2025-06-21
誰かの腕が倒されるたびに、大きな歓声が上がる。難しいことなど何にもない。みんなやっぱり楽しいことが好きで、勝負事が大好きだ。それはこの限界寸前の帝国でも同じこと。
レナンカンプの繁華街、旅人も地元の連中も混ざってごっちゃになった酒場だ。酒場の真ん中に卓を置き、むさくるしい男が二人、腕をつかんで肘をつけ、顔を赤くしてお互いの手を卓に倒そうといきんでいる。相手の手は分厚く、そこから伸びる腕は良く鍛えられて太い。だが踏んでいる場数が違うのだ。俺は分からない程度に弱めていた力を少しずつ籠め、ギリギリと押し込んでいく。熱い勝負は次の掛け金をさらに積ませるだろう。お遊びとはいえ、負けるのもしゃくだし得られる金を逃す手はない。
相手が青筋を立てて真っ赤になっている。まだ余裕はあったが、それを悟らせないようさも全力だと言わんばかりに俺は息をつめて見せた。ゆっくり、ゆっくりと相手の拳が卓につく。審判役が手を上げ、皆が悲喜こもごもの声を上げた。
「へっへ、ごちそうさん」
勝者に与えられるのは当然始まった掛け金の半分ぐらいだ。まだみんなそこまで飲まれちゃいないから、まあ常識的な、今日の飲み代がまかなえるぐらい。
「ちょっと待ってろよ、ビクトール。次は勝つからよ!」
「もうちょっとだったもんな!」
「次は誰と誰だ?」
金を回収し、ビクトールは一旦卓から距離を取った。飲み始めたばかりは悲壮感と決意にあふれていた解放軍の連中の顔が明るくなっている様は妙に気分がいい。根を詰めるばかりじゃ意味がねえもんな。
カウンターで酒を注文し、ぐるりと酒場を見回した。薄暗い店内は四分の三ぐらいが賭け腕相撲に夢中で、残りが座ってそれを眺めていると言う状況だ。出てきたグラスを持って、その残りに近寄れば、随分と面倒そうな視線を向けられて、その予想にたがわぬ反応に笑みが漏れた。
まあこうやって笑ってしまうから、また嫌な顔を向けられるんだけどな。
「おまえ、手を抜いたな」
フリックがそう言い、ハンフリーはちらりと俺を見た。フリックの真正面の席に腰を掛けながら、なんのことだかと首をかしげてみせる。
「そんなわけねえだろ。俺はいつだって一生懸命だぜ」
大体あんなところで大勝ちしたって盛り下がるだけだ。適度にいい試合をして、みんなで楽しむのが一番。いつだってなんだって手を抜かねえのがいいってわけねえだろ、ガキにはわかんねぇかも知れねえけどさ。
「よく言う」
「楽しそうなんだからいいだろ。難しい顔してるだけが人生じゃねえもん」
表面だけでも笑ってねえと生きていけねえんだよ。俺の渾身の説教をフリックは明らかに聞き流し、また上がった歓声と明るく騒ぐ連中に視線を向けた。やってる人間なんて殆ど見えねえのに、よく俺が本気じゃねえなんて分かったな。
「お前は行かねえのか」
「どうだか」
「自信ねえのか。まあ、そんな腕じゃあな」
剣の腕が立つのはもう知ってる。ちゃんと鍛えてるのも見りゃわかる。でもそれにしたって根本的に骨が細いんだよなこいつ。骨格が華奢に出来てりゃ、その上に乗る筋肉だってどうしたって太くはなりづらい。でけえハンフリーの横にいるとさらに目立つ。
「挑発かよ。安いな」
「ああいう盛り上がってる中にちゃんと入っていくのも大事だぜ。一緒にバカをやるから仲間意識が出来る。外から見てるだけじゃお高くとまっていると見られて仕舞いだ」
オデッサにはみんなある程度遠慮しちまうんだから、そう言う顔つなぎはさ、お前の役目だろう。まあ、俺がやってやってもいいんだけどさ。
フリックはひどく嫌そうに俺を見て、ほんの少しだけハンフリーに視線をやった。ハンフリーは小さく頭を振る。好きにしろ、とでも言っているみたいだ。
フリックは一つため息をつくと、立ち上がった。着いて来い、と顎をしゃくる。へえ、出ていくんだ。負けたらどうするつもりなんだろ。なんだかんだ言っても、弱い奴に人間はついていかない。オデッサがその志をもってこの組織を率いると言うのならば、武力という面ではこいつにケチがついたらつまらないことになるんじゃねえか。
