有意義な休日 あらゆる時間には意味がある。目的があればそれに向かって寸暇を惜しんで努力しなければならないし、生活するためには衣食住を事足りなさせなければならない。他に大切なものができれば、そちらにあらゆるものを惜しみなく注ぐだろう。やるか、やらないかという選択肢はなく、ただやることだけが永遠に続いてゆく。公私の境目などあったものではない。全てが公であり私だった。道具として育てられてきた隠し刀にとって、この『生き方』はごく当たり前のものだが、どうやら世間では少しばかり勝手が違うらしい。
じりり、じりり、と両腕に力をこめながら薬研を均等に動かす。前へ、後ろへ。無心にこなせる作業なので、慎重を要するとはいえ思考を他に使える点で好ましい。じー、じっ、ざりりという音が長屋に充満するのも時間を刻むようで耳心地が良い。一個できた分を油紙に包んで軽く捻る。材料を補充し、薬研に手をかけたところで道具よりも先にしゃがれ声が割入った。縁側で猫と遊んでいる権蔵だろう。
「お前も毎日飽きないよなあ。今度は何をしてるんだ?」
「痺れ薬の製作だ」
権蔵の問いに顔も上げずに答え、残数を再度確認する。あと八個ほど作れば当面は補充せずに済みそうだ。先日ならずものを討滅した際に、思った以上に手を焼いて使い過ぎてしまったのだが、事前に素材を取り揃えておいて良かった。だが今度はその素材の方が心許なくなりはすまいか。明後日に何をするかはまだ決まっていないので、素材を集める時間を当てても良いだろう。
「へえ。その次は何するんだ」
「お前に特別な用事がなければ、そろそろ犬が帰ってくるから犬の世話をするかな」
「その次は?」
品の良い煙草のようなスッとした声が響き、隠し刀は今日は権蔵の他にも来客があったことを思い出した。この長屋は建屋の前に立ち入り禁止の看板をかけなければ、誰でも顔見知りが好きなように入り、好きなように過ごして勝手に出てゆく。家主である自分に用があるなしも無関係で、雑多な社会が凝縮した場なのだ。虚無よりはよほど良い風景で好ましい。ただ、そのため隠し刀自身もこうして訪問客への感覚が鈍りがちだった。
「諭吉が出した宿題をやろうかと考えている。ああ、急ぎではない。後回しにもできるぞ、サトウ」
「ふむ。その次は何をするのかね」
こちらの回答に頓着せず、怜悧な外交官であるアーネスト・サトウは質問を重ねた。英国領事の仕事に関わるのだろうか?例えば、一般的な日本人がどのような生活を営むのか、時間割を作成するだとか。だが自分の生活は特別なものは少しもない――あるいは全てが逸脱している。何の参考にもなるまい。思考はほんの数瞬で終わり、隠し刀はさらりと返した。
「夕食の支度だな。二人の分も作るつもりだ」
「気が利いてるじゃねぇか!」
わかりやすく喜ぶ権蔵に対し、今日は良い大根と豚肉が手に入ったからみぞれ鍋にするのだと教えると、肉が食べられるのかとあからさまにソワソワするものだから面白い。一方みぞれという単語に何か思い浮かべたのだろう、サトウは感じ入ったように目を閉じ、再び口を開いた。
「その次は?」
「おい、何かの遊びなのか?」
「権蔵君、これは真剣な質問なのだ。しばらく邪魔をしないでくれたまえ」
「何でぇ……わかったよ。あとでちゃんと理由を教えてくれよな」
「もちろんだ。約束しよう。それで?」
異国の友人が見せる誠実さが微笑ましい。この男は権蔵について野卑だなんだと文句を言いつつも、きちんと真正面から相対している。生来の律儀さと冷静さが彼を優れた外交官たらしめているのは間違いないだろう。故に、自分の情人である善良な福沢諭吉とも仲の良い友誼を結んでいるのだ。諭吉は一応物腰柔らかではあるのだが、人の好き嫌いは割合にはっきりした人物でもある。心底嬉しそうに酒抜きでも話せるのは、相手に好感を抱いているからに他ならない。
