2025-04-26
「ちょっと付き合ってくんねえか?」
仕事がない時なら日がな一日一緒にいると言うのに、改まってなんだ。そう言おうとしてやめたのは何やらひどく追い詰められたような目をビクトールがしていたからだ。似合わぬしわを眉間に寄せて、伺うように俺を見ている。
読んでいた本を閉じ、椅子に座り直す。その間に、ビクトールも寝台に腰を掛けた。外からはサウスウィンドウの市場ののどかな客引きの声がして、柔らかな午後の光が差し込んできている。つい先日まで過酷な砂漠にいたなんてまるで夢のような、穏やかな日だ。
寝台に座り込んだまま、ビクトールは黙り込んだ。組んだ指先をより合わせる仕草は、まるで叱られる子供のようだ。素面では話しづらい事なのだろうか。だったら夜にでも話せば良いものを。
逆に素面でなければならないのかもしれない。誤解や曲解、忘却を疎んでいるのかもしれない。俺相手に、なにをそんな大げさなことがあるものか。
目を逸らし、ため息をつき、伸びた前髪の間から俺を見る。うっとおしいな、と思っても、とりあえず何かを言うまでは黙っている事にした。言い出しはしたものの、いやなら全部忘れてやったっていい。
だがビクトールは、最初と同じセリフを繰り返すことで話を始めた。
「付き合ってほしいところがある」
手慰みに本のページをめくりながら頷いた。ビクトールの目はやっぱり真剣で、手を止めることにした。
「ここから一日ぐらい行ったところに俺の故郷がある」
一つ一つ、俺に、もしかしたら自分に言い聞かせるために言葉を紡いでいるみたいだ。ゆるりと伸ばされた指先が、北西をさした。
ビクトールの故郷。吸血鬼に滅ぼされた。仇を追って、ビクトールはトランまで流れ流れて解放軍に参加した。そうして戦争の途中に、吸血鬼は滅され、ビクトールは故郷へ帰った。
俺が知っているのは表層の話だけだ。10年の間、ビクトールがどれだけの人間に恨まれ、どれだけの人間の間を渡っていったか。吸血鬼を滅ぼす事だけを至上命題としてどれだけ擦り切れたか。話だけは知っている。
調べたからだ。怨恨と恩義と憐憫と親愛と興味。かかわった人間の数だけビクトールの表面を撫でるように調べた。結果として信用しきれない、と判断したことは、あの時点では間違っていなかったと今でも思う。
ただ、今はもうかつてと状況が違いすぎる。俺は俺の安全だけに責任を持てばいいし、ビクトールがそれを脅かすとも思っていない。
大概の情報は知っているし、知っていることも知られているはずだが、ビクトールは俺に知ってほしいことがあるようだった。
「ノースウィンドウという街だ。俺は、帰らないといけない」
はっきりと言い切ったわりに、ビクトールは目を逸らした。帰らなければならない。つまり、帰りたくはないという事だ。
そもそも、一度報告に帰りたい、という名目で解放軍を抜けたはずだろう。砂漠も越えられずにモラビアで捕まっていたと言うには、あまりにも時間経過がおかしい。
「お前、あの時帰ってなかったのか」
思わず声を上げれば、ひどくばつが悪そうに唇を尖らせた。まるで約束事をやぶった子供のように視線を落として合わせた指先をこすり合わせる。
「帰れ、なくて」
砂漠は越えた。サウスウィンドウも出立した。だが、遠くに故郷が見えた瞬間足が動かなくなったのだという。
「分かってたんだぜ。帰る、って名目で解放軍を飛び出した以上、俺は胸を張って故郷へ帰るべきだったんだ。でも」
怖くて。ビクトールは呟く。
「怖くて」
ビクトールの言葉にオウム返しで応じれば、男は小さくうなづいた。
「ちゃんとわかってんだ。ネクロードを殺しても、ノースウィンドウは元に戻ったりしない。死んだ人間は生き返らない。俺の故郷はあの日のまま。いやもっと崩れている。10年だぜ」
でも。涙の気配は全然しない。あけ放った窓から穏やかな風が吹きこんで、ビクトールの髪を揺らした。
「でも、どっかで期待している。あの時のまま、サウスウィンドウから帰ってきた俺をみんなが出迎えてくれて、それで」
復讐に費やした10年なんて、まるで無かったことになる。
確かに有り得ない。何と言ったらいいか見当もつかず、俺はすっかり向けられたビクトールのつむじを眺めながら、指先で本のページをむやみにはじいた。
しばし、沈黙が落ちた。外からは何か良いものを買ってもらったらしき子供の笑い声がする。
怖いのは分かった。それが事実だと理性は理解していても、真実だと知るのは怖い。それは分かる。分かるよ。
「でも」
この行為が何かを救うのかまでは分からない。手を伸ばして、ビクトールの髪に触れた。固くて痛んでいて、おおよそ快のある感触ではない。
「帰るんだろう。付き合うよ」
ビクトールが俺をここまで引っ張ってきたのは、もしかしたらこの為なのではないか。10年前そのままなら絶対に有り得ない、人を殺す連れの存在は、ビクトールの10年の結実の一つだ。
たどり着いた場所の石を一つ拾って、たどり着いたことを刻みつけるように、ビクトールは俺をここまで連れてきた。ならば、その役目は果たすべきだろう。
「つまんねえ、しけた村だぜ」
まるでまだノースウィンドウが存在しているような言いぐさをしていると、ビクトールは多分気づいていない。