黒いスケッチブックねぇ、おとーさん、おかーさん、みてみて。うさぎさんかいたの。
『あら上手ね』
『八重は絵のセンスがあるな』
きっかけはほんの些細な事だった。幼い子供ならば誰しもきっと絵を描く機会があることだろう。画用紙にクレヨンで拙い絵を描き、それを親に見せたがったことがあるだろう。
私は愛されていた。そんな拙い絵を持ってくる私を両親は優しい笑顔で迎え、温かい手が私の頭を撫でる。私はそれが大好きだった。だから絵を描くことが好きになった。そして私は毎日毎日飽きもせずずっと絵を描き続けていた。何年も、何年も。
ねぇ、お父さん。今日はね、お父さんのにがおえをかいたの。お父さんのためにかいたの。だからあげるね。
『いらないよ』
お父さんはもう八重のお父さんじゃなくなるんだ。と、差し出した絵は気まずそうな曖昧な笑みと共にやんわりと押し返されてしまった。どういうこと。行き場を失った絵を強く握りしめ、私は父に問いかける。お父さんはお母さんと離婚するんだ。父は答えた。
大人決めたことを、子供の私にはどうすることもできない。いとも簡単に壊れてしまった幸せ。私はそれを惜しみながらも、家を出ていく前に、握りしめてくしゃくしゃになった絵を、そっと、ごみ箱に押し込んだ。
ねぇ、お母さん見て。今日は空がすごくきれいだったの。絵にかいてきたの。上手にかけたんだよ。私は玄関を開けるなり靴を脱ぎ棄てて、揃えることもせずスケッチブックを母に見せに行く。
『うるさい。話し掛けないでよ』
あんたさえいなければ苦労せずに済むのに。差し出した絵は、心無い言葉と共に憎き敵であるかのように破り捨てられた。
ずっと暗い顔をしている母に、あの頃のように、笑ってほしくて。そんな思いを込めて描いた青空の絵は一瞥もしてもらえなかった。私は床に散らばった青空の欠片をかき集め、静かに自分の部屋のごみ箱に捨てた。私はその場に座り込み膝を抱えると、ただただ、じっと何時間もそれを眺めていた。
お母さん、学校のコンクールでね、私の絵が入選したの。
お母さん、また絵で賞がもらえたの。今度は銅賞。
お母さん、今度は銀賞。
ねえ、お母さん、金賞、とったんだよ。
私の絵はとうとう特選の評価を得た。周りの皆が私を褒め称えた。『凄い』『上手』ありがちで心がこもっているのかもわからない褒め言葉に興味なんか無かった。『あれよりも絶対私の方が上手かったのに』『別にそんな上手くないよね、あれ』私の姿が見えなくなれば途端に現れる悪意にも興味なんか無かった。他人に褒められようと貶されようとどうでもよかった。私が褒められたかったのはただ一人。今度こそ、今度こそ。自分の名が刻まれた賞状を大事に大事に抱えて家へ走る。玄関を開けると同時に家の中に向かって叫ぶ。お母さん、あのね!
返事は無かった。お母さん。リビングの扉を開けてもそこに居る筈の母の姿は無い。代わりにそこにあったのは、テーブルの上に置かれた小さな白い紙切れ一枚。
『あんたのせいでいつも彼氏に捨てられるの。
あんたが邪魔で私は幸せになれないの。
だから出ていくわ。さようなら。捜さないでね』
書かれていたのはたったそれだけ。たった、それだけ。私の絵はついに母に一度も見てもらえなかった。
私は、絵を描くのをやめた。
母が失踪してから、私は親戚中をたらい回しにされた。誰もが私を愛さなかった。誰もが私を疎んだ。私が一体何をしたというのだろう。私が笑顔の作り方を忘れた頃、やっと私の引き取り手が見つかった。遠縁すぎて会ったこともなければ名前も知らなかったのだが、長月さんというらしい。頑固そうなおじさんと、ふわふわとした雰囲気でにこにこと人のいい笑みを絶やさないおばさんと、私のはとこだという年の離れたお兄さん。この人達が私の新しい家族になるのだという。
今度は一体何ヶ月面倒を見てもらえるのだろう。
予想に反して長月家の人達は親切で、何ヶ月経っても私が手放される気配はなかった。ただいまと言えばおかえりなさいと返事が返ってくる。決まった時間になれば温かい食事が用意される。目が合えば微笑みかけられる。随分と昔になくなってしまったように思えるそんな『当たり前』の生活が私には与えられた。
そんなある日、気まぐれで部屋の押し入れを片付けていたらスケッチブックと画材が出てきた。絵を描くのは辞めてしまったけれど、私にはそれしかなくて、手放せなくてずっと後生大事に持ち続けていたもの。机の上に並べられたそれらはすっかり古びていた。たった数年しかたっていないというのに。
少し汚くなったスケッチブックを開いてみると、中には何も描かれていなかった。最後に使った時にきちんとしていたつもりだったが、しまったきり一度も使っていなかったので画材は殆ど駄目になってしまっていた。絵の具、お母さんに頼み込んでやっと買ってもらったちょっといいやつだったんだけどな。使う気も無いのに何を惜しむ必要があるのかとも思ったが、それでも惜しくて仕方なかった。
それは横に置いて小さな箱をいくつか漁っていると、クレヨンを見つけた。これはまだ使えそうだ。長方形の箱に詰まった不揃いな長さのクレヨンと、スケッチブックを交互に見比べる。
そう、絵が悪いわけじゃなかった。絵に罪は無かった。絵を描くことが嫌いになったわけでもなかった。そう思い返してスケッチブックを開き、クレヨンの箱を開けた。
赤、青、黄色とそのほかにも色々。カラフルなクレヨンをとっかえひっかえして思うがままに白い紙を色鮮やかに染め上げていく。けれど何も描けなかった。形にならなかった。構想が浮かばなかった。色合わせが分からなかった。技法が思い出せなかった。思うように手が動かなかった。どうやら長い孤独に耐えかね、私の感性は死んでしまったようだ。
やるせない気持ちで色の塊が描かれたスケッチブックを見つめる。少し見つめては次のページを同じように埋め、また眺め。同じことを繰り返す。意味なんてない。ただ気の向くままにスケッチブックを埋めていく。
大分中身を破った様子のあるスケッチブックはすぐに全て埋まってしまった。どのページにも絵は無い。ただ色が散らかっているだけ。
不意に、強い衝動に駆られて黒いクレヨンを手に取ると、今まで書いたものをかたっぱしから塗りつぶしていく。我慢がならなかった。こんなもの。こんなもの。
積年の鬱憤を晴らすかのように力いっぱい紙に押し付けられたクレヨンは、ぽき、と呆気ない音を立てて二つに折れてしまった。
机の上には折れたクレヨンと黒いスケッチブック。黒に飲み込まれてしまった色たちが嘆き悲しんでいるようだった。
私はそれらを全てびりびりと音を立てて破り、絵の具とクレヨンと一緒に、この擦り切れてしまった幸福の残滓をごみ袋に詰め込んだ。
後に残ったのは黒く汚れた私の手だけ。それも石鹸で丁寧に洗い流した。これでもう何一つ残らない。あの頃は、もう戻らない。
「さよなら」