2025-04-28
戻りたくなかったというのは事実で、戻りたかったというのも同じぐらい本当なんだと思う。
町はビクトールが言ったように崩れていた。屋根は落ち、草木が壁を浸食し、石畳はだいぶん土をかぶっている。そこここに突き刺さった、墓とも何とも言い難い粗末な板切れの下には一体誰が埋まっているんだろう。
なるほど確かにこれは忌地だ。さっきまで高く鳴いていた鳥もどこかへ行って、風の音しか聞こえない。ざわざわと木の葉と枝がこすれて音を立てるのに、しんと静かだ。朽ちたドアの向こうには朽ちた家がある。乱雑に転がされたいすと桶が床に転がって揺れている。
入口から大きな通りがあって、左右に朽ちた建物が並んでいる。擦り切れた布や地面に落ちた看板の成れの果てから察するに、ここが目抜き通りだったんだろう。
背後は崖と湖。ここに来るまでに小さな森とそれをかわすように伸びる道。軍を隠すのにも良く、大軍が一度に攻め込む事もできない。サウスウィンドウからトゥリバーに舟を使わずに行こうと思えば、この辺りで休息をとりたくなるのもまた事実で、それ故にそこそこ大きくなった街だったのだ。
今はすっかり面影しか残っていない。何にもない。なんにも。
ビクトールは何にも言わず、だからと言って歩き出すこともなく、一歩だけ街に入って困ったようにあたりを見渡していた。
たくさん想像していただろう。あの頃のままだという幻想や野盗の根城にされてまるで姿を変えている可能性もあった。火が出て、何もかも丸焦げの真っ黒になっている事だって考えられた。
「なぁんも変わってねえなあ」
ビクトールが歩き出す。それに歩調を合わせて追いつけば、何とも言わずに手をとられた。乾いて固い、手袋もつけない掌が薄い旅装の上から手をきつくつかんだのだ。完全に不意をつかれ、不意をつかれた事実に一瞬あっけにとられた。
ビクトールは俺の自失に気づきもせず、そのままゆっくりと歩いていく。土と草が靴の下で崩れ、跡を刻んだ。それが街の入り口から目抜き通りをずっと続いていく。
「ニールのじいさん、腰が痛いから薬買ってきてくれって」
指さした建物にはおそらく暖簾だっただろうぼろきれがかかり、大きく開いた窓から差し込んだ水と風が建物全体を傾けていた。俺にはそうとしか見えないのに、ビクトールにはきっと全然違う光景が見えている。
「ジャックからは珍しい花の種とかそういうよく分かんねえリクエストでさ」
ひょろりと石畳の隙間から若木が生えている。それを交わして、先へと進む。手にこめられた力は弱まりもせず、ギリギリと俺の腕に食い込んで離れない。
怖いんだろう。俺に縋って、それで何が救われるのかは分からないが。
「レアんちのパン、サウスウィンドウのどこのパン屋よりうまいんだよ。なんだろうな、食いでがあるところがいい」
肯定も否定も出来なくて、まるで夢物語を聞いているような気分だ。
だって俺には何も見えない。ビクトールの過去など、本当の所なんて何も知らない。
少しずつ坂になっている目抜き通りは大きな館に行き着いて終わる。ほかの建物よりも様式が古いのが今でも分かる。多分ここに街を作ろうと思った最初のだれかが最初に作った建物なんだろう。ここに寄って、この町は大きくなった。
そこでビクトールは振り返った。遠く、彼方を見る目で目抜き通りを見晴るかす。
「なんも変わってねえな」
ここが見捨てられて、10年の月日は確かに経っている。上げた名前の人たちはもう誰一人生き残っていやしない。なにも変わっていないなんて有り得ないのに、ビクトールはそう繰り返した。
過去だけを見ている、ビクトールの顔。大嫌いだ。
それでも、掌がまるで錨のようだと思った。。どこまで過去にあろうとも、俺をつかんでいれば流される事はないと信じている。重たい重たい錨だ。錨ならば、肌に食い込むことも当然だ。
怖いと聞いた。怖いから帰りたくはない。故郷がどうなっているのか。変わっている事を確かめるのが怖い。
何かを言わなければならない。揺れる木の葉や吹き続ける風の音、ビクトールにだけは聞こえていそうな10年前の亡霊のさざめく声よりも大きく、声を上げるべきだと。
ビクトールの手は冷たい。しっかりとした指と分厚いたなごころとがいつもと違って氷のようだ。良く整えられた爪が白くなるほど俺の手を握りしめている。
「ビクトール」
名前を呼んだ。肩が跳ねる。驚きに丸くなった土色の目がこちらを、俺を見た。
「もう怖くないのか」
怖いから帰れなかった。じゃあ、実際に帰ったらどうなんだ。過去は過去として目の前にあり、いつでもビクトールを引きずりこむ。そこに飲まれてしまうのもけして悪くないんじゃないか。
10年をなかったことにして、ここで過ぎ去ったがゆえに優しい過去とともに暮らすのも悪い事ではないんじゃないか。
ビクトールは目を瞬かせ、ゆっくりと周りを見渡した。崩れた屋根。草木におおわれた壁、かかった布はとっくの昔に風に擦り切れ、花がただ無秩序に咲いている。人の手が入っていない場所だという事は一目見て分かっていた。
「……10年はやっぱ長ぇなあ」
捨てられた町が、そのままなハズがない。そんな当たり前の事を世界の真理のように言う。
「怖く、まあもう、怖くはねえかも」
「確かめりゃそんなもんかもな」
「10年、そっか。10年たったからな」
ビクトールの目がゆるりと過去から帰って来る。俺には見えない過去のこの街の幻を見る目はどうしたって恐ろしい。これからお前はどうするんだ。
俺の手を握りしめる力が一向に緩まないのは、どういう了見なのだ。
「へへ」
ビクトールはへらりと笑い、俺の手を引いて歩き出す。
「そういや花も何も持ってきてねえや」
生きているという幻を振り払えない人間が、供花など用意出来るものか。そこここに咲いた花がゆったりと揺れる。
「また来ればいいだろ」
「そっか、そうだな」
俺の手を引くビクトールの足取りは、やっぱりどこか夢見心地だ。それはひどく居心地が悪い。