『悪夢』「絵梨佳・・・」
扉の向こうから私の名前を囁く声が聞こえた。それに続いてノックの音が聞こえてくる。
「開けて・・・」
この声には聞き覚えがある。
「お母さん・・・?」
母の声だ。五年前に亡くなったはずの母の声に間違いない。私は恐る恐るドアを開けた。そこには紛れもなく母の姿があった。私は驚きと嬉しさで言葉を失ったまま、母の顔を見つめていた。母はそんな私を見て優しく微笑んだ。そしてゆっくりと手を伸ばして私の頬に触れた。
「お母さん、私・・・」
私は母に抱きついて泣き出した。母の身体は温かく柔らかかった。私は今まで我慢していたものを吐き出すように泣いた。
「カワイソウニ」
「え・・・」
母の声と共に頬に何かが垂れて伝った。涙ではない。生温かい液体だった。それはまるで血のように赤い色をしていた。私は驚いて母の顔を見た。するとさっきまで笑っていた母の顔が歪んでいくではないか。髪が伸び、口元は裂けるように大きく広がっていった。
「カワイソウニ!」
灰色の肌をした骨のような顔になった母はそう叫ぶと、まばらに歯の生えた大きな口を開けて襲いかかってきた。ゴリゴリと何かが削れる音と共に目の前が真っ暗になった。
****
「・・・ちゃ・・・おねーちゃん、おねーちゃん!」
「・・・っ!」
麻人くんの声で目を覚ます、悪夢にうなされていたようだ。額からは大量の汗が流れ落ちている。
「だいじょうぶ?」
心配そうな顔をして麻人くんが言った。時計を見ると朝の七時を指すところだった。
「大丈夫だから、安心して」
リビングに行くと凛子が朝食の準備をしているところだった。
「絵梨佳、顔色悪いけどどうしたの?」
「悪夢を見ただけだから」
「それでも心配だからしばらくはゆっくりしてなさい、KKには伝えておくから」
「・・・わかった」
私のことを心配なのはわかってる。でも、それが嫌に感じてしまう。きっとこれは私のわがままなんだろう。
「夕方には帰ってくるから、留守番お願いね」
「・・・わかった」
凛子はそういうと出掛けて行った。部屋に戻ると、麻人くんがちょこんと座っている姿が目に入った。
「おねーちゃん」
「どうしたの?」
「なんでうそをつくの?」
「え?」
嘘なんてついたつもりはない。何のことかわからないといった表情を浮かべると、麻人くんは真っ直ぐに見つめてきた。その瞳は私を捉えて離さないような力を感じた。
「おねーちゃんはつかれてるんだよ」
「疲れてる?私が?」
「うん、なにかかくしてる。それをかくすのでつかれてる」
「私は・・・」
見透かされているようだった。何もかもを見抜いているかのような口調だった。私は言葉を詰まらせた。
「ぼくにもいえないの?」
「言えないんじゃなくて、言いたくないだけよ」
私は正直に答えた。これ以上隠し通すことは無理だと悟ったからだ。
「やっぱりあるんだ」
「うん。私ねお母さんがいないの」
「おかあさん?」
「そう。もう五年も前に死んでいるんだけどね」
「しんじゃったの?・・・さみしいね」
「寂しくなんかない、お父さんがいるし」
「あんな父親なんていらないのにね」
「え?」
急に流暢に話し出す麻人くんの言葉を聞き逃さなかった。
「どうしてそんなこと言うの?」
「だってあいつはおねーちゃんをすてたじゃないか」
「捨ててなんかいない」
「あの人は母が死んでからおかしくなった」
「違う!」
「私はあんな父親の元にいるのが嫌だった」
「そうじゃない!」
「だから逃げて凛子さんの元に」
「やめて!」
「でも守られてばかりで」
「もういやぁぁああああ!」
麻人くんは私の声で私の心情を見透かしているかのように話し続けた。私は耳を押さえて叫んだ。しかし声は止まらなかった。麻人くんの言葉が頭の中で響き続けた。
「・・・ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
私は謝った。涙が溢れて止まらなくなった。嗚咽混じりに何度も繰り返しながら謝罪を口にした。
「もう平気なフリをするのは疲れたよ」
その言葉を聞いた私の中に何かが入ってきたような気がした。
「・・・ちゃ・・・おねーちゃん、おねーちゃん!」
「・・・っ!」
麻人くんの声で目を覚ます、悪夢にうなされていたようだ。額からは大量の汗が流れ落ちている。
「だいじょうぶ?」
心配そうな顔をして麻人くんが言った。時計を見ると午後の三時を指すところだった。昼は何してたっけ?思い出そうとするがそこの部分だけが消されたように記憶がなかった。
「気がついたの、ひとりぼっちだったんだって」
私は無意識にそう口にしていた。そして麻人くんの顔を見てハッとした。
「ちがっ!今のは・・・」
「いいんだよ、それで」
「え・・・」
「でも、ひとりぼっちじゃないよ」
「えっ?」
微笑む麻人くんに私は泣きそうになった。
「ぼくがおねーちゃんのかぞくになってあげる」
