お題:爪/鍵 昔から、俺の周囲には変わった感性を持つ人間がちらほらと散見された。
可愛い女子や綺麗な女子がたくさんいるにも関わらず、何故か同性である俺に執着する男が一定数いたのだ。幼稚園、小学校、中学校、と年齢が上がっていくたびに、その数は少しずつ増えていき、特に高校時代など一番ひどかった。
男子校に進学してしまったのがそもそもの過ちではあるのだが、それでもまさか年に何度も同性から告白される羽目になるなんて思いもよらなかった。
高校を卒業し、大学に進学した後はさすがに頻度は多少マシにはなったが、飲み会の席で気を抜けば何かを盛られそうになったりと、以前より危険度は上がったように思う。
こんな苦労も社会人になれば終わるだろう、そう考えていたのに――。
大学を卒業して早数年。最初は普通に会社勤めをしていたが、毎日満員電車で通勤することに耐えられなくなった俺は、職場で覚えた技能を生かしフリーランスのウェブデザイナーとして独立した。
決して社交的な性質ではないのだが、それでも運良く人脈に恵まれていたため、友人たちからの依頼やその紹介で案件が舞い込むことも多く、今では安定した生活を送ることができている。時折納期が重なって大変な時期もあるが、自分のペースで取り組める今の仕事に俺は満足していた。
学生時代から住んでいた一人暮らしのアパートから、しっかりとしたマンションへ引っ越すこともでき、個人的には満足のいく暮らしをしていたのだが……ある日突然、それは始まった。
差出人もなく切手すら貼られた痕跡のない手紙。最初にそれを見つけたのは、昔馴染みの友人たちと久々に飲んだ日の帰りのことだった。マンションのエントランスに設置されているポストを開くと、白い封筒が一通。何かのダイレクトメールだろうかと思って開封すると、中には細かい文字がびっしりと並ぶ便箋が数枚封入されていた。
駅で見かけた俺に一目惚れした、同性であることは分かっているが、どうか付き合ってほしい、などという戯言や、ひたすら俺の容姿を賛美する言葉が書かれたそれは、学生時代に何度か受け取ったことのある手紙にそっくりで、社会人になってからもこんなことがあるのか、と最初は俺も笑って済ませた。もちろん手紙は捨てた。無視していればそのうち諦めるだろう、と。
しかし、その手紙は週に一通、多いときは二、三通のペースで届き続けた。
初めのうちは内容もまだ許容できるものだったが、徐々に性的な内容が混じるようになり、最終的には大変不快極まりない写真や液体まで同封されるようになってきた。
そこまでくるとさすがに恐怖を覚え、警察に相談しようとも思った。が、これまでの経験上、男がこの手の相談をしたところでまともに相手をしてもらえる可能性は少ない。どうしたものかと困り果てた俺は、そこでようやく弟のソハヤに相談を持ちかけた。
俺の話を聞き、まず真っ先にソハヤが言ったのは、最初の時点で俺に相談しろ、という言葉だった。家の場所どころか部屋番号まで知られているというのに、何をそんなに悠長に構えているのか。もっと警戒心を持て。そう叱られてしまえば、俺は返す言葉もなかった。
「すぐに駆けつけるから、少しでも怖いと思ったらいつでも呼んでくれよ。俺たち、兄弟だろ?」
幼い頃からのトラウマで、同性に対して無意識のうちに恐怖心を抱くようになっていた俺にとって、全幅の信頼を寄せることのできる男は弟であるソハヤだけだった。
その言葉に励まされた俺は、次からは必ずすぐに連絡する、とソハヤに約束した。
ソハヤに相談した後から、不思議なことに例の手紙がぴたりと届かなくなった。さすがにもう諦めたのだろうか、と俺は胸をなで下ろした。しばらくは以前のように何事もない日々が続き、時折我が家に遊びにきてくれたソハヤもそれを喜んでいた。
だが、警戒を解いた俺をあざ笑うかのように、それは突然やってきた。
(これは本降りになりそうだな……)
曇りがちだった空模様がいよいよ機嫌を崩したのか、窓にぽつぽつと水滴がぶつかっている。時間も遅くなり室内も暗くなってきたため、俺は仕事部屋のカーテンを閉めて、ついでに仕事のキリも良かったためパソコンの電源を落とした。
雨が強くなる前に、買い物にでも行こうか。そんなことを考えながらリビングへ移動する。まずは冷蔵庫の中身を確認しよう、とキッチンスペースに進んだところで、急にインターホンが鳴った。
