君のことが好きだった。図書館にいる男の子が気になる。
中学3年生、15歳。
私立校への推薦が決まっているから、そこまで必死に受験勉強に励む理由は無い。
同級生達は必死に最後の追い込みへと勉強をしている。
そんな場に私のような者は浮いてしまうから居づらくて、逃げ場所を求めて図書館にやって来た。
子供の頃は親子連れや読書を楽しむ人々で溢れていたけど、ここ数年人々の読書離れのせいか館内は閑散としてる。
却って都合が良いと、そこで昼から夕方頃まで適当に時間を潰すようになった。
子供の頃に読んだ絵本や、一昔前に流行っていたミステリー小説を読み漁りそれも飽きて来た頃。
彼は現れた。近くの中高一貫の私立校の制服を着た男の子。
歳の頃は私と同じくらい。黒髪に長めの前髪で真面目そうな雰囲気なのに左耳には揺れるピアス。
その子は本を何冊も手に取って、図書館の窓際の席に座ると真剣な顔で読み漁っていた。
時折ノートにペンを走らせる音が聞こえる。
窓から入り込む陽射しに照らされた横顔が、とても綺麗だった。
伏目がちに本の頁をなぞる目は切れ長で、利口そうに見える。
スッと通った鼻筋も、薄い唇も計算されてその角度に配置されたみたいに綺麗だった。
クラスに居る子供っぽい男子達や、格好良いと言われている男子よりもずっと大人びて見える。
自分の周囲には居ないタイプのそんな彼の事が気になった。
彼は毎日のように図書館に来ては同じように本の頁を捲り、ノートにペンを走らせる。
時折何かを考えるように窓に目を向けて、暫く外を見つめてから再び同じ作業を繰り返す。
私は門限あるから17時前にはそこを出て行ってしまうから、彼がいつまでそこに居るのか解らない。
閉館は18時だからそれまでには帰っているのだろう。
毎日毎日、昼過ぎには現れて同じ作業を繰り返している。
平日のこんな時間から図書館に居るのだから、きっと彼も受験生の歳なんだろう。
私も毎日同じ、この図書館に足を運んでいるから勝手に親近感のようなものを持っていた。
一言だって話した事も無いのに。本棚の隙間からそっと覗き見るだけで声を掛ける事もできないのに。
一度、彼が何をそんなに真剣に読んでいるのかを知りたくてこっそりと後ろを通った。
気配を押し殺し、何故だが呼吸も止めて。足を忍ばせてそっと。
形の良い後頭部、細い首筋。その向こうには神経質そうに敷き詰められた文字や数式。
積まれた本には経済学やら株やらと小難しそうなタイトルばかりが並んでいる。
頭の良い人なのだろう。興味があって覗いたものの、何が何やらさっぱり解らなかった。
だけど細くて綺麗な指先だけは目に焼きついた。
冷たそうな、体温の低そうな手だと思った。
あの手に触れられて、手を握られるのはどんな女の子なのだろう。
彼のような格好良い男の子の横に並ぶ女の子はきっと大変だと思う。
見劣りしないようにいつもお洒落で居なきゃいけないだろうし、1秒たりとも気が抜けなさそうだ。
あの制服の学校は私立校の中でもレベルが高いと言われている。
偏差値が、というよりは見た目の方だ。
可愛い女の子が多いのだとクラスの男子が話していた。
側に居た私や友達に向かってお前達とは違って、とわざわざ強調して来たからよく覚えている。
その後お馬鹿な男子は気の強い友達に、口でコテンパンにされていた。
あんた達が人の顔をあれこれ言える面してんの?なんて言葉は痛快でスッキリした。
その日も私は本を読むフリをして、本棚の隙間からあの男の子を盗み見る。
綺麗な横顔の男の子。こういうのって、もしかして一目惚れって、やつなのかな。
初めて見た時から、気になって仕方なかった。
はじめはただ格好良い人だなと思った。次には彼が読む本が気になって、それから彼の書く文字や見ているもの。些細な事を知りたくなった。
気付けば家に帰っても、寝る前も彼の事を思い浮かべるようになっていた。
居場所が無くて逃げ込んだ筈の図書館が、いつの間にか楽しみの場所になってるなんて。
あの男の子と付き合えるなんて大それた事は思っていない。
私みたいな見た目も家柄も平凡でしかない女が彼に釣り合う訳が無い。
ただ、高校に上がるその時まで。束の間の恋をしていたい。
でもちょっとだけで良いから。あの切れ長で賢そうな瞳に自分が映ったら。
そんなささやかな事を夢見ているだけ。名前も知らない彼に。
本の頁を捲る振りしてまたあの男の子を見る。
飽きもせず彼を見ている私も大概だけど、毎日毎日あんな難しい本を読んでいて飽きないのかと思う。
そんなに真剣に勉強しなきゃいけないなんて、きっと家が厳しいのかもしれない。
なんて事を考えていると、彼が制服のポケットから携帯電話を取り出した。
シルバーのその機種は最新のものだ。良いなぁ、私も欲しいと思ったけどパパもママも今使ってるのがあるからって買ってくれなかったんだ。
ストラップもついていないシンプルなそれを開いて画面を見たあと、彼は開いていたノートや本を閉じた。いつもは私よりも帰るのが遅いみたいなのに、今日はもう帰ってしまうのだろうか。
つい本棚から身を乗り出して見ようとしてしまう。
だけどそうなる前に出入り口の方で自動ドアが開く音がしてそっちに気を取られた。
何せあまり人が入って来ない図書館なのだ。誰かが入って来るとちょっと気になる。