「二人がまだいるならば、酒盛りをするだろう。おっと、その前に猫の世話だな。ひと仕事を終える頃合いのはずだ」
次は、次は、と子供がせっつくように続けられる問いに澱みなく答える。よく飽きもせずに他人の生活を微細に知りたがるものだ。とはいえやることは概ね決まっているとしても、必ず何かをするだけであって、その時にするとは限らない。突然の用向きができても良いように融通は利かせている。その辺りの事情も念の為伝えると、サトウは長い長い連なりの先で呆れたようにため息をついた。
「君の生活はまるで僧侶のようだな。余暇を過ごすことはないのかね」
「余暇……遊びだったら、お前たちともしているだろう?」
「いや、余暇は遊ぶとは限らない。私が言いたいのはだ、君は目的をこなす用事以外の時間を持たないのか、ということだ」
奇妙な質問だった。行動には常に目的があるだろう。闇雲に駆け出してあたら道草を食う習慣はない。流石に答えに詰まっていると、横で大人しく黙っていた権蔵が愉快そうに背中を揺らした。
「あんた、目の付け所が良いな。そうだよ、こいつはぶらぶらするとか、だらだらするっていう頭がはなからないんだ。信じられねぇだろ?大真面目なんだぜ」
「ぶらぶら、だらだら……面白い響きだな。意味はわからないが、朧げに理解できる。君たちの言葉は相変わらず興味深い」
二人の会話の意図が見えず、隠し刀はただ耳を傾けるに任せた。ぶらぶら、だらだら。諭吉といる際にはしばしば行っていることだが、恐らくサトウに言わせればそれは厳密には異なると否定されるだろう。実際、諭吉が羨んでやまない西洋文化の持ち主は、こちらの心を読み取るかのように肩をすくめてみせた。
「私が言いたいのは、君が勤勉で熱心であることは称賛されるべきだとは思う。だが、人は永遠に動き続けることは不可能だ。心身ともにな。君が恋人と過ごす時間に肩の力を抜いていることは承知している。しかし、こう考えてみたことはないだろうか?」
真剣な調子に権蔵が茶化そうともしない。それほど、『人』にとって――自分にとって重要なことなのだ。
「日本が西洋文化に適合してゆけば、恐らく武士に当たる兵士たちはごく限られた人数になるだろう。道端で刃傷沙汰が起きることはなくなり、武器を持つ機会はほぼ失われる。これは希望的観測だが、君が大きな目的としているその、片割れ探しも円満に終わった。要するに『仕事』で全てを埋めることはなくなる。君の恋人は西洋に留学し、一人でこちらに残った時――君は空白の時間を多く抱えることになる」
その時どうするのか?どう、その『手持ち無沙汰』を過ごすのか。まるで考えたことのない未来絵図に、隠し刀は深い深い穴の底に突き落とされたような心地でいた。サトウの問いは鋭く、自分がいかに未来から目を逸らしていたかを痛感させる。諭吉が留学すること、彼が自分のもとを去るであろうことは以前も想像したことがある。どれほど辛いか、寂しいかを考えただけで胸苦しくなったものだ。だが、今ある生活全てが変わってしまった時、『必要なこと』を失った自分に何があるというのだろう。
「言っておくが、新しい仕事を考えるという話ではない。私の周囲にもいるが、人生の全てを仕事や予定だけで埋める人間は大概……どこかで燃え尽きてしまう」
「いるよなあ、根をつめすぎてヤケクソになるって奴はよ。自分の命も惜しくなくなるんだ」
ざくり、と権蔵の言葉がさらに深く心を突き刺す。要するに彼らは、隠し刀が脆くなり、自ら折れやしないかと憂慮しているのだ。所詮は他人の人生、何を真面目にと笑い飛ばしてやりたいが、強がりができるほど今の自分には余裕がなかった。実際、サトウがあげ連ねた事象一つを手にとっても、自分がどう過ごすべきかはまるでわからない。薬研を動かすこともできずに固まっていると、サトウはこほん、と咳払いをした。
