お題:あくび/溺れる ぱたぱたと廊下を走る小さな足音が耳に届き、微睡みから呼び戻されるように瞼を開いた。部屋の時計に視線を向ければ、針は六時過ぎを指している。今朝の部隊編成や出陣予定が頭を過り、同じ布団の中で心地よさそうに安眠を貪っている兄弟刀に声を掛けた。
「兄弟……兄弟……おい、光世」
肩を掴んで軽く揺さぶると、ようやく光世の瞳がこちらを映した。まだ頭が働いていないのか、微妙に目の焦点が合っていない。
「そろそろ起きなくていいのかよ? 今日は朝から出陣だって言ってたよな?」
「……そうだった、か……?」
寝惚けて昨日の会話も思い出せない兄弟の声はひどく掠れていて、諸悪の根源としては些かの罪悪感を覚えてしまう。出陣前の夜ぐらいは同衾せずにおこう、などと考えていたにも関わらず、それはもう盛大に欲望に負けてしまったのが昨夜の夜半過ぎの話だ。
当初兄弟はあまり乗り気ではなかったが、行為そのものが嫌いなわけではない。むしろ俺と同じく好きな方だと思う。そうして二振揃って明け方近くまでうっかり励んでしまったため、きっかけを作った俺としては大いに責任があった。
「寝る前に湯浴みだけ済ませておいて正解だったな。そうじゃなけりゃあ寝坊だったぜ」
「……ああ、そうだな」
俺の言葉に同意してはいるものの、瞼が半分閉じかけている。このままでは二度寝まっしぐらだ。可哀想ではあったが、身体を起こして布団を無理矢理剥いでしまうと、兄弟から恨みがましい視線を向けられた。
「寒い」
「ほらほら、頑張って起きろって。顔洗って支度して、一緒に朝餉を食べに行こうぜ?」
正直なところ俺もまだ眠りたいが、寝不足の原因である俺が隣で悠々と眠るわけにもいかない。それにこのまま放置しては、部隊の他の刀に迷惑が掛かってしまう。
悩んだ末、俺は兄弟の上体を抱き寄せるようにして、やや強引に身体を起こさせた。これで兄弟もいい加減に諦めて起きるだろうと思ったが、俺の肩に頭を預けた次の瞬間、兄弟は小さな寝息を立て始めてしまう。
「兄弟! 起きろって!」
背中を軽く叩いてみれど全く反応がない。俺は大きく溜め息を吐くと、あまり実行したくはなかった最終手段を取ることにした。
「後から文句言うなよ?」
兄弟の背中に片手を添えて、もう片方の手を膝裏にまわすと、俺は一気に兄弟を持ち上げた。いわゆるお姫様抱っこの体勢のまま、俺は強制的に兄弟を洗面所まで運び出した。
途中ですれ違った数振の刀にはぎょっとされたが、爆睡している兄弟を見て皆がどこか納得したような表情で生温い視線を俺に向ける。俺と兄弟が近頃ようやく恋仲となったことは周知の事実だったためそのような反応を向けられたのだろう。
洗面所に到着する直前、ようやく目を覚ました兄弟からはひどく拗ねられてしまったが、お陰で兄弟は遅刻することもなく無事に出陣することができたので結果オーライというやつだ。
兄弟の出陣を見送った後、割り振られていた馬当番のため厩に向かうと、そこにはにやにやとした顔で俺を待ち構えている包丁藤四郎がいた。
「聞いちゃったぞぉ~! 昨夜夜遊びして大典太さんが寝坊しかけちゃったんだって? 夜ふかしするといち兄に叱られちゃうぞ! もしかしてお菓子とかも食べたの⁉」
「夜遊……まあ、そうだな……菓子は食ってねえけど、って誰からその話聞いたんだよ?」
大分全年齢向けに解釈されている俺たちの事情に、少しばかり胸をなで下ろした。さすがに短刀にまで詳細な事情を把握されてしまっては、こちらも気まずい。
「今日は乱が大典太さんと同じ第二部隊だったから、出発前に教えてもらったんだぞ!」
「あぁ、乱か……」
そういえば今朝すれ違った刀の中に、確かに乱藤四郎の姿があった。何かと色恋話に興味のある乱が、喜々として包丁にこの話をしたのは納得がいく。そして乱は、おそらく詳細な事情を把握したうえで、包丁向けに言葉を言い換えたんだろう。その気遣いはありがたいが、できることなら吹聴しないでほしかった。
それから夜遊びの詳細について聞きたがる包丁をどうにかかわしつつ、粛々と厩の作業をこなしていった。
睡眠不足で何度も欠伸を噛み殺す俺の姿を目撃されるたびに包丁から、夜遊びするからだぞ、ともっともな指摘を受け、さすがに今後は注意しようと固く心に誓った。
内番作業が全て終了し、作業道具を片付けた俺たちが屋内に戻ろうとしていたところ、ちょうど帰還したばかりの第二部隊とすれ違った。
相変わらず眠そうにしている兄弟とやけに不機嫌そうな大包平、そしてこちらに気付いた後で俺の方を物言いたげに見つめてくる部隊長の加州清光の姿を目にして、これは絶対に文句を言われそうだな、と内心で頭を抱えた。
* * *
「ちょっと、ソハヤ」
夕餉と湯浴みを済ませて自室へと戻る道すがら、後ろから掛けられた声に振り返ると、そこに立っていたのは件の加州だった。やや不機嫌そうな表情を浮かべる加州を見て、やはり来たな、と瞬時に覚悟を決める。
「こんなこと言うのもなんだけどさ、出陣の前日とかは多少控えてくれない?」
「返す言葉もな……ありません……」
「大典太さ、戦闘中はさすがに真面目にしてたけど、それ以外の時間は大半欠伸してるかうとうとしてるかで……まぁそれはいいんだけど、一緒にいた大包平がそれを見て怒っちゃって、仲裁するの大変だったんだから!」
その光景は容易に想像がつく。生真面目な大包平のことだ、兄弟がだらけているように見えて仕方がなかったんだろう。
「余計な手間を掛けさせて本当に悪かったな。大包平には後で俺から謝っておくから」
本当にすまない、と頭を下げると、加州は少し怒りが落ち着いたのかつり上がっていた眉尻を僅かに下げて小さく息を吐いた。
「ソハヤと大典太が付き合い始めて幸せの絶頂なのは知ってるけど、翌日に響くようなことは控えてよね。ちなみに明日のソハヤの出陣だけど、俺が部隊長だから」
「……今日は早く寝ます」
「よろしい」
俺の返事で満足げに頷いた加州は、続けて明日の任務に関する連絡事項を伝えると、それじゃあ、と部屋に戻っていく。しっかりと釘を刺されたことで、今日こそは己を律するぞと気合いを入れ直し、俺も自室へと足を向けた。
* * *
「おかえり、遅かったな」
先に浴場から戻っていた兄弟は、敷いていた布団の上でのんびりと寝転がっていた。兄弟のまだ乾ききっていない髪が、首筋にはりついている。上気して普段よりも血色の良くなった肌と相俟って艶めかし……くない!
