偽装婚カヲシン⑲離れて一日しか経ってないのに、ずっとカヲルさんのことを考えてた。こんな所に来たことが叔父にバレたらカヲルさんが訴えられてしまうとか、色々あるのに。迷惑かけたくなくてせっかく決心して出てきたのに……。
どうして。どうして、嬉しい気持ちの方が大きいんだろう。はやく逢いたい。抱きしめたい。抱きしめられたい。だけど今の僕はカヲルさんの婚約者じゃない、赤の他人なんだ。無意識に触れた左手の薬指が寂しいかった。もう僕には必要のないものを探してしまう。
教室から追い出されてしまったから、下校しないといけなくて。僕は鞄を手に重い足取りで一階に向かった。靴箱が並ぶ出入口は人でごった返していた。下校する生徒だけじゃない。彼らの視線は外に向かっている。目的は多分、校門前に立っている人。
行かなきゃ、いけないよね。この学校は敷地を壁がぐるりと覆っていて出入口は校門しかないから。帰宅しようとすれば、どうしてもカヲルさんの前を通らなきゃいけなくなる。この人混みの中に紛れたら、見つからずに突破出来たりしないかな。
グダグダ悩んでたって無駄に時間が過ぎるだけだって分かってる。買い物をして早く帰らないと叔父に文句を言われるんだろう。別にそれはどうでも良いんだ。ただ事ある毎にカヲルさんのことをチラつかせてくるから従うしかないだけ。どうせ表沙汰に出来ないくせにさ。
そろりと様子を窺うと携帯を片手に立っているカヲルさんはモデルのように格好良かった。前を通る生徒の好奇に満ちたキラキラした視線を浴びても何処吹く風のよう。目立ち過ぎて、教師に注意されないか心配になるけど今の所は大丈夫そうだ。
興味はあるけど、さすがに話しかける勇気はないのか生徒は皆カヲルさんの前を通り過ぎていく。僕は、出来るだけ離れた場所を歩いて脱出することに決めた。今、顔を合わせても僕に出来ることは何もない。男子の集団が歩き始めたタイミングに合わせて僕はその影に隠れるように移動した。この時ばかりはそこそこ小柄で良かったと思う。集団に紛れてしまえば見つかることはないだろうから。
ドキドキと心音が速くなっていく。俯いて地面だけを見て、歩く、ただそれだけ。こんな大勢の中から僕を見つけるなんて出来るわけないよ。もうすぐ校門だ。鞄のベルトを握りしめる手に力がこもる。僕とカヲルさんはもう全然関係ないんだ。関係なんてないんだから。だから……。足元だけを見つめていた僕の視界に、誰かの靴が映り込む。その瞬間、僕の耳に聞こえていた喧騒が止んで、低く響く声が飛び込んできた。
「シンジ君、待っていたよ」
「…………カヲル、さん。どうしてここに……?」
「君を迎えに来たんだ」
確かに僕はカヲルさんの視線を避けてい歩いたはずなのに、目の前にはカヲルさんがいた。あの人数の中から僕を見つけ出したの?
「話がしたいんだ。少し時間をくれないか」
「……分かりました」
周囲の視線に耐えかねて僕は頷いた。噂になってしまう。きっともう手遅れだろうけど。明日、大変なことになるかも。質問攻めは免れないだろう。ともかくこの場を離れたかった僕は「ついてきて」踵を返したカヲルさんの後を追った。どこに行くつもりなんだろう。この近くに話が出来そうな場所なんてあったかな。
基本的にスーパーと家以外に行ったことがなかったからよく分からない。カヲルさんの後を追いかけて校門を抜けたら、すぐに右に曲がった。予想していたよりも目的地はすぐそこだった。曲がってすぐの所に車が停めてあって、それに近付いたカヲルさんが助手席のドアを開けて僕を呼んだ。
「乗って。場所を変えた方がいいだろうから」
「……そうですね」
まだ視線を感じる。無駄だと思いつつも鞄で顔を隠しながら、いそいそと助手席に乗り込んだ。カヲルさんが運転席に乗り込んで車のエンジンをかける。静かに走り出した車はすぐに学校から離れていった。
カヲルさんって運転出来たんだ。知らなかった。ハンドルを握る姿をこっそり見ているとカヲルさんの口元に笑みが浮かぶ。怒ってる訳じゃないみたいで安心した。それでも僕の都合で一方的に別れを告げて出てきてしまった訳で、しんとした車内は居心地が悪い。何か話さないといけないような気もするけれど、言葉が出てこなくて僕は膝の上で組んだ手に視線を戻した。先に沈黙を破ったのはカヲルさんだ。