「つまり、私が言いたいのは、君は一人で息抜きをする練習が必要ということだ。趣味か何かあれば良いのだが、私が見る限りないようだね」
「趣味」
やはり思いつかない。他人が趣味を持っていることは理解しているし、それを踏まえて贈り物などはしている。いつぞや諭吉に、あなたに贈り物をしたいと言われた際に答えあぐねたことが思い出された。あの時は何と言ったか――彼との思い出が欲しいと、有耶無耶にするような、しかし真意を伝えたはずだ。情人がどこか不満そうな、寂しそうな表情を浮かべたのは、自分の答えが不味かったのだろう。
「急に持てと言われても困るだけだろう。それこそ、仕事探しのようになっては本末転倒だからな。……そこでだ。馬の競争を観に行かないか?」
「馬の競争なあ。早駆けみたいなもんか?」
「概ね正解だ、権蔵君。西洋では、早駆けを複数の馬を並べて行う催しがある。もちろん、君が好きな賭け事もすることができるぞ」
サトウはこの唐突な申し出に対する、異人の取り組みについて簡単に説明した。なんでも、彼らは横浜の地が開かれた当初から馬の競争を行いたいと願っていたらしい。競争には専用の道を整備する必要があるのだが、現在幕府に掛け合うものの目処がついていない。熱烈に求める異人たちは、当面は遠乗りを兼ねて行うのだという。吉田新田の近隣で競走馬の放牧まで手がけているのだから、その本気度が伺えるようだ。
「ウィリアムから明日行かないかと誘われていてね。おっと、今回は福沢君抜きだぞ。これは君一人が考えるべき問題だからな」
「……わかった。行ってみよう」
「俺も行っても良いか、サトウ?」
「構わないとも。物騒な真似だけは控えると約束したまえ」
「へ、わかってらあ」
ただ馬を見に行くだけだ、と隠し刀はゆるゆると薬研を動かした。そんなことで自分が仄かに恐怖さえ抱く、空白の未来が埋まるはずもない。だが、いつかその時はやってくるはずで――じ、じ、と動く手はどうにもぎこちなかった。
人生仕事が全てではない。こよなく己の仕事を愛し、ついで自らの幻想を現実のものへと変えたアーネスト・サトウにとって、仕事はあくまでも人生の一部だった。より充実した生活を送るための手段であり、目的であって全てではない。勤勉・勤労の精神は尊ぶものの、己を顧みないことばかりは個としての生を軽んじていることになりはすまいかとも思う。自分が属する西欧社会でのみ通じる価値観であるかもしれないが、駿馬が自らその脚を潰す様を制するくらいはしても良いだろう。
隠し刀は興味深い人物である。良くも悪くも裏表がなく、自分の目的に真っ直ぐに邁進し、疑いさえ抱かない。うっすらと伝え聞く彼の境遇によるものなのだろうが、交流を重ねるにつれてサトウは僅かな憐憫と共にその純朴さを貴重に感じるようになっていた。この人間を母国に連れ帰って学ばせたらば、どれほどの活躍を見せるものか見てみたいとさえ考えつつある。我らが良き友人である福沢諭吉が知れば歯噛みして威嚇してきそうだ。
サトウは心密かに隠し刀と諭吉の関係が深まるのを応援し、友人同士が仲睦まじい恋人になってからもささやかながら応援し続けている。否、自分のひと推しがなければ二人はいつまでも宙ぶらりんな関係を続けていたかも知れない。だからこそ、一層二人の仲が続いて欲しいと願うのは当然のことだろう。両人ともに真面目で、直向きで、大変結構なことだ。されど一方は人間として歪に整いすぎている。道具とて、毎日酷使すればすり減る一方だ。人間ももちろん例外では無い。
長らく観察を続け、権蔵からの証言も確認した結果、サトウが出した結論は隠し刀は己を解放する習性がないというものだった。彼は考えない時間はなく、体は何かを成している。休息は取らねばならないから取っているだけであって、だらけたいという考えがないのだ。怠惰は罪だが、修道士でもあるまいし、ましてや俗世の人間と睦まじくするのであれば多少肩の力を抜いても良いだろう。
