恋人になるまで後一悶着　臼井が高二の頃。次期レギュラーと目されていたメンバーのみで近くの高校へ練習試合に行った。その帰り道、同じように練習試合終わりの桜高と出くわした。
　互いの存在を認識した途端、犬童と水樹は顔を近づけて睨み合っていた。ここまではよくある話だった。一年の頃に水樹が犬童に相撲で負けて以来、しょっちゅう見かける場面だ。でも今日は違った。犬童が水樹にキスした。周囲からギャアとかワアとか悲鳴と何故かオオとかヒューとか歓声が上がった。しかし臼井は声を上げることもできなかった。二人の唇が触れ合って三秒くらいたった頃、我に返ったのだろう水樹が犬童を思いきり突き飛ばした。
　なんかいけそうだったから、と尻餅をついた犬童はカラカラ笑った。桜高面子は馬鹿やってんなよと悪ふざけのノリで犬童の行為を流そうとしているが、水樹は怒り心頭だった。それは臼井も同じだった。今現在の臼井にとって聖蹟は何より大事なもので、その柱の水樹も当然大切な相手だった。その水樹に……桜高のメンバーに囲まれて笑われたり嗜められたりしている犬童が憎らしい。臼井が犬童を睨んでいると、その視線に気づいた犬童が臼井の方へ向かってきた。文句の一つも言ってやろうと臼井は犬童と対峙した。しかし、犬童の方が手が早かった。
「わりーわりー、そんな怒んなよ、返すから」
　そう言うと犬童は臼井の顎に手をかけ、そのまま唇を重ねた。一拍おいて阿鼻叫喚。しかし臼井の耳には周囲の声が入ってこなかった。犬童は目を開けたままで、臼井も目を見開いていた。犬童は目を閉じないタイプか、と臼井は場違いなことを考えていた。抵抗どころか身動きすることもできなかった。この事実は長じて自身の不甲斐なさへの怒りとなり臼井を苛立たせることになる。思い出しては頭を掻きむしりたくなる忌まわしい記憶として。
　水樹と犬童のキスよりも長いか短いか、臼井には分からなかったが、それは唐突に終わりを迎えた。水樹が犬童を臼井から引き剥がし、再び投げ飛ばしたのだ。今度はそのまま殴りかかろうとしていたので、慌てて猪原や笠原、国母や速瀬が止めている。桜高も応戦する気の犬童を近藤と如月が押さえつけていた。成神は何故か行け行けかおると煽っていた。大塩も中澤も止めろと声をかけているが二人の耳に届いていない。灰原が固まったままの臼井を気遣った後、大丈夫なら水樹を止めてくれと請う。確かに喧嘩なんてことになれば大問題だ。
「水樹」
　臼井が声を掛けると水樹はピタリと動きを止めた。釣られて犬童も止まった。猛獣使いになった気分だった。
「自分でやるから」
「分かった」
水樹が振り上げていた手を下ろしたので、水樹を取り押さえていた面々も手を離した。臼井は犬童の方を向く。犬童は近藤と如月に両腕を封じられていたので、二人には犬童から離れてもらった。セイ、と小さな声で気合を入れて。
「〜〜っ！　いってー」
　上段回し蹴り。おお、と何故か聖蹟と桜高の双方から感嘆の声が上がった。
「同意なくキスするのは犯罪行為だぞ」
「だからわりーって、つい」
「ついで許されるなら性犯罪者なんて存在しない」
　犬童と臼井のやり取りを見ていた大塩がちゃんと謝罪するように犬童に指示し、犬童は水樹と臼井に謝った。謝られたところでキスされた事実は無くならないが、犬に噛まれたとでも思って流さなければならない。キス如きで騒ぎ立てるなんて臼井のプライドが許さなかった。水樹に犬に噛まれたと思って忘れよう、と臼井が言うと、水樹は不承不承の様子でワンと言った。
　そして臼井は何事もなかったような顔をして、早く学校へ戻りましょうと中澤に声を掛けた。これから学校で反省会なのだから時間は無駄にできないのだ。
　今いるメンバーに緘口令を出したところで、人の口に戸は立てられない。面倒なことになったと臼井は溜息を吐く。
　終始呆気に取られていた後輩達の中で一人、鈴木だけはウェットティッシュを臼井と水樹に差し出すことができた。臼井は目をかけて間違いなかったなと思いながら鈴木の頭を撫でてやった。


