岐路 祝祭とは、これすなわち文化だ。何を尊び何を忌むのか、各々の判断基準が自ずと現れている。日本の年の瀬はしめやかに進み、パンと大きく正月で弾ける仕組みだが、所変われば品変わるという奴で、欧米諸国では年末こそが盛大に祝う時期であるらしい。小さな開国地である横浜の外国人居留地で、福沢諭吉は色とりどりの異国の飾りをまじまじと眺めていた。
「Christmas Market、だそうですよ。売上は生活困窮者への年越しの補助に当てるのだとか。面白い仕組みですね」
自分も先だって教会の壁に貼られていた知らせを読んだだけだというのに、さも従前から知っていたかのようなふりをして情人を見遣る。隣で興味深そうに木彫り人形を観ていた隠し刀は、少し目を瞬かせた後に口を動かした。
「くりすます……よくわからないが、賑やかでいいな」
「基督教と絡められていると理解しにくいですが、要するに年越しでしょう」
新しい単語の発音を咄嗟に真似られず、まろやかな音が伸びて行くのは愛らしい。敢えて流暢に発音した甲斐があるというものだ。優秀な生徒でもある隠し刀は耳が良く、従って外国語学習者がしばしば苦労する発音も難なくこなせてしまう。最初の頃こそ雛のように可愛らしい発音だったが、今では堂々たる鷲のように己の力で羽ばたいて行ける力があった。それを少しばかり残念に、また切なく思うのは単なる諭吉の我儘だろう。子供はいつまでも子供ではなく、戻ることはない。
今日はクリスマス、それも夜はクリスマス・イブというものが待っているのだという。教会でクリスマスの存在を知って以来、横浜貴賓館で情報収集に勤しんだ諭吉は、今では恐らく日本一のクリスマス通になっていた。先日は同僚の西周に知識を披露したほどだ。どうやら西は異人にクリスマスの晩餐会に招待されたのだが、先方で何をすれば良いのかわからなかったらしい。祝宴は我が国のものと同じですよ、と話す諭吉はさながら長年異国に滞在していたかのように自然体だった。
それもこれも、元は情人と楽しい時間を過ごしたいという俗な考えに端を発している。生来の好奇心に加え、実が取れるとあれば身が入るのも道理だ。今日は料理屋も軒並み屋台を出しており、温めた葡萄酒や軽食を振る舞っている。薄く焼いた大きな煎餅状のものにくるくると豚肉と乳製品を挟んだ軽食(”がれっと”なるものらしい)を手に入れて二人して食べながら、諭吉は感慨深さから長々とため息を溢した。
ここは小さな異国、仮初の異国旅行が叶う場所だ。居留地を一歩出た先とは地続きであると信じられない風景が広がっている。教会からは厳かな合唱隊による聖歌が流れ、風琴が高らかに音を奏でる。鳴り物は良い。芝居ほど大袈裟でなく、ほどほどに賑やかで結構なことだ。自分たちと同じように、立ち入ることを許された日本人たちも束の間の開放感を味わってぶらぶら歩いている。
「お、始まるぞ」
不意に隠し刀が時計台を見上げた、と思うと同時にドンドーン、と激しい地鳴りが辺り一面に響いた。次いで、ピイピイと激しい口笛と拍手が鳴らされる。時刻は丁度午後五時、事前に周知された祝砲を上げる頃合いだった。続け様に空砲が打たれ、花火がないのが勿体無いと思うほどに激しくやり合う。普段鳴り物に対して然程興味を持たぬ、朴念仁の極みたる隠し刀もこれには心動かされるものがあるのか、ただ呆然と突っ立ったままで耳を傾けていた。鼓膜が震えてじんじんし、風が吹くと火薬の匂いが鼻を掠める。余韻が十分に過ぎ去った頃を見計らい、諭吉はゆっくりと口を開いた。
「幕府が返答の礼砲をするとは思いませんでしたね」
「ああ。少し前までは考えにくかったろう」
本当に心底驚いたのだ。音は海からだけでなし、陸側からも唸ったことくらいは見当がつく。危うい綱渡りをする、どちらかといえば日和見主義的な動きを見せる幕府にしては景気の良い振る舞いである。あるいは変事の前触れか。諭吉としては開国の兆しであってほしい所だ。
「いつか、諭吉と海の向こうに行けたら、楽しいだろうな」
「ええ」
諸外国について、隠し刀は多くを知らない。人や物が来るのだから本当に存在するのだろうが、この目で見るまでは実在さえ信じ難いという物言いをしたことさえある。この国の多くの人間が同じ感覚を持つだろう。世界の大きさを実感するには当人にとって何らかの実を持った体験がなければ難しい。一枚の葉で理解する人間もいれば、何日も海を進もうが疑いの晴れぬ人間もいる。だからこそ、啓かれる機会は多くあった方が良いというのが諭吉の考えでもあった。
