平安時代AU 第5話江澄は朝の光がさす部屋で文机に向かい、さらさらと返歌をしたためていた。
「姫様、そろそろ宮殿に向かいませんと」
「今行く」
侍女に呼ばれ部屋を出ようとして、ふと振り返る。曦臣から贈られた部屋、逢瀬の思い出に満ちた場所がきらきらと光を取り込んでいた。
(この部屋で暮らすのも、蓮花の香を纏うのも後少しになるだろう。宮中を去ることをいつ曦臣に切り出そうか。)
女官の職を辞し宮中を去ることを告げた時、曦臣はどんな反応をするだろうか。引き留められるのも辛いし、実父のように無関心に振舞われるのも辛い。では快く送り出されれば辛くないのだろうか、きっとそれも違う。
結局どんな反応にせよ江澄の心は乱れ、生涯乱れた心が凪ぐことはないのかもしれない。それ程に曦臣のことを想っている。本当は曦臣の反応を目にするのが怖くて、何も言わずにひっそりと宮中を去ってしまいたい。けれど今日まで情けをかけてくれた曦臣に何も告げないという不義理を働き、その元を辞する真似はしたくなかった。
(どうであれ私の選ぶ道は決まっている。ならばせめて、最後に曦臣の目に映る自分は凛とした姿でありたい。)
文机の上の返歌を切なげに眺めながら、そう何度も自分に言い聞かせていた。
「主上、最近の女官達の噂をご存じでいらっしゃいますか?」
髪結いをしてくれる女官が背後で楽しそうに話しかけてくる。
彼女は情報通でおしゃべりな女官のため、こうして髪結いの時に宮中の噂話や貴族の流行等を色々と教えてくれる。
「今回は何が話題になっているの」
「今は江家の末の姫君のことが女官達の間で持ち切りですのよ」
鏡に映った自分の顔が一瞬強張った。
左大臣家から帰ってきて以来、江澄はどこか逢瀬を控えようとしているように見えた。月のものや夢見が悪かったことで物忌みをしたいと言われてしまえば、こちらも無理に逢ってほしいとは言えなかった。
江澄に何かあったのだろうか、悪い予感に心臓の音がだんだんと大きくなる。
しかし、こちらの心など知る由もない女官は楽し気な口調で話を続けた。
「あれほど男っ気がなかった姫君でいらっしゃったし、ご自分も宮中を出て結婚をするつもりはないと断言していらっしゃったのに、最近殿方と文のやり取りを頻繁にされているので、皆驚いているのですよ」
外れてほしい予感程あたってしまうものだが、これ程ひどい話はあって欲しくなかった。
「どういうこと?何があったのかな」
何とか平静を保って声を絞り出すも掠れた声色になる。
「何がそうさせたのかは存じません。けれどもともとが美しい姫ですし、宮中に入ってからより和歌も洗練されたからでしょうか、姫が文のやり取りをしていると噂が広まったらあっという間に我も我もと殿方から文が届くようになったのです。和歌だけでなく長歌や漢詩も嗜むとあって名家の貴公子方も競って文を送ってくるので、今や女官達の間で末の姫君の話が出ない日はないくらいですのよ。」
確かに逢瀬の数は減っていたが、夜に部屋を訪れることを許してもらえば、今まで通りに身を委ねてくれていたから、まさかそんなことになっているとは夢にも思わなかった。
「どうやら末の姫君は結婚するおつもりのようなので、どのような方と結婚したいのか本人に聞いてみたのですけれど、可笑しなことを言っていたのですよ。都から離れて遠くへ行きたいのだと。名家の貴公子方に求められているというのに、受領の妻になりたいなどと、江家の末の姫君はやはり変わっていらっしゃいますよね。」
髪結いの女官が話をする度に地面が揺れて崩れていくような心地を味わった。
何故そんなことになっているのか。確かに江澄とは体の関係こそ持ってはいなかったが、慈しみ守りたいのだと告げればいつも泣きそうな顔をして幸せそうに笑ってくれていたではないか。ずっと仕えていたいとも言ってくれたのに、何故都から遠く離れた地で受領の妻になりたいなどと言い出したのか、何一つ理解できなかった。
ただ一つわかっていることは、どうあっても江澄を他の男に取られたくないということだ。他の男が江澄と文のやり取りをしていただけでも許しがたいのに、このままにしておけばいつ勘違いした男が女官に頼んで手引きさせ、江澄の寝所に夜這いするかわかったものではない。
仕度が終わるや否や、つかつかと江澄の部屋へ向かう。焦りのあまり秘密の扉ではなく正面から部屋に入った。
「阿澄、話がある」
しかし江澄は儀式の準備で他の宮殿に行っているらしく、部屋には誰もいなかった。
文箱を見ると何通もの文がある。意匠を凝らした極上の紙を見れば、いかに相手が本気であるかがわかり、その紙に書かれた江澄を求める和歌の数々には吐き気がした。
そして文机の上にはまだ墨が乾ききっていない紙が置かれていた。かすかに蓮花の香がする薄紫色の紙に美しい字で返答の和歌が書かれている。宛先はここから遠く離れた地を任地とする受領の男だった。
薄紫色の紙を手に曦臣はわなわなと震え首を小さく横に振った。この返歌が受領の男に届いてしまえば結婚に同意したようなものではないか。
「そう、あなたがそのつもりなら…」
薄紫色の紙を破り捨てながら、曦臣の心には暗い炎が灯った。