地獄極楽、紙一重「何を、しているんですか」
我ながら冷静さを欠いているな、と思いつつも福沢諭吉は低い声を出した。場所は隠し刀の長屋、床に倒れた男をもう一人の男が覆い被さらんとするという珍妙な状況の現場である。もう一つ重要事項を付け加えよう。床に倒れている男は諭吉の情人である隠し刀で、もう一方はごろつきの権蔵だった。
人間二人が物理的に密接となれば即ち関係を持っていると解する、そんな思い込みの激しい性質ではないものの、諭吉が狼狽えてしまったのは、普段からこの二人が子犬のようなじゃれ合いをしているために他ならない。何しろこの横浜では坂本龍馬の次に長い仲であるらしい。関係性とは時間の長さよりももっとこう——いや、やはり駄目だ。何が理由だろうとも気に食わない。
権蔵は戸口で立ち尽くす諭吉に驚いた様子だったが、あっけらかんと答えてみせた。
「按摩だよ。あんた、ちょうど良いところに来てくれたな。俺だって疲れてるってのに、人の世話までしてられねえってんだ」
「お前がそれを言うのか?」
あっさりと離れゆく権蔵に、床に転がったままの隠し刀が呆れたような声を出す。驚いたことに、どうやら本気で動けないらしい。青虫のようにうにょうにょと床を這おうと試みるもそれすら難しいのか、腕がぎし、と動いてすぐさま床に落ちた。流石にこれは冗談ではないと判断し、諭吉は草履を脱いで部屋に上がった。
「ええと……どうしてこのような状態になったのか、事情をお伺いしても良いでしょうか」
まだまともな状態らしい権蔵に、先ほど疑るような物言いをしたことを恥じながら問いかける。素人目にも素性がよろしいとは言えぬ男に、先入観があったのは確かだ。粗野で、不衛生で、不道徳である。しかし、おうよ、と返す男の目は雨上がりの青空よりもずっと澄んだ色合いだった。
「蒔田城跡をまた山賊が根城にしてるって話を聞いてよ、こいつと一緒に一儲け……じゃなかった、一つ正義ってやつを成してやろうと出かけたんだ」
あそこに行くには阿鼻機流が便利だ、と続く説明に諭吉は件の場所を思い起こした。以前隠し刀に、景色を見に行こうと誘われ並んで阿鼻機流で城跡の上を飛んだことがある。最初はあまりの高さに目が眩みそうになったものの、神もかくやという視界の広さに夢中になった。あの日の夕焼けはとりわけ綺麗で、未だに夕陽の赤を観ると風が吹き抜けた感覚と共に思い出す。
「まあ、俺たちにかかればどうってこともなかったな。あんまりあっさり終わったもんだから、どうせなら滑空訓練でもしようって話になったんだよ。そうだよな?」
「……ああ」
近場の山が程よい訓練場になっているらしい。権蔵は自慢げに鼻を鳴らすと、ばんばん、と胸を叩いた。
「ただ訓練するだけじゃ面白くない。どこまで飛べるか、早く飛べるか、酒を賭けて勝負をしたのさ。ま、この権蔵様を相手にしたのが運の尽きだ。なんてたって、俺の方が先に使っていた道具なんだからな」
ぎゅ、と隠し刀の眉間に皺が寄ったことで勝負の行方は容易に想像がついた。権蔵は余裕ぶっているが、二人の体力はどっこいどっこいに違いない。僅差の争いに白熱して、陽が傾くまで延々崖を登っては降りを繰り返したのだろう。最後に立ち上がることができた権蔵が、お荷物となった隠し刀を背負って帰ってきたのだという。
額に手を当てると、ため息ひとつついて伸び切った隠し刀を見下ろす。途端に情けない表情のままそっぽを向こうとするので、諭吉はそっとその肩に手を置いた。
「承知しました。そのような事情であれば致し方ありませんね。彼の面倒は私が見ましょう」
「おう、任せたぜ。あんまり無茶はするなよ!」
よっこらせ、と立ち上がる権蔵の足取りは些かおぼつかないが、あれは野良犬並みに頑丈だから大丈夫だろう。冷たい判断を下すと、諭吉は表情を和らげた。
「ですって。申し開きはありますか?」
「……ないな」
苦笑するのも辛いのか、隠し刀の声にいつもの余裕はかけらもない。
