モクマさんの白髪の話 乾燥して纏まりのない短かな毛束が、キッチンの温かい空気を含んでふわふわと揺れている。もはや見慣れたざんばらの白髪頭。
――チェズレイの日々の努力の甲斐あって洗髪に毎回シャンプーを使うようになったので、触り心地は改善の兆候を見せている。本人は別に石鹸に拘りがあったというわけではないため主に説得ではなく習慣づけに時間を要した。根気強く声をかけ続け、時に実力行使も厭わず、どうせなら髪質に合うものをといろいろ試し……丹念に作物と向き合う農家の気持ちがわかった気がした。閑話休題。
そんなモクマの旋毛は頭頂部ではなく後ろがわに少し下りたところにある。一歩後ろに付いて歩くとちょうど真上から見下ろせる位置に。チェズレイはモクマの旋毛を真上から覗き込むのが好きだ。たまにどこかで引っ掛けてきたのか花弁やら木の葉やらを乗せていることがあって、さすがにそういう時は嘆息を禁じ得ないのだが。……今日はというとその中心に、前述の諸々とはまた毛色の違った不思議なものを発見したもので、チェズレイは躊躇いなく手を伸ばした。
「あいてっ」
ぷつり、と抜き取ったそれをまじまじと眺める。何だろうかこれは。
「なに、白髪でもあった?」
反射的に漏れたのだろう声とは裏腹に、痛痒の欠片もないといった穏やかな瞳が肩越しに背高い年下の男を振り返ってくる。
「ええ、豊作ですね」
「だろうね! ほぼ白いからね! って、それだとつまりおじさんの髪の毛ほぼほぼ全部抜くことになるよね!?」
やだあ、堪忍してえ、と逃げを打とうとするモクマを後ろから囲うように押し留める。この男に本気で逃げられたならまず敵わないので、所詮ちょっとした戯れだ。火を扱っている最中だということには今は目を瞑っておく。
「モクマさん。白髪というのは根本から色が抜けていきます。なので、頭頂部から雪がかかるように白くなっていくんですね。ほら、あなたも裾野の方がまだしっかり黒いでしょう」
襟足を掻き上げるようにうなじへ指をくぐらせる。それされるとぞわぞわする、と言っていたのはいつのことだったか。大仰に肩を窄めるモクマの目の前へ、摘まんだ物を差し出してやる。
「ですが……これを見てください」
一本の毛髪。先まで白い毛の根元の部分が墨を吸ったように黒く染まっている。犬猫ならともかく人間のものとしては随分奇妙だ。
「何だこりゃ」
当のモクマも目を丸くした。鍋をかき混ぜる手が止まっている。
「あなたに生えていたものですよ。ご存知ないので?」
「ご存知ないねぇ、おじさんが日にいったい何分鏡を見ると思ってんの。……素朴な疑問なんだが、一度色が抜けた髪って元に戻るもんなの?」
チェズレイもちょうど同じことを考えていたところだ。顔を見合わせて互い違いに首を傾げる。
「老化による白髪化はともかく、原因としてストレスによる部分が大きいのであれば逆に脱ストレスで色素が戻るという理屈もわからなくはないですね。さすがにそういった分野については明るくないので、あくまで憶測でしかないのですが……」
苦労すると白髪が増えるという俗説は昔からどこにでもあるが、最近だと学術的に証明されたりしているのだろうか。後で詳しく調べてみようと脳内に付箋を貼り付けながら用済みとなった髪の毛をゴミ箱へ放り込む。あれこれ思考を巡らせるチェズレイの傍らで、一方モクマは何やらわなわなしていた。
「も、もしかして」
「何です」
「このままだと、おじさんの頭が白黒のシマシマになっちゃう……!?」
落雷の幻聴を伴うほどの、貴重な深刻顔の無駄遣い。いや、本人にとっては深刻極まりないのかもしれないけれどもっと使いどころを考えてほしい。
そんなことを思いつつ、律儀者な相棒として想像してみる。どこか知らない場所で、いつものへらりとした笑顔でチェズレイの名を呼ぶ縞模様の毛並みの男。思い描いた絵面はなかなかに珍妙で。……是非ともそこに至るまでの経過観察をしてみたいと思った。そしてその先――間抜けな白黒縞模様が黒一色に染め上がり、やがてまた白くなっていく、たぶんそこそこ遠い未来までも。