〇〇〇〇〇


　反省会が終わった後、臼井と水樹は学校で通常練習していた部員の日報を確認していた。部室に二人きり。臼井が水樹にキャプテンを託してからはよくあることだった。
　寮生である臼井とは違い水樹は通学している。遅くなってしまったので施錠は自分が受け持つから水樹に帰るよう臼井は促した。すると水樹は話があると言った。
「俺はあまり人との関わり方がわからなくて。そんな俺に親がずっと言い聞かせてきたことがある。水着を着て隠れるところと口は勝手に触ってはいけない、無理やり触ろうとする人からは逃げるように、と」
　プライベートゾーンのことだなと臼井には分かる。水樹の保護者は慧眼だ。
「それでさっきの犬童だが」
「うん、あれは良くないことだ」
相手の同意がない状態でキスなんてしてはいけないと、臼井は言う。
「やはりあいつは許せん」
むう、と眉間に皺を寄せる水樹。そうだな、許せないなと臼井は同意した。
「それで、その。臼井に聞きたいことがあって」
　辿々しい水樹の説明によると、水樹は女生徒から告白されることが増えた。全て丁重に断っているが中にはせめてキスしてほしいという人もいる。一体何故と思いつつ、それも断り続けているという。両親の教えを守っているのだろう、臼井は安堵した。
「臼井は……臼井も同じことを言われているのでないか」
　もちろん臼井も沢山の女子から告白されているし、中にはそういうキスを求める人もいる。水樹と同じく断っているが。
「言われたことはあるけど全部断ってるよ。そんなに自分を安売りしてないんだ」
　先程犬童に簡単に唇を奪われたことを臼井は棚に上げた。
「安売り？」
「……求められて応えてあげるだけじゃフェアじゃないだろ？」
水樹は首を傾げている。わざと水樹には分かりにくいように臼井は言った。自分もキスしたいと思った相手でないと嫌だ、なんて乙女チックなことは口が裂けても言いたくはない。キスだけで要求が終わらないと面倒だからという理由もあるが、それも水樹には理解できないだろうし。
　水樹は親の教えにより、これからも告白してきただけの女子とキスしたりしない、それを知ることができただけで臼井にはありがたかった。
　情緒が未熟な水樹は多分在学中に恋人を作らない。臼井が水樹を身近に感じなくなった頃にパートナーと巡り合うかもしれないが、その頃には臼井の水樹に対するあらゆる想いも風化しているはずだ。というか、そうあってほしい。でも今は聖蹟サッカー部、ひいては水樹に自身の殆ど全てを捧げている。この状態の臼井には耐えられそうになかった。臼井自身、勝手な我儘だと分かっているけれど。
　この前の敗退まであんなに水樹を嫌っていたのに、我ながら本当に身勝手だと臼井は自嘲する。水樹には勘づかせないように。
　臼井の想いを知らないはずの水樹に再度帰宅を促した。しかし水樹は部室から出ようとしない。まだ何か用があるのか、と臼井は水樹の言葉を待った。

「臼井とキスしたい」
　やっと口を開いたかと思えば水樹がとんでもないことを言い出した。何を言ってるんだ水樹は。とっとと追い出せば良かったなと臼井は思った。
「聞き間違えたかもしれないから、もう一度言ってくれるか？」
「臼井とキスしたい。犬童ばかりずるい」
　なんだ、そういうことか、臼井は納得した。何故キスしたいと思ったか、なんて質問する前でよかったと臼井は思う。水樹は犬童と張り合っているだけだ。
　ふうと溜息を吐いて、臼井は気持ちを落ち着かせる。犬童は才能あるサッカー選手で、恐らく唯一水樹が敵愾心を持つ相手だ。水樹の心を揺らす人間はそんなに多くはない。犬童はプラスの感情ではないとしても、その稀有な人々のうちの一人の相手である。
　水樹は臼井とキスがしたいのではない。