今日は配達など頼んでいただろうか、と記憶を探ってみるが、特に思い当たる節はない。我が家に来客が訪れるとしたらまずソハヤだろうが、事前に連絡なしで来ることなどない。それに今日はソハヤも仕事に行っているはずだ。
と、そこまで考えたところで、部屋のドアがこんこんと叩かれた。
その音に驚いてドアモニターの表示を見ると、表示されている文字はエントランスではなく玄関と表示されている。
このマンションのエントランスはオートロックで、いきなり部屋の前に人が来るなどまずありえないのに。モニターを確認しても、画面は真っ暗で何も映っていない。カメラが壊れたのだろうか、よりにもよってこのタイミングで。
俺はおそるおそる玄関へ近付くと、ドアスコープから外を覗いた。だが、ドアスコープも真っ暗で、何も見えない。
これは故意に塞がれている。そう気付いた瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。まさか、あの手紙の男だろうか。俺は音を立てないように後ずさりでリビングに戻ると、慌ててスマホを手に取り、ソハヤに電話を掛けた。
『よお、兄弟。どうしたんだ?』
耳に飛び込んできた明るいソハヤの声に、少しだけ心が落ち着いた。
「急で申し訳ないが、今からこちらに来れないか?」
『今から? まあ仕事も終わったし平気だけど……何かあったのか?』
「それが……」
今起きた出来事をソハヤに説明しているうちに、俺の考えすぎだろうか、もし考えた通りだとしても、この場にソハヤを呼ぶのはかえって危険なのではないか、などと色々な思考が脳裏を過っていく。
「すまない、俺が気にしすぎているだけかも……」
申し訳ないという気持ちが先行してしまい、やはり来なくていい、と告げようとしたところで、黙って俺の話を聞いていたソハヤが口を開いた。
『すぐ行くから、待ってて』
その言葉が聞こえた直後、通話は急に切れてしまった。
ソハヤが来てくれる。その事実に、俺はひどく安堵した。
ドアの外からは、未だこんこんというノックの音が響き続けている。
それからどれだけの時間が経っただろうか。ようやくノックの音が止まった頃、突如、ピンポーン、という音が鳴り響いた。暗いリビングで灯りもつけずに縮こまっていた俺は、反射的にびくりと身体を震わせてしまう。
また先ほどの奴だろうか、と応答するべきか否か迷っていると、握っていたスマホから電話の着信音が鳴り始めた。慌てて画面を確認すれば、そこに表示されていたのはソハヤの名前。思わず安堵の息を漏らして俺は電話に出た。
「ソハヤ……!」
『ごめん、多分驚かせちまったよな? 今、エントランスでインターホン鳴らしたのって俺なんだけど……』
その言葉を聞いて慌ててドアモニターを確認すると、そこには慣れ親しんだ弟の顔が表示されている。すぐさまロックを解除すると、ソハヤの姿が画面から消えた。まだ電話は繋がったままだが、特に会話はない。それでも、たまに聞こえる息づかいで、急いでソハヤがこちらに向かっていることが伝わってきた。
『兄弟、ドアの前についたから開けてくれるか?』
「分かった、少し待ってくれ」
小走りで玄関に向かい、大急ぎでドアを開ける。俺の視界に飛び込んできたのは、全身ずぶ濡れになった弟の姿だった。いつの間にか外は土砂降りの雨。全く気が付いていなかった。
「傘、売り切れてて買えなくってさぁ。タクシーも捕まらねぇし」
困ったような笑顔を浮かべるソハヤ。その顔を見た瞬間、情けないことに俺は腰が抜けてしまった。
「おいっ、大丈夫かよ兄弟」
玄関に座り込みそうになる寸前のところでソハヤに身体を抱き留められる。ひやりとした冷たい感触が服越しに伝わってくるが、そんなことは気にならなかった。
「……ありがとう、ソハヤ」
どうにか絞り出した声は少しだけ震えていて。大の大人が情けない、と笑われてしまうかと思ったが、ソハヤは優しく微笑んで俺の身体を抱き締めた。
「怖かったよなぁ……遅くなっちまってごめんな?」
そう言って俺の背中をゆっくりと撫でてくれた。
伝えたいことはたくさんあったが、このままではソハヤが風邪を引いてしまうと思い、渋るソハヤを無理矢理バスルームへと押し込んだ。ソハヤの着替えは以前泊まった際に置いていったものがあったため、特に問題はなかった。
ソハヤが出てくるのを待つ間、自分でも驚くほど気持ちが落ち着いていくのが分かる。先ほどまではあんなに不安だったというのに。一つ屋根の下に誰かがいてくれる。それがこんなに心強いことだとは思わなかった。
