死んだっていいわ 深夜、川べりでのキャンプファイヤーに気を良くした学生が、メディカルトリップでない本物の酒に手を出すのにはそれほど時間はかからなかった。俺と狡噛は確かに彼ら——外務省高官の子女たち——を監督する立場にあったのだが、何せ彼らからは距離があったので、合宿にはしゃぎパーティーを始めた子どもたちに気づくまでには時間がかかった。それに監督といったって、危険な侵入者から彼らを守るのが俺たちに期待される行動であって、健全な合宿生活を送れるようにする教師の役割は求められていない。あくまでも俺たちは彼らの警護を仰せつかっているのであって、その守るべき存在が勝手に馬鹿をやるのなら止める方法はなかった。
ちなみに今回の合宿は、最終考査が終わり、学生生活が終わり、その思い出づくりで行われたものらしい。多くが中央省庁に就職が決まったエリートたちだから本当の馬鹿はやらないだろうが(たとえば違法なストレスケア薬剤に手を出すとか)、アルコールを許すかどうかは微妙なラインだった。酒はその依存性から、現在では煙草と同じく色相を曇らせるものとして扱われている。俺の隣でスピネルを嗜んでいる潜在犯がいい例だ。彼の現在のサイコ=パスは知らないが、俺よりも濁っているのは確かだろう。それに俺も人のことは言えないくらいの色相だ。健全な学生たちが一夜だけ楽しむくらい、見逃してやってもいいのかもしれない。そう思い、俺は報告書に彼らがアルコールを楽しんだのは書いてやらないことにした。
「それにしてもいい月だな。俺も一杯貰ってきて月見酒と洒落込もうかな」
狡噛が煙草の煙を吐き出しながら言う。全く、いいご身分だ。自分が警護要員だということをすっかり忘れてしまっている。
「お前を見たら酔いがさめる。あいつらのためにもやめてやるんだな」
俺はそんな意地悪を言って、狡噛をとどめた。だが彼は酒がほしくてたまらないのか、それとも月に執着しているのか、開けた山にぽつんと浮かぶそれを見て、「そろそろ中秋の名月じゃないか」と言った。狡噛はそういった年中行事に詳しかったから、またうんちくが始まるのかもしれない。そう思ったのと同時に、彼は口を開いた。
「一年で一番月がきれいな日だぜ? 酒を楽しむなら今じゃなきゃな」
平安貴族たちは宴を催して水面に映る月を眺めたり、盃に月を映して月見酒を楽しんだっていうじゃないか。俺たちは貴族じゃないけどさ。狡噛はそう言って、キャンプファイヤーの火が映る川に石を投げた。それは水を切って飛んでゆく。子どもがするその遊びをいい年をした彼がしていることに、俺は少し笑ってしまった。確かに酒を飲んだら気分がいいだろう。けれど任務だからと俺たちは持ち込んでいなかった。もったいないことをしたと思う。それとも狡噛の言う通り、あの学生たちに口止め料として酒をもらって楽しもうか? いや、駄目だ、学生最後の楽しみを大人が邪魔してはまずい。俺たちは気分だけは若かったが、彼らにしてみればいいおじさんだ。
「夏目漱石はアイラブユーを月がきれいですねと訳したと言われているが、あれは俗説なんだってな」
突然狡噛がそんなことを言った。彼が有名な作家の言葉を借りることはよくあったが、否定するのは久々に聞いた。けれど俺は「そうか」以外に何も言えず、それが本当だったら狡噛にとってはたいそうロマンチックだろうなと思った。そしてそういえば、学生時代に彼に同じようなことを言われたのも突然思い出す。月がきれいだな、ギノ。そうだな、狡噛。それっきりで終わった話だったが、ロマンチストな彼にしてみれば一世一代の告白だったのかもしれない。でもどうして月がきれいですねがアイラブユーなのだろう。同じものを見ているということが、同じ方向を見ているということが、古めかしい作家にとっての愛情だったのだろうか? それがあの時代の作家には真新しかったのだろうか?
狡噛はあまり愛しているとは言わない。それは自分が責任を取れないのを分かっているからかもしれないし、単に残酷なだけなのかもしれない。俺たちはほとんど愛情について言葉を交わすことがない。この街に住む移民たちはすぐに抱き合い、愛情を確かめ合うというのに、俺たちは昔の日本人のように、もういい大人だというのに上手くコミュニケーションすら取れないでいる。
狡噛がまた石で水を切る。水面に映った月が揺れる。俺はそれが美しく見えて、狡噛が美しく見えた。彼は精悍な顔立ちをしている。だというのに目元は優しく、濃いまつ毛はきれいな陰影を作っていた。
「どうして日本にはアイラブユーがなかったんだろう。他の国の人々と同じように愛し合っていたはずなのに」
俺がそう言うと、狡噛は少し驚いた顔をした。
「かなしひ、って言葉はあったらしいがな。可愛いとか、愛おしいとかいう意味で使ったそうだが。あとは恋しとか……俺の専門外だからよく知らないけども」
「へぇ……」
俺はそうだけ言って、また学生たちが馬鹿をやらないかキャンプファイヤーを見つめた。すると彼らは早々に酒が回ってしまったのか、あちこちで眠っている。馬鹿をやるならこれからだろう。そろそろ回収しに行くとするか。
「旅の途中でアイラブユーって言われたことは?」
「金の無心に言われたことは何度か」
俺たちは示し合わせたように歩き出す。狡噛は外国の女にもモテたのか、それが悔しかったが金の無心になら許すことにしよう。
「この分じゃ酒は残ってるな。全部終わったら月見酒と洒落込もう」
学生たちを全てバンガローに運び終えたら、二人きりで酒を楽しもう。そう言うと、狡噛は嬉しそうに口元をほころばせた。
彼と初めて飲んだ酒は散々だった。思えば俺の恋人は一人の男に酒も、煙草も教えられていたのだった。あいつはたいそうな女好きだったから狡噛のことはアイラブユーの意味では愛していなかっただろうが、古語のかなしひ、は使ったかもしれない。俺はそう思い、よく見れば愛くるしい恋人の横顔を見た。
月はまだ欠けもせず、ぽつんと空に浮かんでいる。周りだけぼんやりと明るくなって、キャンプファイヤーの光を受けてもぼやけることなく光っている。それはまるで俺が愛した男のようで、いや、彼は太陽のような人間だったが夜だけは月のようで、酒の勢いでキスを一つくらいしてやろうかと思った。狡噛はそんなことを考えているなんて知らないだろう。俺が酒を飲んで馬鹿をやることなんて想像もしていないだろう。でも俺だって人間だ、それくらいやってしまうさ。
俺はそんなことを考えながら、学生たちが寝転ぶキャンプファイヤーの周りに近づく。高い酒の匂いがして、いい気分だった。これだけでも月見酒の気分になれる。全く、いい仕事が回ってきたものだ。
月はまだ明るい。この分だと一晩中明るいだろう。だったら酒を酌み交わしながら彼のうんちくに耳を傾けるのもいいかもしれない。愛していると言われなくても、彼は誰かの言葉を借りてそう表現するだろうから。それが彼の言葉の使い方だから。
焦れったいが仕方がない。俺が愛したのはそういう種類の男だったからしょうがない。でも、今夜ばかりは酒の力を借りたなら、戯言が聞けるかもしれない。俺はそれを期待して、仕事を始めることにした。月明かりの下で、愛しい恋人ともに。