お題:夫婦/満月 本丸の一角に位置する〝出陣の間〟――その中央に設置されている転移装置の前で、緩みきった表情を浮かべながら右へ左へと無駄な移動を繰り返している男が一人。傍から見れば些か不審な動きではあるが、この男は歴とした審神者であり、俺たちの主だ。今か今かと転移装置の示す反応を待ち侘びる姿は、主の待ち人を知るこの本丸の刀剣男士ならば誰もが微笑ましく見守る光景だった。
無数の歯車で構成された転移装置から、カチリ、と小さな音が響くと同時に、装置が淡い光に包まれた。そわそわとしていた主の顔がパッと輝く。それはまさに、喜色満面を体現した表情だった。
徐々に強くなっていった光は一本の太い柱となり、そこを中心に桜の花弁が吹雪のように舞い踊る。強烈な目映い光に思わず目を閉じた。一拍の間の後で瞼を持ち上げると、よく見知ったふたつの影がそこに在った。
転移装置から姿を見せたのは、女性の審神者とその近侍。
「お久し振りです、あなた」
先に口を開いたのは女性だった。あなた、と呼ばれた主は、愛しさを隠そうともしない優しい目で相手を見つめている。
「久し振りなんて、ほんの半月じゃないですか」
主は照れた声でそう答えたが、彼らにとっては何度経験しようとも寂しさを覚える長い間だったに違いない。
――なんといっても、彼らは夫婦なのだから。
双方ともに本丸を運営する審神者という立場上、夫婦となった今現在でも二人はそれぞれの本丸で生活をしていた。審神者同士で結婚する事例は多々あるが、夫婦となった後はどちらかの本丸に統合、という形をとる審神者が殆どだ。だが、主たちは戦績が極めて優秀だったこともあり、できればこのまま個別に運営を続けてほしい、と政府から打診があったそうだ。
その代わりに、本来であれば許されていない本丸間での直接転移が可能となった。こちらの本丸と向こうの本丸で往来が可能な期間は月に四日間だけ、という制約付きではあったが。
半月に一度、二日ずつの逢瀬を繰り返す主たちが、どれだけこの日を心待ちにしているかなど想像せずともよく分かる。俺だって全く同じ立場なのだから。
女性の……奥方の隣へ視線を遣れば、ソハヤノツルキの紅い双眸が俺を捉えていた。その熱のこもった視線に、思わず口元が綻ぶ。しばしその精悍な顔立ちを眺めていると、ソハヤの唇が声を出さずに動いた。
(逢いたかったぜ、兄弟)
片目だけの目配せも添えて伝えられたその言葉に、俺もだよ、と唇を動かした。
奥方の本丸のソハヤノツルキと俺は、かねてより心を交わした仲だった。
月に二度の逢瀬の間、審神者が滞在する本丸内は普段では考えられないほど静寂に包まれる。それは、多くの刀剣男士が審神者不在の本丸へ移動しているためだ。こちらの本丸に残っているのは、主と奥方、外せない内番に割り振られてる数振の刀剣男士、それと俺たち二振だけだった。
最初は、夫婦水入らずの時間を邪魔しないように、という皆の気遣いからの行動であったが、今では大規模な宴会が最大の目的となっている。本来であれば俺もソハヤもそちらにいる方がいいのだろうが、俺たちの関係を承知している主と奥方からは、ソハヤと大典太もこちらの本丸で過ごしたらどうか、と随分前に勧められたのだ。それ以来、俺たちも主たちと同様に逢瀬の時間を満喫していた。
近況報告やとりとめのない雑談に花を咲かせたり、本丸の中を散策したり、共に万屋まで出掛けたりと、限られた時間の過ごし方はその時々によって様々ではあったが、ひとたび夜の帳が下りてしまえば、自然と房事に耽ってしまう。
