私のせい しゅんしゅんと音を立てて沸いたケトルの湯を静かにドリッパーに落とす。黒い山が湯にあたり静かにくずれると湯気を立てながら静かに蒸らされていく。ここでお湯を落とさず数十秒。しっかり蒸らし香りが立ち始めたところでさらに焦らず、ゆっくりと湯を落としていくのだが、この時間と根気のいる作業が藍曦臣は好きだった。
珈琲を淹れる事にはまったのはつい最近、自宅でも美味しく珈琲を淹れられると聞いて道具を揃えた。
道具を揃えるのもガラス製、ステンレス製、ペーパーフィルターの形状など凝りだしたらきりがなく、試しに形状別、製品別に一通り揃えて試そうとしたのを止められたのは記憶に新しい出来事だ。
珈琲の淹れ方について指南してくれた先生は曦臣の淹れた初めての一杯を「まぁまぁだな」と評し、それ以上は言葉を重ねなかったがその次もそのまた次もカップを空にしてくれたので悪くはないのだと思う。
ぽたり、ぽたり、一雫ずつ落ちた珈琲がやっと二人分の量になったところでケトルを置いた。
マグに熱い珈琲を。大きめのプレートに温めたパンとスクランブルエッグ、小さな皿にサラダを添えてセッティングを終える。
そよそよと吹く風が心地いい。
あとは珈琲が冷めないうちに起こさなければならないと寝室の扉をあけた。
「江澄、朝ごはんできたよ」
起こしたいが寝起きは穏やかな方がいい。控えめに覗いた寝室は開けておいたカーテンによって陽の光が眩しさがない程度に射し込んでいる。
ベッドの上でくしゃくしゃになったリネンの中心がもぞもぞと蠢く。
「うー…」
「パンも温めたし、顔を洗っておいで」
「んー…」
江澄は決して寝汚い方ではない。仕事のある日はアラームとどちらが早く起きれるかを競っては「今日も勝った」と誇らしげにしているし、ベッドからもさっさと抜け出しては仕事に向けての身支度を素早く整えている。
しかし休日ともなればぐずるときもある。リネンの中で猫のようにぐぅっと体を伸ばしながらも起きたくないと顔を埋めたまま起き上がらない。
「卵も焼いたし」
「んぅー…なににした?」
「…スクランブルエッグ」
「…それは初めからその予定だったのか?」
「いいえ」
熱々のフライパンの上、溶き卵を落として油でじゅわじゅわと焼かれていた卵は気がつけばパサつき張りついてしまい、これは大変だとフライ返しで剥がしていたらあっという間にボロボロになっていた。
「く…くふふふ…っ」
「江澄」
「わるい…くふふふ…ぐぇっ」
ベッドの上で丸まった背が笑いに揺れるので腰に腕を回してのし掛かる。潰れた江澄はそれでも楽しそうに笑ったままで、すっかり眠気も飛んだようだ。
「珈琲もはいってる」
「早く言え!冷めたらもったいない!」
背に乗る重さなど何もない、と一気に起き上がる。反動で背中にへばりついていた曦臣がベッドへと倒れ込んだが、江澄は一切気にした様子もなくドタドタと音を立てながら洗面台へと向かい、顔を洗うと寝室へと戻ってきた。
「おい、テーブルにもキッチンにも何もないぞ」
「あぁ、今日はちょっと変えてみたんだ」
おいで、と江澄を案内したのは小さなテーブルと椅子が二脚置かれたバルコニー。そう広くはないが朝食を摂るくらいのスペースはある。
「ふん、外も悪くないな」
そう高くないマンションの一角、バルコニーに出ると視線の高さに桜が咲き誇っている。今の季節だけの特等席に満更でもない江澄の顔が緩む。
「いただきます」
椅子に座った江澄は湯気の立つマグに口をつけたので曦臣も飲むが、やはり少し冷めてしまっていた。起き抜けすぐに珈琲を飲みたがるから先に淹れたのだが、やはり江澄を起こしてから淹れるべきだった。
「味はどうかな、先生」
「少しぬるいな」
「そうだね」
「すぐに飲めるから悪くない」
「ならよかったのかな」
いただきます、熱いうちにと手にしたクロワッサンは齧れば中にこもった熱が宙へほわりと逃げ出す。
さくさくの薄い生地の重なりに滲み出た濃厚なバターが口いっぱいに広がる。鼻を抜けた香ばしさが好きでゆっくり食べ進めていると江澄がいまだ珈琲しか口にしていないのに気がついた。
「食欲ない?」
曦臣よりも健啖家の江澄は朝も夜も関係なくよく食べる。手付かずのプレートメニューは江澄から教わったものなので組み合わせが悪いとかではないはずで、ならば体調が悪いのかと心配になる。見れば心なしか目元に力がなく、おなじみの眉間のシワもない。
「いや…まだ体が怠いだけだ」
「やはり具合が…」
だらしなく座る姿も珍しい。必要ならば病院に、と言いかけて意味深な江澄の視線にはっとする。
「そうだな。全身がまだ気だるいんだ、正直フォークを持つのも億劫だ」
「……」
黙った曦臣に意地悪くにやりと笑みをつくると江澄はそのままあーん、と口を開く。
昨夜の名残が残っている尻と腰を労わるため動く気もないと首だけを伸ばす。
「クッション持ってこようか?」
「いらん。それよりほら」
硬い外用の椅子では腰も尻も休めまい。提案するが却下されたのでおとなしくフォークを握る。
「スクランブルエッグをどうぞ」
「ん」
フォークですくったパサパサの卵を江澄の口へ。咀嚼している江澄の表情に変化はみられない。
「どうかな」
「形はともかく、うまいぞオムレツ」
「う…それなりに惜しかったんだけどね」
何故こうなってしまったのかと肩を落とす曦臣はボロボロの卵を見つめている。数ヶ月前の卵をまるごと粉砕していた頃を思えば大した上達なのだが、あまりにも真剣な眼差しに堪えきれない。
「ふふ、ははは…」
「江澄」
「悪い、うまいよ、上出来だ。次また頑張ってくれ」
拗ねた曦臣がかわいくて皿に肩を震わせ笑う。これ以上は可哀想かと冷えてしまった珈琲に口をつける。
マグにぷかり、一枚の花びらが浮いていた。