偽装婚カヲシン⑱幸せは長く続かない。そんなの誰だって知ってるし、長い人生だから良い時も悪い時もあるってことくらい僕の歳でも理解出来る。いつ壊れるか分からない薄氷を履むようなカヲルさんとの生活は僕の予想通り、呆気なく終了を迎えることになった。
たった一本の電話によって。
いつものようにリビングに響く電話の電子音に反応した僕は特に警戒することも無く電話に出た。前回の件でこの家の電話番号を知っているのはカヲルさんと、その直属の部下の人だけだと聞いたからだ。だから油断していた。カヲルさんとの生活に満たされ過ぎていたから。
「はい。渚です」
「……その声、シンジか?」
声を聞いた瞬間、ふわふわお花畑だった幸せな世界が一変した。ああ、そうか、終わりが来たんだ。そう思った。電話番号をどうやって知ったのか不明だけれど、見つかってしまったということだけは確かだ。
「……叔父、さん」
「やはりな。やっと見つけたぞ、この恩知らずが。育ててやった恩を仇で返しやがって」
今まで小言は言われたことあったけど、こんな罵声を浴びせられるのは初めてだった。それくらい叔父の立場が危うくなっていたのだろう。
僕が逃げ出したら後見人の話も援助の話も白紙に戻るわけだし。そこに僕の意思なんて関係ないと思ってるのが電話越しでも分かる。
「いいか、すぐに帰ってきなさい」
高圧的な物言いに昔の僕だったら素直に従っていたかもしれない。一応は血の繋がっている家族だったし、相手もそう思ってくれていると信じたかったからだ。だけど、今考えればとても馬鹿らしい。僕のことを物としか見ていない連中のために、どうして僕が犠牲にならなきゃいけないんだろ。
「聞いているのか!」
「……叔父さん、どうしてこの電話番号を知ってるんですか? この家の人しか知らないはずなのに」
「何だそんなことか。ある方からお前の居場所と電話番号を教えて頂いたんだ。乗り込まれて連れ戻されたくなければ自分から帰ってこい」
「場所も知ってるんだ……」
自分の方が立場が上なのが嬉しいのか叔父の口は軽くペラペラとよく喋る。だけれど叔父の情報は間違っておらず正確にこのマンションの住所と部屋番号を言い当てた。このまま沈黙を続けるのは不可能だ。
「言うことを聞かなければ、渚とか言うお前を匿ってる男を誘拐犯として訴えてもいいんだぞ」
当然、そうやって脅してくるだろうなとは思った。すぐに乗り込んで来ずに電話を使ったのは、叔父もこの件を表沙汰にしたくないのだろう。僕が逃げ出したことを後見人の人に知られると不味いから。
「…………叔父さんの所に戻ります。だから、この家の人のことには触れないでください」
自分でも不思議なくらい冷静な声だった。頭の中が変に冴え渡っているというのか、感情が凪のように少しも揺るがない。前もってこうなることを考えていたおかげなのかな。ネガティブな性格が少しは役に立ったらしい。
「それはこれからのお前の態度次第だ」
「…………わかっています」
初めからカヲルさんに迷惑をかけないようにすると決めていたじゃないか。僕がここから逃げたとしたら、叔父さんは腹いせにカヲルさんを訴えようとするはず。そんなことは絶対に許せない。カヲルさんのことは僕が守らなきゃ。初めから僕には選択肢なんてないんだ。
「マンションの下に車を用意している」
その言葉を最後に電話が切れた。監視しているぞ、逃げたらどうなるか分かってるだろうなって事か。元から逃げる気なんてないんだけど。電話を元に戻して僕は深く息を吐いた。カヲルさんが帰ってくる前にこの家から出なきゃいけない。荷物、用意しないと。