それは今宵も同様で、静寂に包まれた本丸の中で俺たちは何度も肌を重ねた。誰も聞き耳を立てる者はいないと分かっていても、静けさのせいで思わぬ場所まで声が届いてしまうのでは、と俺は必死で声を押し殺そうとした。だが、あちらの本丸ならいざ知らず、ここは俺の自室だ。どうしても気が緩んでしまい、結果としてソハヤがさらに勢いを増すほどの声を上げる結果となった。
体力の有り余った刀同士ということもあってか、明け方まで休みなく続いてしまうこの時間だが、その日は少しだけ普段と異なっていた。ちょっと休憩、と初めて耳にする言葉を口にして、ソハヤが飲み物を求めて厨へと向かったのは丑三つ時のことだった。
珍しいこともあるものだと驚いたが、いくら恋仲とはいえ、こればかりというのもいかがなものだろうか、と押しのけていた理性がゆっくりと蘇ってくる。ソハヤが不在の間に、この火照った身体と頭を少しぐらい冷ましておくべきか。
乱雑に脱ぎ捨てられた寝間着を身につけて部屋から出ると、秋の夜の澄んだ冷たい空気が頬を撫でる。そのひやりとした風と、虫たちの奏でる控えめな音が心地良くて、自室の前の縁側へと腰を下ろした。
見上げた空は深い藍色。そこに浮かぶ白い月は綺麗な円を描いていた。月の光が強いせいか、普段なら煌めいている星たちが少しだけ霞んで見える。
少しだけ乾燥した空気を吸い込みながら、しばらくの間、ぼんやりと空を眺め続けた。
(……やけに、遅いな)
そんな考えが頭をよぎったのは、どれだけ経った頃だったか。実際にはそんなに時は過ぎていないかもしれないが、静寂も相俟って妙に長く感じてしまう。折角の機会だというのに、こうしてひとりでいる時間が長くなるのは酷く勿体のないことだ。先ほどまで感じていたソハヤの熱を思い起こすと、急に身体が芯から冷え切ってしまったような、そんな寂しさが重くのしかかってくる。
煌々と本丸を照らす満月。次にソハヤと会えるのは、あの月がすっかり欠けてしまった頃だろう。
ソハヤ、と無意識に愛しい刀の名前が口から零れ落ちた。その瞬間、力強い腕に後ろから抱き締められて、背中にじわりと暖かな温度が広っていく。
「月光浴してる兄弟ってさあ……かぐや姫もかくや、ってな神々しさなんだけどよぉ」
俺を置いて月に行くなよな、と歯の浮くような言葉で釘を刺したソハヤに、それまでの寂しさが嘘のように一瞬で吹き飛んでしまった。
「そういう台詞は、事前にある程度考えてきたりするのか?」
「……見たまま言っただけだって」
そう言い返すソハヤのやや焦った表情に、俺は小さく笑った。
「例えばお前に求婚されたとして、俺は無理難題なんて突きつけないさ……そうだな、せいぜい……万屋の例の酒を買ってきてもらう程度だが」
「おっと……そいつはなかなかの難題だなァ」
例の酒というのは、数量限定のうえ販売時期も一切公開されず、ある日突然万屋の店頭に並んでは、そのたびに即時完売するという幻の一品だ。昔話のように実在するかも怪しい、というわけではないが、入手難易度は非常に高い。
ソハヤの軽口に乗って返してみたものの、これでは遠回しに断っているように聞こえるかもしれない。分かっていると思うが冗談だからな、と伝えようとしたところで、ソハヤの目が泳いでいることに気が付いた。
「何か言いたいことでもあるのか?」
どこか様子のおかしいその態度に首を傾げると、ソハヤが少しだけ困ったように笑う。
「いやあ、まあ、なんというか、まさかその話が出るとは思わなくてだな……」
随分と歯切れの悪い返事に、やや疑いの眼差しを向けた。するとソハヤは深い溜め息を吐いて、観念したように口を開いた。
「本当はもっと格好よく渡したかったんだがなぁ……まあいいさ。これ、兄弟にやるよ」
そう言ってソハヤが自分の背後から持ち出したのは、一本の酒瓶だった。そこに刻まれた銘柄は、今しがた俺が口にした酒と全く同じもので。
(まさか、そんな、これは……本物の?)
