秋さる空が茜色に染まる刻限。
雲深不知処の門へと下る階段前で魏無羨と藍景儀はばったりと出会った。
「あれ?魏先輩、どちらに?」
もう門限まであと四半刻もない。これから街へ下りるなどありえず、藍景儀は尋ねた。
「藍湛と思追の迎えだよ」
「あ~、魏先輩もですか!」
1週間ぶりに藍忘機と藍思追が雲深不知処に帰ってくる。
仙督となった藍忘機は多忙を極め、あちらこちらへと飛んで回っており、そのお付きとして今回藍思追が同行したのだ。
「静室で待ってたけど、なかなか帰らないから出てきた。お前も?」
「そうです。俺も思追を寮で待っていたけどなかなか帰らないから」
「なら、一緒に行くか」
「はい!」
思わぬ同行者に魏無羨はクスッと笑うと、階段を下り始める。藍景儀も大人しく後ろをついてきた。
「夕方は冷えて来ましたね」
藍景儀が階段を下りながら、頬に当たるひんやりとした空気に周りを見回す。
「ここは山の中だから寒くなるのが早いんだろうな……雪も早く降りそうだな」
姑蘇に比べて暖かい雲夢育ちの魏無羨だ。雲夢の秋は暑さと寒さを繰り返しながら冬へと季節を変えるので、急に寒さを感じることはなかなかない。
「そうですね。早い方だと思います。雲夢では雪は降らないのですか?」
「降る時は降るが、積もるほどじゃないかな」
秋風が通りはじめた雲深不知処は、陽が落ちると気温がぐっと下がる。
門へと繋がる山道の脇に生えている木々も、色を変え始めていた。
「雲夢から来た蓮の花も枯れてしまいましたね」
「花の時期は済んだからな。ああ見えて寒さにも強いから、また来年咲くさ」
夏に起こった一悶着の蓮の花。
魏無羨と江晩吟の関係は親密でもなく疎遠でもない微妙な距離を保っている。
だが、近況報告の手紙の内容に少しづつ冗談が混じりはじめ、お互いに歩み寄れているのではと魏無羨は嬉しくなった。
そして相変わらずが藍忘機と江晩吟だ。
雲夢の収穫祭に行きたいと魏無羨が言えば、藍忘機は眉をひそめ、江晩吟は藍忘機は連れてくるなと言う。
段々そんな2人の態度に魏無羨も慣れてきたが、悪態をついている様子はとても似ていて、もしかしたら本当は仲がいいんじゃないかと疑う。
それに謹慎中の藍曦臣の空気がちょっとだけ変わったように魏無羨には見えた。
受け身でいた藍曦臣が時折こちらへ会話を向けてくるようになってきたし、寒室の扉も開かれている日が多くなった。そろそろ謹慎を解かれるのではと周囲の期待も高まっているが、まだ本当に微かな変化なので、もうしばらく時が必要だろう。
謹慎中だけが藍曦臣を雲夢の収穫祭に連れていくのはどうかと思いつき、魏無羨の口元がにっと緩む。
江晩吟と藍曦臣もゴタゴタがあったみたいだが、収穫祭に忙しい江晩吟はこちらに取り合っている暇などないだろうから、こっそり行けばバレやしないだろう。
魏無羨はいい思い付きに心が踊り、あとはどう藍忘機を説き伏せるか策を考えていた。
「魏先輩」
「ん~?」
門まではまだかなりの距離のある石段を下りながら背後から名を呼ばれて魏無羨は振り向いた。
いつになく、藍景儀が真面目な顔をしている。
「思追は……藍思追は温氏の者なのですか?」
「どうして、そう思った?」
「幼い頃を覚えているかと聞かれたのがきっかけです。乱葬崗の後、思追が鬼将軍と話しているところをよく見かけて。俺は怖くて鬼将軍には近寄れなかったけど、何だがあの2人、雰囲気が似てるな~と思えてきて……」
「うん」
「それにあいつ、船に酔うんですよ。それを子真が姑蘇の出身なのにおかしいと……」
ああ、と魏無羨は納得する。水路や湖がある地方の者は船を幼い頃から使っている。
酔いやすい体質を持つのは船に慣れていない北の地方の出身だ。
いろいろ考えた末に、藍景儀はその答えを導き出しただろう。
藍景儀の勘の良さと洞察力に魏無羨は感心した。
「どうだと思う?」
普段は何かと面白がって輝いている魏無羨の瞳が、この時だけは静かで感情が見えない。
「……わかりません」
どうだ?と聞かれても藍景儀には答えられない。
「それを知ってお前はどうする?」
「……俺は……」
魏無羨に言われて初めて、その答えを知って自分はどうするのかと気づいた。もし、藍思追が温氏に繋がる者だったとしたら自分達の関係がかわるのだろうか。
「景儀」
下から見上げてくる魏無羨の顔に藍景儀はただならぬ気配を感じて背筋を伸ばした。
何も考えずに無遠慮にした質問に対して魏無羨が怒っているのかと身構える。
「あいつ、俺の産んだ子なの」
パカッと藍景儀の目と口が開く。
(……えっ、えっ、えええええええええ!!?