よろつきながら使わせてもらってる部屋に向かう。部屋の奥にある大きなウォークインクローゼットを開くと所狭しと並んだ服が目に入った。カヲルさんが僕のために用意してくれた服は、三着ほどを着回ししていたからそのほとんどが新品だ。だから、こんなに高価な服必要ないって言ったのに……。
僕は服から無理やり目を逸らして、その隅を見た。クローゼットの奥に隠すように僕が家出した時に持っていたボストンバッグが置いてある。いつか来る、この家を出ていく日に備えて用意しておいたんだ。僕はバッグの中から取り出した服に着替えた。
初めてカヲルさんに出会った時に着てた服。今着てるのはカヲルさんに買ってもらった物だから返さなきゃ。本当は洗濯して返したかったけど時間がない。脱いだ服は綺麗に畳んでベッドの上に置いた。一応バッグの中を確認して、お小遣いの入ってる財布と学生証を発見する。迎えが来てるからお金も必要ないみたいだけど。
この家にある僕の物はこのバッグだけだ。ボストンバッグを持ってリビングに移動する。つけっぱなしだったテレビを消してソファーに腰を下ろした僕は学生証のメモの部分を出来るだけ丁寧に引きちぎった。バッグに入っていたペンでカヲルさんに最後の挨拶を書いておこうと思ったから。
たくさん優しくしてくれてありがとう、とか。一緒に暮らせて楽しかった、とか。未練ばかりが残る。気持ちを言葉に。言葉を文字に。手紙を書くのがこんなに難しいと感じたのは初めてだった。時間がないから手短にしないと。カヲルさんが負担を感じないような書き方でお別れを告げる文章を考えるのは僕には難しかった。
『カヲルさん、お世話になりました。家に帰ります。約束を守れなくてごめんなさい』
最終的に書けたのはそれだけ。素っ気ない文章だけど、気持ちを吹っ切るにはこれくらいの方がいいんだと思う。書いた手紙の文章を目で追いながら、僕は薬指の指輪に触れた。カヲルさんと僕の婚約指輪。二人を繋ぐ大切な物。この指輪は持っていけない。引き抜いた指輪を手紙の上に置いた。
「……ごめんなさい。帰らなきゃ」
どこに。あんな親戚しかいない家に帰りたいとは思わない。だけど僕が行くべき場所はそこしかないのだ。カヲルさんを守るためなら耐えられる。使うことがほぼ無かった合鍵も指輪の隣に置いた。ここは全室オートロックだから出ていくだけなら鍵は必要なかった。ドアノブを回す手がとても重く感じる。だけど、行かなきゃ。来た時と同じ服装で、僕はカヲルさんの家を後にした。
◇◇◇
僕にできることはただ黙っていることだけだ。マンションの下で待ち構えていた叔父の車に押し込められるようにして、僕は叔父の家に戻ってきた。幸いなことに罵声を浴びせられることはあっても、暴力を振るわれることはなかった。僕にはまだ商品としての価値があるから。
腕を引きずられるようにして、そのまま前に使っていた部屋に押し込められる。ちらっと見えたのは、部屋のドアに付けられた無数の鍵だった。閉じ込めるつもり、なのかな。そんなことしなくても僕は逃げるつもりはないのに無駄なことをするんだなぁ、と他人事のように思った。
僕が出ていってから二週間、期待なんかしてなかったけど掃除すらしてくれてなかった僕の部屋は湿気が溜まっていたし埃臭い。ボストンバッグを床に置いて小さな窓を開けたら少しはマシになった。
一階の隅にある物置部屋。そこが僕が数年間暮らした場所だった。三方を壁に囲まれたコンクリート剥き出しの部屋だけど、小さい机と横になれるスペースがあれば十分だろうと与えられたのがここ。他にも部屋は空いていることを僕は知っていたけれど、揉めたくなかったから何も言わなかった。
親戚のことを悪く思いたくなかっただけで、両親を失った子供の扱いなんてそんなものだ。今思えば、施設に預けられないだけでも感謝しろと言わんばかりの対応だったんだよね。少ししか開かない小窓を眺めていると、部屋のドアが無造作に開け放たれた。