抜き方を知った上で、抜かないことを選ばないならばサトウも個人の嗜好の問題として看過しよう。しかし、どう見積もっても隠し刀はエデンの園を追放される前のアダムとイブのようにものを知らなかった。
「神とて休むというのにな」
独り言すると、サトウは横浜貴賓館の一角へと向かった。談話室の手前、ちょっとした事務所のような状態になった場所で作業をする諭吉はこちらに気づくと、常と変わらず丁寧なお辞儀をして見せた。同じくお辞儀をして返すと、サトウはチラリと相手の様子を伺った。特段変わりはなく、天候は良好。当たらず障らずを心がけると、できるだけ穏やかな表情を浮かべて本題を切り出した。
「福沢君。今日、少しばかり隠し刀をお借りする。おそらく戻りは夕食には間に合うだろう」
「……それはそれは。わざわざ僕に断るような話ではないと思いますが。別段彼の上司でも、家族でもありませんし」
むっすりとした返答が、早くも会話に暗雲を垂れこめさせている。恋人と同じく、彼もまた純粋素朴なのだ。だからこそ、後々誤解を招きたくないという気持ちが伝わる日は来るまい。さながら外交交渉の如く冷静に判断しつつも、サトウは容赦なく一歩踏み込んだ。
「似たようなものだろう」
「っ」
「安心してくれたまえ。私は君たちの関係を好ましく思うが、それ以上でも以下でもない。ただ、礼儀正しくあろうとしているだけだ」
虚を突かれた諭吉の表情と言ったら!取り澄ました礼節の全てを落とした男は、ううんという唸り声と合わせて実に人間らしかった。
「今の所、ここで気づいているのは私くらいのものだ。彼を荒事や色事に関わらせることはないと、約束しよう。了解してくれないか」
「子供でもあるまいし」
相当堪えたのか、模範的な男は恨み言をぶつくさ呟いている。酒席以外でこうも感情を露わにするとは本当に珍しい。それもこれも、隠し刀が絡んでこそだ、とサトウはしばしその青さを楽しんだ。煩悶を続けた後、諭吉はようよう口を開いた。
「やましいことではありませんね?」
「ない。気に入れば恐らく、彼は君を誘うだろう」
「承知しました」
かくて、大義名分を得たサトウは意気揚々と吉田新田に向かえることとなった。領事館の前で馬と並んで待っていた隠し刀たちに駆け寄ると、恋人を置いていく男は無言で首尾を尋ねてきた。
「大丈夫だ、了承をもらったよ。気兼ねなく出かけるとしよう」
「ミスターが行ったほうが良かったんじゃないか、アーネスト。この国では、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られるそうだぞ」
豪快に笑うのは同僚にして医師であるウィリアム・ウィリスで、彼に似て丈夫そうな馬の首を撫でている。今日顔を合わせるまでサトウも知らなかったのだが、隠し刀とは既に知己の間柄であったらしい。ひょっとすると領事館の周辺を偵察でもしているのか、と疑ったが蓋を開けてみれば平凡な偶然だった。薬草採りに出かけたウィリアムを隠し刀が助けた、というのが縁の始まりだという。善良なもの同士が知り合うならば、深読みしても無駄だろう。
「駄目だ。彼は誘惑に勝てまい」
「……感謝する」
点頭する隠し刀には十分意味が通じたようだ。第一、未練があっては今日の目的は果たせそうもない。事情を知ってか知らずか、権蔵がケラケラ笑って馬に乗る隠し刀の後ろに乗った。
「はは、良いじゃねぇか。お前にもそういうところがあるとわかって、安心したぜ」
「権蔵」
「な、なんでい」
「落ちないようにしっかり捕まっておけ」