「黙って出ていくなんて酷いな。電話が繋がらなくて急いで帰ってみればどこにもシンジ君の姿はないし。……とても心配したんだよ」
責められているとは思えないほどの優しい声に胸がきゅっと痛む。心配して、わざわざ逢いに来てくれたの? 僕はカヲルさんの本物の婚約者じゃないのに。
「……ごめん……なさい。叔父さんにあの場所が見つかってしまって……カヲルさんに迷惑をかけないようにしなきゃって」
「僕に相談は出来なかった?」
「僕の事情にカヲルさんを巻き込めないよ……っ」
最初から助けて貰ってばかりだった。だからこれ以上甘えて迷惑をかけたくなかったんだ。カヲルさんもいきなり婚約者役がいなくなって困ったかもしれないけど。カヲルさんなら、新しい相手くらいすぐに見つかると思うし。……ああ、嫌だ。そんなこと考えたくない。叶わない恋だと分かっているのに、どうして潔く諦めきれないんだろう。
「シンジ君、唇を噛み締めてはいけないよ」
カヲルさんの指が僕の唇に触れた。無意識に噛んでいた唇をゆっくりと人差し指で撫でられる感覚に背中にゾクッとしたものが走っていく。その感覚から逃れようと頭を動かすと、あっさりと指は離れていった。信号が青に変わったからだ。
「言っただろう? どんなことがあっても僕が必ず君を守るって」
走り出す車の音。カヲルさんの視線は真っ直ぐ前を向いているけれど、その声は真剣そのものだった。カヲルさんの言葉に胸が締め付けられる。助けてって言ったら、本当に助けてくれるの? カヲルさんの側にいられるの? ……無理だよ。そんなの、できっこないよ。
「………………」
僕が幸せになるためにカヲルさんを犠牲になんて出来ない。カヲルさんのことが好きだから、僕とは関わらない方が良いんだ。
「もし、君が望むのなら」
「え?」
「このまま君を、誰も知らない場所に連れ去ってしまおうか」
「…………な、何……言ってるの。さすがに、冗談だよね……?」
「本気だよ」
指先でハンドルを弄びながら、カヲルさんは前を見ていた。だけど、はっきりと言い切った声に意志の強さを感じる。短い期間の付き合いだけれど、カヲルさんが嘘をついたことなんて一度もない。……本気なんだ。本気で、僕を救おうとしてくれている。だからこそ僕は決めなくちゃいけなかった。
「……ありがとうございます。でも、僕帰らなきゃ」
「どうしてだい?」
「だって、このまま逃げたら今度こそカヲルさんが誘拐犯にされちゃうよ。それだけは絶対にダメだから……」
「君は本当に優しいね」
優しいのはカヲルさんの方だ。黙って姿を消した僕を心配して逢いに来てくれたんだから。その気持ちだけで、これからも頑張れる気がする。カヲルさんとは住む世界が違うし、会えるのはこれが最後かもしれないけど。
「……ここで降ろしてもらえますか?」
カヲルさんの運転する車が通る道が僕のよく知っている場所だと気付く。ちゃんと叔父の家の近くまで連れてきてくれてたらしい。
「本当に、行ってしまうのかい?」カヲルさんはそう言いながらもきちんと車を路肩に寄せて停車した。大人なのに、そんなしょんぼりした顔をされると決心が鈍ってしまうじゃないか。カヲルさんとの逃亡生活も悪くないかなって。ダメだけど。
「心配してくれて、ありがとうございます。でも行かなきゃ」
顔を見ていたら、いつまでも動けないままだ。離れたくない気持ちに負けそうになるから、僕は俯いてシートベルトを外そうとした。指が震えて、カチャカチャと金具が音を立てる。
「シンジ君」
「え……」
カヲルさんの声に顔を上げた瞬間、目の前が暗くなる。口と口がぶつかる感触がした。ちゅっ、と音をさせて軽く唇を吸う。柔らかくて優しい感触に胸が震えた。不意打ちのキスは、瞬きの間に終わってしまう。
「外れたよ」
カチッとベルトが外れて巻取られていく。俯いた僕は震える手でドアを探り開けて車から降りた。音が戻ってきて、僕を現実に引き戻す。
「……さよなら……!」
もう、カヲルさんの顔は見れなかった。
◇
「いいか、これからお前の後見人になられる方に会いに行く。用意しなさい」
「……はい」
