回遊する蓮花早朝五時半起床、簡単に身支度を整えランニングウェアへと着替えるとラベンダー色のイヤホンを耳に。端末を操作してお気に入りのプレイリストを流したら、未だ寝静まったままの家を静かに出た。
早朝にランニングをして、余裕があれば素振りをして、朝ごはんを食べて。
そうしてみんなが起きてくる頃には部屋に引っ込む。
それが『俺』のモーニングルーティンだ。
誰が好き好んで針のむしろに座っててやるか。
なにしろ、どんなに取り繕おうとしたって家族全員に見破られるのだ。
だから、部活の練習がない日曜日は俺にとって酷く退屈で、ただただ勉強をして大人しく過ごす物足りない日だった。
だからこそ、曦臣との待ち合わせは早い時間帯にした。
10時に駅で待ち合わせようと約束したのは、毎日送り迎えのついている曦臣が電車を使ったことがないだろうと思ったからだった。
あんなにきれいな美少女を一人で電車に乗せるのはものすごく心配だったし、彼女が痴漢なんてされようものならそいつの手を切り落としてしまいそうになるだろうから。
俺の精神衛生上、それから曦臣の好奇心を満たすためにも、そういうことになった。
さて、洋服は何にしようか。
プレイリストが二周目に差し掛かった所で家の方向へと足を向ける。
クローゼットの中にはこいつ好みの可愛らしい服なんてしまわれていない。
基本的にはボーイッシュな、俺が着ても違和感を感じないようなものが多かった。
モノトーンに小物で色を入れるか。じゃあ黒のシャツワンピを羽織にして、下はデニム、ベルトに紫を入れてバッグは生成り。本当はアクセサリーを入れたいところだが、そんな物は持っていないので、まだ寝ているだろうし俺が家を出る頃にも爆睡かましているだろう無羨の靴の中からヒールの低いやつを勝手に借りていこう、そうしよう。
可愛い妹を可愛く着飾ってやるのだからそれくらいぜひとも許してほしいところだ。
程よく温まった体から滝のように流れ出た汗が背中を伝う。
イヤホンを外し接続を切ってケースにしまい、まずは水分補給だと、出かける前に冷蔵庫から出しておいた程よくぬるくなったスポーツドリンクを一気に飲み干す。部屋着を持ってシャワーを浴びに脱衣所まで移動して、鏡の中の自分の姿にため息が出た。
あの頃よりも背が低い。筋肉が少ないから体を動かすときに重い。一発の威力が低い。
筋トレはできる限りしてやるし、素振りだって自分の為でもあってやっているが、女の体とはこうも筋肉がつきにくいものなのだろうか。それとも俺の鍛え方が足りていないだけなのだろうか。
汗を流して、髪を洗おうとシャンプーを手に出して顔を顰める。こいつが好んで使うシャンプーの匂いが本当に嫌いで。どうせ髪にあっていないものなのだから今日新しいものを勝手に買ってきてやろうと、ゴミ箱に放り込んだ。
中からこっちの様子を見ているとは限らないが、ある程度好き勝手していたら我慢ができなくなって顔を出すかもしれないのだし。
へそを曲げた俺の扱いは、俺が一番よくわかっている。
結局へそを曲げていても完全に背中を向けることなどできずに、ちらちらとこちらを窺っているに違いないのだ。
好き勝手されたくなければさっさと出てこい。
呼びかけてみてもうんともすんとも聞こえてこなくてため息をついた。
単純に俺の声が届いていないだけだと思いたい。
さて、身支度を終えて食事をし、洋服を着替えて財布と、曦臣から貰ったらしいハンカチ二枚を見比べて、迷った末にガーゼの方を選んでカバンに入れる。
それからこいつの持っているなけなしの化粧品を前にしてどうしたものかと腕を組んだ。
曦臣と並んで歩くのに、すっぴんなんてありだと思うか?俺はそうは思わない。
だが、俺の納得の行く出来にまで持っていくには、道具が足りなすぎた。
妥協してベースとアイメイク、リップだけはぬっていくことにする。
どうして俺がこんなに現代の生活に馴染んでいるかといえば、こいつが疲れる度に表に出て、暇な時間には無羨の読んでそのまま置きっぱなしの女性ファッション誌に教えを請うていたからだ。
