お題:雨/隣人 日曜日の朝は、いつも決まって同じ音で起こされる。左隣の部屋の住人の、元気溢れる歌声だ。
毎週変わらないその歌はこの時間に放送している特撮ヒーローものの主題歌で、俺は一度もその番組を見たことがないというのにすっかり曲を覚えてしまい、今となっては自分でも時折口ずさんでしまう始末だ。最初こそ文句のひとつでも言ってやろうかと思っていたが、あまりにも楽しそうな歌声にすっかり毒気を抜かれてしまった。
恒例の歌声ですっかり目が覚めた俺は、ごそごそとベッドから抜け出した。狭いワンルームの部屋に唯一ある窓は、ベランダに続く掃き出し窓だけ。そこに遮光性の高いカーテンを使用しているせいで、朝だというのに部屋の中はまだ薄暗いままだ。
やや重たいカーテンを勢いよく開けると、反射的に目を細めてしまった。眩しいほどに降り注ぐ日差しはいつ以来だろうか。梅雨という時期も相俟ってここ数日は毎日のように不機嫌だった空が、今日はようやくご機嫌になったらしい。
これは絶好の洗濯日和だな、と実家暮らしをしていた頃には思いもしなかった言葉をぽそりと呟いた。今日は大学もバイトも休み。溜まっていた家事を片付けようと決めた俺は、大きく背伸びをしてから行動を開始した。
数十分後、脱水まで終わった洗濯物を抱えてベランダに出ると、いよいよ夏本番、と言わんばかりの熱気がじっとりと肌にまとわりつく。これはいつまでもベランダに出ていては熱中症になりそうだ。さっさと干して、空調の効いた部屋に戻ろう。
「~~~♪♪♪」
ついつい例の歌を口ずさみながら手際よく洗濯物を干していく。そうして最後の一枚を手に取ったところで、突然隣から笑い声が聞こえた。それは本当に小さな声で、思わず吹き出してしまった、といった風な笑い方だ。しまった、特撮好きの隣人にこの鼻歌を聴かれてしまっただろうか、とおそるおそる左隣のベランダを覗き込む。が、そこには誰もいる気配がない。
聞き間違いか?と首を傾げていると、反対側――この部屋の右隣のベランダから聞き慣れない声がした。
「……すまない、こっちだ」
そちらへ首を向けると、そこには見たことのない男が顔を覗かせていた。こちらの部屋は確か空き部屋だったはずだがなあ、という考えが顔に出てしまったのか、男は静かな声で言葉を続けた。
「初めまして、隣に越してきた三池光世だ」
「あっ、ご丁寧にどうも……って、三池!? 俺も苗字が三池なんだけど……!」
まさかの同姓の隣人に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「それは奇遇だな……名前は?」
「ソハヤ、三池ソハヤっていうんだ。よろしく」
驚きのあまりついタメ口で話し掛けてしまったが、相手はどう見ても俺より年上だった。失敗したなと思ったが、その男は特に気にした様子もなく、よろしく、と小さな声でこちらに挨拶をした。
「それにしてもいつ越してきたんだ?」
「実は引っ越し作業は明日なんだ。今日は事前に色々確認したくてきたんだが……」
へえ、と相槌を打つ俺に、男は少しだけ気まずそうな表情を浮かべながら言った。
「ベランダに出て外を眺めていたら、隣から聞こえた鼻歌があまりにも楽しそうで、思わず笑ってしまった……すまんな」
「いや、別にそんな」
気を抜いて歌っていた俺が間抜けだっただけで、別に頭を下げられるようなことではない。ただひとつ、これだけは伝えておかなければ。
「あのさ、日曜日の朝にもしも大きな歌声が聞こえてきたら、それは俺じゃなくてあっちのお隣さんだから。それだけは誤解しないでくれよ?」
俺は毎週同じ歌を聴かされて伝染っただけだから、と必死で説明をすると、なるほど、と納得してくれた。
「ところで、洗濯物を干していたんだろう?邪魔をして悪かったな」
「え? ああ、そうそう。こんなに良い天気だしな。どうせならこの後シーツとかも……」