叔父はいつも自分の都合で話を進める。カヲルさんに別れを告げた僕は、叔父に逆らわないように気をつけながら静かに暮らしていた。僕が戻ってきたことで、後見人になる人との契約の話が元通りになった叔父はそこそこ機嫌が良さそうだった。
以前にも増して金遣いが荒くなり、色々と買い物をしているみたいで先日は車を購入していた。生活費には節約しろとか文句を言うくせに、車を買うお金はあるんだ。
「さっさと着替えてきなさい。待たせるな」
「わかりました。でも普通の私服しかないので、制服でもいいですか?」
「……かまわん。それでいい」
制服だってフォーマルと言えばフォーマルな服装だ。挨拶に行くのに適した服装だと言えるけど、相手から見たらどうかな。余所行きの服も持ってないのかと思われそう。まぁ、僕はどう思われたっていいんだけど。
何でも相手の方から急遽呼び出されたとかでとにかく急げと言うことらしい。随分とせっかちな人なんだなと思いつつ、僕は夕飯の支度を切り上げて部屋に戻り制服に着替えた。次に後見人になる人の名前とか歳とか何も教えられなかったけど、叔父の会社を買収した大手企業の名前は知っていた。
たぶん僕の後見人になるという人は、その会社の偉い人なんだろう。その人が良い人であることを願うしかない。だけど、借金の肩代わりに後見人になる権利を譲れとか言う人が良い人な訳ないか……。期待はしない方がいいんだろうな。
嫌々ながら制服に着替えて、待ち構えていた叔父と共に車に乗る。後部座席に座って外を眺めた。叔父と僕の間に会話らしい会話はない。重たくて居心地の悪い雰囲気。
「お前の後見人になる方だが、お前さえ良ければ養子に迎えたいとおっしゃっている。縁続きになれば、我社も安泰だ。いいか、機嫌を損ねないように注意するんだぞ」
「…………はい」
養子縁組の話まで、勝手に進んでた。叔父が大切なのは会社の立場とお金なんだろう。その為に甥を売り払うのも厭わない人なんだ。本当に僕の意思なんてどうでもいいんだね。こんな叔父の所にいるよりは幾らかマシであることを祈るしかないらしい。僕なんかに大金を払う物好きな人みたいだけど。
数十分、車で走って到着したのは高級だと有名なホテルだった。こんな所で顔合わせするなんて、相手の人はやっぱりお金持ちなんだ。ホテルの人に車の鍵を預けて、叔父がふんぞり返りながらエントランスに向かう。それを後ろから追いかけて、受付で話をしている叔父を少し離れた所から見ていた。キラキラしていて高級感のある内装は、前にカヲルさんに連れていかれたホテルに似ている。そんな中で学生服姿の僕は場違い過ぎて居心地が悪かった。
「シンジ! いくぞ!」
カヲルさんのことを思い出していた僕は叔父の声に顔を上げる。部屋に向かうようで、エレベーターに向かって歩き始めていた。行きたくない。けど、逃げることは許されない。部屋まで案内してくれる従業員がいるからか叔父はとぼとぼ歩く僕を睨んだだけで何も言わなかった。エレベーターの扉が閉まり上昇し始める。身体が重く感じるのはエレベーターの重力のせいなのか。ポーンと音がして扉が開いた。
「こちらのお部屋です」
「どうも」
「それでは失礼致します」
お辞儀をした従業員は、二人だけ残して戻っていってしまった。この先にいるのかな。重厚な扉はこの部屋のグレードの高さを誇示しているように見えた。振り向いた叔父が僕に向かって念を押してくる。
「いいか、くれぐれも粗相のないように」
「……はい」
どうせ暴れたとしてもどうにもならないんだろう。叔父の言いなりになるのも嫌だけど、今の僕に出来ることなんてない。せめてもの反抗として仏頂面をする程度だ。そんな僕に叔父は不満を露にしたけれど、部屋の前だからか一応騒ぐのは控えたらしい。僕を睨みつけてから、ドアをノックした。すぐに部屋の中からドアが開く。いよいよか、と身構えた僕の前に現れたのは予想していたよりもずっと若い黒髪の男の人だった。
「お待ちしておりましたよ。申し訳ありませんが、社長は少し到着が遅れております。わざわざ御足労頂いたのにすみません。どうぞ、中でお待ちになられてください」
「そうですか! お忙しいでしょうから、仕方ありませんな。ほら、シンジ」
