お題:睡眠/花 暗い昏い闇の中。部屋の灯りを消してから、どれだけの時が経っただろうか。
刀剣男士という新たな生を受けて早一週間。血肉の通った人の身にも幾分か慣れてきたが、俺は未だに睡眠という行為が不得手だった。
『暗闇の中で目を閉じれば、いつの間にか意識が曖昧になっていく』
顕現初日に兄弟刀の大典太光世から教わったことを毎日実行しているにも関わらず、俺は現在に至るまで一度も睡眠というものを経験できずにいた。
一度、所縁のある徳川の刀にそれとなく睡眠について尋ねてみたが、このような状態に悩んだことはないようで、それどころかわざわざ教えられずとも眠ることができたと言っていた。
そんな中で、眠るという感覚が掴めない、などと口にすることは憚られ、結局俺はこの現状を誰にも相談できずにいた。
どうせ今夜も眠れないんだろう、そうに決まってる。
閉じた瞼を持ち上げれば、この部屋で寝ようと足掻いては失敗するたびに眺めている天井が視界を埋め尽くす。夜毎見つめたせいで、今では天井板の木目の特徴すら覚えてしまいそうだ。
いっそ眠ることを放棄して、寝ずの番に就いている刀の手伝いでもするべきか。そちらの方がよほど気が晴れそうだ。
暗闇の中で身動ぎもせず、ひたすら時が過ぎるのを待つだけ。これではまるで、ただの刀だった頃に逆戻りしてしまったようだ。
そこまで考えたところで、衣擦れの音を立てないよう細心の注意を払いながら寝返りを打った。視線の先には、布団にすっぽりと収まった兄弟の後頭部。こちらに背中を向けているため顔は見えないが、おそらく眠っているのだろう。
兄弟はここのところ、夜を徹しての出陣や遠征が続いていた関係で、こうして布団を並べて夜を過ごすのは今夜が初めてだ。普段よりもそわそわと落ち着かないのは、兄弟刀相手に緊張しているからだろうか。
はぁ、と小さく息を零した瞬間、静寂と暗闇に包まれていた部屋の中に突然「おい」と声が響いた。
当然、声の主は隣に寝ている兄弟だが、まさか声を掛けられるなど思ってもみなかったため、無様にもびくりと肩を揺らしてしまった。
「眠れないのか?」
ごろりと寝返りを打ってこちらを振り向いた兄弟。てっきり寝ているとばかり思っていたその顔は、日中に言葉を交わすときと何ら変わりない覚醒しきった表情だった。
「起きてたのかよ」
「寝付きが悪いんだ……お前もそうなのか?」
俺の方は寝付きが悪いどころの話ではないが、さすがに一度も寝ていないとは返しにくく、なんと返事をしたものかと思案していると、不意に兄弟が身体を起こした。
「……俺がいて落ち着かないのであれば、俺は別の部屋で寝ても構わないが」
その言葉に思わずぎょっとした。眠れないからと兄弟を部屋から追い出すなんてことできる訳がない。俺も慌てて身体を起こすと、今にも出て行きそうな兄弟の袖を掴んだ。
「兄弟がいるいないは関係ねえから! 眠れねえのはいつものことで――あっ」
「いつものこと……? お前、普段からあまり寝ていないのか?」
「まあ、そうだな?」
ハハッと笑って言葉を濁したが、兄弟の眉間に皺が寄っている。これはどうやら疑われているようだ。
「寝ていないとは、具体的にどの程度だ? まさか初日から今日まで一睡もしていないんじゃあないだろうな?」
「……まさか、そんな、なあ?」
返答までに一瞬間を開けてしまったのがまずかった。兄弟は大きく息を吐くと、部屋の灯りをつけてじっと俺を見つめた。
「一度も寝てないんだな?」
「…………はい」
誤魔化しを許さない兄弟の声。寝ようと努力はしたが結局一度も眠れなかったこと、そんな刀は他にいないようで言い出せなかったこと、諦めてそれらを全てを白状した俺に、兄弟は再度深い溜め息を吐いた。
「頼むから、そういうことはもっと早く言ってくれ……二日や三日寝ない程度ならともかく、お前が顕現してから一週間だろう? さすがに変調をきたしてしまうぞ」
