心尽くし 日々は変わりなく過ぎていた。大学と自宅を行き来し、時に仕事で遠方に足を伸ばし、また時に行楽に赴く。時代と場所が異なるだけで、隠し刀と福沢諭吉が交わす言葉も心もあの頃のままである。暮らし向きに関して強いて変化を言うならば、共に暮らすようになってからは、言葉なくして相通じる折々の楽しみが随分増えた。例えば、大学の研究室で黙って差し出されるコーヒーであるとか、少し肌寒いと感じられる日に棚の手前に置かれた冬用の肌着だとか、生活のちょっとした心配りである。雨の長い暗い日に、黙って隣に並んでくれることから得られる安心感はかけがえのないものだ。
隠し刀にとって、元来言葉を操ることは難しい。教え込まれた技は無骨なものであったし、道具に口は不要だ。舌が短いため、ややもすると舌足らずな印象を与えてしまう。考え考え紡いだところで、心を表す気の利いた物言いはろくろく思いつきやしない。言葉を発することが不得手であっても別段、生きていくには困らなかった。だから良いんだ、と放っておいたというのに、人生は怠惰を良しとしないらしい。運命に放り出されて浪人となった、成り行き任せの行路では舌がくたくたに疲れるほどに使い、頭が茹だる程に回転させる必要があった。
人になるには、人の言葉を話さねばならず、また己の心を語らねばならなかった。暖かくて不確かで、どうにも理解できない己自身にあるかなきかの心を探らねば、そも相手に訴えかけることは難しい。小手先の技術で誤魔化し続けても、本当に手に入れたいものには届かないのだ。どうしてもと願った自然の結果としてがむしゃらに手を尽くし、行動でもって示し続けてきた甲斐あって、今の己が存在する。前世でも今生でも諭吉の側に情人として存在できるのは、例え人生の一部分に過ぎないとしても生きてきた甲斐があると思わせてくれる喜びだった。
「うん」
故に、変わらぬ日々を過ごすことこそ至上である。切った張ったも内憂外患もなければ、身分の分け隔てもない。十分幸せではないか、と研究室の壁にかかった時計を眺め、隠し刀は心の中で頷いた。時刻は午後八時、卒業論文の最後のお目溢しをするかしないかを揉める会議は随分と長引いているらしい。本来ならば先週全ての結果が出尽くされなければならなかったのだが、本日三月十四日になってもまだ判断しづらい修士論文が出てしまったのだ。正確には、当人の素性が関わっているだとか――学業一筋である諭吉にしてみれば言語道断の話だろう。
そう、本日は三月十四日、世間で言うところのホワイト・デーに当たる。先月ヴァレンタイン・デーで、ライバルたちを巧みに退けた隠し刀はもちろん承知していた。いわば自分の欲に基づいた行動なので、見返りは期待していない。それでも、自分が根回しよろしく贈った相手たちより朝から雨霰と返礼品が届いたのは気分が良い。毎年スケジュール感覚の杜撰な坂本龍馬が、マカダミアナッツチョコレートを本場の出張がてらに贈ってくれたのは一等嬉しかった。離れていても、友情の切れ端をなんとなく交わし続けようとする互いの努力が心に染みる。
風来坊さえ気を使ってくれたのだ――この一事がやたらと印象深いために、隠し刀はなんとも形容し難い気持ちを消化できずに抱えたままでいるのかもしれない。何らこだわりを持たず、さっぱりしているという他者からの評判からは程遠い湿っぽさは、自分でも持て余すほどにじっとりと粘ついていた。
「『来月は覚悟してくださいね』、か」
先月恋人にかけられた一言が、いつまで経っても耳にこびりついて離れない。平静を装って朝から過ごしてもはや夜、浮き沈みする気持ちが煩わしい。所詮はじゃれ合いのような言葉の応酬であるし、つい期待を寄せてしまった自分は愚かだ。そう、今の隠し刀は柄にもなく他人に淡い期待を寄せていたのだった。欲しいものがあれば、叶えられるように仕向けるのが常だったと言うのに、今回ばかりは成り行き任せ、心任せにしようとむらっ気を起こしてしまった。芽吹かんとする春の空気は、知らず影響するものらしい。