俺が女子力を上げていれば、きっとそれがこいつの知識と技術になると信じている。
鏡を見て、道具がないなりに仕上げた顔に一つ頷いた。
まぁこれならなんとか隣に立っていてもおかしくはないだろう。
時計を見て、腕時計をつけ家を出た。
見つかると友達とのやり取りですら制限を受けるから、バレないうちにでかけてしまった方がよほど良い。
行くなと言われて曦臣をがっかりさせるより、あとで死ぬほど怒られた方がマシだった。
こつこつとヒールが足音を立てる。
カバンの中で端末が震えたのを感じて、カバンから取り出した。
画面を見て見れば曦臣からで。
おはようございます。
今日はよろしくおねがいしますね。
私は今家を出ました。
晩吟もゆっくり来てくださいね。
今日がいい天気で良かった。
『貴方』でなくとも魂が同じであるならば、こういうことになるのか、と思わず笑ってしまう。
昔、曦臣と交わした文を思い出した。
いつも多くて三行ぐらいしか返事をしてやれない俺とは違って、曦臣はなんでも知らせたがったし、どんな思いでも教えてくれた。
結局曦臣に先立たれてしまった俺は、曦臣が生前俺にくれた手紙を何度も繰り返し読み直して折れそうになる心を保っていた。
だから、曦臣には特別に言葉を返したくなってしまう。
本当だったら、きっとここはスタンプ一個で返事をしておくべきだとは思うが、「私もいまでたところ」と足を止めて送信してやった。
あれから、4日たった。
その間にメッセージのやり取りを繰り返した俺たちは、ある程度打ち解けられたと思う。
後は今日も気を抜かずになんとかやってみせるから、どうかこれっきりなんてことはしないでほしい。
あの人のことだから、そんなことはありえないだろうけれど。
果たして、そこに曦臣はいた。
真っ白いワンピースがふわりと風に持ち上げられて、それを押さえる手が白魚のように白くて美しい。
うろうろと視線を動かしていた曦臣が俺を見つけてぱあっと笑顔になるのを目の当たりにして、思わずうめき声を上げてしまいたくなった。かわいい。
「晩吟」
「すまない、待たせたか」
「いいえ、私も二分くらい前についたところですから」
嬉しそうにふんわりと微笑む彼女の姿にみんなが振り返るわ、二度見するわ。
その視線が不躾にも俺と彼女を行き来するのを感じて眉間にシワが寄ると同時に舌を打った。
「おや、」
ぱちり、ぱちり、
マスカラ要らずの自まつ毛バッサバサの瞳を2回、ゆっくり瞬いてから曦臣はひとつ頷いた。
「お会いするのは2度目でしたね、…自己紹介致しましょうか?」
「……必要ない」
だから何故わかるんだ。なんなんだ、なんでなんだ。俺はそんなに一眼見てわかるほどに江晩吟じゃないのか。
いっそどうしてわかるのかみんなに聞いて回りたいくらいだ。
「では、なんとお呼びしましょうか」
「…江澄でいい」
少しも動揺した様子を見せないのは、押し隠しているのかそれとも本当に全く気にしていないのか。
思わず唇を尖らせると、くすくすと控えめな笑みを溢される。
「曦臣」
「はい、なんでしょう」
「笑うな」
すみません、存外に可愛らしい方なのだなぁと思いまして。
にっこりと極上の笑みを向けられてしまえば、正面から迎え撃つしかない以上熱くなる顔を無視して黙り込む以外に俺に取れる選択肢はなかった。
「あのときは助けてくださってありがとうございました」
「いや、大したことはしていないから気にしなくていい」
改札を通り、目当てのホームへと向かう道すがら、初めてであったときの話をする。
確か『こいつ』が無羨と喧嘩をして、頭を冷やすと外へ走り込みに行った時のことだった。
自己嫌悪の泥に沈むと暫くは戻ってこない体の主に代わり、夕方のランニングコースを無心でなぞる俺の耳に微かに声が聞こえた。
今走っている道には路地へとつながる細い横道があって、街灯の少ないそこに引きずり込まれて酷いことをされそうになった女の子がいるというニュースが頭をよぎる。
何かあってからでは遅いと、一応の覚悟を決めて路地を覗き込んで見れば、うちの制服を着た黒髪の少女が男に腕を掴まれて逃げるに逃げられない様子でそこにいた。