待たされても上機嫌な叔父を見ながら、僕は部屋の中へと足を踏み入れる。僕がドアをくぐる時、出迎えてくれた男の人が意味ありげに僕を見た後笑いかけてきた。緊張していた僕はその視線に小さく頭を下げて視線から逃げた。蔑みも、憐れみも感じない視線。どちらかと言うと好奇の目、なのかな。だけど嫌な感じはしなかった。社長の秘書だと言う男の人に案内されて、部屋の中央にあるソファーに腰を下ろすと目の前にお茶が用意される。
「お菓子もどうぞ」と、僕の前にクッキーのお皿が置かれた。何もせず待つのは退屈だし、用意してもらった紅茶とクッキーが美味しそうだったので遠慮なくいただくことにする。口の中でほろりと崩れるクッキーが予想していたよりも美味しくて、ついパクパク食べているのを秘書の人に見られて笑われてしまった。
ハッとして誤魔化すように紅茶を啜る横で叔父は携帯を手に誰かに連絡している。その顔が少しずつ険しくなっていくのが手に取るように分かった。何か仕事でトラブルでもあったのかも。だけど僕が聞いても答えてくれないだろうし、無駄なことはせずに行儀良くお茶を飲んでいた。すると今度は秘書の人の電話が鳴る。
「はい。到着されましたか。……はい、お待ちになられてますよ」
話しの内容からして電話の相手は社長さんらしい。到着したんだ。ついに新しい後見人の顔を見ることになる。まだはっきりと確定した訳じゃないけど、叔父はもうそのつもりだ。もしこの話がなかったことになったら、家での僕の扱いは更に酷くなるに違いない。どっちに転んでも良くない結果になりそうで気分が重かった。
ピンポーンとドアホンが鳴る。隣で携帯を握りしめて渋い顔をしていた叔父が背筋を伸ばして玄関の方を見つめた。僕は何となく見たくなくて、膝の上で組んだ手を見る。まだ現実を受け入れられなくて、自分でも無駄な抵抗だって思ってるけど……。
「社長、遅かったじゃないですか」
「すまない。想定よりも時間がかかってしまった。お客様をきちんともてなしてくれたかい?」
「勿論です。最高級のお茶とお菓子でおもてなしさせて頂きましたよ」
え? 玄関から聞こえてきた声に僕の耳がぴくんと反応した。ウソ。まさか。あいや、でも変だ。あの人がこんな所にいるはずがないし。声だけめちゃくちゃ似てる人とかいるかもしれないでしょ。期待なんかするな、と自分に言い聞かせるように両手を握り締めた。
「待たせて悪かったね」
「いえ! まったく問題ありません。お忙しい中、お時間を作ってくださりありがとうございます。ローレンツ様」
「……え?」
思わず声が出た。初めて知った後見人の名前。ローレンツってことは外国の人なの? だったら、別人だよね? 僕の驚きの声は慌ててソファーから立ち上がった叔父が立てた音に掻き消された。
「彼が私の甥のシンジです。ほら、ローレンツ様にご挨拶しなさい」
叔父に腕を掴まれて無理矢理立たされた。よろけながら立ち上がった僕が目にしたもの。それは僕がよく知っている人に瓜二つの顔をした男の人だった。
「初めまして、碇シンジ君。私はローレンツ、君の後見人になる者だよ」
「…………」
うそ。なんで。カヲルさんがここに? 目を見開いて固まってしまった僕の頭を叔父が掴み頭を下げさせる。上から力一杯押さえつけられたし、髪の毛を掴まれて痛いけれど、僕の頭の中はそれ所ではなかった。
「躾がなっておらず申し訳ありません。普段から厳しくしているのですが……」
「乱暴はよしてくれないか。彼は私の家族になるのだからね」
「……は、はい」
自分の靴を凝視しながら頭の上の会話を聞く。耳が音を拾っているけれど、上手く処理出来なかった。何がどうなっているのか分からない。カヲルさんだよね? 声は間違いなく、話し方もカヲルさんと同じだと思う。
「シンジ君、顔を見せてくれるかい?」
下を向いたままの僕の目の前に大きな掌が差し出されていた。手を握れ、ってことかな……。知らない人の手だったら嫌な感じがしただろう。けれどそんなふうには感じない。差し出された手に僕の手を重ねると、柔らかく握られた。
胸がドキドキして、顔が熱くなる。この感覚。ゆっくりと視線を上げた先に、僕を見つめる赤い瞳があった。僕はこの瞳を知っている。きらきらと輝く赤い瞳に映っている僕の顔は何とも間抜けだった。あんぐりと開いた口。見開いた目。ぱちぱち瞬きをする僕を見て、その口元に笑みを浮かべる。僕の手をしっかりと握った彼が言った。