あからさまに不機嫌を押し出した声音に笑うのは、今度はサトウとウィリアムの番だった。もう一頭の馬にはサトウとウィリアムで乗り、駈歩を始めようとする隠し刀の前に出る。半馬身後ろをぴたりと離れずに馬を操る友人の手腕は冴えたものだ。振り落とされる危険性は何処へやら、後ろに乗せた権蔵も口笛を吹いて楽しんでいる。かくも馬に慣れ親しんでおきながら、馬を主に道具としか見ていないことは実に残念に思われた。この国の馬は働き者だが、馬にはもっと可能性がある。
他にも動物は世界に溢れているというのに、horse rasingを中心とした欧米社会の熱狂はどこから来るのだろう?似たような催しは騎馬民族などでも行われると聞くが、専用の馬場まで設ける熱心さは随一のように感じられる。その興奮が御伽話の国にも伝播する日を望んでやまない。
馬の競争をする場所、というのは冬場で天地返しがされた稲田を囲む畦道だった。確かに今の時期、日中畦道を行き交う人間は少ない。使用料を支払い、馬の落とし物も渡すという条件で持ち主たちからも了承を得ているそうだ。順路を示す旗竿が翻り、周辺に異人や住民たちが集まっていることでちょっとした祭りのような空気を醸し出している。
たかだか馬が走るだけで人が集まるというのは、隠し刀には実に奇妙に思われた。馬は生活の中で身近な存在であり、財産だ。移動手段や移送手段以外で自由に使える人間は少なく、使おうとする人間も少ない。しかも遠乗りではなく、決められた狭い範囲をぐるりと走らせ、その速さを競うとなると想像だにしない遊びだった。
「走路は今日のために整備したそうだが、本来は芝生が望ましい。馬に怪我をさせないためにも、もう少し幅が広い走路を確保する必要がある」
サトウとウィリアムの熱烈な説明によれば、海の向こうでは専用の馬場があるのだという。地面に枝で描いてくれた図を見る限り、横長の楕円形をしたもので、実際には傾斜もついているそうだ。ついで権蔵のためにも、競争で行われる賭け事の仕組みについても話がなされ、煙にまくような八百長伝説も展開される。どこの国でも博打にイカサマはつきものらしい。早速参加しようと息巻く権蔵に、ウィリアムは今日は試走であるため賭け事はなしなのだと残酷な結末を告げた。
「人気だから、後日また開催されるだろう。がっかりするには早いぞ、ゴンゾー」
「……そしたら、また誘ってくれよ!絶対だぞ」
「承知した。謹んで招待させていただこう」
「始まるようだぞ」
サトウの言葉に合わせるようにして、開始地点のあたりで喇叭が吹き鳴らされる。四頭の馬が畦道の幅にぎっちりと収まり、一列に並ぶ姿は勇壮だ。乗り手は皆異人らしく、揃いのベストが鮮やかな色合いで祭り気分を盛り上げている。箱を積んだ上に立つ男が群衆に静かにするよう身振りで示すと、辺りはしん、と水が打ったように音を失う。1、2、3、
パン、と乾いた銃声と共に一斉に馬たちが駆け出す。互いが触れるか触れないか、すれすれの空間を乗り手は巧みに誘導して前へ前へと進み行く。抜きつ抜かれつ、曲がり角で内側に滑り込む一頭の名前を観客が叫ぶ。危うく道を外れそうになる馬が出れば野次が飛ぶ。誰もが馬たちの躍動に釘付けとなっていた。ただ、馬が走るだけの事象である。だが隠し刀もまた、彼らの頑張りから目が離せそうになかった。
「美しいだろう」
隣に立つサトウが、ため息をこぼしながら放つ台詞にも頷かざるを得ない。こんなにも早く走る馬たちの姿をまじまじと眺められる機会はそう多くはない。ただ走るための道具としか見なしていなかった生き物は崇高で、なるほど異人たちが夢中になるわけだ。第一陣があっという間に終わり、一番に辿り着いた乗り手に祝福の喝采が贈られたかと思うと次の部隊が一列に並ぶ。次、次、次。夕方いっぱいまで馬たちは入れ替わり立ち替わり走り、人々の歓声はやむことがなかった。
箱の上に立った男が帽子を脱いで合図をし、英語で終了を告げれば三三五五に群衆が移動する。サトウが何故自分をここに連れてきたかは結局わからなかったが、見せ物が終われば自分たちも帰るのだろう。帰り支度を始めた隠し刀に、サトウはまだ行く場所があるのだと引き止めた。