「……面白いかもしれませんね。写真を撮って記録をつけておきましょうか」
一拍空いた間を不穏な何かと捉えたのか、モクマはくぅん、と空腹の獣に似た声で鳴いた。
不意に下の方から低い異音。忘れられていたのを咎めるように鍋がぼこりと沸き立っていた。モクマは慌てるでもなく子供の癇癪を宥める手つきでレードルをひとかき回し、火を止めると濃い湯気とともに豊かな薫りが立ち昇る。
「ほい、味噌汁温まったよ。朝飯にしようや。お椀出して〜」
寝癖を揺らして振り返る年上の男を見下ろし、チェズレイはその目尻の笑い皺へキスがしたいと思った。
* * *
「あらモクマ、あらあらモクマあらモクマ」
実に五年ぶりの帰郷だった。相棒とともに久しぶりのミカグラ島へと降り立ったモクマを空港で出迎えてくれたのは幼馴染だ。軽やかな洋装が目新しくもよく似合っている。
「や、おカン。元気そうだ」
もはやお約束の先の第一声ではあったが、声色にどうにも胡乱げな響きがあってモクマは首を傾げる。気安く片手を上げてみせるも、とにかく明るいのが持ち味のはずの彼女はこれまで見たことがないような怪訝な表情をしていた。
「……何だいあんた」
そして二言目にはこれである。
「何だいっちゃまた、何だい」
元々遠慮なんてものがあったためしなぞないが、それでもいっそ不躾なほどの物言いへ僅かに怯みつつ、モクマは傍らに突っ立っていたガコンへ土産を押し付けていく。こちらの普段から愛想が良いとは言えない無骨な男も似たり寄ったりな目でじろじろ見てくるので、モクマは酷く据わりが悪い心地になった。
「お前まで変な顔して。何だよ、俺の顔に何か付いてるか?」
ややげんなりと問うと、ガコンは挙動不審に周囲を見回した。チェズレイがナデシコへ到着の連絡をするためにロビーの端へ離れていくのを雑踏越しに確認して、それでも憚るような小声で口を開く。
「お前、何だその、その……」
「何よ」
痺れを切らしてこちらから耳を寄せてやっても歯切れが悪いばかりだ。質実なこの男らしくもない。絡繰よろしくネジを巻くか、油でも差すか。半ば本気で失礼なことを考えたところへずずいとカンナが顔を寄せてくる。
「見た目だよ、見・た・目! すっかり若返っちゃって。すわモクマの隠し子かと思っちゃったじゃないか! この歳で何食べたらそんなピチピチになるってんだい? 二十年ぶりに会った時より若いじゃないの! 女の敵!」
以前のくたくたな状態と比べたら、髪は黒々――そんな黒くないだろ、という反論は切って捨てられた――、肌ツヤも上々。よく見れば服だってパリッとしてる。一体全体何なんだい! 全身揉みくちゃにされてモクマはあっという間に目を回してしまう。三半規管はずば抜けて強いはずなのに。
「そんなことないよう、俺はずっとダンディなおじさまだよう」
「そんなことアリアリの大アリよ、まああんたがダンディだった試しはないんだけどね!」
あっはは! と呵呵大笑したと思えばまた別のところを突っつき始める。
「ああほら、履き物だってちょっと良いやつじゃないのさ!」
「助けてえ、ガコン!」
取り縋った先、一歩下がってこちらを矯めつ眇めつしていた仏頂面はというと、さらに一歩距離を取りながらやや引き気味に答えた。
「若作りでは済まんぞそれは」
「お前まで!」
――そのような経緯で暫し騒がしくしていた三人だが、モクマが機内サービスで貰って持て余していたはずれ饅頭をソイッと口へ捩じ込むことで何とかカンナを鎮圧することに成功したのだった。
「そんなにかなあ……」
しょげ返った溜め息が零れる。服の裾や髪を摘まんではまじまじと見つめてみるのだが、如何せん自分ではどうにもわからない。ちらりと憐れっぽい視線でガコンを見上げる。
「……そんなに?」