きっと諭吉は疲れ果てて会議から帰ってくるだろう。労って、愚痴話を聞きながら用意していた夕飯の話でもするのが一番良い。変に落ち着かなかったり、恨めしげな様子を見せたらば一層負担になるだけだ。子供っぽい我儘を通して相手を不幸にするなど、もってのほかである。ぐじぐじと悩むのをやめよということか、遠くからたったと小刻みに足音が響く。慣れ親しんだ足捌き、靴の癖、持ち上げられる脚の角度まで易々と想像された。何もそう急がずとも良いだろうに、と思いながらも隠し刀は研究室の扉を開いた。
「お疲れ様、諭吉」
「すみません、遅くなりました」
げっそりした面持ちで舞い戻ったのは、予想違わず愛しい恋人である。廊下に誰もいないことを確認してから柔らかく抱きしめると、一日の終わりを感じさせる香りが鼻をくすぐった。今日の人間はもう店じまいだ。背中を叩いて中に迎え入れると、帰り支度に手をつける。PCの電源を落とし、メモ類を重ねて明日に繋げる。コーヒーメーカーの掃除はもう終えたので、あとはコートを着るだけだ。慣れたもので、常通りの行為に入れば自然と気持ちが無に帰っていった。会議に使った諭吉の文具も受け取り、元の位置に仕舞い込む。どういうつもりか、諭吉は片付けをせずに引き出しを引いたり書棚を指で探るなどしていた。何か探し物だろうか。
「今日の会議は長引いたな。そんなに問題の多い論文だったのか?」
「いえ、それは早めに結論が出ました。条件付きの博士課程進級です。まあ、基礎研究はよくできていましたからね」
担当教授が己の進退を賭けて、件の学生を進級させてやって欲しいと頭を下げたのだそうだ。必ずまともな博士論文に繋いでみせるという発言に、教授陣の心も幾分和らいだという。学問に身を捧げていても、教授もまた人間なのだった。肩をすくめて同意を示すと、隠し刀はコートをハンガーから下ろして諭吉が着やすいように背面に立った。三月中旬は寒の戻りが厳しい。今朝方花粉だけでなしにくしゃみをする諭吉を説き伏せて、厚手のウールコートを着せたのだ。外は今も同程度に寒いだろう。だが、諭吉は大人しく着せられることなく、振り向きもせずに探し物を続けることを選んだ。
よほど大事なものであるらしい。こうなれば一緒に探すべきか。最初から申し出なかったことを少し後悔し、隠し刀は己の心に捉え難い歪みを感じ取った。かけたかった言葉も、受け取りたかった言葉も、どれもちぐはぐで落ち着かない。ほのかな期待に頭を取られて現実から目を逸らすなど、どうしようもない八つ当たりだ。
「なら、一体何がそんなにお前を引き留めたんだ?連絡をしてくれれば、迎えに行ったのに」
「引き留めたのは、どちらかと言えば僕の方ですよ。ああ、あった」
最後の最後に書類鞄を漁ると、諭吉は少々折り目のついたリーフレットを取り出した渡してきた。コートを戻して受け取った表紙はパステルカラーの夢見るような色合いで、フォントが弾むように踊っている。見た覚えは一度もないのは、諭吉が秘匿していた証だろう。
「『パートナーシップ制度』?」
「はい。そうでなければ、こちらでも構いません」
もう一枚、つるりと差し出されたのは後見人制度の書類で、こちらは誓約書の雛形だった。促されるままに仰々しい字面が右から左へ流れ行く。どちらの制度も、隠し刀は小耳に挟んだことがあった。いつだろう、渋沢栄一に話を聞かされたような記憶がある。政治活動にも熱心な熱き起業家は、利用できるものはなんでも利用しないと損ですよ、としたり顔で囁いたものだ。
曰く、我が国では同性同士の婚姻関係には法的効力を持つ保証が存在しない。だが、準じた形で認められる制度ができつつあるのだ、と。
「別に当人同士の好き勝手だ、何も結婚が全てではないだろう」
異性同士であっても入籍しない場合もあると指摘すれば、栄一はわかっていませんね、とすぐさま首を横に振った。
「選べることと選べないことは違います」
「ふむ」