そう口にしたところで、ふと自分が握りっぱなしにしていたものに視線を向けた。しっかり握っていたそれはよりにもよって……下着だった。
自分の下着を持ったまま、初対面の人間と話し込んでいたなんて。
「あっ!?」
いくら男同士とはいえ、さすがにこれは恥ずかしい。慌てて持っていた下着を干した後で再び男の方に顔を向けると、そいつは空を見ながら何か考え事をしているようだった。
何かあるのか、と俺も同じように空を見上げていると、不意に男が口を開いた。
「おそらくだが……午後から雨が降るぞ。シーツを干すのはやめた方がいいかもな」
「ええ? こんなに晴れてんのに?」
とても崩れるようには見えない晴れ渡った青空に、つい首を傾げてしまう。
「……昔から、雨に関する勘はよく当たるんだ。特に……雷雨はな」
「しかも雷雨かよ?」
「あくまでもただの勘だ。信じなくてもいい」
どうしたものかと空を見上げながら悩む。普段なら軽く流してしまうかもしれないが、この男の言葉にはなんとなく説得力があった。たった今出会ったばかりの人間に対して自分でもどうかしていると思うが、この男の言うことは信頼ができる、そう感じてしまう自分が確かにいた。
「……それじゃあ、シーツを干すのはやめておくかな」
俺の言葉に驚いたのか、男の目が猫のように丸くなる。そしてすぐに、嬉しそうに笑って言った。
「信用してくれて、ありがとう」
わざわざこんなことで礼を言われるとは思わず、俺は妙に緊張してしまった。その表情は俺の友人たちに比べれば随分と控えめな変化ではあったものの、大変喜んでいる、ということがありありと伝わってくる。ただなんとなく勘を信じただけなのに、と気恥ずかしくなって視線を泳がせていると、男がふと俺の名前を呼んだ。
「ソハヤ、と呼んでいいか?」
「お、おう、勿論いいぜ。三池、ってお互いに呼ぶのもなぁ……だって」
俺たち同じ三池なんだし。
そう俺が口にした瞬間、この男――光世が、泣きそうな表情を浮かべた。それはほんの一瞬の出来事だったが、俺は確かに見た。
今にも雨が降り出してしまいそうな空。まさにそんな表情だった。
しばらく俺たちの間に沈黙の時間が訪れた後で、不意に光世が口を開いた。
「……今日は暑いな」
「えっ? あ、ああ……そうだな?」
「そろそろ部屋に戻った方がいい。熱中症になってしまうぞ」
言われて初めて気が付いたが、いつの間にか俺は随分と汗をかいていたし、そのうえ喉もカラカラだった。
「確かに……じゃあ、部屋に戻ろうかな?」
なんとなくこの場を離れがたくて、つい疑問形で返してしまった俺に、光世は小さく笑いながらこちらに背を向けた。部屋に戻ろうとしているのだと分かって、俺も同じように部屋に戻ろうと後ろを振り返った。
「部屋に戻ったら、水分と塩分をしっかりとらないと駄目だぞ。それじゃあ、明日からよろしくな――兄弟」
「おう」
去り際に掛けられたその言葉。それはあまりにも響きが自然で、俺はすぐに気付くことができなかった。
最後に掛けられた"兄弟"という言葉に、おや?と疑問を抱いたのは数拍遅れてのことだ。慌ててもう一度ベランダを覗き込むと、すでに光世は部屋の中へ戻った後だった。
初対面の人間に呼びかける言葉としては随分とフランクだし普段であれば、なんて馴れ馴れしい奴なんだ、と思うところだが、俺はその言葉に不快感を抱くどころか別の感覚に囚われていた。
まるでずっと昔からそう呼ばれていた気がする。これはただの既視感なのか、それとも同じ苗字という親近感のせいなのか。
そのまましばらく誰もいないベランダを眺めた後、俺は今度こそ部屋へ戻った。
閉めた窓から見える空は相変わらず晴れていたが、ずっと遠くの空が少しだけ暗い色味を帯びている。
あと数時間も経てば、雨の訪れを予見した不思議な隣人の髪と同じ色の空になりそうだ。
そんなことを考えた俺の心臓から、普段よりも妙に大きな鼓動が聞こえた気がした。