「そのことですが――」
言うならば今か、と切り出して、諭吉は隠し刀の姿を見つけられずに困惑した。つい先程まで隣にいたにも関わらず、消え失せたことさえ気づかなかった。あるいは自分が抱える物に夢中で、注意力が散漫になっていたのだろうか。どれもあり得そうなことだ。ひょいと伸び上がって人波の中から探そうとしても見えない。子供であるまいし、はぐれてしまうとは何事か。ガレットを包んでいた紙を乱暴に畳むとぐいと懐に押し入れて、諭吉は名を呼びながら人垣の割れた場所を目指した。
「 」
名前を呼ぶ。自分が名付けた、自分のためだけの彼の名前だ。他の誰のものでもない特別な音が、非日常のあれこれに織り混ざって霧散する。これでは声が届きようもない。彼のことだ、勝手にはぐれたということは考えにくい。恐らく何らかの理由があって離れたのだと信じたい所だ。置いて行かれた、などという子供っぽい焦りを抱く余地はどこにもないはずだ。落ち着いて深呼吸をすると、諭吉は一つひとつ普段の行いを振り返り、己の確かさを肯定した。
「……しかし、ならば一体どうして」
「諭吉!」
「わっ」
いきなり飛び出してきた顔に驚き、思わず一歩後ずさる。どん、と他人にぶつかり、反動でもう一度別の他人にぶつかったところで、逞しい腕がはっしと諭吉の肩を掴んで引き上げた。
「すまない。驚かせてしまったな」
「あなたでしたか。もう、どこへ行ってしまったかと心配したんですよ」
滑らかな動きは間違いようもなく、尋人その人だった。つい拗ねるような口振で返してしまい、己の子供っぽさに恥ずかしさが込み上げる。もう良い大人で成熟しているはずだと、そう思って振る舞っているというのに、隠し刀の前ではどうにも形無しだ。修練の成果はどこへ行ってしまったというのだろう?きっと顔が赤らんでいるに違いない。居た堪れなさに顔を俯けると、隠し刀が口早に返す。
「声をかけたが、聞こえていたか確認が至らなかったな。親とはぐれた子供を番屋に連れて行ったんだ」
「あなたらしいですね」
その子供は幸運だ。親とはぐれてそのまま泣き別れ、というのは割に珍しいことではない。見るもの聞くもの、何もかも刺激的な場所に入り込んで帰ることが叶わなくなった人を、諭吉は幾人も知っている。隠し刀も心得た上で、見るに見かねて助けたのだろう。そも彼は家を失った人だった、と諭吉は後ろめたさにずんと胸が重くなった。
「そろそろ仏海軍の船に行こうか。ジュールが招待してくれた時間だ」
「ええ、行きましょう」
話は、また後でも良いだろう。否、いまだ話す決心がつかない。己の狡さを甘やかして、諭吉はぎゅ、と手を握りしめた。
仏国では、クリスマスは家族の集いだという。だがここは異国、愛しの我が家は遥か先である。洋上の家族は洋上の友、そんなこともあって今日の仏海軍の艦船はどれもが賑やかに飾られ、遠くからでもそのキラキラとした飾りやランプの灯りが昼間のように輝いて見える。ちょうど夕が夜に交代しようという頃で、紫紺の空に浮かび上がる艦船は竜宮城か宝船かのように錯覚された。
そのうちの一つ、ジュール・ブリュネが所属する船に乗ると、酒で真っ赤に茹で上がった海兵たちが満面の笑みで出迎えてくれた。甲板の上は宴会場と化しており、一角では人々が狂ったように踊っている。卓の一つに座っていたブリュネがこちらに気づくと立ち上がり、常と変わらぬ優雅さで挨拶した。
「Joyeux Noël!やっと来たな、隠し刀。来ないのかと心配したぞ。福沢もようこそ、我が船へ」
「時間通りだぞ、ジュール。酔って時計を読み違えたんだろう?会えて嬉しいよ」
「ブリュネ殿、ご招待いただきありがとうございます」
からかいの言葉にコツンと胸板を拳で叩くと、ブリュネも笑って同じ仕草を返す。この紳士はいかにも大人びているようで、時折こうした茶目っ気を見せるのだ。諭吉が言うところの、減り張りとやらがついているのだろう。もう米国へと去ってしまったマシュー・ペリーと同じく、大海のような剛柔兼ね備えたブリュネの佇まいを隠し刀は密かに羨んでいた。自分はここ数年、特にこの数ヶ月で随分人間らしくなったとはいえ、余裕のある振る舞いができていると問われたならば、答えは否だ。