思わずそちらに向いてしまいそうになる思考を必死で振り払うと、俺はできるだけ平静を装いながら返事をした。
「明日の出陣のことで加州に呼び止められてな」
「そうか……何か言われたか?」
「まあ、そうだな……」
「ふふっ、出陣の前日は早く寝ろ、とお前も言われたんだろう?」
この発言から察するに、兄弟も直接苦言を呈されたようだ。それなら話は早い。
「そういうわけだからさ、今日は良い子にして寝ようぜ。明日は俺が加州と出陣だし」
「……そういうことなら、仕方ないな」
昨日はお前から誘ったくせに、と嫌味を言われるかと思っていたが、案外すんなりと納得してくれた兄弟にほっとする。
それからしばらく他愛もない雑談をした後、そろそろ寝るか、と切り出して俺たちは床についた。
――部屋の灯りを消してから約三十分後。兄弟の姿が視界に入らないようわざとそちらに背中を向け、我慢、我慢、と頭の中で繰り返し続けた甲斐あってか、俺はまだ兄弟に指一本触れていなかった。偉いぞソハヤノツルキ、と自分を賞賛せずにはいられない。だが、必死でそんなことを考えているせいで全く眠れる気配はなく、次は人の子のように羊でも数えてみるかと考え始めた矢先、静まりかえった部屋に小さな衣擦れの音が響いた。
兄弟が寝返りを打っただけだ、そうに違いない。間違っても声を掛けてきたり、あまつさえ兄弟が俺の布団に潜り込むような事態だけは起きないでくれ。
付喪神ながら別の神に祈るような思いでそんなことを考えていたが、俺の希望はあっさりと打ち砕かれた。
「ソハヤ……眠らないのか?」
「……まさに眠ろうとしてたところ」
「そうか」
随分あっさりと引き下がってくれたなと胸をなで下ろした瞬間、するりと俺の脚に兄弟の脚が絡みついてきた。
「ちょっ、冷たっ!」
風呂上がりとは思えない兄弟の体温の低さに思わず声が出てしまう。
「お前は熱いな……そっちに入ってもいいか?」
普段の俺ならこんな発言をされてしまえば、すでに布団に引きずり込んで寝間着を剥ぎ取っている段階だが、今日はそういうわけにはいかない。加州からもしっかりと釘を刺されているし、自分でも自制がきかないのはよくないと反省している。
「駄目だって! 今日は普通に寝ようなってさっき言っただろ⁉」
誘惑を振り切ろうとしたせいか、意図せず強い口調になってしまった。こんな言い方をして兄弟は不貞腐れてしまわないだろうか、と不安になった俺は、おそるおそる身体を兄弟の方に向けた。
結果として、兄弟は不貞腐れてはいなかった。だが、叱られた童のようにしゅんとして、もの悲しげな瞳でこちらを見つめている。
「すまない……」
普段よりもしおらしい態度の兄弟に、ぐらぐらと決意が揺らぐ。愛しい相手にこんな顔をさせてしまうなんて、一体どういう了見だ。据え膳食わぬはなんとやら、いやしかし自制心が、と激しい葛藤を繰り返していると、兄弟が今にも泣き出しそうな表情で口を開いた。
「昨夜も今夜もしたいなんて……はしたなくてお前に嫌われてしまったかな……」
ぷつんと何かが切れる音がして、俺は布団から勢いよく飛び起きた。
「はァ~~⁉ 嫌うわけねえだろうが!」
兄弟の被っていた布団を強引に剥ぎ、驚いて目を丸くしている兄弟の上にのしかかる。この間一秒もなかった。
「俺がどれだけ我慢してたのか、じっくり分からせてやるから覚悟しろよ……‼」
自分の寝間着の前を開きながらそう宣言すると、つい先ほどまで泣きそうだった兄弟の口角がにやりとつり上がった。
「それはとても楽しみだな」
そこでようやく、先ほどまでのやけにしおらしかった兄弟の態度が演技だったと気が付いたが、もはや後の祭りだった。
結局その夜も元気に励んでしまった俺は、翌朝顔を合わせた加州に少しばかり隈ができた顔を一瞬で見咎められ、一日中ずっと小言を言われ続けたのだった。