「これから、僕の家族になってくれるかい?」
一人称が『私』から『僕』に戻ってるの気づいてるのかな。ううん、そんなのどうでもいいよ。カヲルさんの家族になれるのなら、それほど嬉しいことはなかった。僕を迎えに来てくれたの? 一生懸命我慢してさよならしたのに。だけど、そんなことどうでも良くなる。泣きたくなるのを我慢して頷くと、カヲルさんが安心したように微笑んだように見えた。
「おお、良かった。これで我社も安泰だ!」
「そうだね。貴方にはここまでシンジ君の面倒をみてくれたお礼をしなければね」
「……か……ローレンツ……さん、あの……」
礼と聞き喜ぶ叔父を見て、僕は思わずカヲルさんの腕を掴んでしまった。そんな軽率なことを言って、カヲルさんが色々吹っかけられたらと思うと気が気じゃない。叔父の欲深さはよく知っている。カヲルさんに失礼なこと言ったら許さないんだから。
「シンジ君、大丈夫だよ。心配するようなことは何も無い。君の叔父さんに相応しい贈り物を用意したから」
叔父に相応しい……? 僕に耳打ちをするようにカヲルさんが言い終わったタイミングで叔父の携帯電話がなった。すみません、とカヲルさんに断って叔父が部屋の隅に移動し電話に出る。贈り物をお預けされて不機嫌そうだ。微かに聞こえてくる声に耳を傾けながら、カヲルさんの方を見上げた。
「一応、シンジ君の血縁ではあるから穏便に済ませたかったんだけれどね……。勝手に墓穴を掘ってくれていたから」
「墓穴って?」
「彼は、前の会社でも色々とやらかしていた割に隠蔽工作が杜撰だったから。すぐに尻尾を掴むことが出来たよ」
「叔父が、何かしてたんですか?」「そうだね。簡単に言うと、横領と脱税かな。金額は億単位だ」
「……そう、なんですね」
単位に喉が引き攣る。そんなことない! なんて庇う気にもなれない。急激に羽振りが良くなった叔父の姿を見ていたから。叔父が犯罪を犯していた事実を知っても、僕はそれほどショックを受けなかった。隣にカヲルさんがいるからだろう。電話で話をしていた叔父の顔色が変わる。血の気が引いて真っ青に。恐怖と焦りに見開かれた目でカヲルさんを見ながら叫んだ。
「ローレンツ様! け、警察が家に来たそうです……! 会社の方にも捜査が入っているらしく……一体どうしてッ」
助けを求めるような視線を向ける叔父をカヲルさんが一瞥する。携帯を手に震える叔父を見るカヲルさんの視線は氷のように冷たかった。
「以前から会社の金に手を付けていたんだろう?」
「なっ……そのような事実はありません!」
「そうだろうか。証拠があるから捜査に踏み切ったんだろう? 残念だよ。シンジ君の叔父である貴方を信頼していたのに……裏切られるなんて残念だよ」
「ちが、違います!私は何も知らないのです!」
叔父が声を張り上げカヲルさんに詰め寄ろうとする。それを壁際で傍観していた秘書の人が遮った。自分よりも大きな男が目の前に現れたものだから叔父は驚いて大袈裟に後退る。
「今さら騒いでも無駄ですよ。まぁ、大人しく待ちましょう。そろそろ迎えが到着する頃なので」
「は? 貴様は何を言っとるんだ!? 私はローレンツ様と話を…………ローレンツ様! 」
秘書の人を押し退けて近づこうとする叔父から庇うように、カヲルさんの背に視界を遮られる。大丈夫だと分かっているけれど、不安を隠せなくて僕はカヲルさんのスーツの裾をきゅっと握った。広い背中をじっと見ていると、部屋のインターホンが鳴る。誰か来たみたいだ。全員の視線がドアに向かった。
「到着したみたいだね。中に入ってもらって構わないよ」
「了解です」
カヲルさんの言葉に秘書の人がドアの方へ向かった。何が起こるのかとカヲルさんの陰に隠れながらドアを凝視していると秘書の人がドアを開けて、外に向かって何かを話しているのが見えた。
「ええ、中にいます。入っていただいて結構ですよ」
誰? と確認する間もなく秘書の人が横に避けた瞬間、ドアが大きく開いて数人が雪崩込むように室内へ入ってきた。同じ制服を着た人達だ。彼らは部屋に入ると数人が一目散に叔父の方へ向かっていった。ギョッとした叔父を逃がさないように残りの人がドアの前に陣取っている。何となく話は読めた。もう逃げられないと悟ったのか、叔父は肩を落として静かになる。
