「おはよう、チェズレイ」
扉を押し開けると、目の前に母がいた。
明るい朝陽に目を細める。逆光で黒いシルエットから響く声は母のものだった。
瞬きの後、開けた私の視界には長いダイニングテーブルが現れていた。黄色と白の花柄があしらわれたテーブルクロスが郷愁を誘う。
亡き邸のダイニングに亡き母がいる。現状を受け止めると途端に心が冷えてくる。
「……」
ゆっくりと私は視線を持ち上げた。
燭台を挟んで座る母の顔が今度はくっきりと見える。適度に肉付きの良い頬に浮かぶ小さなえくぼ。下がった目尻。柔らかに弧を描く細い眉。煌めく菫色の瞳水晶。
久しく思い出せなかった穏やかな頃の母の表情をしている。
脳裏にすぐ取り出せる母の顔はいつも追い詰められていた。私を見る目もなにかを堪えるような、耐えているような渋面ばかりだった。
そうでないときもあったのだと思い出せた今でも、未だ母のことを思い出そうとすると彼女の最期の顔を、声を、描いてしまう。だというのに、今日はどうしたことだろうか。
「どうしたの、そんなにじっと見て。やだ、もしかして、顔に何かついてるかしら?」
「いえ、」
顔にペタペタ触れる母を制する。視界に映る私の手は現在の、29歳の私の手をしていた。
「今日も素敵です」
「フフ、嬉しいわ。今日ね、ようやくお会い出来るって聞いて、はりきっておめかししたのよ」
昂揚している母が待ち望む相手は、つまり私の父だろう。まだ濁りを拗らせて心を病む前の母の顔に似ているのはそういうことだ。
会わせたくない。
「……」
膝の上で手を強く握りしめ、それからゆっくり解いた。
ここは夢幻だ。
私の脳が作り出した幻想の世界だ。
ゆえに、私の指ひとつでこの世界を終わらせることができる。私が指を鳴らすだけでたちまち目の前にいる母は闇に溶け、懐かしい実家は黒地に沈むだろう。
砂糖菓子よりも甘く脆いパステル調の世界に、今の背格好をした自分が立つ違和感。
母が望まぬ裏社会で骸を踏み潰しながら半生を生き、血を啜った手でピアノを爪弾いている己など母にあわせる顔がない。
消してしまおう。
こんな幻想が何故上映されているのか分からぬままなのは不愉快だが。
そう決めて手を上げた時、ドタドタと騒がしい足音が近づいてくる。怪しむ前にダイニングの両扉が開き、小柄な男が転がり込んできた。
「ごめんっ、格好に悩んでたら遅くなっちゃった!」
モクマさんだ。
普段通りの格好をしたモクマさんが頭を何度か下げながら近づいてきた。
幼少期を模した箱庭にまたひとつ異物が混ざった。
呆気にとらわれている私の隣へモクマさんが当然のように腰掛ける。
「あなたが……モクマさん?」
「こんにちは。モクマ・エンドウって言います。職業はショーマンで、息子さん――チェズレイと一緒に日々楽しく世界中巡りながら暮らしています」
女性に対しておどけた顔を見せることの多い彼にしては珍しく真摯で、少し緊張した面持ちを見せていた。
ついこないだも同じ顔を見たなと思いだす。
場面が切り変わる。
私は藤籠の椅子に腰掛け、同じように隣に座るモクマさんを見ていた。
久しく顔を見せていなかった実母へ彼は感謝を述べていた。
――守り手たらんとする人生も、幸福との出会いも、すべてこの命あってのこと
命を生み育んでくれたことへの感謝。
これからの人生の前途が幸福であることの提示。
「嬉しい。ずっと挨拶したいと思っていたの」
母の台詞に私は驚いて彼女の顔を見た。母は眩しそうな目で私とモクマさんを眺めていた。
唐突に理解する。母がこの場で会いたかったのは、父ではない。モクマさんだ。
そして、そう望んだのは私の心だ。
モクマさんがモクマさんの母へ私を紹介したように、私も私の母へモクマさんを紹介したかった。
(あァ……。では、私も彼にならおう)
私は真っ直ぐ母の目を見る。
「私は知りました。この命に注がれた情が、濁りが、忌むものばかりではないことを。あなたを想うたび胸に抱く痛みが愛と呼ばれることを。それから、どうかあなたには知っていてほしい。私ね、捕まってしまったんです。あなたごと私を抱えてしまえる下衆な忍者に」
◇ ◇ ◇
目を開けると、モクマさんが心配そうな顔で私を窺っていた。
部屋全体が太陽光に照らされ明るい。昼間にソファーでうたた寝していたと気づく。
「おはよ、チェズレイ。まだ寝てていいよ。お前さんがソファーで昼寝なんてよっぽど昨日、お袋に挨拶行って疲れたろ、……!」
私はモクマさんの首に手を伸ばして性急に唇を塞いだ。