例えば、先ほども何の気なしに諭吉に寂しい思いをさせて心配をかけてしまっている。今も、情人はどこか途方に暮れた風であった。いつか自分が円熟味を帯びたらば、彼の憂いは拭えるだろうか。瑣末な悩みを他所に、ブリュネは二人を椅子に座るよう勧め、並べられた食事をあれこれ示した。
「スモークサーモンはどうだ?良い牡蠣を取り寄せたからな、たくさん食べると良い。この日のために仕込んだ鳥も楽しみにしておけ」
「ふふ、美味しそうですね」
「全くだ」
パッと諭吉の顔が綻び、途端に胸がじんわりと温まる。ブリュネの説明はあまり良く理解できなかったものの、情人が喜ぶならば何だって構やしなかった。実際、これまでブリュネが振る舞ってくれた仏国の料理は概ね美味である。何でも、彼の国の料理は欧州随一で、露国も英国も良家は仏国人を料理人として雇うのだという。半分冗談であるとしても信じるに値する味である。今日もきっと存分に楽しめるだろう。海兵たちが卓上に杯を並べると、ブリュネは葡萄酒をなみなみと注ぎ入れた。
「だが、まずは乾杯だ。Santé!」
「「「乾杯!」」」
声を揃えて杯を掲げるのは、もう慣れっこである。一口軽く含み、その味を舌で転がし、香りを広げてもう一口。取り立てて説明はないが、きっとこれもまたこの日のために取っておいた特別な酒なのだろう。牡蠣に魚に、芋に肉、多種多様な食事がどんどんと運ばれ、諭吉以外ではなかなか浮足立たない隠し刀の気分も、否応なしに盛り上がった。酒のせいもあるのか、ふわふわとして心地良い。ブリュネからクリスマスの作法や謂れなどを聞く諭吉も楽しそうだ。
宴会全体が平和に賑わい、幸せに満ちていた。今日は無礼講なのか、珍しくも甲板の上には派手な洋装をした女性たちも混ざり、海兵と踊っている。異人の女性はそう多くないので、芸者を連れ出したのだろうか。しかしそれにしては随分逞しいようにも見える。はて、と隠し刀がぼんやり酒に浸りながら考えているうちに、女性達は一列に並んで手を組み合った。どうやら何か何か演し物が始まるらしい。
「Allez!」
「Courage, Oh!Hisse!」
ヒュー!と指笛が鳴らされ、俄かに周囲の兵達が総立ちになった。同時に音楽隊が激しくドンパンドンパンと太鼓を鳴らし、忙しく提琴を弾く。女性達から一斉に野太い声が上がり――思い切り右足が高々と天に向かって掲げられた。パッと鮮やかな白いドレスのひだの下からたくましい黒靴下が覗く。下袴のようなものが短く見えるが、もしかしたらば下着かもしれない。右、左、右、左、玩具のように脚が跳ね飛び、布がひらひらと舞った。
「えっ」
これにはさしもの諭吉も驚いたらしく、わあ、とか、ああ、とか言いながら目を泳がせて口元に手をやっている。恥ずかしがりながらも目が離せないらしく、どうしたら良いものかと戸惑う様が初々しい。一方の隠し刀は、ここに来てようやく違和感の正体に気がつき腑に落ちた。
「仏国の海兵は気合が入っているんだな。ジュールも昔はやっていたのか?」
「いや、俺の時代にはcancanはなかった。だが、似たようなものは踊ったような記憶があるな」
パチン、とブリュネが片目をつぶって葉巻を吸う。どうやらこの演し物は伝統芸能の一種らしい。
「え、あ、それって……もしかして、この方達は全員男性なんですか!」
「正解だ、福沢。俺の部下たちだ。Bravo!」
早い調子で拍手が打ち鳴らされるに合わせて踊りは激しくなり、だんだんと踊り子達が身につけていた仮初の乙女がずり落ちる。かつらや化粧の類が外れた時には、さすがの諭吉もくすりと笑う余裕を取り戻していた。今日は無礼講だから、というブリュネが部下達に注ぐ眼差しは柔らかく、慈愛に満ちている。彼の部下は幸福だろうな、と隠し刀は自分と研師が並んでいた頃のことを思い返していた。
研師と自分、そして片割れの関係は仏国海軍よりも厳しいものだったが、年に一度だけそれが和らぐ時があった。正月である。討幕に燃える黒洲藩にも正月は訪れて、ささやかながら研師から普段は口にしない逸品としておでんが振る舞われるのだ。数日間かけてじっくりと煮込まれた、大根と鶏肉のつくね、それに餅が入った簡素なものではあったのだけれども、これを食べれば正月が来たのだと片割れと黙って頷き合ったものである。