そういうものか、とその場では思うに留まった。何しろ隠し刀は現状に満足し切っていたし、これ以上先というものは望むべくもないとはなから慮外だったのである。社会的保証であるとか、拘束力であるとか、そんなものよりも思い合っているという事実だけで十分で、ごちゃごちゃ考える方が面倒ではなかろうか。可能な限りわかりやすくしようと言葉を尽くした結果、かえって小難しく感じられるリーフレットを前にして、その気持ちはいよいよ増した。
「あれこれ考えていたのですが、あなたに僕の覚悟を贈りたいという結論に至りました。プロポーズは勢いでしてしまいましたが、僕はあなたと一生一緒に歩いて行きたいんです……受け取ってくれませんか」
黙々と読んでいることに不安を覚えるのか、諭吉が面映そうに言葉を重ねる。この紙一枚、申請一つで何ができるのか、法的拘束力がどれ程あるか、教授職にある諭吉の講釈は明快だ。ただ、仕組みの話ではなく意図に触れればあっという間に言葉はもつれて千々に乱れる。知恵が回って頭が切れる人物でも、かくも心を伝えるには苦労をするものなのか、と隠し刀は無関係なことを思って感嘆した。ただ気持ちだけここにあれば十分とばかりに安穏としていた自分と異なり、諭吉は大いに神経を費やしていたらしい。全生命と全財産を擲つには当世何かと証明書を要求されるし、社会と約束する術があるのだからきちんとした方が良いと思うの、だと切々と訴えは続く。生真面目な彼ならではの発想だった。
「今日は人事部の部長と事務局長、それと学長にも相談してきたんです。幸い、話のわかる人たちで大変助かりましたよ。あなたをアシスタントにしたままでも問題ないとの約束をいただきました」
「周到だな」
「贈り物は万全に整えておきたいんです。あ、いや、そもそもあなたに受け取っていただけなければ、無意味ですね」
先走ってしまいました、という男は白々しく目を逸らした。ここまで覚悟を決めて調べ上げたのだ、逃げられないように彼なりに手を打ったのだろう。心を尽くしたかったのだ。事務仕事が無意味で無駄だと何かと省きたがる人間が、ホワイト・デーに向けて奔走したとはなんと冥加なことか。望んだ以上の展開に、不覚にも心の奥底が震えた。
「お前の全部が、私のものになるんだな」
「はい」
とんだ覚悟だ。諭吉の左手を手に取って、一本一本指をなぞる。薬指の根本を丹念に親指の腹で擦ると、くすぐったそうに身を捩った。さまざまな予測と想像とで混乱し切った表情がたまらない。可愛くて、可哀想で、多くの人を魅了するだろうにたった一人しか見ていないのだ。
「ありがとう、諭吉。私の全部をもらってくれるならば、お前の覚悟を受け取ろう」
「……良いんですか?」
これは我儘なんですよ、といけしゃあしゃあと言ってのける情人の指をぎゅっと握る。骨が軋み、小さく悲鳴が上がった。
「明日の朝一番に役所に行こう」
それから指輪を選ぶのだ。呟いて、隠し刀は自分が初めて二人の関係を世間に対して明文化しようとしたことに気づいた。いくらか開かれたとはいえ、公にするほどのことでもないと目を逸らしていたのだろう。たった紙切れ一枚、されど一枚の覚悟は大したものだった。
確かに、諭吉は先月言っていた。覚悟をしてくれ、と。蓋を開けてみればとてつもない代物で、ぎっしりと心が詰まっていた。こんな重たいものを喜んで受け止め、平らげられるのは自分だけだと自惚れても良いだろう。コートを着せ合い、マフラーを巻いて颯爽と研究室を出る。夜気はひたひたと建物全体に忍び込んでいたが、少しも気にはならなかった。
手袋をはめた手で、相手の手を捕まえる。黙って応じた手もまた手袋に包まれていたが、その熱はじわじわと伝わり、捻くれようとした胸にまで届いた。こんなにまっすぐな気持ちを前にして、いつまでも捻くれている方が難しい。ほうっと吐いた息の白さに目を細めると、横からもう一つ白い雲が飛ぶ。会話のないまま、ただぽつりぽつりと雲が生まれた。
言葉ではないけれども、何百何千万の言葉と同じ気持ちを放って、受け止めて、そんな心を交わす時間は、ただただ愛しかった。
〆