いつかの夜のはなし ずるずる足を引き摺って辿り着いた目廃ビルは、決して綺麗とは言えないし、なんならちょっと崩壊気味だった、が、しかし。
「ここだな」
『ほんとに? 入った瞬間崩れたりしない?』
その感想、素直すぎるだろ……流石に。
小さく息を吐きながら、ビルのガラスの元自動ドアに手を当てた。それから少しばかり開いていた隙間に手を突っ込んで、手動で横にスライドさせる。
「そん時はそん時だ」
這いずって出てくるしかない、と思わずその場面を想像してちょっとばかり嫌な気分になりながら返すと、ドラルクが溜息を吐いた。
『ここも例のセーフハウスってやつ?』
「そう。わかってんならボロくても文句言うなよ」
組合だとか、退治人仲間だとか。
吸血鬼に対抗する勢力がそれぞれ確保しているセーフハウスは、各地に点在している。それらはそこらの廃ビルだとか廃墟だとかを装って────というか元は実際そうなんだけど────着いた退治人や協力者たちが寝泊まり出来る程度の最低限の物品が備わっている。
オーソドックスなのは寝具一式が数セット、応急手当てセット、携行食数セット。他には例えばアウトドア用品セットみたいなものがあったり、聖水だか銀製のナイフだとかのストックがあったり。退治人にとってあると助かるものが置かれていて、使った者はなるべく綺麗に片付けてその場を後にするのが暗黙の了解となっている。物品の補充だとか整備だとかは退治人組合のマスターがやってたり、地元の有志の人がやってくれてたり、元吸対のメンバーがやってたりと様々だ。
どこにあるか、どうやってその場の安全を確保しているか。
その辺りも秘匿されてはいるが、場所に関しては目印をつけてくれていたり、退治人であるとわかると地元の人が教ええてくれたり、歩きやすい場所を歩いていて行き当たった建物がセーフハウスだったりと様々だ。
今回のセーフハウスは、先日偶々会った退治人が教えてくれたセーフハウスだった。俺がこっち側に向かってると言ったら、ここにあるから途中で立ち寄るといいと教えてくれた。彼が以前立ち寄った時は、珍しく銀弾の補充が置いてあったらしい。
銃弾は昨今の情勢から見て貴重品だ。俺もリボルバーをメインの装備にしてはいても、普段からばかすか使えない程度にしか確保出来ていない。メンテナンスも必要だし、場合によっては部品交換もしないといけないし、我ながらコスパの悪い武器だと思いつつ、その射程の長さと思い入れからなかなか手放せずにいる。
一月から二月に一回程度、定期報告だとかでメドキやマスターに会った時になるべく補充するようにしているけど、携行出来る数には限りがあるし、そのメドキですらそんなに大量に仕入れられる訳じゃない。そんな訳で常にジリ貧で、補充できる所で補充しておきたいというのが正直なところだった。
「中はそんなでもねぇぞ」
『この間会った彼も使ったって言ってたし、そこそこ人の出入りがあるのかもね』
砂埃やその他汚れは端々に見られるものの、そんなに気になる程ではない。ドラルクはこう見えて結構綺麗好きみたいだから気になるかもしれないけども、なんて思ったら、ドラルクにそれが伝わったらしく、呆れたように溜息を吐かれた。
『この状況で綺麗を求める程私は愚かでも世間知らずでもないぞ』
そうかよ。まぁ、お前が気になんないならそれで良いよ。
そう心の中でだけ呟いて、奥の一室の扉を開く。
「まずは装備の補充の確認からだな」
『何言ってんの。君一昨日から碌に休んでないぞ。先に一眠りしときなさいよ』
「あ? 別にそんなんいつもだろ。装備の補充が出来ないなら次探さなきゃいけないんだから、そっちの方が先だ」
先日、ここを教えてくれた彼と共闘した時に、銀弾を使ってしまったので残りが心許ない。数えられる程度しかない弾の補充は急務だ。いや、他に装備が無い訳ではないけれど、能力に勝る吸血鬼相手に射程の長さは大きなアドバンテージになる。
『真面目なのも良い加減にしなよ。そんなの続けてたら、いつか君、倒れるぞ』
細かくてやけに心配症なやつだと思う。吸血鬼の癖に。
「あ…………?」
大丈夫だ。俺は強い。
そう言って引き出しを開けようとした瞬間、ぐらりと世界が揺れた。違う、なんだろ、これ。
『言わんこっちゃ無い』
「お、まえ……なんかしたろ…………」
心臓がばくばく煩い。こいつは今俺の心臓をやっている。こいつが少しやる気を出せば、俺の身体をどうこうするなんて簡単な筈だ。だからこの症状は、こいつの所為だ。
そうあたりをつけて舌打ちするが、ドラルクはと言うと呆れたように肩を竦めた。ちなみに言うと溜息を吐くのも肩を竦めるのも、あくまで気配とそれに基づいた想像なだけで、本当に映像として見えている訳ではない。そんな訳で、想像の中のドラルクはやけに尊大に肩を竦めて、呆れたように片眉を上げた。
『私は今自動的に動いているんだぞ。まぁやる気になれば止めたり早めたり出来ないでもないが、命がかかってる戦闘時でもない限りそんな無駄な労力は使いたくない。だから今のこれには、私は全然関与していないぞ』
やけに余裕ぶりやがってこいつ……ムカつくな……!!