魏先輩って男なのに子供を産めるのか!!でも、魏先輩ならあり得そうで怖い!!)
「ぶっ、アハハハハハハハハ!!」
藍景儀の心の混乱がわかるようなコロコロ変わる顔色がツボに嵌まったらしく、魏無羨がお腹を抱えて笑った。
「そんなわけ無いだろ!何その顔!!あー、苦しい!!」
「う、う、魏先輩!!」
からかわれたとわかった藍景儀が怒鳴り返すと、悪い悪いと大して悪いとは思ってない口調で魏無羨が目尻に浮かんだ涙を拭きながら謝ってきた。
「人が真面目に聞いてたのに!」
「だから、悪かったって」
拗ねた藍景儀を置いて魏無羨はまだクククッと肩を震わせながら階段を下り始める。
藍景儀は怒りでムスッとしたまま後に続いた。
「……俺さ、何故か動物とかに嫌われるんだよね~」
「はあ?」
突然、魏無羨の話が変わり、藍景儀は戸惑うが、それを無視して魏無羨は話を続ける。
「でも、小さな子にはよく懐かれたんだ。助けた温氏の中に子どもがいて、俺のこと羨哥哥ってとても懐いてくれた。よく一緒に遊んだり、ケンカしたり。当時の俺には癒しの存在だったよ。金麟台で温氏はみんな死んでしまったと思い込んでたんだけどそうじゃなかった」
魏無羨は嬉しそうに目を細め微笑む。可愛がっていたその子は今も生きていて魏無羨にとってとても大切な存在なのだと藍景儀にはわかった。同時にその子は時々遠い目をして何かを考えている友に行き当たるのではないかと考える。
「やったことの責任はやった奴が取ればいい。無辜の者まで巻き込むことはないと俺は思ってる。温氏は確かに人々を苦しめたけど、それはその子に関係ない。だからその子には幸せになってほしいなあ」
射日の征戦は、藍景儀がかなり幼い頃に起こった。あまりに幼かったので当時の記憶は無く、どういった戦いだったかは記録や伝え聞いたことでしか知らない。
夷陵老祖としての魏無羨も、同じだった。
記録や言い伝えでは人を何千人も殺し、人々を恐怖に陥れたとある。本人も人を殺したことは否定しない。
だが、藍景儀の知っている魏無羨は私利私欲で動くことはなく、時々からかわれるが明るく頼れる人。それ以外はない。
なら藍思追がたとえ温氏の者だったとしても、幼い頃から一緒に育ち、見せてくれた優しさや真面目な性格が自分が知っている藍思追であるかぎり、相棒であることにかわりないな、と藍景儀の中で答えがでた。
「もし、思追が何か話したいことがあるならちゃんとお前に話すさ。景儀、聞いてやって」
付け加えられた最後の言葉は魏無羨の願い。
魏無羨の優しさに藍景儀はにっと笑った。
「当たり前じゃないですか!俺はあいつの親友ですよ!」
ドンと胸を叩いて明るく答えた藍景儀に、魏無羨はハハッと破顔する。
「そうだったな」
「それに俺と思追は含光君と魏先輩を越えますからね!」
「おお~、出たな、景儀の口癖!なら、まずは呪符の書き間違えをどうにかしないとな~」
肩を竦めてやれやれとわざとらしく首を振る魏無羨に、藍景儀はカチンとくる。
「ぐっ!!魏先輩の呪符が複雑すぎるんですよ」
「はあ!?」
門の近くでギャイギャイと口げんかを始めた声を聞き付けて、門番当番の弟子たちが走り寄ってきた。
「魏先輩っ、どうされましたか!?…って景儀?」