「横領の件」や「告訴」といった単語が聞こえてきたからそうなのだろう。有無を言わさぬ雰囲気で叔父が連行されていく。その姿を見ても、特に何も思わなかった。普通なら身内のことをもっと取り乱したり心配したりするんだろうか。だけど、どうしてもそんな気持ちにはなれない。
僕の両親の遺産だけじゃなく、カヲルさんの会社の資金にまで手を出そうとしていたと聞いたら怒りを通り越して呆れてしまった。ちゃんと反省した方がいいと思う。囲まれて抵抗出来なくなった叔父が部屋から連れ出され、辺りに静けさが戻ってきた。
「やれやれ、ようやくひと仕事終わった感じですかね」
「色々とお疲れ様だったね、リョウちゃん。これで静かになるだろう」
「さすがに疲れました。申請しておいた長期休暇の件、よろしくお願いしますしますよ?」
「勿論だよ、ゆっくりするといい。……さて、シンジ君。驚かせてすまなかったね」
穏やかに微笑んだ顔に張り詰めていた緊張が解ける。スーツの裾を握っていた手を取られて頬が熱くなった。エスコートするように優しく腰を抱かれてリビングに移動する。結局何がどうなったのか、僕は理解出来てなかった。分かっているのは叔父が犯罪を犯して連れていかれたってことと、僕の後見人になろうとしていた人がカヲルさんだったということだけ。
でも本当にカヲルさんが? どうして僕の後見人になろうと思ったんだろう。ソファーに座るように促された僕が腰掛けると、その隣にカヲルさんが座った。広くゆったりとしたソファーなのに、太腿と太腿がくっつくくらいに距離が近くてドキドキする。
正面に座った秘書の人が困ったような顔をした。僕も他の人の前でくっつくのは困るというか。いやって訳じゃなくて、人の目がなかったらいくらでも……いいんだけど……。気づかれないように少しだけ横に移動しようとしたけど、それはカヲルさんの手によって阻まれて引き戻された。
「渚さん、シンジ君が困ってますよ……」
「そんなことはないさ」
そうだろう? とカヲルさんが見つめてくるから、ダメだなんて言えないよ。僕だって、ずっと逢いたかったんだ。恥ずかしさよりも嬉しさの方が強くなって、こくこくと首を縦に振ればカヲルさんがより一層身体をくっつけてくる。
「……二人がいいなら何も言いませんけど」
「そうしてくれると有難いね」
「でも人前では気にしてくださいよ。シンジ君はまだ未成年なんですから」
「……程々にするよ」
二人とも楽しそうだから、口を挟んでいいものか。とりあえず黙ってカヲルさんの顔を見ていようと思った。隣にカヲルさんがいるなんて夢みたい。けど、見つめて数十秒もしないうちに視線がこちらを向いた。
「シンジ君」
「はい……っ」
近くで名前を呼ばれただけなのに嬉しくて胸がきゅっと苦しくなる。僕、本当にカヲルさんのことが好きなんだ。好きになっちゃいけないってあれ程言ってたのに落ちる時はあっけない。
「あの、ローレンツさん……」
「『カヲル』だよ、シンジ君。ローレンツは祖父の姓なんだ」
「おじいさんの……」
祖父と言われて以前、婚約者として挨拶したおじいさんのことを思い出す。サングラスをかけててよく分からなかったけど、確かに外見は外国の人のように見えた。あの時、おじいさんの名前を聞いたような気がするんだけど、気が動転していてよく覚えてなかったらしい。覚えていたとしてもカヲルさんに結びつけるのは難しかったかもしれない。
「もう、カヲルとは呼んでくれないの?」
「そ、そんなことないよ……ただ、ちょっとビックリしてて。……カヲルさんが僕の後見人になってくれたんだよね?」
「そうだよ。僕が君の後見人で保護者になったんだ」
既に書類申請は完了しているのだとカヲルさんが言った。じゃあ正真正銘、カヲルさんが僕の後見人なんだ。だったら、ずっと一緒にいられるってことなんだよね? そう考えたら叔父に捨てられた事実なんてどうでも良くなってしまう。
「でも、どうして? 僕とカヲルさんは、会ったこともないのに」
こんなに綺麗な人だもの、一目会えば記憶に刻まれているはずだ。だけど僕はカヲルさんに会ったことも、話したこともなかった。面識のない他人だったのに、どうして僕の後見人になろうと思ったんだろう?