「嫌だ」
「え」
　ガーンという顔をした水樹。臼井が了承すると思っていたのだろうか。
「なんで」
「犬童への対抗心でキスしようなんて、俺をなんだと思ってるんだ」
臼井は本気で腹が立っていた。これは正当な怒りだろう、人をなんだと思っているんだ。
「いい加減もう帰れよ」
水樹の顔を見るのも嫌になり、感情を取り繕うのも難しくなってきた臼井は水樹を追い出しにかかる。しかし水樹はそれを無視して言った。
「どうしたらいい」
「何を」
臼井は苛々した気持ちを隠せなくなり、語気が荒くなってしまった。ただ、水樹はそんなことで怯んだりはしないけれど。
「キスさせてほしい。どうしたらいいか教えてくれ、臼井」
「は？」
「あの、頑張るので、教えてください」
　頑張るって何をだよ。臼井は頭が痛くなってきた。そんな捨てられた犬みたいな目で臼井に縋るほど、水樹は犬童に勝ちたいのか。一瞬、犬童に勝ちたいのならかつての桜高のマネージャーを口説き落とせばいいと臼井は唆そうかと思った。一年の夏の関東合同合宿の時、臼井は犬童が桜高マネージャーに恋していると気づいていたからだ。しかし水樹にそんな真似はさせられないので臼井はその考えを捨てた。そもそも水樹に恋人ができた時のことを考えたくないくせに、女の子を口説けなんて自分でもどうかしている。
　そもそも男同士だということを水樹は忘れているのだろうか。水樹は巨乳好きを公言しているので恋愛対象は女性のはずだが。犬童に勝ちたいあまりに男同士ということはどうでも良くなっているのか、それとも臼井をオンナ扱いしているのか。
　プツリと臼井の中で何かが切れた。

　臼井は水樹の胸倉を掴んで、驚く水樹に噛み付くようにキスをした。あまり目を見開いた水樹を睨みつけるように見つめたまま、臼井は心で数を数える。五秒。臼井はキスをやめ、水樹の胸倉から手を離した。臼井が水樹の襟を整えてやりながら言った。
「気は済んだか？」
　水樹は言葉では答えなかった。

　ガチっ。
「痛い」
「こっちの台詞なんだけど」
　今度は水樹が臼井にキスをしかけてきた。けれど、あまりに勢いが強かったので歯が当たってしまった。
「ごめん。次は気をつける」
次ってなんだよ、と臼井は言いたかったが言えなかった。水樹は臼井の頬を両手で包むようにして、ゆっくりと顔を近づけてきたからだ。目は開いたまま。臼井は逃げなかった。

　本当に、ただ唇をくっつけただけの幼稚なキスだった。ただ、なかなか水樹は臼井から離れようとしなかった。臼井の体感で三十秒経った頃、臼井は水城の足を軽く踏んだ。水樹は無視した。臼井はぎゅっと踏みつけた。水樹は渋々といった様子で臼井を自由にした。
「もういいよな」
この話は終わり、明日からいつも通りであるべきだ、一線を越えた触れ合いのことなんて忘れて、そういう意味を込めて臼井は言った。
「嫌だ、まだキスしたい。できれば明日も明後日も」
水樹は聞き入れてくれなかった。
「犬童には回数も秒数も勝ったじゃないか」
キスの勝ち負けってそういうものだろうかと自分でも思いながら臼井が指摘してみた。水樹は犬童……と低く唸る。
「あいつのことは許せんし、今後も許さん。でも今あいつは関係ない」
犬童が関係ない？　何故？
「臼井とキスしたいのは、さっきふわふわしたからだ」
「ふわふわ？」
「うん。気分がいい」
　どうやら水樹はキスという行為に舞い上がっているらしい。他人とのそういう接触が初めてだからだろうか。いくら情緒が未熟とはいえ相手は誰でもいいのだろうか。妙な性の目覚めをさせてしまったかもしれないと臼井は心配になった。

　さて、と臼井は考える。臼井が水樹を拒否したら、水樹は「ふわふわした気分」とやらを求めて他の誰かとキスするようになるかもしれない。でも今ここで水樹を引き留めておけばそれを防げる。水樹に並々ならぬ想いを抱えている臼井の選択肢は一つだった。
「条件がある」
臼井は厳かに宣言した。

　一つ、誰にも見つからない場所でする
　二つ、誰にも内緒にする

「これが守れるならいいぞ」
「合点承知之助」
　明るい表情にサムズアップで了承した水樹を見て、臼井は声を立てずに笑った。だから帰ろうという臼井の再三の促しに、ようやく水樹は従った。
　キスの相手が臼井じゃなくても「ふわふわした気分」は手に入れられるだろう。そのことを臼井は水樹に伝えなかった。聖蹟にいる間だけ、ここでサッカーしている間だけでいい。水樹に何も気づくなと呪いをかけて、自分の気持ちも覆い隠して、特別な関係を臼井は手に入れた。手に入れてしまった。
　稚拙なキスによる体だけの関係。不健全なのか健全なのか。それでも「ふわふわ」を恋だと名付けなかったのは臼井の良心のつもりだった。

　
　ところで水樹の両親はプライベートゾーンに触れてもいいのは恋人同士だと教えていた。恋人同士でも相手の了承と正しい知識が必要だと。つまり水樹は最初から恋人関係になることを提案していたのだ。水樹は臼井と恋人になったつもりでいるが、その勘違いを臼井は知る由もなかった。