魏無羨のけんか相手が藍景儀だとわかった弟子たちは、また始まったか~とため息を吐いた。
魏無羨と藍景儀の口喧嘩は日常茶飯事で、誰も巻き込まれることを嫌がり止めない。
「いいところに来た!景儀の奴、俺の呪符に文句を…」
「文句じゃないですよ!複雑だから書き間違うのはしょうがないと言ってるだけです!」
「それは開き直りって言うんだ!いつも筆でヒョロヒョロ~と書いてるくせに〰️」
「ヒョロヒョロなんて、書いてません!」
「呪符は点1つでも間違うと意味が変わるから間違ってはっ、モガ!」
「あ……」
魏無羨の口が大きな手で塞がれ、その身体が背後から抱き締められた。
「門の前で大声で騒いではいけない」
頭上から聞こえてきた美声とその服から漂う香りに、この場が一気に清浄な空気に変わる。
皆、魏無羨と藍景儀のケンカばかりに気をとられ、帰ってきていた藍忘機と藍思追に気付いていなかった。
「お帰りなさいませ、仙督」
「藍湛、お帰り!」
弟子たちは慌てて一斉に頭を下げ、魏無羨は口を塞いでいた手を退けながら背後を振り返りにっこりと笑った。
「うん」
藍忘機も微笑を浮かべた。
「思追、お帰り〰️」
わーと藍景儀が藍思追に抱きつき、藍思追は苦笑しながら、友に声をかけた。
「ただいま、景儀。わざわざ迎えに来てくれたの?」
「そうだぞ、魏先輩とな!」
さっきまで口喧嘩していたことなど嘘のように藍景儀はケロリとしている。魏無羨と藍景儀にとって口喧嘩はコミュニケーションの1つであってそれ以上の意味はない。
藍思追は藍忘機の前に立つ魏無羨への視線を向けて、損礼をした。
「ただいま戻りました、魏先輩」
「お帰り、思追。疲れただろう?」
「いえ、とても勉強になりました」
(勉強、ねぇ……)
魏無羨はちらっと背後の藍忘機を盗み見る。
最近、藍忘機が藍思追の指導をもう一段階上げたように感じていた。
実践は当然として、上に立つ者の所作や心得を教え込んでいるようで、藍思追も薄々気づいている。
「次は景儀にもついてきてもらおう」
「えっ、俺もですか!?」
藍忘機の思わぬ指名に藍景儀は驚いたようだが、すぐにはいっ!と返事をする。
どうやら、藍忘機は本格的に次世代の藍氏双璧の教育を始めるようだ。これからは呪符の間違いなど言っている場合ではないかもしれない。
「思追、皆と一緒に戻りなさい。兄上や叔父上には私から報告しておこう」
「よろしいのですか?」
ゴーンと門限を知らせる鐘が鳴り響き始めた。
藍思追の返事には藍忘機は軽く頷くと門番たちが施す前に門に素早く結界を張る。
「では、失礼します!!」
藍景儀、藍思追、門番たちは雲深不知処への階段を笑いながら走り登って行った。
「あまり走るなよ~」
魏無羨の注意に、わかってまーすと元気な声が返ってくる。
「で、仙督。我々も帰りませんか?」
まだ魏無羨は藍忘機の腕の中だ。
「久しぶりの君だから、つい……」
「あはは、確かにな~。なら手を繋ごうか?」
藍忘機の腕から逃れた魏無羨は自分の左手を藍忘機の右手に絡めた。直ぐにぎゅと握られ、ふふっとお互いに笑みが漏れる。
「帰ろう!」
2人してゆっくりと石の階段を登りはじめた。
「何か心配事でもあったか?」
