2025-04-02
「マリー、少しいいかな」
仕事の落ち着いた午後の宿、カウンターで拭き掃除をしていたマリーに軍主が声をかけた。ひそめた声、毛羽だった布を大事そうに抱えた姿はまるで悪いことをしているかのようだ。
幸いなことに客はおらず、窓から初秋の穏やかな光が入るばかり。兵のざわめきが時折外から聞こえることを、セキアは少し怖がっているように見えた。
「はいはい。どうしたんだい」
ひとりで宿に来るのは本当に珍しい。マクドールのお坊ちゃんと呼ばれていた頃から知っているが、その時もいつだって誰かと連れ立っていた。今はもう亡い金色の髪の従者が、いつだってそばに居て、なんくれとなく世話を焼く。それがずっと続くと、マリーとて信じていた。
グレミオを亡くし、テオを殺し、テッドを失ったセキアの顔が少しずつ陰りを払えなくなっていくのがマリーにとっても辛く、だからと言ってそれを払う術は分からない。マリーがこれまでの全てを失ってここへ来たように、セキアもまた流れて選んでここにいる。
同じとは言わぬが、少しは通じる心もあるはずだ。
セキアはまるで人目を憚るように周囲を見渡すと、カウンターの上に抱えていたものを置いた。元は深い緑だっただろう、色褪せた色の外套だ。裾はほつれ、そこここに穴が空いている。
「これ、直せないかな」
グレミオのものだ、と直感し、口に出そうとして止めた。失った従者の外套を、どうして今更持ち出して、手直しをしてどうしようと言うのだろう。セキアよりもずっと背の高いグレミオの外套はセキアにはきっと大きすぎる。
それも全部胸にしまった。セキアが望んでいる。それだけで十分過ぎる。
「どれどれ」
外套を広げれば、思ったよりも痛みは激しくなさそうだった。虫に食われたような跡がいくらか開き、裾がほつれている。だがそれ以外は丁寧に繕われ、補強され、持ち主であるグレミオが大切に扱って来た事がよくわかった。
心配げな顔のセキアにマリーは微笑んだ。たくさん心配事はあるだろうが、この件に関しては大丈夫。
「ちょっといいかい」
マリーは外套をセキアの肩に回した。セキアの、まるで大きくならない子供の肩にグレミオの外套は大きすぎるし、成長しきらない背丈には長すぎる。セキアが一瞬顔をゆがめ、手袋のままの指で眉間を抑える。それをマリーは見ないことにした。
「穴を繕って、あんたの寸法に合わせれば大丈夫そうだね」
「直せる?」
「直せるさ。少し時間がかかっちまうが、それでも大丈夫かい?」
マリーの言葉に、セキアはぱっと顔を明るくして見せた。だがすぐさま、いけない事をしたと言わんばかりに頬を抑える。落ちかけた外套を慌ててつかむ手はやはり小さい。
マリーにとってはいつまでもかわいいマクドール家のお坊ちゃんだ。もうそうではない、セキア自身がその扱いを望まないとしても、マリーにも救えるものはあるはずだった。
「少し待っておいで。寸法をはかっちまおうね」
もしもこの外套の主が生きていれば、マリーがこんな事をする必要なんてないのだが、失われたものは戻ってこない。世界はそう出来ている。
直した外套を返せたのは、戦争が全て終わった後だ。皇帝は死に、軍師も死に、国が生まれた。マリーには何が変わるのか良くわからない。
ただ、外套を受け取ったセキアが何かをずっと考え込んでいたこと。長旅にぴったりだと笑ったこと。グレミオと一緒みたいだとくるりと回って嬉しそうにはしゃいだ事。
マリーがセキアにできる事は全部やったと胸を張って言える。帰ってきたらおかえりと言って、外套が解れていたらまた直して、今度は直し方も教えてやることができればいい。