くものいと笑い声で目が覚める。夫婦の、こどもの笑い声。それとコーヒーの香り。七海は、あたたかい布団のなかで、ただそれを聞いていた。
数ヶ月前から、何度か連絡が来ていた。【建人、顔を見せに来いよ】
【母さんは、あんなだから行けとは言わないけどさ】
【うちは歓迎するから】
七海には兄が居る。3つほど年上の兄だった。兄として大変出来たひとで、そうして普通のひとだった。
呪術師という道を選び直して、あえて疎遠になるようにさえ振る舞う、実家には一切顔を出さない連絡も入れない弟に対して、季節ごとにメッセージをくれたし、年が暮れる時期が来れば、うちに来いよとまで言ってくれる。細い糸のような兄弟の縁を途切れさせないように、細やかで繊細なひと。
【今年の年末、挨拶に行きます】
【ホテルを取るので、
お気遣いなくと文字を打とうとして、他人行儀にも程があると思った。まるで業務連絡、仕事みたいだと思った。そしてホテル云々は余計だなと、一文を消す。気を遣うなと言っても、それがあれば気を遣うのは当たり前だ。
そんなことを考えていると、すぐに既読がついた。
【いつ?あれならうち泊まる?】
【ホテルを取ろうと思ってました】
【水臭いこと言うなよ、遠慮しなくてもいいよ。年始も居てもいいから】
【うちのも、ひまりも喜ぶよ】
笑い声、団欒の音、客用の良い布団、暖かい部屋。家庭のにおい、朝食のかおり、色にしてみれば、驚くほどのなめらかさを持ったクリームいろ、それを想像して、深い溜息をついた。酷く気持ちが沈んでいく。落としてしまった墨のように、じんわりと滲んで、広がる。これは後悔、いや、羨望か。兄の持つ全てを己は持ち得ない。
身体を起こす。時刻は6時過ぎ、普段のルーティンなら起きている時間だが、他人の家で起きるには早すぎる気もする。どうだろう。下ろした髪をかきあげながら、溜息をついた。本当に、後悔をしていた。気紛れなんて起こすものじゃない。
「ね〜おじちゃん、起こしていい?ねえ〜」
「まだ寝てるところへ邪魔しちゃあ駄目よ」
「はは、ひまりはせっかちだなぁ。もうすぐ起きてくるよ」
声を聞いてしまう。呪術師というのはやっかいで、呪力でつい強化してしまった。まあ、なにはともあれ、起きても良さそうなことだけはわかったため、寝間着を着替えることにした。
これは感傷。
これは空白。
虚しさ。悲しみ。手から滑り落ちてゆくいのち、言葉、こころ、想い。
普段なら、こういう気持ちになんてならない。だが、少なからず、気持ちが沈んだのは、高専時代が己にとってただの4年間ではなかったということで、あのひとの破綻が決して他人事ではなくて、逸脱はいつだって隣り合わせだったからだ。それでいて踏み外さなかったのは、自分が平凡な人間であったから。
「おはよう御座います。皆さん早いですね」
スラックスに、セーターを着て、髪は横にながしはした。軽い度の入った眼鏡をかける。リビングは暖房が効いており、暖かかった。
ひまりが足にしがみついてきて、「おはよ〜おじちゃん」と屈託のない笑顔で言った。
「おはよう、建人」
「おはようございます」
「ひまりさん、そんなにくっついたら、動けませんよ」
と言いつつ、足に3歳児をくっつけたまま、歩く。キャーと更に楽しそうな声を上げた。
義姉が、ごめんなさいね、建人さんが居るのが嬉しいみたいでと言う。
「うちは、ひまりが起きたら、起床時間なんだ。早いだろ、悪いな」
「いえ、いつもこのくらいには起きてます」
「え、俺なら惰眠を貪るな」
「すぐに朝食にします?」
「お気遣いなく」
それでも兄はコーヒーを出してくれたし、義姉はパンとスクランブルエッグとベーコンとジャムたちを並べた。感謝を述べて、食事を口にする。教育テレビの陽気な音楽と年の瀬の番組かかるテレビを見ながら、早くここを出る理由を必死で考えている自分が居ることに気付く。
兄は所謂非術師で、呪いなど一切見えない。もちろん、義姉もだし、姪ひまりもだ。穏やかな家庭、何処にでもある家庭、幸せな家族というのはこういう形をしているに違いなかった。
リビングで他愛もない話とひまりの相手をしていると時刻は10時頃になり、義姉とひまりは防寒対策をして、「公園に行ってきま〜す」と外に出ていった。兄と二人きりになる。
「行かなくていいんですか」
「いいんだ」
コーヒー飲む?と聞かれ頷いた。
兄とは真逆の人生だった。正確には、真逆の人生にならざるを得なかった。
ことりとマグカップに注がれたコーヒーに口をつける。
「なんかあったのか」
兄は聞いた。
「いえ特に」
「………はは、そっか。うちに来て、泊まることなんか滅多にないから、なんかあったのかと。ほら、結婚します、とか」
ははは、と空笑いをしている。
「……あのひとは元気ですか」
「ん、うん、元気してるよ。息子らが居ない方がよっぽど元気なひとだ」