と思いつつ、ぐらぐら揺れる視界の中でなんとか体勢を立て直し、引き出しの中を確認する。
携行食が幾つか、銀のナイフ、銀製の矢尻、聖水の小瓶、それから。
『あったな』
君が言ったんだぞ、銀弾のストックがあれば、休めるって。
遠ざかる意識の隅っこで、紫色のふよふよしたものが喚き立てる。うるせぇな、休めるって言った覚えはねぇぞクソ砂。
『あ、起きた? おはようロナルド君』
うっすらと瞼を開いたその向こう側で、ふよふよと紫色の塵が待っている。俺はいつのまにかそこそこ整えられたマットレスに寝ていた。
こいつが心臓になってから、こういう不思議な事が時々起きる。どうやってんのかは知らないけども、塵の状態だと幾らか物理的に干渉が出来るらしい。
とはいえ塵で俺を移動出来るとも思えないから、声かけて寝惚けた状態の俺をベッドに誘導したとかそういうやつなんだろう。多分。
『体調はどう?』
「………………幾らかマシ」
気絶する前までのぐるぐるする眩暈はなくなった。少しだけ身体が重たい気がするのと、頭の後ろの方がちょっとツキンツキン痛むのが少し残ってるが、それだけだ。
『それを体調不良って言うんだよ』
人の思考を読むなボケ。
なんて言ったところで心臓になったドラルクには通用しねぇんだろ。
────よくわかってるじゃない。
いやだから思考に割り込んで来んな。ったく……まぁ、こんなんももう結構慣れたけど。
最初の方は違和感が凄くて気持ち悪くて大変だったけど、今やドラルクが静かだったら心配しちまうかもしれない。実際にこいつが黙った事なんか、そうそうないんだけど。
『とにかく水分は摂っといた方が良いぞ。あとは何か消化にいい食べ物でも……』
「水分……は、あった。箱で置いてあるとか、ここのセーフハウス……すげぇな」
きっと、気の良い人が管理してくれてるんだろうな。ありがたく封を切って、水を飲み込んでいく。そうすると、幾分か頭の痛みが和らいだ気がする。もしかして脱水だったのかな。
それから携行食の封を開けて、ビニールを剥いで齧り付く。
『いつものことだけど、味気ないなぁ……消化良いの? それ』
「知らねぇ」
消化云々だとか気にした事がない。消化にいいやつってなんだろ。
『おかゆとかうどんとか色々あるだろ』
「おかゆに、うどん…………?」
どんなんだっけ。おかゆは確か、じゅぶじゅぶにしたご飯。うどんってのはなんだったっけか…………麺類だった気がするけど、カチカチで消化に良いとは程遠い感じじゃなかったっけ。
『言うに事欠いてじゅぶじゅぶにしかご飯だと? おかゆを美味しく炊くにはコツがいるんだぞ。あと君が言ってるうどんは乾麺のやつ。茹でないと食えないが、もしかして硬いまま食ったのか?』
覚えてねぇよ、そんなの。最後に見たのっていつだっけ。兄貴とヒマと暮らしてた時だっけ?
『………………仕方ない。物知らずのゴリラでもわかるように、私が手料理を振る舞ってやろうじゃないか。おかゆとうどんな。どっちが先がいい?』
おかゆでもうどんでも、どっちでもいい。だってどっちもマトモに味がわかんねぇんだから、選びようがねぇだろ。
「あ、でも」
携行食を食い切ったら、なんだか腹がいっぱいになったからか眠気が再度瞼を重たくしていく。水の蓋は閉めたし、うん、まぁ……寝ても大丈夫、かな。
『ん?』
手料理を食べさせてもらうんなら、もっと、別の。
「おむらいすとはんばーぐ…………たべたい……」
兄貴に読んでもらった絵本の中に出てきた食べもの。穀物の粉っぽい感じだとか、葉っぱの緑色の感じだとか、レトルト食品のそういった茶色っぽい感じじゃなくて、もっと色鮮やかで、きらきらして、きっと匂いだけでも美味しいんだろうとヒマと笑い合った幼い日々を思い出す。
あの時に、憧れていたもの。おかゆやうどんなんかより、もっともっと輝いて見えたもの。
『うん。いつか作ってあげるよ。君が食べたいもの、全部』
全部は無理だろ、流石に。
そんな事を思いつつ、ゆっくりと息を吐く。
そんな日が果たして来るのだろうか。まぁ、来るのか来ないのかは置いといて、少し夢見るだけならバチは当たんねぇ、かな。
おやすみ、ロナルド君。
再び輪郭をなくしていく意識の隅で、痩せぎすの長身が、やけに優しげな瞳で、こちらを覗き込んでいるような気がした。