その日は二度と来ない。可能性は幕府が、そして自分が捻り潰してしまった。代わりに別の未来は開けたものの、時折苦いものを腹の奥深くから込み上げさせる。
「このお菓子は丸太を模しているのですか?どうしてまた……うん、ふわふわして甘い」
「こっちは少し苦いな」
諭吉の台詞に現実に引き戻され、慌てて目の前の皿に盛られた菓子を摘む。茶色いのでてっきり餡子の仲間だろう、と思いきや、舌先で蕩けたのは甘さと未知の苦さを含んだ初めての味わいだった。
「おや、chocolatを食べるのは初めてだったか?クリームと一緒に食べると良い、味がまろやかになるぞ」
「しょくらあと」
音までもが耳慣れない。諭吉は知っていたようで、しょくらあとについてさらりと説明してくれた。ただの菓子でなし、その昔には薬効も目覚ましかったという。何の方面であるかは、ブリュネに意味ありげに微笑まれただけで判然としなかったものの、洋の東西問わず人が求めるところは大凡同じだろうと想像された。からかいを受け流して、今度はクリームとしょくらあとを共に食する。苦さと、甘さ、生命の源である乳の香り。葡萄酒にもよく合って唸らせる。素直に伝えれば、ブリュネは満足げに煙を吐いた。
結局、話を切り出す時間をうまく作れなかった。仏国軍艦から降りた諭吉は、風の冷たさに今更気づいて首をすくめた。もう灯りを落としてしまった街は、劇が終わった舞台のように生気を失っている。情人を見失うほどいた人々はどこへ消えてしまったのだろう?一人一人、彼らにはどこか行くあてがあったのだ、という安心感と、あったのか、という驚きの両方が胸に去来する。
自分の行くべき道、行くあて、帰る場所、酔いだけでは流しきれない想いが渦巻いて止まらない。いつかは言わねばならない。言わないままでうまくいけたら、と甘えるのをもう終わりにしなければ、生傷をいつまでも引きずるだけだ。
「あの、」
「うん」
当たり前のように長屋に向かっていた隠し刀が、こちらの戸惑いに合わせるように歩速を緩める。月明かりに照らされた表情は常と少しも変わらない。月に似て、見る人によっては冷たいと感じるかもしれない無骨な顔立ちを持つ男の中身が、太陽よりも情熱的であることを知る人間はそう多くはあるまい。
「あなたに、お話ししたいことがあります」
音が放たれた瞬間、微かに隠し刀の瞳が揺らいだのを見てとって、諭吉は少なからず後悔した。やはり言わない方が、互いにとって優しい未来を齎すのかもしれない。秘すれば花と言うではないか。だが、少しの間を空けてからの隠し刀の反応は予想と異なるものだった。
「……わかった。ただ、あそこに移動しても良いか?」
あそこ、と指さされたのは英国酒場の軒下だった。まだ店は開いているのか、中からはガヤガヤと喧騒が聞こえる。確かに、長話になるようであれば腰を据えて話した方が良い。もう十分酒が入った後であっても尚酔いは足りない。否、不足しているのは酒でなしに自分の意気地、ただそれだけだった。店に入ろうと扉に手をかけると、隠し刀がくいと袖を引く。
「店に入らないんですか?」
「いや、ここが良い」
あくまでも軒下をご指定らしい。今ひとつ意図は掴めぬものの、もうこの際さっさと言ってしまおうと心に決め、諭吉は素直に軒下に並んだ。
「幕府から、米国に向けて正式な派遣団を出すことが決定しました。僕も、木村芥舟殿の従者として同行する許可が下りました。つい二日前のことです」
そして、と続けるも舌先がもつれて言い淀む。ここからが肝心だ、初手から躓いてどうしてくれよう。己の怯懦を叱咤し、下腹に力を込める。人は覇気を出すと熱を発するものらしい。顔に浮かんだ汗が顎を伝ってぽたりと落ちた。
「出航は遅くとも一年後、あまり準備の時間は残されていません。ですので、今後僕が自由にこちらを訪ねることも、江戸で遊ぶことも難しくなるでしょう」
そして、二人の付き合いは取りようによって簡単に悪意の餌になってしまう。聞こえの良い言葉を並べ立てながら、どうすれば誠実さと己の欲とを両立させられるのかと諭吉は煩悶した。先日隠し刀は自分に単刀直入に話してくれた――諭吉に対しては隠し事を作らず、嘘をつかずにいたい、という願いを。諭吉自身もまた、同じ想いを抱いていた。