デンマーク人を祖父に持つ兄弟は、全く似ていない。片や黒髪黒い瞳、身長は平均よりは高いがどこにでも居るような顔立ちの兄。弟は金髪翠眼の彫りも深く、どこに行っても外国人だと間違われる。それに戸惑ったのは実の母親だった。それも弟の方は、見えてはいけないものが視えているときた。母はわかりやすく弟を避けた。父親は、こどもに愛情の偏りを見せた母を軽蔑した。高専関係者に、呪術師という道を示され、15で家を出たときには両親の関係は冷え切っていた。辛うじて繋ぎ止めていたのは、父親が少なからず兄弟に愛情があったからだ。弟が家を出るとあっさりと両親は他人となった。母親が自分のことを嫌っていたのはよくわかっていたから、二度とこのひとの前には姿を表すまいと誓った。兄は母の期待を背負ってごく普通の人生を送る。高校、大学、就職、結婚、そしてこども。真逆のような人生。生き方。
他人の汚い部分を見ることもなく、己の醜悪さと顔を突き合わせる必要もなく、幸せを享受して。
羨ましいのか、羨ましいのだろう。クリーム色の幸せ。掴めない幸せ。時折兄のことを考えて、自分で傷口を触って痛みを広げて、己の醜さに辟易として、そして、こんな幸せを享受するひとたちを守らねばと思うのだ。
「俺は、そっちのことはわからないけど、辛かったら辞めてもいいんじゃないのか」
「え?」
「ほら、転職的な。前に会社勤めしてたわけだし」
兄は弟の道に口を出したことはなかった、けれど、視線を彷徨わせながら、ダイニングテーブルの端に置かれた新聞に目をやってた。クリスマスイヴ、ビルが全壊、一体何が!?そんな見出しが踊る。それが、こちら側の事象の影響だと気付いている。
「ひまりもおまえのこと気に入ってるし、今に結婚するって言い出すぞ。嫁にはやらんが」
「しませんよ」
ははと乾いた笑い。そのあと互いにコーヒーを啜った。冷えている。
「辞めようと思ってはいません」
「……うん」
静かに頷いた。
「今回は、少し顔をみたいなと思っただけなんです」
「存分に見てけよ」
高専時代に慕った先輩が道を踏み外した。転がり落ちていった。その選択はわかる気がした。呪術師がただ消費され、目に見えず人に知られず死んでいく世界に絶望した、虐げられる世界に挫折した。夏油の気持ちが痛いほどわかった。全容を記録で読み、同じことが目の前で起きたとき、同じことをしない自信がなかった。その思考に陥ってしまう自分が恐ろしかった。それだけの力を持っている自分が怖かった。逃げたいと思った、逃げようと思った。そうして逃げて、逃げたけれど、逃げ切れなかった。そうして、また、戻った。大人になった、己を律した。強くなった。守らねばと思った。ひとを、他人を、こどもを、弱い立場の人間を。手の届く範囲でも、己に出来ることを。
スマホが震える。五条からだった。
【どこいんの】
【おまえんち空なんだけど】
【伝えましたよ】
すぐに既読がついた。
【で、どこ】
全く、このひとは話を聞いてない。まあ、百鬼夜行から事後処理と生徒へのケア、五条家のことをこなしていたのだろうから、仕方がない。
【兄のところに】
【おまえ、兄ちゃんなんていたの】
【聞いてない】
【言ってませんから】
とはいえ、場所を聞き出すまでゴネるのは目に見える。地方都市名を送る。
「………なあ、あんまりこういうの良くないと思うけど、恋人?」
「え?」
にやり、と笑った。
「優しい顔してるよ」
どう言い訳したものか、口をひらいて言葉を探そうとすると直ぐにスマホが震えた。
【会いたい】
【もっと詳しい住所教えて】
慌てて立ち上がる。
「ちょっと出てきます」
最寄りの駅を伝えると既読だけがついた。
イヴの百鬼夜行は、首謀者が処刑されることで終結した。様々なものを残していったが、結局高専関係者は肩の荷が下りたといったところだろうか。勿論、七海もだった。高専時代の、2年にも満たないが、彼の存在は大きかった。彼の思想は掲げるにしては、馬鹿げていて、馬鹿馬鹿しくて、叶わなくて、叶えたくて、虚しい。結局全てはないものねだりから始まる。
「五条さん」
「七海」
五条は駅に居た。黒尽くめはいつもだったが、悪目立ちをする包帯の目隠しではなく、サングラスだった。
「飛んだんですか」
「うん。近くにルート引いてたから」
「なぜ」
「そんなの、会いたかったに決まってるだろ」
五条はちらりとサングラスから瞳を覗かせ、窺うようなかおをした、していた。それに酷く罪悪感を感じた。百鬼夜行後から、五条を避けたのは自分だったからだ。それに気付いている。なにか悪いことした?と言わんばかりに伺うように見てくる。
会いたくなかった、百鬼夜行からこちら、このひとに会いたくて、会いたくなかった。
「ななみ」
迷子のように、手を放されたこどものように、どう振るってよいかわからない顔をしている。