「少し先に、馬たちが休む牧場がある。最後にそちらに寄ってから帰ろう。ウィリアムと権蔵君は、興味がなければ帰ってくれても構わない」
「だ、そうだ。どうする、ゴンゾー」
「ここまで来りゃ、最後まで見ねぇのも惜しいだろ。俺もついて行くぜ」
「決まりだな」
来た時と同じく、仲良く四人で乗りあって馬を走らせる。先ほどの競争を共に眺めていたためだろうか、馬たちにも興奮が伝染したらしく抑えるのに一苦労だった。あんな速さで走ったらば往来の迷惑になってしまう。牧場に着くと、柵の中にこれまた今まで目にしたことのない数の馬が自由に動き回っていた。馬から降りて柵に近寄り、サトウは見ろ、とあちらこちらの馬を指差した。
全力で走る美しい馬の姿はそこにはかけらも見受けられない。のんびりと草を喰むもの、寝転がるもの、他の馬と戯れるもの、ぼんやりとぱっかぱっか好き勝手に歩いたかと思うと走り、また気まぐれに立ち止まるもの、人と同じく馬も好き勝手に時間を過ごしている。もう競争していないのだから当たり前だが、限界を突き詰めた姿を見た後では拍子抜けする光景だった。
「なんというか……うちにいる猫そっくりだな」
「ああ。今は仕事の時間ではないからな。心は自由だ」
自由。隠し刀も藩を抜けた瞬間に得たものだが、馬たちの様子はそれともまた違うようだった。彼らの多くは――言い方は悪いが、何も考えていない、何もしていないように見える。素直に感想を話すと、権蔵が我が意を得たりと手を叩いた。
「ぼうっとだらだら、ぶらぶらしてんだよ」
「あれが」
サトウが自分にも必要だと言った仕草なのか。馬たちと同じように『何もしなくて良い』時間に直面した姿を想像し、隠し刀はしばし目を閉じて小首を傾げた。あんな風に、うまく自分も『休める』だろうか。空白の端から、思い出が手を差し伸べて易きに流れようと誘導する。
「彼らが集中して走ることができるのは、生活に減り張りがあるからだと、私はそう思う」
「サトウもそうなのか?」
「ああ」
「アーネストはこう見えて冒険が好きなんだ。先日も夜中に宿舎を抜け出して、」
「ウィリアム!今は私の話をしているのではないだろう。ともかく、君もたまには心身ともに『なすべきこと』から解放されて欲しいと、そう思ったまでだ。お節介だとはわかっているがね」
「……ありがとう。心配してくれたんだな」
ぴゅう、と口笛を吹いた権蔵がサトウに睨まれる。くすくすと笑いながら、隠し刀は友人に心配される自分は幸福なのだと思った。
夕飯に戻るという言葉に導かれて、というわけではないが、諭吉は約束もなしに隠し刀の長屋を訪れていた。門前で寝転ぶ犬に挨拶をして引き戸を開けるも、家中はしんと静まり返っている。まだ出かけている最中か、あるいは外で食べることにしたのか、そんなところだろう。気まぐれで訪れた己の楽天さに肩をすくめて帰ろうかと諭吉は辺りを見渡し、あ、と声を上げた。縁側にぐでんと一人、男が寝そべっている。見間違えるはずもない、情人だ。
「ごめんください。お取り込み中でしたか?」
「諭吉!」
優しく声をかければ、ぱあっと顔を輝かせて隠し刀がごろんとこちらを向いて転がった。起き上がるつもりはないらしい。またぞろ体を酷使して起き上がれないのだろうか。靴を脱いで上がるも、相手は寛いだ姿勢を崩そうともせず、ただ黙って諭吉を見つめるばかりだった。心持ち、困ったような表情を浮かべているのはどうしたことだろう。そば近くに寄って頭を撫でると、男の手が力なく触れ、驚いたことに離れてゆく。反射的に掬い上げて握るも、いつもであれば愛情込めて返される気配が皆無だった。いよいよおかしい。
「サトウさんと、どこかに行かれたのでしょう。楽しかったですか?」