そういえば、ソハヤは仕事が終わってすぐにこちらへ来てくれたため、何も食べていないのではないだろうか。何か食事でも作ってやりたいが、あいにく食材がない。さすがに外に食べに行くのは怖いが、デリバリーなら。そんなことを考えいていると、ジャージの下だけ穿いた状態のソハヤがリビングへと入ってきた。
「兄弟、大丈夫か?」
まだ濡れている髪をタオルでがしがしと擦っている。いつもなら髪をしっかり乾かして出てくるのだが、おそらく俺を心配して急いで出てきたのだろう。
「急に呼び出してすまなかったな。お前が来てくれたお陰で大分落ち着いたよ」
俺が座るソファーの隣に腰を下ろしたソハヤが、じっと俺の顔を覗き込む。しばらく無言で見つめた後、うん、とソハヤが頷いた。
「ちょっと顔色良くなってんな。安心した」
にかっと口角を上げて満足げに呟いた後、再び表情を硬くしたソハヤが言葉を続けた。
「それにしても部屋に直接来るなんて、ヤベェのに目を付けられたな……」
「……これからも、同じようなことが起きるだろうか……?」
兄弟を不安にさせたいわけじゃないんだが、と前置きをしてソハヤが答えた。
「無い、とは言えねぇな」
その答えに気分が沈んでしまう。そうだろうと覚悟はしていたが、やはり恐怖心は拭えない。こんなことが起きるたび、こうしてソハヤを呼び出すなんてことはさすがに無理がある。もう残された手段は少なかった。
「引っ越す……べきか……?」
あまり実行したくはない案だが、背に腹は代えられない。懊悩する俺の隣で同じように悩んでいたソハヤが、ふと思いついたように顔を上げた。
「なあ、兄弟が嫌じゃなければでいいんだけど、俺がしばらく一緒に住む、っていうのはどうだ? そりゃあ、引っ越した方がいいかもしれねぇけど……それにしたって明日すぐ、ってのは無理だろ? その間、兄弟を一人にするの心配だしよ」
そう口にしたソハヤは、名案だろ、と言わんばかりの自慢げな表情を浮かべていた。
確かにソハヤがそばにいてくれるのは大変心強いが、さすがにそこまでの迷惑は掛けられない。
「その申し出は本当にありがたいし、できることなら頼みたい気持ちはあるが……職場への通勤はどうするんだ? 今住んでいる部屋のこともあるし、何よりお前に何かあったら……」
「ここから通勤したって大して時間は変わらねえし、部屋はたまに覗きに行けばいいだけだから平気だって。それに、俺に何かあったらって兄弟は言うけどさ、俺だって兄弟に何かあったら嫌だし自分が許せねえよ。分かるだろ?」
確かにソハヤの言っていることは理解できる。それでも、俺に巻き込まれてソハヤに万が一のことがあったら、という不安がつきまとう。
「お互いが心配し合ってるんだからさ、それなら二人で一緒にいた方が絶対にいいって。俺たち、兄弟だろ?」
ソハヤが時折口にするこの言葉に、俺はとても弱かった。俺のただ一人の弟、生まれたときから知っている大事な家族。この子からこう言われて、断れた試しなどない。
「分かったよ……それじゃあ、頼めるか……?」
ついに折れた俺に、ソハヤは喜色満面の笑みを浮かべた。
「良かった! ありがとな、兄弟!」
「礼を言うのはこちらの方だが……あぁ、そういえば」
ちょっと待っていてくれ、とソハヤに伝えると、俺はリビングのチェストへ向かった。確かこの辺りにあったはず、としばらく引き出しの中を漁っていると、目的のものを発見した。それを握りしめて、再びソハヤの元へ戻り隣に腰を下ろした。
「これを渡しておこう」
ソハヤに差し出したものは、二本の鍵。このマンションのエントランスと部屋の鍵のスペアだ。
「一緒に暮らすなら、必要だろう」
鍵を受け取ったソハヤは、まるで宝物でも受け取るかのように慎重に鍵に触れている。別段変わったところもない普通の鍵だが、と思いながらその様子を眺めていると、不意にソハヤがこちらを振り向いて言った。
「これ……大事にするから」
「……? そうだな、なくさないようにしてくれ」
どうしてそのような反応をするのかは分からないが、ソハヤがあまりにも嬉しそうだったため、どうでもいいか、と俺は深く考えなかった。
「これからよろしくな、ソハヤ」
「おぉよ、兄弟」
世界で一番信頼している俺の兄弟。ソハヤがそばにいてくれれば、こんなに心強いことはない。
――たとえその心の内に、誰よりも鋭い爪を隠していたとしても。