幼馴染で一番の年長は昔から請われると弱い。あらためてモクマの旋毛から足の先までを眺め下ろし、少し唸ったガコンは、頑是ない子供に難しい理屈を言って聞かせるような声で口火を切る。
「そんなに、と言うかだな」
「うん」
「良い歳した男が、若い綺麗どころを捕まえたもんですっかり浮かれているようにしか見えん。」
確かに請われると弱いが、ガコンはいつだって出来る限りに誠実な男だった。
「な、」
厳つい顎先で遠くのチェズレイを指し示され、モクマは絶句した。さすがにそれは人聞きが悪すぎる。
「ち……違う違う! あいつはそういうんじゃなくって」
そも何が違うというのか。そういうんって何だ。モクマは混乱してしまってふしぎなおどりを踊る。饅頭の殺人的甘さで口が麻痺しているらしいカンナが反対側から半目で見てくるのにも参ってしまう。やめてくれ。これがそこらの相手であればのらりくらりで逃げられるというのに、ああもう、どうしたって古馴染みには敵わない……モクマは敢えなく轟沈した。
『定刻XX時XX分発、エリントン行XXX便をご利用のお客様……』
広いロビーにアナウンスが響いている。職員や利用客が途切れることなく行き交うさなかで、顔を覆って蹲っているモクマだけがあまりにみっともない有り様だった。ほんの数年で随分色の戻った旋毛越しに、幼馴染二人は感慨深く目を見合わせる。あのモクマがねえ。あのモクマがなあ。
「あのモクマが、当たり前のように自分の故郷に連れて帰ってきてな」
「違うもん……今回も仕事だもん……」
「モクマともあろうに、とんだ浮かれポンチで」
「むしろやっと落ち着いたっていうか……」
「モクマのくせに、あんなものどうやって捕まえたんだか」
「つ、捕まったのは俺の方っちゅうか……」
かつてこれほど居たたまれない場面があっただろうか。両手の人差し指を突き合わせてもにょもにょと口ごもるモクマの背後から音もなく近づいてくる慣れた気配。
「チェズレイ!」
助けを求める気持ちで振り返ると、頼もしいはずの相棒はそれはそれは完璧な笑顔で――
「おや、モクマさんを虐めていらっしゃる? 私も混ぜていただけますか」
「味方がいない!」
助けてえ、ルーク、アーロン、ナデシコちゅわあん! どたばたと忍者らしからぬ騒がしさで遁走するモクマの背中を見送り、残された三人は揃って肩を竦めた。たぶんそのうち小魚の唐揚げでも抱えて素知らぬ顔で戻ってくるだろう。すげなく断られるのがわかっていながら、きっとチェズレイ含めた全員分を。
「……あのモクマがあんなふうにバツの悪そうな顔するの、初めて見たよ」
カンナが笑った。安堵にも似た、柔らかな微笑みだった。
「チェズレイ殿」
「何でしょう」
あまり話したことがないガコンから名を呼ばれて振り返る。真面目くさった顔で真っすぐ相対され、こちらも背筋を伸ばして言葉を待つこと少し。
「モクマを、よろしく頼む。」
短く言って、初老に差し掛かった絡繰師は深く頭を下げた。
職人の広い背中越し、その後方では旅荷を下ろした家族が抱き合っている。鞄を持ち上げた男が残されるらしい女に手を振って歩き出す。ここは空港。別れと再会・約束と訣別の岐路だ。絆の結び目だ。
チェズレイは静かな眼差しで、ロビーの全面窓から射し込む陽光の先にミカグラの街を見つめる。その向こうにある、新マイカ町を。遥か後方に聳えるマイカ山をも背中に感じている。相棒の故郷を。……この島と彼を縛る呪いは、もう解けている。解けるものは解け、そして結ばれるべきものは結ばれた。
「言われずとも。ですが……恐らくこの地には帰せませんよ。私と彼の道は見果てぬ先まで続いていますので。恨まないでくださいね」
視線を戻すと、彼の古い友たちは笑っていた。それぞれ篤い情を滲ませた面差しが綻んでいる。
「恨むもんかね。あいつが元気で楽しくやっててくれればそれでいいよ」
「たまに顔くらいは見せてほしいものだがな」
ささやかな、しかし心の底からの願いを受けて。
そこまで狭量ではありませんよ、と異邦の男も笑った。