「君は覚えていないだろうけれど、シンジ君のご両親は祖父の研究所で働いていたんだよ」
「父さんと母さんが……?」
「そう。その研究所で僕も一緒に働いていたんだ。だから会ったことはなかったけれどシンジ君のことは知っていたよ」
何かの研究をしていた、ということは覚えているけれど詳しく聞いたことはなかったから。だって二人の仕事の話って小学生の僕には難しかったし。カヲルさんのことも話してくれてたのかな。でも全然思い出せない。カヲルさんは懐かしむような口調で話し続けた。
「『もし自分の身に何かあったら息子のことを宜しく頼む』と言われていてね。本当にそんなことになるとは思っていなかったけれど……」
あれは確かに事故だったと聞いた。仕事からの帰宅途中に交通事故に巻き込まれて両親は亡くなったのだ。幼い僕が理解したのは、もう二度と両親に会えないと言うことだけ。それから僕を引き取る話で叔父が揉めたのだと後から聞いた。
「本当はすぐに君を引き取りたかった。けれど、両親を亡くしたばかりの君を他人の僕が引き取ることに強く反対されてね」
今思えばその時から叔父は僕に遺された財産を狙っていたのかもしれない。でも僕もその時カヲルさんが現れたとして、彼のことを信じられたかは怪しかった。表面上だけでも血の繋がった親戚を頼ろうとしたと思う。
「そこで少し様子を見ることにしたのは、僕の判断ミスだ」
「カヲルさんは悪くないよ。僕も嫌がったと思うし。……こうやって約束を守ってくれたでしょ? だから平気だよ」
カヲルさんの落ち込む顔なんて見たくなくてカヲルさんの肩に頭をくっつけた。ぐりぐり擦り付けて甘えると彼の表情が少し和らいで、お返しにとばかりに頭を撫でられた。目の前から軽い咳払いが聞こえてきて、ハッと我に返る。秘書の人がいたんだった。
「あ、すみませんっ……あの、カヲルさん。こちらの方は……?」
「きちんとした挨拶がまだだったね。彼は加持リョウジ君。一応僕の秘書だよ」
「一応?」
「リョウちゃんには秘書以外の顔もあるからね」
「バラしちゃいます? それ」
「他ならぬシンジ君だからね。隠し事はしないよ」
カヲルさんの言葉に加持さんは「わかりましたよ」と笑って僕の方に視線を向けて、ぺこりと頭を下げた。僕も慌てて頭を下げて挨拶を返す。
「俺は渚さんから命じられて秘書以外の仕事もしているんだ。例えば、親戚に預けられた少年の生活の様子を調べたり、とかね」
「彼の報告を聞いて血の気が引いたよ」
怒りで目の前が赤くなったというのが正しいか、と付け加える。親戚から邪魔者扱いされるのは初めから分かっていたことだから僕はあまり気にしてなかったけど。中学卒業したら寮のある高校に行くつもりだったし。
「ずっと、気にかけてくれてたんですね」
「当たり前だよ。大切な友人の息子なんだから」
「その友人の息子に手を出したくせに」
ボソリとした呟きにドキリとする。加持さんは知ってるんだ。僕とカヲルさんの関係を。自分が望んだことで後悔なんてしないけど。
「リョウちゃん」
「ははは、すみません。えっと、それじゃ俺はこの辺で失礼するとして。……後始末は任せてください」
カヲルさんに睨まれた加持さんは物凄い早さで部屋から出ていってしまった。残されたのは二人。いつも二人きりで過ごしていたのに、久しぶりだからか凄く緊張する。何となく太腿の上で指を握ると、その手を包むように上からしっかり握られた。途切れた会話を再開したのはカヲルさんからだ。
「僕は、シンジ君を自分の元に迎えると決めた。一番確実なのは君の叔父から後見人の権利を譲り受けることだったんだ。その時点で君の両親の遺産に手を付けるほど経営が傾いていたから、取引にはすぐに応じてくれたよ」
「そうとは知らずに、僕が家出しちゃったから……」
「シンジ君が誤解するもの無理はないよ」
話をしようにも僕が家出したせいで余計に拗れてしまった訳で。形だけ見れば、お金で人を買ったように見えなくもないし。実際に僕はそう思っちゃったし。