隣を歩く藍忘機を見上げ魏無羨は尋ねた。
「いや、何も……何故?」
「あいつら2人の指導が変わった感じがしたからさ」
藍忘機は立ち止まり、引っ張られる形で魏無羨も止まる。そのまま、魏無羨を見つめた。
「能力あるものを育てることも仙督としての勤めだ」
「それはそうだけど……」
繋がれている藍忘機の手に力が籠り、その言葉が嘘偽りがないと知らせてくる。だが、能力があるものは藍思追や藍景儀だけではない。
魏無羨の言いたいことが伝わったのか藍忘機は小さくため息をついた。
「思追や景儀が今後どんな選択をしてもいいように」
「選択……藍氏から離れる可能性もあるって藍湛は思ってるのか?」
「可能性はある」
藍景儀は未来の藍氏双璧だと常に言っていた。それに藍思追も異論を唱えたことはない。だから魏無羨はいつまでも2人は自分たちと離れないものだと思い込んでいた。
だが、考えれば自分も雲夢双傑だと言いながら、雲夢から離れ今は姑蘇にいる。
未来など誰にも予測はできない。
「……師匠って、なんだか寂しい……」
「弟子の成長は子供の成長と同じ。寂しがる必要はない」
自分の周りから大事な人が離れていくことを嫌う魏無羨に、優しく藍忘機は告げた。
「景儀に偉そうに言ったんだけどな……」
「景儀に何を?」
魏無羨の呟きを藍忘機は聞き逃さずに尋ねてくる。
「あー……思追が温氏に関わりあるのかって景儀から聞かれたから、何かあるなら思追が話すだろうって。……もし、思追が離れる時には俺にも話してくれるかな?」
「当然だろう。思追は君の子だ」
「え……」
「君が産んだのだろう?君は私にそう告げた」
つい先ほど自分が藍景儀に話した言葉を、今度は藍忘機から言われると思ってなかった魏無羨はあははっと笑った。
「うん、そうだ。その通りだ!」
「それに教えないといけないことはまだ沢山ある。当分君の側から2人が離れることはない」
カアカアとカラスが泣きながら2人の頭上を山へと飛んで行く。茜色の空も濃紺へとかわり、星がうっすらと瞬いている。
「そうそう。雲夢の収穫祭なんだけど…………まだ、何も言ってないけど不機嫌になるの、止めてくれない?」
「駄目」
「だって、蓮の実もあるし、美味しい食べ物も酒もあるんだ!行きたいな~」
「駄目」
「沢蕪君も一緒にどうかなぁって思うんだけど……」
「……兄上も?」
おっ、ちょっと違う反応が返ってきたと魏無羨は流れが変わってきたことに希望を見出だす。
「そう!久しぶりに雲深不知処から出ないかなってね」
「……兄上は、行くと?」
「それはこれから。藍湛がいいって言わないと沢蕪君には話せないよ」
「……なら、兄上が行くと言えば許可しよう」
そうきたか。藍曦臣はこの話を断るだろうと藍忘機は思っているかもしれないが、魏無羨は諦める気はなかった。
「よし!なら沢蕪君を説得しよう!!」
ぐいっと藍忘機の手を引っ張り石段を魏無羨は力強く上る。
「私も行くが」
ポツリと藍忘機の呟きは魏無羨には聞こえていない。
「藍湛、早く!」
手から伝わる道侶の体温にやっと雲深不知処に戻ったきたと藍忘機は感じながら、夜空を見上げた。
空には澄んだ空気の遥か彼方に秋の星座が瞬いていた。