日記と赤面と両片思い「チェ〜ズレイ、ほんとに平気?」
「えぇ、大事ありません」
チェズレイが入院することになった。
入院といっても大きな怪我をしたじゃない。ただ少しばかり頭を打ったことを口実に、働きづめのチェズレイが療養するためのものだから、心配することはなにも無い。
病室だと言われてもにわかに信じがたいその豪華な個室の中、ベットの上で佇むチェズレイは不思議と様になっていた。
「お前さんはどんな姿でも様になるねぇ」
「誉め言葉として受け取っておきましょう。それで、モクマさん、頼みたいことなのですが……」
チェズレイは何かに少し悩んだ後、モクマから視線を外して窓の方を見ながら言う。
「私の日記を、持ってきてほしいのです」
「日記?日記なんか付けてたの?」
「おや、ご存じなかったのですか?」
モクマはチェズレイの日記の存在を知らなかった。腕を伸ばせば触れられる距離で隣り合って眠っているというのにも関わらず、知らなかった。
「お前さん、日記なんかつけてたんだねぇ」
「些細な変化を記録しておく事で分かることもありますから」
「なんか、チェズレイらしいね」
「そうかもしれません」
「あぁ、中身が気になるなら、……覗いてもいいですよ。あなたなら」
この〝あなたなら〟という言葉が妙に耳に残った。言葉尻が妙に緊張していたような、あるいはどうぞ見てくださいとでも言いたげな。
!
──X月X日。
この国でやるべきことは終えた。次はJ国へ向かう予定だが、早めに予定を切り上げられたことだ。少しの間休養を取るのも悪くはない。ここのところ休みもなく、あの人も疲れがたまっている事だろう。
──X月X日。
先日の作戦で頭を打ったことを口実に、入院することにした。たまにはあの人にも一人の時間が必要だろう。
有事の際に覗き見られる事を想定してか、明記している事は少なかったためによくわからない記述も多かったが、モクマはどうしてチェズレイが覗き見を許したのかがわかった。
チェズレイの日記には、必ずと言っていいほど「あの人」についての記述があった。それは時に小さな不満だったり、作戦上のヘマについてだったりしたが、そんな内容でも、最後には毎回「あの人」の事を慮っている。この時点でもうモクマには充分だったのに、他の日には「あの人」があれを買ってくれただとか、今夜の晩酌のメニューはなかなか美味だったからまた一緒に食べられたらいいとか、まるで恋する乙女のようなことが書いてあるので、半分まで読んだところで、ついに耐え切れず日記を閉じてしまった。
書斎の、やけにふかふかした革張りの椅子に倒れ込むように座る。誰もいないのに正面から視線を逸らして、鼻から大きく息を吸った。それから、細く長く息を吐く。そうして深呼吸を何度か繰り返しても、鼓動の高まりは治まることを知らない。
頭を抱える。だって、こんなのはもう、照れてしまうじゃないか。卑怯だとすら思う。モクマは遠回しな好意には慣れきっていた上に、これよりも初々しい感情が綴られた恋文をもらったこともある。だというのに書斎の机から全く動けなくなってしまったのは、普段は会話やチャットでやりとりをする都合上あまり見たことがないチェズレイの字の美しさが原因か。それとも相手が全身全霊をかけてでも欲しいと想った人であるから、なのだろうか。
!
顔が熱い。柄にもなく照れているから。その含羞は目の前にある日記帳がまともにみられないほどで、モクマはにっちもさっちもいかなくなってしまい、その大きな手で自分の目を覆った。
そうしているうちにいつのまにか心の奥の方まで真っ赤になって、じわじわと胸に形容し難い大きな感情が膨れていくので、思わず口から「なんで……」とこぼれた。
その呟きには複雑な色が混じって、一口にはどういう感情なのか、モクマ自身にすらよくわからなかった。ただ一つ分かるのは、チェズレイは「あの人」の事を相当好いているらしく、また、それがどうしようもなく嬉しいことだけだった。
「あの人」は随分な幸せ者だと思う。日常の些細な出来事を忘れないように日記にしたためるような、穏やかに、健気に思われて。
しかしそれと同時に、なかなかの不幸な者であったと思う。なんせこんなにも健気に思われていることを知らなかったのだ。チェズレイが「あの人」を想って日記を綴るその間、「あの人」はいつかの夏祭りで食べたわたあめのように甘くてふわふわした恋心を知らずに過ごしてきたのだ。これ以上の不幸がどこにあるだろう。
でもきっと、「あの人」もチェズレイが些細なことに喜んだことを事細かに覚えているに違いない。
チェズレイとまた訪れたいと思う場所が日に日に増えているに違いない。
だって「あの人」は、モクマは思う。俺も同じ気持ちだよ、と。
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チェズレイの病室が近付くにつれ、緊張で息が詰まっていく。こんな経験はモクマの人生において初めての事だった。
一歩進む度、ろくろの上で回す粘土に形を与えるように、少しずつ感情が形となる。形が出来る度に心臓の奥から漏れだした、まだ産まれたての恋がのどを圧迫するような感覚があるので、まだ何も起きていないのに耳の端まで真っ赤になりそうだ。
チェズレイの病室まではまだ遠い。あぁ、なんて焦れったいんだろう!日が傾いた病院の廊下には、モクマが見える範囲には誰もいない。だから、だから。
なにか思う前に、脚が跳ねた。最高速度でおまえに逢いにゆこうと、軽やかに跳ねる。
後ろの、遠くの方で看護師の制止の声が聞こえる。「病院では走らないでください」と。わかっている。ごめんね、看護師さん。おじさん止まれないの……!意識の表層で、取り繕った仮面が自動機構のように言葉を発する。
!