「家出するくらいに嫌がっているなら無理に後見人になる訳にもいかないからね。だからと言って、シンジ君を野宿させる訳にもいかなかった」
カヲルさんの話から僕の動向は見張られてたということが確定する。加持さんが調査していたと言っていたから驚きはしなかった。結構自暴自棄気味だったし、声をかけてくれたのがカヲルさんじゃなくても、どうでも良くなってついて行ってたかもしれない。すぐに保護されて良かったと思う。
「結構強引だったと思うけれど。まずは僕のことを知ってもらわなければと思って。もちろん時が来たら君に全て話すつもりだった」
「じゃあ、婚約者のことは?」
保護するだけなら、偽物の婚約者になる必要なんてなかったと思う。あの時は僕が遠慮しなくていいようにしてくれたんだとばかり思っていたけど。理由はそれだけじゃないのかな。
「……偽物の婚約者なんて初めから必要なかった。ただ、君を引き止めるために提案しただけの契約だったんだ」
「そうなの? ……だったらどうして……その、僕と……えっちな、ことを……」
言いながら全身がブワッと熱くなる。でも聞かなきゃいけないことだ。あの時は婚約者の演技を完璧に出来るようになるため、っていう理由があったけど本当は必要なかったとしたら。どうして僕と……セックスなんてしたの? 性欲処理が必要なら僕みたいな子供じゃなくて、もっとちゃんとした相手を選ぶはずだし。
「僕が君と、セックスした理由が知りたいかい?」
「……うん」
知りたくないはずがない。僕がカヲルさんにどう思われてるのか、それって物凄く大切なことだから。重なった手が熱くて、胸がドキドキうるさい。もっと奥深くまで触れ合っているのに、指先が絡み合うだけで顔から湯気が出そうになる。たぶん、顔も耳も真っ赤になってるんだろうな。そろそろと視線を向けるとカヲルさんは真っ直ぐに僕を見ていた。その目には僕だけが映っている。赤い瞳に熱を感じた。
「一目惚れだった。君を初めて見た時から惹かれてたんだよ。君を救う為に迎えに行ったはずなのに、触れたくて堪えきれなかった」
「……それって……カヲルさんが、僕のこと好きってこと……?」
「好き? ……いいや、愛しているんだ。僕は君に出逢うために生まれてきたんだと思うほどにね」
カヲルさんの言葉に息が止まりそうになる。だってカヲルさんは大人で、いつも余裕たっぷりで、僕ばっかりが好きで振り回されてるんだと思ってたから。
「……シンジ君の気持ちを聞かせてくれないか」
「ぼ、僕は……もう、偽物の婚約者にならなくていいんだよね?」
「そうだよ」
「カヲルさんのこと、好きになってもいいの?」
「勿論だよ」
返事をしながらカヲルさんが僕の身体をぎゅっと抱きしめる。カヲルさんの胸に耳が当たって、心臓の音がよく聞こえた。僕と同じくらいの速さで鳴ってる。カヲルさんも僕と同じだと思うと嬉しい。嬉しくて、胸がいっぱいで、涙が出そう。もう我慢しなくていいんだ。カヲルさんのこと好きでいていいんだ。カヲルさんも僕のこと、好きだって言ってくれたから。
「……僕も、カヲルさんのことが好き……」
もっと言いたいことがあったのに言えなかった。気持ちを伝えたくて開いた口にカヲルさんの唇が重なってきたから。柔らかくて温かくて、気持ちいいカヲルさんのキスに身も心も蕩けてしまう。こんなに幸せでいいのかな。
「……ん……」
ちゅっと音がしていつもより短いキスが終わる。もっとしてもいいのに。ちょっと残念に思いながらカヲルさんを見た。赤い瞳を細めながらカヲルさんが僕を見つめ返す。僕の身体を支えていた手がするすると移動して僕の左手を取った。薬指に硬い物が触れる。それは僕が置いていった大切なもの。
「忘れ物だよ。この指輪は、世界に一人だけのために作った……君だけのものだ」
薬指にぴったりと収まった銀色の指輪。カヲルさんの婚約者になった証。大切なものを取り戻せた喜びに一生懸命堪えていた涙がぽろりと落ちて、目の前で困ったように笑うカヲルさんがまたキスをしてくれた。