「俺もやっていいか」
フリックの一言に、場がわっと湧いた。来てくれないと思ってました。誰とやります。ええ、おれ勝っちゃうかも。怪我しないでくださいね。俺そんなに甘く見られてんのか。のこのことついていく俺の耳にはいくらでも言葉が聞こえてくる。
馴染んでいるけれど、どこか心配する声音が多い。こいつが強いのなんてここにいる殆どが知っているけれど、ここにいる誰よりもこいつが一番ほっせえのも見りゃわかる。序列が変わっちまって、ほんとうに良くないんじゃないか。
じゃあ俺が相手をすべきなんじゃないかな。負けてやるなんて簡単だ。いい試合をしている風に見せる事だってお手の物。俺が皆に見せているよりも巧者だという事をフリックは理解してるんだから、きっと掌の上で踊ってくれるに違いない。
「誰か相手してくれるやつ」
卓の前に進み出たフリックが言い終わるより前に手を上げた。一瞬皆がざわめくのが分かる。俺がいい試合をして見せた連中は俺と同じぐらいか、俺よりでかい奴らばっかり。
フリックは俺にしか分からない程度に目を細め、審判役に頷いた。
当然のごとく賭けになり、皆は至極当然、ごくごく正直に俺に賭けた。まあそりゃそうだよな。フリックも今更それに怒る気配もない。いつの間にか近づいて来たハンフリーが何も言わずにフリックに賭けなければ、オッズはマジで大変なことになっていただろう。そりゃまあ、分かんなくもねえ。俺だって、俺にかけるよ。
皆の注目が賭け金に集まっているスキに、俺はフリックに耳打ちをする。
「負けてやってもいいけど」
「どっちが盛り上がると思う?」
「そりゃお前が勝った時だろ。もらった金で酒でもおごれよ」
そう言った俺をフリックは鼻で笑った。
「なめやがって」
舐めるもくそも、そう言うもんだろ。そもそもの形が違うんだって。剣は多分お前のほうが強いんだからいいだろ。
ぐるぐる回る思考が形を持つ前に、審判役に名前を呼ばれた。
卓を囲んで、肘をつき、両手を握りあう。骨が細い、肉が薄い。まじかよ、怪我させそうで別の意味で怖え。
どうしようかな、どう勝たせてやろうかな。さっきみたいにじわじわ盛り返すより、最初から俺を押していったというシナリオのほうが飲み込みやすいはずだ。思ったより力が強いと言うか、体の使い方がうまいというか。
みんなだって、勝つなんて思ってねえもん。
審判役が手を握り、そうして離した。
ぐっと力を入れる。抜くとか、そう言う事を考えるよりも前。腕相撲ってそうだろ。一瞬二人の力が拮抗する瞬間が最初にある。その瞬間だ。
卓に叩きつけられていた。テーブルが派手に鳴る。思い切りバランスを崩して膝をつく寸前。手の甲がじんじんと痛む。
間抜けな格好の俺を、体をひねったフリックがガキのような顔で見下ろし、薄い唇をひん曲げて笑う。
「わあ」
間抜けな格好の俺の、間抜けな声を皮切りに、皆がちょっと悲鳴に似た声を一斉に上げた。解いた手を軽く握って開き、フリックは笑う。
「勝たせてもらったなあビクトール」
歓声に隠れた声がいうようなことなど、俺はなんにもしていない。こいつはただ、実力でもって俺から勝ちを奪い取ったというわけだ。
「待てよ、もう一回!」
「そりゃ情けねえぞビクトール!」
「やれよ、今度は勝てよ!」
「なんなんだよ! お前、俺に勝っておいてフリックに負けるのは違うだろ!」
違うだろ、はこっちのセリフだ。負けるはずがねえ、勝てねえはずがない。頭に血が上った自分を妙に冷静な自分が見ている。
まあ、結局一回しか勝てなかったんだだけど。
後日、ハンフリーとフリックが腕相撲をしているところに出くわし、一向にフリックが勝てていない様も見た。
声をかけて混ざらせ貰い、フリックの罵りを受けながらハンフリーといくらか対戦して、大体戦績は五分というところ。じゃあなんで俺はフリックに勝てねえんだよ、と唸って、種明かしをしてもらえたのはもう随分後年にな