「いやあ、別に調子は悪くねえんだけど」
「どうだかな……少し待っていろ」
そう言うなり兄弟は、立ち上がってさっさと部屋から出て行ってしまった。
これは審神者に報告でもされてしまうのだろうか。あまり大事にはしたくなかったんだがなぁ。
と、そんなことを考えながら待っていると、ほどなくして兄弟は部屋に戻ってきた。その手には、小さな白い花の活けられた小ぶりの花瓶が握られている。
「なんで急に花なんて……」
反射的に訝しんでしまった俺に、兄弟が口を開いた。
「これは茉莉花という花の匂いがする造花だ。手入部屋に置いてあるものを借りてきた」
へえ、と兄弟の差し出した花瓶を受け取ってまじまじと眺めると、確かに花は偽物だった。ただ、鼻腔をくすぐる甘い匂いはまさしく花の香りそのもので、どことなく気持ちが和らいでいくようだ。
「茉莉花の香りには安眠効果があるらしい。俺もよくは知らなかったんだが、先ほど物吉貞宗と偶然遭遇してな……お前のことを相談したら『これを枕元に置くといい』と教えてもらったんだ」
「えっ、物吉に言ったのかよ⁉」
以前、俺が睡眠について尋ねた相手というのが、まさに物吉貞宗だった。何故あのとき相談してくれなかったのか、と責められてしまいそうだ。
「……まずかったか?」
少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべた兄弟。元はと言えば俺が黙っていたのが原因なのだから、当然ながら兄弟に非はない。
「いや、なんでも……とりあえず、これを置けばいいんだな?」
「ああ……無理矢理にでも寝かせた方がいいのなら、俺がお前を昏倒させてしまうのはどうだろうかと最初に聞いたんだが……必死に止められてしまってな」
残念そうに呟く兄弟に思わず俺はゾッとした。兄弟の練度は上限に達している。かたや俺は特付きですらない。それはつまり手入部屋に直行するということだ。
俺は心の底から物吉に感謝しながら、茉莉花の香りが漂う花瓶を枕元に置いた。
「成功するか分からねえけど、これで眠れたら万々歳だな」
眠れないことが露呈してしまった今、兄弟や物吉に余計な気を遣わせたくはない。特に兄弟は同室なのだから、より気に掛けてしまうだろう。できることならこの香りには頑張ってもらいたいところだ。
睡眠に再挑戦とばかりに布団に横になると、兄弟も部屋の灯りを消した後で同じように布団に戻った。今度こそ、と気合いを入れて瞼を閉じようしたところで、兄弟が突然「あともうひとつ」と呟いた。まだ眠るための案があるのだろうかとそちらを振り向くと、兄弟が片手をこちらに差し出していた。
その意図が分からず横になったまま首を傾げていると兄弟が言葉を続けた。
「人の子は手を繋いで寝ると、相手の体温を感じて安心して眠れるそうだ。刀剣男士に効果があるのかは知らないが……試すだけ試してみろと言われた」
「はあ……手を繋ぐ、ねえ……?」
逆に落ち着かなくて余計眠れないのではと思わないでもないが、断るのも気が引けるためおそるおそる兄弟の手を握った。
「……あのさあ、兄弟の手……冷たすぎねえ?」
「お前の手が熱いんじゃないのか……? 他の刀の手を握ったことなどないから知らないんだが……」
二振で戸惑いながら手を握り合っていると、どちらからともなく笑いが零れた。
「何やってんだろうな、俺たち」
「本当にそうだな……」
小さな笑みを浮かべながら同意した兄弟。しばらく手を繋いでいると、兄弟の手に俺の体温が移ったのか、じわりと温かさを感じ始めた。温もりが手を通して流れ込んでくると同時に、ふわふわと頭が揺れるような、そんな感覚を覚えた。無理に瞼を閉じるのではなく、自然と瞼が落ちていく。ああ、これが『眠りに落ちる』というものか。
甘い花の香りと兄弟の体温を感じながら、意識が沈みそうになる瞬間、穏やかで心地の良い声が耳に届いた。
「おやすみ、兄弟――また明日」