馴致と役得(ジェイアシュ) 驚いた。
飛んできた物がなんであったか、ジェイは視認する間もなく豪速球で眼前に迫ったそれを掴んだ。頭で考えるより前に右の義手は正常に動作し、飛来物との接触により硬質な音を立てる。恐る恐る確認すると小型のアラーム時計だった。手中のそれはセットした時間まであと一二分と一四秒ある。おそらくセットしてからそれほど時間が経っていない。
「ああ、てめぇか」
どうやら投げ付けたアッシュ本人も判別出来ていなかったらしい。半身を起こし片肘をつくその姿勢はアンバランスだ。盛大に舌打ちしてからドサリと再びベッドへ沈んで、溜息にも深呼吸にも聞こえる長い呼気を吐いた。場の緊張が緩和された事を確認して、ジェイはアラームを停止する。STOPと書かれたボタンを押すだけで良い単純構造で、助かったな、とジェイはひそかに安堵した。
「いやぁすまんすまん、仮眠中だったんだな」
努めて軽い口調で話すも彼は答えない。代わりに無言で返せ、と手だけ向けられた。アッシュは動かない。ベッドに近付き、その掌にアラームを載せると受け取った手はそのままベッドボードの上に向かい其処にアラームを転がした。最初から置いてやればよかったか、とジェイは考える。その間にアッシュは両腕をそれぞれ顔の上と腹の上とに置いて黙り込んだ。まだ起き上がるつもりはないらしい。
「寝呆けていた訳ではなさそうだが」
「うるせぇ」
舌打ちの音で会話が切断される。その割に追い出そうとする空気を感じなかったのでジェイは細心の注意を払って静かにベッドに腰掛けた。アッシュの脇腹の辺り、接触しない数センチメートルの距離を確保して未だ表情を遮る腕の稜線を眺める。
――バツが悪い、本当に排除すべき敵と見做して攻撃した訳じゃない、つい咄嗟に防御本能が働いて。そんなところだろう、ジェイは声だけで笑った。
「ハハ。しかし俺達の部屋で殺気立つのはよしてほしいなぁ」
「てめぇは今ノックしてなかったろうが」
「自分の部屋に入るのにノックなんかしないだろう?」
それともお前の実家は自分の部屋でさえ気を張っていないといけないようなところなのか?
頭に浮かんだそれを声に出して実際に問わなかった己の我慢強さにジェイは心中で頷いた。訊ねるとしてそれは今ではない。
「なんにせよ、早く俺の気配に慣れてくれ」
言いながら上体を伸ばし、逡巡して――ほんの瞬きの時間――左手の方を選びアッシュの髪に触れた。肘を避けて軽く、掌で二、三度ぽんぽんと髪を撫で付ける。
「安心していい。この部屋にはお前に危害を加える奴は入って来ない」
振り払われ罵声を浴びせられる事も覚悟しての行動だったが、予想していた激昂を突き付けられる気配はない。ジェイは拍子抜けした。寧ろ得も言われぬ衝撃が頭の上に転がり落ちてきた。
――アッシュが自分に油断している。
その事実に両目をしばたたいた。しかし一連のやり取りが彼を相当消耗させたらしいとも察した。
「一〇分経ったらまた声をかけるよ」
少々名残惜しいような気持ちをベッドのスプリングを利用して切り離し立ち上がったジェイは腰を上げる間際、アッシュの顔を一瞥した。
口許は横一直線にきつく閉じられており食い縛っているようにさえ見えた。険しいそれが、幼稚いもののように感じられたのはどうしてだろうか。
取り留めもなく思い耽ったまま歩き出して、この部屋に戻った当初の目的を忘れるところだった。自分のスペースにあるテーブルに置いていたボードゲームセットを小脇に挟んで、水槽の温度と自動給餌器の残量を軽くチェックしてから退室する。後ろ手にドアを閉めてから、おやすみとか言ってやればよかったかなと思った瞬間、唐突にジェイは思い当たった。
あれは、夢見が悪くてぐずった息子の表情に似ていたのだ。
至った結論につい肩を竦める。本当に息子相手ならこんな情を覚えない、そもそもあんな慰めるような事もしてやる必要はなかったのに、どうして悩んだ内容が、利き手ではあるが義手の右手にするか生身の感覚の残る左手にするかなんて些事だったのか。
「役得なんて言ったら今度こそ本気で攻撃されかねないな」
声をかけると言った手前反故には出来ない、その約束の時間まで残りあと僅かだとリビングルームの時計の長針が警告する。それまでに素面に戻らなければ、とジェイは目頭をぐりぐりと揉んだ。
〈了〉