「シンジ、何をしている。早く家事をしないか」
「……わかりました」
戻って早々することが家事だなんて。いちいち文句を言われるよりはマシなのか。家事をしろということは部屋に閉じ込める気はないらしい。トイレとか困るからそれは助かった。食事を作って、掃除をして、洗濯をして。また前と同じ生活。カヲルさんのためなら喜んでするのに。
「いいか、学校に通うのは許可するが逃げようとする素振りを見せたらあの男を訴えるからな」
「そんなことしなくても、逃げません」
「来週には後見人の方と顔を合わせることになっているんだからな。少しくらいは愛想良くするんだぞ。お前は母親に似て顔だけは良いんだからな」
「…………」
睨んでやりたいけど我慢した。そんなの褒められたって嬉しくとも何ともない。後見人になる人が、この顔を気に入ったというのなら絶対に愛想良くしてやるもんか。態度が悪ければ後見人について考え直すかもしれないし、そうなったとして叔父が援助を打ち切られ破産したとしても僕には関係のないことだ。むしろその方が清々すると思う。ともかく学校に通う許可が出たので、僕は翌日から登校することにした。
「碇~! 大丈夫だったか? 元気そうで良かったよ!」
「交通事故で入院してたんやろ?」
「…………うん、心配かけてごめん。良くなったから、もう平気」
登校してすぐ仲の良いクラスの友人に話しかけられ、家出中の僕の扱いについて知った。どうやら叔父は僕が交通事故にあったことにしたらしい。それなら二週間登校しなくても怪しまれないか。
本気で心配してくれる友人には申し訳なく思うけれど、この件はそのままにしておこう。下手に詮索されたら誤魔化すのが大変だろうし。久しぶりの学生生活に少しだけ気持ちが休まった。
問題が起きたのは授業を終えて放課後になった時だった。普段なら皆、HRが終われば急ぎ足で部活に行くか下校するかしている。僕も帰りがけにスーパーに寄らなきゃいけないからと教科書を急いで鞄に詰めていた。そんな時、窓に集まっていた女子が騒ぎ出して周囲の視線が外に向いた。
「……何?」
「なんか女子が騒いでる。校門の所にイケメンがいるんだってさ」
「ハァ? イケメンならここにおるやろがい」
「それってトウジのこと?」
はははと軽く笑い合っている最中も女子の黄色い悲鳴は収まらなかった。あまりにも騒ぐものだから、さすがに気になった僕達も窓の方へと移動する。
そこで僕は見てはいけない物を見てしまった。校門の前にジャケットを羽織った長身の男の人が立っていて、こちらの様子を窺うように視線を向けている姿を。思わず目を逸らしたけれど、あれは間違いなくカヲルさんだった。僕が見間違えるはずがない。女子がイケメンと騒ぎ立てるのも当たり前だと納得する。
「わーお、確かにイケメンだ」
「遠目に見てもえろう眩しいやっちゃな。ああ言うのがイケメンなんか?」
「まぁ、世間一般で言えばそうだろうな。でも何してんだろ。誰かの保護者かな?」
「………………さぁ」
この分だと騒ぎはうちのクラスだけじゃないだろう。何でカヲルさんがここにいるの? 僕も予想してなかった事態に頭の中が真っ白になった。どうしてカヲルさんが? 僕が出ていく際に何か不手際があったとか? そんなはずは無い、とは言い切れないけど。わざわざ目立つような真似をしなくても。
「何を騒いでるんだ。皆、早く部活に行きなさい。下校する生徒は気をつけて帰るんだぞ」
騒ぎを聞きつけて教室にやってきた担任に追い立てられるように教室から出た。今日はトウジもケンスケもそれぞれ部活があって、僕だけが帰宅部だ。そして帰宅する為にはあの校門を通らなくちゃいけなくて。そうなったら必ず鉢合わせするのは分かりきってる。逢いたくない訳じゃない。むしろ逢いたい。