そう言って手を差し伸べてくる。その手を掴んで良いものなのか迷ってしまう。こんな小さな手で何が出来るというのだろうか。
「麻人くんが弟になってくれたら嬉しいな」
だけど私は差し出された手を握り返した。するととても温かかった。まるでお母さんの手のように。
「ずっといっしょだね」
「うん、一緒だよ」
****
「あの状態は流石に無理だと思うから、しばらくは休むように伝えた」
「そうか、わかった。お前が言うなら」
絵梨佳がしばらく来れないことについて凛子から話を聞いていた。夢見が悪いだけで、少しすれば回復するとは言っていたが心配だ。俺は溜息をつくと煙草に火をつけた。
「凛子、例のものは?」
「用意してる」
凛子から渡されたのはファスナー付のパックに入れられた髪の束だ。
「他に無かったのかよ」
「丁度いいのがこれしかなかった」
「切った時の変化は?」
「何も。寝ているときにハサミを入れたが、微動だにしなかった」
「その後は?」
「切られているのには気づいていたが、気にする様子は無し。それどろか」
凛子が麻人をチラ見しながら言った。
「切った部分が3日で元通りになった」
「生えたのか?」
「そういうこと」
《毛髪の伸びが異常に早いのなら、常にハサミを入れている可能性が高いがそんな行為は見られなかったか?》
エドがボイスレコーダーを再生する。
「いや、絵梨佳にも聞いたがそんなことはしてないって」
「あいつ本当に絵梨佳にベッタリ引っ付いてんな」
《赤の他人が家族や姉妹のような関係になれるのか僕にとっては不思議でしかないよ。君と絵梨佳のように》
「そうだな、大事にし過ぎるくらいに」
「KK!!」
エドの肉声が聞こえたと思いきや右手に何かが絡み付いた。
「なんだこれ!?」
見ると黒い蔦のようなものが俺の腕に巻き付いていた。髪の毛だ。
「取り出そうとしたら急に動き出したんだ!」
ミミズのように動くそれは指に絡むと間接を逆に曲げてきた。激痛に耐えきれず思わず手を離してしまった。
「クソッ!離せ!」
腕を振り回すも一向に取れる気配はない。痛みと焦りで思考が追いつかない。
「KK!」
凛子が止めに入ろうとした途端、髪の毛が凛子の方に巻き付いていった。
「うっ・・・」
「凛子!」
それは凛子の首を締め付けるようにして徐々に強くなっていった。
「うぐぅ・・・」
「おい、やめろ!」
必死に叫ぶが止まるわけがない。首筋に血管が浮き出ていくのが見える。このままでは凛子が死んでしまう。俺は札を出すと、貼り付けて印を結ぶ。するとスルリと髪が解けていった。
「大丈夫か?」
「あぁ・・・助かった」
咳き込む凛子を介抱するように背中をさする。
「なんだったんだ、あれは」
「わからない・・・私が切ったときには何も反応はしなかった」
《何かに反応したのかもしれない、その何かは分からないけど》
「絵梨佳・・・!」
「おい!」
凛子がいきなりアジトを飛び出して行った。
「どうしたんだよ!?」
慌てて俺も追いかけると、団地に辿り着いた。絵梨佳のことで不安が募ったのか。もしやと思い、階段を駆け上がっていく。
「絵梨佳!」
「凛子?どうしたの慌てて」
部屋に入ると絵梨佳と麻人がいた。麻人は眠っていて、絵梨佳は麻人の手を握っていた。
「良かった・・・」
凛子は安堵の表情を浮かべた。麻人は目を覚ますとキョロキョロと辺りを見渡していた。
「昼寝の途中だったか・・・邪魔して悪かったな。凛子がお前のこと心配して急に飛び出したもんだから」
「そうだったんだ、心配してくれてありがとう」
しく絵梨佳が心配をしてくれたことに戸惑いを感じたが、この様子だともう心配はいらないようだ。
「じゃ、帰るわ。あんまり無理すんじゃねーぞ」
「うん、またね」
別れを告げると、俺はアジトに戻った。
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絵梨佳の様子がおかしかった。心配してくれたことを素直に感謝しているだけなのに、妙に突っかかってくる。でも絵梨佳は憑き物が取れたような雰囲気を醸している。
「自分の気持ちに素直になっただけだから」
絵梨佳は麻人を撫でながら言った。何に素直になったのかわからないが、とりあえず元気になってくれたようだ。
「ん~」
麻人は甘えるように絵梨佳に頭を擦りつけてきた。
「可愛いなぁ」
こうしてみるとまるで姉弟のようにしか見えない。私は微笑ましく思いながらも、心のどこかでは違和感を感じていた。絵梨佳が幸せならそれでいいかと納得する。
「凛子、パンケーキ作るけど一緒に食べる?」
「食べるわ」
「今からお姉ちゃんがパンケーキ作るから待っててね~」
麻人にそう言うと、絵梨佳は私にも笑いかけてくれた。
「弟のためにお姉ちゃん頑張るから」
ん?今なんて?私は耳を疑ったが、気のせいかと気にしないことにした。