「ささ、チェズレイさん。こちらへどうぞおかけなすって」
スイートルームの一人がけチェアを引いてモクマがチェズレイを手招く。
「ふ、では宜しくお願いしますね」
チェズレイはバスローブの紐を結びながら、椅子に深く腰掛けた。目の前にある鏡越しにモクマと目を合わせる。磨かれた鏡面は曇りひとつなく、施術者の動きを全て映し出す。これならば下手なことはできまい。
――風呂から上がったら肩もみをさせちゃくれんか。寝間着着たままで構わんよ
入浴前に脈略なく出された提案をチェズレイは承諾した。
快諾した理由はみっつある。ひとつに、疲労を労る相棒の優しさに絆された。ふたつに、かつて整体師として仕事をしていた男の腕前に好奇心が疼いた。そして、自身の潔癖へのリハビリを兼ねてだ。
チェズレイは鏡の前で背筋を伸ばした。
モクマの熱い視線が背中に真っ直ぐ刺さっているのを感じ取る。柔らかなタオル地に包まれた上半身を見分する琥珀色の瞳に不快感は覚えなかった。
それもそうだ。彼は自分を蹂躙しようとか汚してやろうとか考えていない。風呂上がりで髪をシニヨンに結っているチェズレイの姿を見て鼻の下を伸ばしている下衆ではあるが、下劣ではない。その違いをチェズレイの心は分別している。
生涯の相棒に定めた男へ心を許せている。人を信じられている。そのことに少しホッとする自分がいる。
「…………」
細く吐き出された吐息をモクマは緊張していると受け取ったようだった。背中をつぶさに見つめていた瞳を持ち上げ、声をかける。
「お客さん、背筋が真っ直ぐ伸びてて素敵だねえ。しゃんと前を向いて歩いてきた男の背中だ。背骨の歪みも見られないし、惚れ惚れするよ」
「おや、リップサービスがお上手ですねェ」
「本心だよ」
しっとり甘いテノールを耳に注がれ、チェズレイは背筋を震わせた。
「肩、触るね」
「……どうぞ」
モクマの手が両肩に置かれる。風呂上がりで火照ったチェズレイの体温よりも更に熱く湿った男の広い手が肩の輪郭を軽く撫でる。そのまま下へ移動し、二の腕を柔く揉まれた。
「無駄な肉が無くて引き締まってる。おじさんの見てないところで鍛えてたりする?」
「さァ、どうでしょう」
「秘密なのね。そんじゃ、次は肩甲骨触るよ」
次に手のひらが向かったのは肩甲骨のあたり。親指の腹で骨の形を撫でるように擦られる。
「んっ……」
一瞬漏れた声を耳聡く拾い上げたモクマが手を止めた。鏡の向こうにあるチェズレイの顔を伺う。
「痛い? 気持ち悪い?」
「いえ、少々くすぐったいだけです。続けて」
「はいよ。ちょっと強く押すよ」
モクマの指がゆっくりと首の後ろに沈められていく。指圧され解されていく筋肉から脳髄へ駆け上がるパルスを感じた。
「……ッ、ァ、……は、ぁ」
ひとりでに喉が震える。
「……今どんな感じ?」
「フ、……じんわりと鈍い痛みを感じます。ですが、嫌悪感や不快感はない、ですねェ」
チェズレイの感想にモクマがにっこり笑みを浮かべる。
「そいつは、いたきもちいってヤツだね。良かった良かった」
「んっ、……さすが、伝説の整体師になりかけた男の手は一品ですね」
「ゲゲッ、お前さん、どこでそんな話を……て今更だわな。ミカグラ島でチームを組む段階でおじさんのこと調べ上げてるだろうし」
「顔も本名も変えていない男でしたので、そこまで労せず調査できて助かりましたよ、モクマ・エンドウさん」
「はは、どうもね。しかし、お前さんの肩、凝ってるねえ」
モクマの手が左右交互に肩の筋肉を揉みほぐす。何かを確かめるような意図した動きだった。
「どうぞ続けて」
促すと、モクマは神妙な顔をする。
「うーん、左右のバランスがちと違うね。お前さん、左側からの動きに特に弱いだろう。それを右側でカバーするからかな。左よりも右に筋肉が偏ってついてるし、凝ってる」
自覚している左右差について言い当てられ、チェズレイは口元を緩めた。隠していたわけではないが開示もしていなかった。モクマから指摘されたのも今日が初めてだ。
「……気づきましたか。左の視力が弱いために左側が死角になりやすいと」
「腐っても元忍びなんでね。敵の息の根を素早く確実に止めるために観察眼は鍛えさせられた。最初にオフィス・ナデシコでお前の剣を抜いて突きつけたあの夜に大体確信してたよ」
チェズレイの皮膚が粟立つ。出会ってわずか数日で弱点を見抜かれていたというのか。
首筋に置かれているモクマの手の熱さに心がざわつく。彼に殺意があればすぐにチェズレイの息の根を止めることが出来るだろう。殺気を気取られる前に暗殺を完了できる忍びの手腕ならば。チェズレイとて弱点の左側から手刀を打ち込まれたらひとたまりもない。
肩に置かれた癒やすための手が男の意思ひとつで凶器に代わることを夢想した。守り手である男がそうする理由はないが、やろうと思えば不可能ではない。
チェズレイは身震いした。
「……な、なして昂ぶっとるのお前さん。今の会話に興奮するツボあった?」
歯茎を剥き出しにし、舌を飛び出させるチェズレイの顔を見てモクマが頬を引きつらせた。
「フフフ、本当にあなたという人は私のツボを的確に押さえるものですから。クセになりそうですよ」
「そ、そうかい。じゃあ、これからは道具に頼らず、ばんばん俺の手を頼っちゃくれんか。体験したとおり、マッサージには自信がある。今日はそれを教えたくて声をかけたんだ」
得意げなモクマの台詞にチェズレイはきょとんと目を瞬いた。
「道具……?」
いったいなんの話だろうと首を傾げると、モクマも同じ向きに首を傾げてみせた。
「あれ? お前さん、酷い肩こりだから毎日肩たたき機でマッサージしてるんじゃなかったのかい?」
「肩たたき機?」
肩を叩くための道具を持ち物として所持した記憶はない。認識に齟齬があるので、チェズレイはモクマの言う肩たたき機がどんな形の物か尋問した。
モクマは瞳を左上に持ち上げて顎をさすった。
「たしかYの字になってて、分かれた2つのさきっぽに小さなイボイボの丸いボールがくっついてるヤツだよ」
「…………は?」
地を這う低い声がチェズレイの喉から飛び出た。
「へっ?」
目を丸くするモクマをよそに、チェズレイは椅子から立ち上がり洗面所へ向かう。取り出してきた物を見て、モクマが「そうそう、それ!」と声を上げた。
なるほど。彼は勘違いしている。
「これはハンディマッサージャーではありません。美容ローラーというものです」
顔や脚のむくみを取るための道具だと解説すれば、モクマは雷を打たれた顔をして固まっていた。その面が酷く間抜けであったので、チェズレイは肩を震わせ、口角を引き上げて笑いを堪えるのに必死だった。頬の筋肉が持ち上がるのを止められない。腹筋が痙攣する。
「ふっ、ふふふふふへへへ……」
「わらわんといてえ〜」
「ははははは、はぁ〜……」
ああ、一人では知り得なかった。
モクマとの日常が何よりのリラクゼーションになるなんて。