「虫が良いお願いだとはわかっています。ですが、けれど、僕は!僕は、あなたと繋がっていたいんです……お願いします」
捨てるのは自分だ。捨てるつもりがなくとも、半ば海の向こうに捨てていってしまうような真似をするのは自分だ。にも関わらず、捨てられるような気分で切々と語るのは卑怯だろう。だからと言って、この醜悪な感情の吐露は一旦始めて仕舞えば、堰を切ったように勢いを持って止められそうにない。酒場が喧しい場所で本当に幸運だった。静まり返った街に晒すには余りに悍ましい。
「諭吉」
そっ、と隠し刀が手拭いでこちらの頬を、目元を拭う。一度拭いて二度、三度。そうして困ったように顔を歪めて、ちゅ、と乱暴に口付けた。いきなりの行動に目を瞬かせるも、相手はとうに離れてしまっている。早業を披露した男はゆっくりと深呼吸をし、にか、と笑顔を見せた。
「おめでとう。お前の夢が叶って、私は嬉しい。それに、そんな風に私を願ってくれたことを幸せに思う」
言いづらかっただろう、という言葉は、夕食に出されたブッシュ・ド・ノエルよりも甘い。どうして彼はこんなにも自分の欲しい言葉をくれるのだろう。都合が良い夢を見ているようで、諭吉は渡されるまま手拭いで自分の頬を拭った。汗だとばかり思っていたのは涙で、拭いても拭いても後から後から溢れて止まらない。自分の体が自分のものではなくなったかのようで情けなかった。隠し刀が、ふと頭上を指差す。クリスマスの飾りなのか、枝を束ねたものが吊り下がっていた。
「この枝は宿木と言って、英国ではこの木の下で接吻をした二人は祝福されるんだ」
かのアーネスト・サトウ曰く、”良いことがある”らしい。隠し刀は、今日一緒に街を歩いている最中ずっと、どこかにありはしないかと探していたのだ、と気恥ずかしげに続けた。
「だからその……海を渡っても、きっと祝福されたままだ。諭吉はどう思う?」
「僕は迷信は信じません」
あんまりにも直向きな様子に、泣きながらも笑ってしまう。大の大人が二人して並んで一体どうしたことだろう。どちらも情けなくて、剥き出しで、必死だ。
「ですが、僕はあなたを信じます。ありがとうございます」
「ありがとう、諭吉」
顔をくしゃくしゃにした男に、噛み付くように口付ける。今度の接吻は塩っぱくて、ついで苦かった。こんな接吻は初めてで、思えば自分は彼くらいしかまともに向き合って来なかった。自分と隠し刀の想いとが繋がった先には、やっぱり互いしかいないだろう。そうであってほしい。
宿木よ、と小さな白い花を咲かせる枝を見上げる。もしお前に力があるならば、祝うが良い。海の向こう、遥か先の未来、再び自分がこの地を踏み締める日の二人を。離れゆく隠し刀の後頭部を捕まえるともう一度引き寄せて、諭吉は思い切り己等を祝った。
それがどんな味であったかは、言葉にする方が難しい。
〆.
*補足
フレンチ・カンカン:実際に仏国軍艦上で行われたことで、エドゥアルド・スエンソン『江戸幕末滞在記』に書かれていました。はっちゃけ過ぎていて、英国兵士も幕府の役人もあわあわしたそうです。
宿木:英米中心に『宿木の下で男性は女性に口付けても良い』という不可思議な風習が18世紀頃からあります。由来は謎であるものの、祝福の意味自体はあることが他文献から汲み取れたので、本作ではほんのり要素を取り入れました。隠し刀にとっては伝聞情報なので、良いとこどりを聞いていて欲しいと思います。
*普段は自分のHPにしか載せませんが、今回は区切れ目であるため、あとがきを添えます。
あとがき>>
メリー・クリスマス!最初の話を書いてからこの方ずっと書きたかった、横浜でのクリスマスです。諭吉、君は留学することを話してくれないまま、気づいたらいなくなってたから、一度言って欲しかったんだな……いやそりゃ行きたいとは言ってたけど!この辺りのゲームの流れが怒涛で、気づいたら一年が吹っ飛んでいて後で振り返って驚いたことを覚えています。ようやっとここまで書き続けることができて良かった……心の底から安堵しました。横浜はここまで、次は江戸でお会いしましょう。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!