迷える白兎「兄貴!見てくれよ!兎穴だ」
子供のようにはしゃぐアクタルの声に呼ばれる。
「今行くから待っていてくれ」
私は苦笑しながら声の主の方へ歩き出した。此処は、デリー郊外。いつものように馬とバイクで遠乗りし、年甲斐もなく私とアクタルは冒険劇を繰り広げていた。
だが、私も彼も日常を忘れて様々な場所へ行くのが気に入っていた。デリーの街は白人も多い。アクタルにとっては肩身が狭いだろうし、私にとっても街を離れた方が正体を知られてしまう危険が付き纏わずに済む。ただ私は漠然とアクタルに私の目的を明かしたら――協力してくれるのか、それとも心根の優しいアクタルの事だ、ゴーント族の羊飼いの味方をしてしまうのか。いずれにしろ……きっと私を見損なうだろう。使命の為とは云え英国人達にとって私は都合のいい忠犬だ。
「バイヤ(兄貴)、この兎穴の向こう、何か見えるぞ」
アクタルは白いクルタに土が付くのも構わず木の根元にある穴を覗き込んでいた。少年がそのまま大人になったような彼を見るとどうしても亡き弟を思い出してしまう。
好奇心旺盛で、甘えん坊で、笑顔が愛らしいアクタル。
弟が幼い頃に死なず生きていれば丁度彼と同じ位の年頃だ。
だが、アクタルにあの子の影を重ねるのは、きっと間違った感情なのだろう。アクタルの人となりを知れば知る程あの子とは別なのだと実感する。
「暗くて良く見えないな」
アクタルの背中越しに私も兎穴を覗き込んだ。
「そんな筈はない!確かに見えたんだ」
アクタルが咎める隙すら与えず兎穴へ手を突っ込む。
すると彼は引っ張られるようにその中へあっという間に吸い込まれてしまった。
「アクタル!?」
手首を掴もうと咄嗟に腕を伸ばすと、途端に体が落ちていく感覚に私は混乱した。いずれ来る衝撃にきつく瞼を閉じる。
だが、背中に感じたのは柔らかな感触だった。
うっすら目を開けると見慣れた天幕が目に飛び込んでくる。
「う、うぅん、」
アクタルの声にはっとなってすぐ隣を見ると彼が横たわっていた。まさか、私はアクタルと同衾してしまったのだろうかと冷や汗がどっと出る。幸い私も彼も服は着ている――いや、私が一方的に邪な想像をしてしまっただけだ。
きっと遊び疲れて眠ってしまった彼を寝具へ運んですやすやと寝息を立てるアクタルにつられていつの間にか私も寝具の中に潜り込んでいたんだろう。
「アクタル、大丈夫か、怪我はないか」
咄嗟に先程までの出来事を思い出して上半身を起こす。
「おれなら平気だ。兄貴は?」
「私なら無事だ。それにしても此処は私の家か?」
いつの間に帰っていたのだろうか。上半身を起こせば床に積み上げられた本や見慣れた家具がそこにある。
「そうみたいだな。兎穴に落ちたらこの家に戻るなんて不思議だな」
アクタルは呑気に伸びをして寝具から降りる。
同時に彼の腹から空腹を告げる音が盛大に聞こえてきた。
私は思わず吹き出しそうになったのを堪える。
「待ってろ、今何か作ってやる」
私も寝具から降りて台所へと向かおうとした、のだが。
「……?」
おかしい。台所へ繋がるべき場所が壁に阻まれている。
しかも、よく見れば部屋の扉はひとつしかない。
「どうした、兄貴」
腹の虫が鳴って恥ずかしそうに真っ赤になり俯いていたアクタルが心配そうな眼差しを向けてきた。
「台所へ通じる入口が塞がれている」
「えっ!?」
アクタルは明らかに動揺していた。兎に角彼を落ち着かせなければ。私はなるべく冷静さを装った。
「それだけじゃない。この部屋、何かが変だ。私の家とそっくりなのに構造が違う」
「――誰かの罠か?」
警戒心を強めるアクタルに私はぐるりと部屋を見渡した。
「それなら随分手の込んだ事をする」
そうだ。こんな所でのんびり時間を過ごす余裕などない。
アクタルが腹を空かせている以上、一刻も早く此処から出なければ。私はドアノブを回そうとした。
だが頑丈なそれは全く動かない。扉ごと押しても引いても壁の一部と貸したように頑丈だった。
「まさか、おれ達閉じ込められちまったのか?」
そんな筈はない。厠の扉は普通に空くしドアノブも動く。
それなのに出入口だけ外側から鍵を掛けられてしまったように開かないのだ。
「落ち着け、アクタル。此処が私の家ではない以上扉など壊してしまっても問題ない筈だ」
私は手に布を巻くとドア目掛けて勢い良く殴り掛かった。
「……ッ!?」
殴られた扉が一瞬ぐにゃりと歪むと再びゆっくりと戻ってくる。殴った時の感触からこれが夢ではない事を物語るが――やはり何かが変だ。
これは悪い夢か?それとも都合のいい夢か?