驚きのあまり、言葉が喉から出てこなかった。いや、待てよ。もしかしたらよく似た別の酒なのではないのか。そう疑って受け取った瓶をじっくり眺めてみたが、記載してある情報も見た目も、何もかもが話に聞いていた通りだ。そして何よりも、一時期多く出回っていた不正な類似品と区別するために、万屋が施した特殊な印がしっかりと押されている。
間違いない。これは本物だ。
歓喜に打ち震えて挙動不審になる俺を眺めていたソハヤが、堪えきれなかったのか大きく笑い出した。ひとしきり笑った後、ようやく落ち着いたソハヤが口を開いた。
「兄弟のそんな反応、初めて見たぜ……頑張った甲斐があったってもんだ」
ありがとう、ありがとう。何度も感謝の言葉を口にしたが、そんな言葉では到底伝えきれない。それほど俺は気持ちが高揚していた。
「どうしたらこの礼ができるんだ……とても返せるものが思いつかない……ソハヤ、何か俺に頼みたいことはあるか?」
今ならどんな願いだって叶えてやるから。
どうにかそれだけ伝えると、ソハヤはしばし口に手をあてて考え込んだ。
「礼なんて別にいいんだけど……そこまで言ってくれるなら、ひとつだけ、頼んでもいいか?」
「もちろんだ、何でも言ってくれ」
そう返すと、それまで笑みを浮かべていたソハヤの顔がすっと真面目なものへと変わる。ソハヤからのふざけた頼みはこれまでいくつか経験してきたが、これほど真剣な表情で頼まれる望みとは一体何だろうか。つられてこちらまで緊張していると、ソハヤは静かな、それでいてよく通る声で望みを口にした。
「俺と結婚してくれよ、兄弟」
一瞬、何を言われているのか分からず、言葉の意味が理解できなかった。
(けっこん……結婚だと?)
「結婚って、お前……」
付喪神である刀剣男士同士で婚姻を結ぶということは、人間同士のそれとは比べものにならないほど重い契約だ。強力な霊力の縛りが発生する、謂わば呪いにも近い契約となる。様々な縛りの中で最も有名なものが『どちらかが折れればもう片方も折れる』というものだ。そして、一度結んだ婚姻は、何があろうと取り消すことなどできない。そんな契約であるため、政府からも本丸内でその契約を結ぼうとする刀がいれば必ず止めるように、との通達が出ているほどだ。
「刀剣男士の婚姻は、政府から禁じられて――」
「それでも、婚姻を許可された事例が皆無ってわけじゃねえぜ?」
ソハヤ曰く、その希少な例の刀剣男士は俺たちと同じように別本丸に所属する刀だったらしいが、通常であればどのような理由があろうと許されない移籍が特例中の特例として認められたそうだ。
ソハヤは俺の手を握ると、迷いのないまっすぐな瞳で俺を見つめた。
「別れ際の兄弟の悲しい顔を毎回見るの、いい加減しんどいんだよ。自分がどれだけ寂しそうな顔してるか、知らねえだろ? 俺は兄弟に二度とそんな顔をさせたくねえし、ずっと一緒にいたい。それに――」
そこで言葉を区切ると、ソハヤは悪戯小僧のような顔でにやりと笑いながら言った。
「お前が折れるときは俺も一緒に折れたいし、俺が折れるときはお前も一緒に折れたいだろ?」
あまりにも当然のように言ってのけたその言葉。俺は呆気にとられた後で、無性におかしくなってしまった。確かに、こいつの言う通りだ。ソハヤノツルキがいない第二の生なんて、俺には耐えられそうにない。
「……それで、かぐや姫様の答えは?」
聞かずとも、分かっているだろうに。どうしても俺の口からはっきりとした答えを聞きたいらしい。俺はソハヤの手を強く握り返して口を開いた。
「喜んで、お受けする」
ソハヤの顔が、満開の花のように破顔する。それからふたりでしばらく笑い合って、これからどうやって主と政府を説得しようか、とこの先の未来について話し合った。
その最中に、折角だから、と酒の封を切った。準備のいいソハヤが用意してくれていた杯に酒を注いで、ふたりで杯の酒に口を付ける。
そこに浮かんだ丸い月ごと飲み干してみれば、それはこれまで口にしたどんなものよりも幸せな味がした。