「空を飛ぶのは気持ちが良いですけれど、風を受けるのは地上よりも負荷がかかります。あなたは鳥じゃないんですから、これに懲りてほどほどにしてください。約束ですよ」
「約束する」
息も絶え絶えな情人の姿を、諭吉は素直に可愛らしいと思った。隠し刀はそれはもう強く、ひょっとすると人ではないのではないかと疑ってしまうような人物である。それがどうだ、反論もせず、揶揄いもせず、ただただぐったりとしている。今なら素人でも容易く首を捻れるだろう。実際彼には敵が多い——いつ狙われてもおかしくはない。そう思うと矢庭に彼を守ってやらねばという妙な義務感にかられ、諭吉は布団を敷いて情人を寝かせてやった。
「では、大人しく横になっていてくださいね」
しゅるり、と手袋を脱ぎ、続いて羽織を脱ぐと隠し刀がかっと目を大きく見開いた。予想通りの反応に堪らず笑いが溢れてしまう。注目してくれて何よりだ。ここを訪れるまで、思い描いていたあらゆる状況を覆された身の上として、せめてもの意趣返しである。動きやすいように身支度を整えると、諭吉は先ほどの権蔵と同様に相手に覆い被さった。情人の胸が大きく上下する。土と緑の香りが鼻をくすぐった。
「言いませんでしたか?僕は按摩も得意なんです。いざとなったら小遣い稼ぎくらいはできる腕前なんですよ。いつか、あなたには湯屋で散々介抱してもらいましたよね。そのお返しです」
初めて同衾する直前の出来事を語ると、隠し刀はぽっと頬を赤らめ、ついで戸惑いの表情を浮かべた。風がそよぐよりも僅かな変化だが、深い付き合い(そうだ、長さではない)を重ねた諭吉には簡単に見て取れる。身体を弛緩させるべく優しく全身を揉みながら、諭吉は好き勝手出来る稀有な状況を楽しんだ。
「あんまり気持ちが良かったものですから、あれから少し精進したんです。あなたには元気で居て欲しくて……気持ち良いですか?痛かったら、いつでも言ってくださいね」
「気持ちが良い。諭吉は腕が良いな」
心底感心した物言いは、権蔵に負けず劣らず他意がない。こうして情人に触れている最中に、ちょっとした悪戯心が湧きそうになる自分がおかしいのだろうか。相手は疲労困憊の体で何もできないというのに困ってしまう。閨ではなかなか相手から聞くことのない、ああだとかうんだとか、思わせぶりな喃語を冷静な頭で聞くのはなかなか酷だった。
おかしい。自分は親切心と得意技を披露するために按摩に励んでいるはずが、想定通りにうっとりと目を瞑る隠し刀に対し、安堵するどころか苛立ちを募らせつつある。いつも奉仕されるそれをそのまま返しているだけだというのに、何が不満なのだろう?狂い始めた理性を他所に慣れた体は的確に動いて、凝り固まった筋肉をほぐしていった。明日は筋肉痛に悩まされずに済むだろう。仰向けから体をひっくり返す頃には、少し動けるようにまで回復していた。経緯はなんであれ、結果が出るのは嬉しい。嬉しいのだが、どうして自分は素直に喜べないのだろう。背骨をなぞり、腰骨をぎゅうと掴む。
「諭吉、痛い」
「あ、すみません」
悩んでいたらば力加減を誤ったらしい。謝罪をして相手の顔をちらと見れば、情けなさそうにへにょりと眉毛が力を失っていた。見たことがない。こんな表情は、かつて一度も――
「体が動かないならば、動かさないままという手もありますね」
「え?」
するりと口から吐き出されたのは、我ながら冴えた考えだった。鳴かぬウグイスをどうこうするよりも、鳴かずとも好いようにする方が格段に賢い。なるほど自分は興に乗りたいのだ、と諭吉はようやく理解した。腑に落ちれば晴れやかなもので、按摩をする手も捗る。
まずは確り体を回復させよう。楽しむ余裕あってこその試みだ。困惑しつつも、隠し刀は鼻にかかった甘い声を漏らす。権蔵が帰ってくれて本当に良かった。他人に聞かせたらばと思うと肝が冷える。くらくらするのは自分だけではあるまい。負けそうになる理性を叱咤し、諭吉はぐっと腹に力を込めた。
〆.