すり減るあの子に注ぐ 四月も後半のある日。私、アミィ・アザミは書類を手に爪隊の執務室へ向った。
「キマリスはいるか?」
「いるよー」
部屋の奥でヒラヒラと手を振るキマリスに、書類を渡す。
室内に幼馴染の彼女の姿はなかった。定時も近いため、いるものと思ったが。
「先日、バビルスから受け入れた研修生の成績だ。座学は問題ないが、体力に難がある」
「レビアロンとジャポカも同じだね。今年はそういう傾向なのかな。基礎訓練に体力増強のメニューを追加しようか……」
研修生の成績を広げて相談していると、執務室の扉がガラガラと開き、彼女が入ってきた。――顔色は蒼白で、口はへの字に歪み、肩を落として背中を丸めている。おまけに、その背後には爪隊の若手が付きまとい、「話聞くよ? 飯奢るからさ」「もうあんな奴のところに行かなくていいようにキマリス様に言おうか?」「大変だったよね」としきりに言い立てている。
キマリスが苦笑して声をひそめた。
「ちょっと手が足りなくてさ……。✕✕の護衛に入ってもらってたんだよね」
「……なるほど」
上がった名前は、高名な貴族悪魔のものだった。護衛中に一つでも粗相があれば、ナベリウス家とアザゼル家の間で対応を協議する相談する必要があるほどには、高名な存在だ。
くわえて悪名も高い。女好きで、無節操で、手癖が悪い。
そのような相手の元へ、若い女悪魔が"仕事で"赴いたとあれば、どのような目にあったかは想像に難くない。
「ちなみに、後ろにくっついているのは間男……未満。頑張ってちょっかいかけてるけど、見てのとおり、無視され続けている」
「……そうか」
彼女は執務室に戻ってから一言も発さず、今は涙ぐみながら日報を書いている。
手元の書類に視線を戻す。
「研修生の訓練メニューについてだが」
「さらっと戻すね。今後行かせるつもりはないよ。いろんな意味で、何かあったら困るから若手には行かせられない」
「ならいい。さっさと終わらせるぞ」
「はいはい」
その後十分もかからずにキマリスとの話は終わる。立ち上がったタイミングで彼女が日報を持ってやってきた。
「キマリス様、日報の確認をお願いします」
「……はい、問題なし。お疲れ様」
彼女は顔を上げずにヨタヨタと席に戻っていった。
「ケア、任せていい? あの子、明日明後日休みだから」
「ああ」
短く答えて彼女の後を追う。彼女の後ろに立つと、横でまだ喚いていた小僧が口を噤んだ。
身を屈めて、耳元で名前を呼ぶ。
「……あ、あざみく……」
唇を震わせていたため、背に手を添え、精神安定の魔術を発動させる。
「何も言わなくていい。さっさと着替えろ」
「……うん」
彼女にハンカチを渡し、執務室を出る。牽制としては、これで十分だろう。
念のために、もう一押ししておくとしよう。執務室を出た場所で彼女を待つ。
彼女はすぐに姿を現し、そのまま並んで更衣室へ向う。
「片付けを済ませてくる、先に帰り着替えておくように。上がる際に連絡する」
「うん」
「それまで、持ちこたえられるか?」
「わかんない」
頭を撫でる。さらにいくつか、精神安定の魔術を重ねる。
「いい子にしていろ」
「……うん」
これでよし。ここまでしてもなおも手を出そうというのなら、私も考えなければいけない。
牙隊の執務室に戻り、積まれていた日報にざっと目を通す。もとより、彼女の上がりに合わせて切り上げるつもりだったため、大きな仕事は残っていないかった。手早く片付け、執務室を施錠する。
待ち合わせ場所の寮の前に着くと、彼女がはっと顔を上げた。
「アザミくん……」
「帰るぞ」
「うん」
彼女の手を引き、いつもより早足で自宅へ向かう。
自宅に着くと、彼女をソファに座らせる。隣に腰を下ろし、体を彼女に向けて腕を広げた。
「おいで」
彼女の顔がくしゃっと歪んだ。肩を震わせて、瞳を涙でいっぱいにして、飛び込んでくる。
「う、うわあぁぁぁっ」
彼女をそっと抱き寄せ、強すぎないように抱きしめる。泣き止むまで、背を撫で、髪を梳き、つむじに唇を寄せる。
やがて、泣き声が小さくなり、しゃくりあげるだけになったので顔を上げさせる。涙で滲んだ瞳は、目尻が赤く腫れていい。頬に残る涙の跡にそっと口づける。
「あざ、あざみく」
「ああ」
「気持ち、悪かった……」
「ああ」
「でも、でもっ、あたし、なんにも言えなくて……」
「言わなくていい」
「うんっ、うん。言っちゃだめって思って、ずっと我慢してっ……」
「ああ、よくやった」
「でも、気持ち悪かったよぉ……」
また泣き出した彼女の額に、そっと唇を落とす。泣きながら顔を上げてきたので、唇を重ねた。舌が触れ合う。
「アザミくん」
僅かに顔が離れる。真っ黒な瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「上書きして。気持ち悪かった記憶、全部消してほしい」
「――わかった」
彼女を抱き上げ、静かにベッドへと運んだ。
翌々日の昼下がり。彼女は機嫌良さそうに私の胸元に顔を埋めていた。
「ほんとさー、何なの!! 気持ち悪いんだよ、もー! こっちが仕事で抵抗できないからって!!」
「そうか」
適当に聞き流しながら頭を撫でると、彼女は満足そうに私の手に頬を寄せる。
「そういえば――」
「ん、なあに?」
私の手に口付けながら彼女が視線だけこちらに向ける。
「お前が執務室に戻ったとき、横にいた悪魔だが」
「……? 誰かいたっけ?」
「覚えてないのか?」
「わかんないな。あの日は准尉も曹長も別件だったし」
……准尉は彼女のバディで、曹長は教育系だ。
「横にいただろう?」
「んー……? あ、曹長? えっと、もう一人いるんだけど……」
「ずっと横にいたが」
「そうだっけ? ちょっとしんどかったから、わかんないな。えっと、日報出しに行ったらアザミくんいたでしょ? でもアザミくんの顔を見たら泣いちゃうから、我慢してて……。席に戻ったときに、追いかけてきてくれたのは覚えてるよ」
「その後は?」
「片付けて、アザミくんと更衣室に行った」
……どうやら、彼女はあの間男(未満)に本気で関心を持っていなかったらしい。それならそれで、それでいい。
「明日から、また任務に戻れるな?」
「もちろん。あたしの牙を研いだのはアザミくん、爪を鍛えたのはキマリス様だもん。だから、折れないよ」
彼女はニコッと笑って力こぶを作って見せた。
私の恋人はしたたかかで、ゆるがない、鋼鉄の悪魔だ。