「ああ。馬の競争を観に出かけたんだ。西欧では専用の競技として開催されるらしい」
綺麗だった、という隠し刀の目はキラキラと輝き、彼がその時間を存分に満喫したことが伺える。整えられた畦道やどこからともなく集まってきた観客、蹄鉄(この便利な道具についてもサトウとウィリアムから教えてもらったという、馬に靴を履かせるとは!)をつけた馬たちが上げる土埃、躍動する筋肉や流れる立髪の美しさ、騎手たちの危険と隣り合わせの競り合い、寝そべったままではあるものの、隠し刀の感想はとどまる事を知らない。諭吉以外の事物で、かくも言葉を尽くす存在は知り合って以来初めてのことで、己の自惚れを責めつつも嫉妬を覚えずにはいられなかった。
「次に開催される時には、諭吉と一緒に行きたい」
「ふふ、楽しみにしていますよ。それで、一体どうして寝転がっているんです?」
「だらだらしているんだ」
「だらだら」
可愛らしい音の並びに思わず頬が緩む。寝転がる情人の額から頬にかけて指先でなぞると、ちょんちょん、と諭吉は唇を突いた。歪んだ唇がペロリと舌を出して舐め、すぐさま引っ込む。先ほどから遊ぼうと仕掛けるたびにこの調子でつまらない。だらだら、とはなんぞや。
「サトウは、私は生活に減り張りを持たせた方が長続きするというんだ。このままでは私は走り続けるばかりで、いつか疲れて倒れるまで立ち止まるまいと心配しているのだろう」
権蔵はその鍵はぶらぶらだらだらにあるという。手持ち無沙汰をなんとなくぼうっとして過ごす、虚無を持て余さずに己の休みとして使うといえば妙技めいて響くものだから面白い。その結果が今男が試みている『だらだら』なのだ。
「馬の真似をするのは難しそうだから、今は猫の真似をしているんだが……私は休むのが下手らしい。だらだら、の間にも諭吉にあれを見せたらどんな顔をするかと考えていた」
「だらだら、は必ずしもしなくとも良いと思いますよ」
ぼうっとすれば自然と自分を思い出すなど、なんと愛らしいことか!たまらなくなって覆い被さるように上から口付けてやると、今度はむにゃむにゃととろくさい動きで応えられる。手間がかかる猫だ。が、それもまた良い。サトウや権蔵までもが真面目に隠し刀の行く末を案じるのは、彼が好かれている証左だろう。独り占めできるのは諭吉だけだ。
「あなたがだらだら、ぶらぶらを必要とする時に、僕のことを思い出してどんな気持ちがしましたか」
「楽しかった」
てろん、と甘ったるい言葉が口からこぼれ出す。表情こそわずかにしか変わらなかったが、声音だけでも痺れるほどに嬉しい。
「前に、無茶をする時には僕のことを思い出して欲しい、とお願いしましたよね」
「ああ。覚えている」
それは二人が付き合う始まりの時のことだ。隠し刀の隣にゴロリと寝転がると、諭吉はひたりと相手の目を見据えた。
「ならば、あなたがだらだら、ぶらぶらしたい時にも僕のことを思い出してください。きっと立ち止まれるでしょうから」
「うん」
そうしよう、とすぐには答えずに、隠し刀は少しだけ顔を歪めた。こんな幼児のような頼りない気配を漂わせるというのに、いつか置いていかねばならない。あるいは彼こそが自分を置いていくかもしれない。それでも自分を忘れず抱えていて欲しいと願うのは残酷な欲望だろうか?
「思い出すと、言ってください。僕も思い出しますから……いつまでも」
「諭吉は優しいな」
欲しい答えをくれる、と知らずに毒を食べた情人が頬を寄せる。これが優しさなどであるものか。サトウたちが心配するのに対し、自分のことでいっぱいのままに走って死んでくれたらと想像し、諭吉は唇の端を上げた。全く不健全でいけない。自分の目が黒いうちは精一杯だらだらさせてやろう。互いの体を弄り合いながら、有意義な休暇を貪る。
こんなだらだらがたまらなく好きだった。
〆.