やめてください、と真っ青な顔をしながらはっきり告げるその姿に湧き上がった感情は筆舌に尽くしがたい。肩に回された男の腕をへし折ってやりたい気持ちで駆け寄り、彼女から剥がした。そうして手首をひねり上げて、突き飛ばす。と同時に、尻のポケットに入っていた財布を抜き取りさっさと身元を確認してしまう。
一瞬で覚えた個人情報を諳んじてやり、次はないと脅しをかけてやった。
そうすればまぁ暫くは大人しくしているだろう。
警察に行くかどうかは被害者である彼女が決めることだ。
「大丈夫か」
「…あ、はい、ありがとうございます」
カタカタと震えるその肩を昔のように抱いて温めてやりたいと思ったけれど、それをすれば今度は俺が不審者になってしまう。
きっと何も覚えていないであろう彼女の平穏を少しだって乱したくはなかった。
そうして明るい場所で彼女が落ち着き迎えを呼ぶまで一緒にいた。
その間お互いに何も話すことはなかった。
だから、今度こそきっと彼女とは全く関係のない人生を送ることになってしまったのだと思った。それこそがあの人を失った罰だと、そう言われているような気さえした。
それが、こんなことになるとは。
「私、生まれてこの方男のひとが苦手で」
「そうか」
「それというのも、私小さいときに誘拐された事があるんです」
淡々となんの感情も映さずにさらりと語るものだから、我慢していたけれど結局舌を打った。
曦臣とはそういう人だった。
隠したいことがあるときほどなんでもないように振る舞う。
きっと今もなお、彼女の中では片付いていないことなのだ。
「その時はお使いの帰りでした」
「ああ」
「弟と一緒にふたりででかけて、男の人が声をかけてきたんです、ひと目で弟を狙っているのだと気が付きました」
だからあえて人懐っこい笑みを浮かべて、媚びて、弟だけは逃したのだとそう語る彼女は、その時の情景を振り払うように首を振った。
「連れて行かれた先で私は手を縛られましたが、なぜだか七歳の私の脳には縄抜けの仕方を強くて厳しい人に教えてもらった記憶があって、それですきを見て逃げ出せたんです」
きっとそれは俺だった。
昔、何かあったときに覚えておくと便利だぞ、なんて酒の入った宵の淵で抹額を使って縄抜け講座をしたことがあった。
前世の曦臣は、腕を縛られたまま事切れていた。
だから、俺が教えたことなんかきっと欠片も残らなかったのだと、どうして俺は酒を飲みながらなどではなく、もっとちゃんと真剣に教えなかったのだと自分を責めた。
それが、こんなところで。
今になって彼女を助けるとは。
俺が失いたくなかった人はたやすく失わせたくせに。
「あの時の貴方は、記憶の中にいるとても厳しくて強くて、だけどとても優しいあの人に似ている気がして」
だから私は、とても貴方に感謝しているんです。
この話は、今まで家族にだって話したことはないのですけれど、貴方には、貴方だけにはお話をしておくべきだと思ったんです。
こんな話をしてしまってごめんなさい、そう謝った彼女は、とても痛ましいものを見るような表情で俺の頬をそっと撫でた。
とうとう足を止めてしまった俺を、彼女はどう思っただろうか。
端によってしゃがみこむ。
ぼろぼろと堪え性のない涙腺に嫌気が差した。
『曦臣』が死んでから、自分の中の感情がたまる器が破壊されたのか、本当に何にも感じなくなった。
自らが死ぬときには、安堵してさえいた。
そんな自分がどうしようもなく、息を乱して泣いている。
感情が制御できない。きっと今こそ俺と『私』は重なっていた。
そっと優しい腕に抱きしめられて、背中に腕を回ししがみついた。
「ごめんなさい、晩吟」
「あやまるな」
「私、江澄を傷付けてしまったの?」
痛みが、胸を襲う。
未だ彼の持つ全ては彼のものであったけれど、私の中に流れて重なった全てはつまるところ彼が今までたったひとりで抱えてきた痛みそのものだった。
本来ならばきっと私も半分持ってあげなければいけないもの。
痛くて、痛すぎて、最早何も感じなくなった彼のこれまでを想った。
そうでなければ、私は私を心の底から嫌いになってしまいそうだった。