝、鶴見中尉の執務室に呼ばれた月島は、しばらく言葉が出なかった。少しずつ違うが鏡の中で見覚えのある顔が、ずらりと並んでいたのだから。
「月島」と鶴見中尉が呼べば、新兵と老人は条件反射か直立不動になる。驚きで一息遅れたが、現在の月島も鉄骨の如き背筋を伸ばした。隣にいた鯉登少尉はポカンとしている。
「……これは一体、どういう仕掛けなのでしょう」
言えたのは、これが限度であった。
「うむ、それがな、有坂閣下がなあ」
有坂閣下。それだけでもう、月島は全て諦めた。もうどうにでもなれ、だ。鶴見中尉はそれを察したらしく、くっくと忍び笑いする。
「まあ、そう嫌な顔をするな」
「お言葉ですが、これは普通の顔です」
「わかったわかった。なに、ニ、三日で解決できると思うから、本人に面倒見てもらってくれと言われてな」
「……面倒を見ろ、とは……?」
「鯉登少尉の宿舎なら広いし大丈夫だろう。お前も一緒に行きなさい」
「は!?」
「他に誰もおらんだろう」
その通りである。他に適切な対処法もない。流石に人目に立つわけにいかず、出入りの商売人のような格好をさせて、敷地から外に出した。こそこそ物陰に隠れながら、なんとか鯉登邸に辿り着いた。
続くかな?w