光の道 狡噛と諫早の祭りに行ったのは、彼の提案した通り七月末のことだった。
とはいえ俺たちは二人きりだけでなく、行動課全員と、協力を申し出てきた長崎の公安局の刑事課監視官、執行官たちがそこにいた。今夜、ここで違法薬物の大規模な取り引きが行われるとのタレコミがあり、その確実性から俺たちは祭りの他はさびれた街にやって来ていたのだった。公安局は当初情報に及び腰だったが、俺たちが出るとなると出動しないわけにはいかなかったのだろう。祭りが仕事で潰れたことは悔しかったが、それでも夕暮れ時に太い川に浮かぶ灯明と、橋や川辺を飾る明かりが美しく、道ゆく人々はその灯りと終わってしまった太陽に薄ぼんやりと照らされていて俺は見惚れてしまった。そして俺はそれに、古い時代の詩人の短歌を思い出す。
『清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき』
それは明治時代の歌人である与謝野晶子の短歌集、みだれ髪に収められた短歌の一つだった。もちろん、これも狡噛がその歌人に傾倒した時に俺が読まされた本の一つで、今日は春でもないし桜も見えないが、ぼんやりと人々を照らす灯りは、その短歌の通りみな美しく思えたのだから不思議だった。誰もが上気して満ち足りた表情でいるのは、その歌と全く同じに思えた。この祭りはかつての氾濫の犠牲者のための鎮魂の祭りだが、それでも人々は美しい光に照らされ、静かに祈るさまは光の道に美しく見える。
「こんなに人が多くちゃ、売人とお前を見間違いしそうだな」
俺はそう言って、前を歩く少しガラの悪い狡噛を振り向かせた。ずいぶんな物言いだったが彼は少しも気にせず、「そうしたらノミのいない留置所にぶち込んでくれよ」と笑った。その横顔はうっすらとした灯りに照らされ、たくましい体つきが強調される。俺はそれをいくらかうらやんで、そして「離れるなよ」と言われて、彼とそっと手を繋いだ。
彼は以前、この祭りを俺に紹介した時、混雑する中で離れないようにと、手を繋いでいようと言った。でも、そんなことしなくたって、人出は多いが彼と離れることはないように思える。狡噛は頭ひとつ人々から抜けていたし、俺もそうだったから。でも、ここは騙されてやることにしよう。そうしたら、この仕事にかこつけた逢い引きみたいな祭りを少しでも楽しめるんじゃないだろうか。もちろん公安局もいるのだし、いつもより気を張って仕事はしなければならない。手を繋ぎながらも、売人がどこにいるかを探らなきゃならない。
けれど、こんなふうに手を繋いで祭りにゆくのは、学生時代以来じゃないだろうか。まだ高等課程にいた頃、神奈川に住んでいた狡噛に誘われて、鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りに行ったのを思い出す。あれもこんなふうに灯明が、いや著名人が筆をふるった和紙をぼんぼりに仕立て上げて飾られていた。ぼんぼり祭りは鎌倉の伝統的な催事なのだと狡噛は言う。彼は由来を鎌倉の文士たちが、ペンクラブ会員を中心に昭和に始めたらしいとも言っていた。シビュラシステムが運用されてから神社仏閣はその力の多くを失ったが、それでも文化的に地に根付いた祭りはなくならなかった。かつて大きな力を持っていた神社の中を、静かに歩いたのを思い出す。俺たちはあそこでそっと触れるようなキスをして、それはぼんぼりの明かりにかき消されたのを覚えている。
あの頃は、なんとはなしに監視官になると素直に考えていて、やがて厚生省の官僚になったら狡噛と結婚しようと約束していた。でもそれは少しのずれが大きくなって消えてしまって、けれど今も俺たちはともにいる。狡噛がいなくなった時も、いつか自分を助けてくれるのは彼だとずっと思っていた。青森の事件では彼の幻まで見たのだから笑ってしまうけれど、だからこそ、今さら離してやらない、と思う。ここまでやって来たのだから、絶対に離してやらないと思う。この繋いだ手を離す時は、きっと別れる時だ。俺はぼんやりとした明かりに包まれてそう思う。今は捜査中で、薬の売人を見つけたらすぐにでも駆けつけねばならないというのに、俺はそんなことばかり考えていた。
薬の売買は、セオリー通り人が多く通るが、目のいかない橋の下で行われた。それを見つけたのは須郷で、彼はこの日のために用意した、デバイスではない耳につける通信機器で俺たち行動課や公安局の連中に連絡した。「見つけました、犯人グループは十人ずついます。今から自分が行きますから、狡噛さん、宜野座さんはサポートしてください」花城と公安局がそれにオーケーを出す。俺はそれを聞いて狡噛から手を離し、名残りがたく思いつつも用意して来た非殺傷型銃で映画の中みたいなジュラルミンケースに入った札束や、違法薬物が入ったボストンバッグを持つ犯人たちを狙撃した。パン、パン、という音が耳に入るが、それも人々の話し声や雑踏の足音に隠されてしまう。売人たちがざわつく。公安局が止めに入る。ドミネーターを向けた彼らは、パラライザーで違法薬物の取り引きを中断させる。そうして犯人たちは公安局に連行されて仕事は終わり、その頃になると灯明の灯りは薄く消え始めていた。
「そろそろ花火か……」
黄昏時が終わり、あたりが暗くなる頃、まるで合図をするように小さな打ち上げ花火が一つ上がった。狡噛が空を指さす。そうして彼が見つめる空に目をやると、灯明と同じ金色の花火が、きらきらと花になったことが分かった。花火はどんどん上がってゆく。大きなもの、飾りがついたもの、けれどそれらはみな金色で、あたりは煙が流れてもまぶしい太陽のような光に包まれた。鎮魂の祭りだというのに、人々は声を上げて空を指さす。きれいね、また来たいね、すっごく素敵。口々に喋る人々は、祭りを楽しんでいた。洋服だけでなく、ホロの浴衣を着た人たちもいる。その頃になると公安局との折衝で彼らについて行った花城と須郷を除いて、俺たちは本当に二人きりになっていた。
「もっと暗いところに行こうか? そうしたらもっときれいに花火が見える」
狡噛が言う。俺はそれに笑ってしまって、「何をするつもりなんだ?」と喉を震わせて肩をすくめた。狡噛は憮然としている。別に俺が示唆したことなど考えていなかったのだろうけれど、それでも少しは下心があったのだろうから。
「……ここにいられるのも、花火が終わるまでだな」
俺は狡噛の言葉を受けて言う。祭りが終われば、俺たちを官舎に戻すバンが待っている。俺はそれを少し寂しく思いながらも、また狡噛の手を握った。握り返される手のひらは、かさついているがとても熱い。それは彼の持つ彼特有の熱で、俺が気に入っているものの一つだった。足もとの明かりが消える。空は花火で燃えるようだ。鎮魂のための火は、人々の横顔を照らし美しく見せている。
「また来年も来ような」
以前は言えなかった台詞を口にすると、俺は妙に照れてしまい、けれど狡噛が「あぁ」と答えてくれたのでずっと、ずっと離さないと誓った。絶対に離さない、これ以上離さない。狡噛がいなくなる時は、今度は必ず送り出そう。ともには行けなくても、道を違えることがあっても、あの時のようにひっそりと去ることは許さない。
俺は狡噛の手のひらをぎゅっとつかむ。キスもしないで、幼い頃よりずっと幼い愛の交わし方をして、彼の手のひらをぎゅっとつかむ。もう消えてしまった光の道から空に浮かぶ光を見つめて、花火に混じって光る星を見つめて、決して狡噛を一人にはしないと誓う。