凄まじい音を立てて、病室のドアを開ける。走ってきたせいなのか、もう緊張でどうにかなってしまったせいなのか、顔は真っ赤で汗だく。おまけに「チェズレイ!」と呼んだ声は情けなくも上擦って、つけようとしていた格好は影も形も残っちゃいなかった。
「……騒々しいですねェ」
チェズレイはおおよその事を察しているのか、平静を装いはしているがどうにもそわそわしている。その証拠に、決してこちらを見ない。
「チェ、チェズレイ……!こ、これは」
「……」
「ら、ぶれたー、ってことで」
「……0点」
こちらを見ないまま、チェズレイは言う。その声が本当に僅か、照れるように震えていたので、モクマはもうたまらない気持ちになって、チェズレイに駆け寄った。
!
「私は待っていたんですよ、あなたが下衆らしく私の日記を盗み見ることを」
「なしてそんな回りくどいことを……」
「……言わせるおつもりですか」
「下衆なもんで」
ようやくチェズレイが振り向く。顔色に変わりはないが、その美しい双眸は僅かに潤んで揺れている。それはモクマにだけ伝えるような些細なラブコールで、その変化にとうとう心拍が限界を超えて、あまりの脈拍のうるささに、身体全てが心臓になったかのように錯覚した。
チェズレイの視線がモクマから夕空へと移って、どこか子供っぽくすねた声が空の方から聞こえてくる。
「……関係を変えるきっかけは、いつも私からでした。ですから、こういう時くらい、」
あなたから聞きたかった。
チェズレイが言い終えるが早いか、モクマはチェズレイの手を握った。モクマにはもう余裕なんていうものは残されていなくて、どうすればこの気持ちを上手く言葉にできるかという事で一杯一杯だった。
モクマは必死で何かを言おうとして、金魚のように口をはくはくさせながら、チェズレイの細い手首を折ってしまいそうなほどの力で握る。「好きだ」も「同じ気持ちだ」もしっくりこなくって、だからってここでチェズレイに答えを言わせるわけにもいかない。
「モクマさん、そろそろ痛」
「せ、責任は取る!」
「は?」
素っ頓狂な声が二つ、夕日が見守る病室に響いた。先に言ったモクマは言葉を間違えたとうずくまり、言われたチェズレイはあまりの不可解さに笑いすら込み上げていた。
「ごめん、これはさすがに違うね……」
チェズレイが居るベッドの下、隠れきれずにはみ出した灰色がもぞもぞ動く。
「えぇ。違いますねェ。全く、的外れです」
言葉とは裏腹に、その言葉はどこまでも柔らかい。日記で「あの人」の想いを書き連ねるように。
「やり直し……」
「やり直し?やり直しをなさると?私にとっては今生で五指の内に入る程、大事な言葉だというのに?」
「とかはしないです……」
今にも泣き出しそうな顔をしたチェズレイに負けてモクマは引き下がる。どこまでも格好がつかないので、なんとなく気恥ずかしくて、今度はモクマが窓の外を見る。
視界の端、夕日を受けて煌めく銀糸。鈴が転がるように笑って、チェズレイが上機嫌に言う。
「ですが、あなたは下衆なので。常人ならとてもやり直せないでしょうが……下衆ならば、何も気にしていないような顔をして一度くらいは平気でやり直しそうなものです」
「……いいの?」
「詐欺師に二言はありません」
「普通なら信用できんよ、その言葉……」
「フフ……。ですが、せっかくやり直すのです。ならば、もちろん私が欲しい言葉をくださるのですよね?」