「バイヤ、どうしよう」
アクタルの不安そうな顔に私はなるべく穏やかな表情のまま返した。
「大丈夫だ、アクタル。手立てはきっとある。この部屋を出る為の何かしらの条件がある筈なんだ」
「条件?」
俺はヒントを探すべく床にある本を見た。
本の表紙に書かれてある単語。まさか、と単語を繋げてみる。
「互いに……相手へ隠している本心を告白すれば扉は開かれる、らしい」
「え――」
ビームは戸惑い、明らかに動揺していた。だがそれは私だってそうだ。
「アクタル、やるしかない。試す他はない」
アクタルは困った様子で俯いた。彼から言わせる訳にはいかない。私は大きく深呼吸した。
「兄貴、」
言いかけたアクタルヘ向き直りその厚い唇に人差し指を当てる。
ああ、君の唇は。こんなにも柔らかいんだな。
「アクタル」
きらきらと光を集める黒曜石のような瞳は美しい。
そんな綺麗な瞳が私だけを映している。
「まただ」
「うん?」
「兄貴は、時々そういう目でおれを見ていた。今もまた、同じ目をしている」
良かった。アクタルはまだその眼差しに込められた意味までは知らないようだ。あまりに純朴で純粋で真っ直ぐな性格に今は救われる。
「君が好きだから」
ああ、とうとう言ってしまった。けれどアクタルはきっと、私の感情を理解しきれないだろう。
「おれだって兄貴が好きだ」
ほら、扉はまだ開かない。
「……アクタル。私が君に抱いてるのは、弟としてとか家族としてとか、そういった類のものじゃない」
口の中がカラカラに乾く。心臓が飛び出るのではないかと杞憂するまでにドクドクと太鼓の音を高速で鳴らしている。
「ラーマ王子は難しい事を云う」
――時折、アクタルは私の幼馴染で婚約者のシータを逃げ道に使う。勿論シータは私の大切な人だ。その事実は変わらない。
「私は、君を愛おしいと想ってる」
「え、」
「いつからだろうか。君を特別に感じるようになったのは」
アクタルは困ったように眉尻を下げる。それもそうだ。
ムスリムの彼には受け入れ難いだろう。
それでも。
「君ともっと同じ時間を共有したいし、もっと君と一緒に居たい、君に……触れたい」
恐る恐る頬を撫でる。私の熱で火傷してしまうのではないかと危惧したが、彼の目から溢れた涙が焔を消した。
――しまった。アクタルを傷付けてしまった。
咄嗟に離そうとした手を思いの外強い力で掴まれた。
「おれ、おれっ、」
「アクタル、泣くな」
「だって、おれも、おれだって、」
「本当か?アクタル」
次々と零れる雫が私の手を濡らす。
「好きだ、兄貴。兄貴と同じ位」
私は堪らずアクタルを引き寄せ抱き締めた。かちゃり、という音と共に自然と扉が開いていく。
「どうやら私達は試練を乗り越えたみたいだぞ」
「うん。でも、もう少し……」
このままでいたい、と甘えるアクタルに私は更にきつく抱き締める。
「此処から出たら、続きをしよう」
私はアクタルの指に指を絡ませて手を引き寄せた。
「うっ、うん」
耳まで真っ赤になるアクタルが可愛らしくてつい頬が緩む。
「行くぞ、アクタル」
扉の外へ出ると兎穴に落ちた時と同じ浮遊感にアクタルの手を離すまいとしっかり握る。
身を任せるように私は瞼を閉じた――。
「……っ!」
不意に目を覚ます。
私とアクタルは木の根元に横たわっていた。風が吹いて葉の掠れる音だけが聞こえてくる。
「戻って来た、のか?」
アクタルは上半身を起こしてきょろきょろと周囲を見回した。
「そうだな。兎穴もなくなってしまった」
いや、そもそも兎穴を見付けた時から既に私と彼は不思議の国へ誘われてしまっていたのかも知れない。今となっては、その理由すら分からないが。
「アクタル」
愛しい『星』を呼ぶ。
「なっ、なぁ兄貴。本気で腹減っちまったよ」
アクタルは多分まだこういう雰囲気が苦手に違いない。
けれど、私はもう遠慮したりはしない。
手が届かなかった星を掴んでしまったのだから。
「なら、これから幾らでも私の愛で満たしてやる」
両手で頬を包み込む。
「幾らでもお代わり自由なら」
くすくすと笑ってアクタルが瞼を閉じる。
少し開いた唇に、私はそっと口付けた。