振り向いて私はギョッとしてしまう。自動ドアを潜り抜けてカツンカツンと床を踏み鳴らす足音。
赤いヒールが引き摺るように目の前を通り過ぎていく。
それだけならそこまで驚く事では無いが、その赤いヒールの上が問題だった。
白い、これは…不良が着ているアレだ…特攻服というやつ。お兄ちゃんの本棚にあった漫画で読んだ事がある。
短くてツンツンした金色の髪に特攻服、しかも足元は赤いヒール。
しかしそれを履いているのは、女の人では無い。
どう見ても男だった。顔立ちからして年齢は恐らく私と近いのだろう。
だけどこんな怖そうな人、私の周りには一度も居た事が無い。
顔の左側に大きい痣があるのがより物騒な感じがする。
なんでこんな人が図書館に…悪いけど、凄く場違いだ。
そう思いながらも関わったら厄介な事になりそうだと私は本棚の陰に身を引っ込めた。
一体あんな人が何しに来たというのだろうか。
「イヌピー、また喧嘩したのか?」
初めて聞いたあの男の子の声は、少し高くてそれでいて優しい声音だった。
憧れていた男の子の声を聞けて胸を高鳴らせるような場面だったのに、それよりも私は驚きで唇が震えた。
だって、彼が親しげに声を掛けたのは今入って来たどう見ても不良の人にだからだ。
真面目そうな顔した彼との接点が解らない。
「別に、こんくらい平気だ」
ぶっきらぼうにそう返す不良の人。あんな怖そうな雰囲気なのに、あだ名はイヌピーなのがちょっとだけ面白い。
「腹減ってんだろ?何か食べてこう」
「ポテトの気分」
「良いな、じゃマックにしようか」
男の子とイヌピーと呼ばれた彼は気心の知れた様子で連立って図書館を出て行った。
私は二人の背中を見送ってから、ほっと息を吐く。
何だが物凄く意外性のある二人だったけど、彼は交友関係が広いのだろう。
ほら、よくある面倒見の良い優等生が不良生徒を更生させるみたいな。そういうアレかもしれない。
納得してその日は私も早めに図書館を出て帰る事にした。
朝学校に行って、クラスの友達と話すのは楽しい。
子ファッションの話や流行りのドラマや芸能人、それから恋の話。
以前はそういう普通の日常が平凡でも好きだった。
それが今は受験という大事な出来事に誰もが必死で余裕が無い。
その中から私はいち早く抜けてしまった。寝不足で辛そうな顔の友達に私の立場から何か言うなんて出来なくて。
結局今日も私は図書館に足を運んだ。
居場所が無くて、誰にも見つからない場所だったからそこを選んだ。
それだけだったけど、そんな私の退屈な時間に色を添えるように現れた男の子。
格好良くてお洒落な雰囲気で、ちょっと不思議な雰囲気の彼。私はその名前さえ知らない。
いつも同じ席で難しい本を読んでいる、その横顔が凛としていて綺麗な男の子。
その彼を密かに本棚の陰から覗き見るだけ。
それだけで平凡な私の日常が素敵なものになる気がした。
ほんの短い期間だけの私の恋だ。誰にも秘密の。
そこに最近、もう一人登場人物が増えてしまった。
まるで予想外のそのもう一人はイヌピーというらしい。
金色の髪をライオンみたいに立てて、白い特攻服に赤いヒールを履いたちょっとエキセントリックな出で立ちの人だ。
静かで穏やかな時間の流れる図書館の空気を一変させるように現れた「イヌピー」。
その見た目とは裏腹になんとも可愛い愛称である。
イヌピーは私の恋をしている男の子の友達らしい。
見た目があまりにも違い過ぎる二人だから最初は、ちょっとその関係がよくわからなかった。
でもイヌピーを見る眼差しやその名を呼ぶ彼の声は優しくて、親しげだった。
イヌピーが彼の事を「ココ」と呼んでいる事から私の好きな彼のあだ名はココなのだと知れた。
ココくん、と私も密かに心の中でそう呼んでいる。
あだ名までお洒落な事にまた、好感度は上がった。
イヌピーは多分不良なんだろう。特攻服なんか着て、顔や手を傷だらけにしては何日か置きにやって来る。
そうするとココくんは本やノートを仕舞い、小声で会話をした後に図書館から連立って出て行ってしまう。
それが少し残念だった。だからイヌピーが来るともうココくんは帰ってしまうのか、と諦めるしかない。
まあ良く見たらイヌピーもなかなかのイケメンなので、二人のイケメンが見れて目の保養って感じかな。
私は断然ココくん派なんだけど、イヌピーはココくんとはまた違ったタイプのイケメンだった。
服装や赤いヒールのせいで見逃していたが、整った顔をしている。
顔の左半分に痣があるのが勿体無いな、と思うけど彼もまた中々居ないタイプの綺麗な男の子だ。
あんな格好良いのに喧嘩とか危ない事なんてしなきゃ良いのに。
そんな事を勝手に思っては、ココくんがそういう危ない事に巻き込まれなければ良いなとこれもまた勝手に心配した。
だってココくんはたくさん難しい本を読み込みながら、毎日勉強をしているくらいだから。
きっと将来やりたい事やなりたいものがある人なんだと思うし。
イヌピーも喧嘩だとか馬鹿な事はやめて普通に生きたら良いんだ。
平凡だけど普通の生活だってそう悪くは無いんだから。
その日も私は図書館に行き、窓際の咳が見える本棚から適当に本を抜き出し近くの椅子に座ってパラパラと頁を捲る。
内容なんてあまり頭には入ってくる。この席に座るのは勿論、ココくんが見えるからという下心からだ。
昼過ぎになるとまた制服を着たココくんが現れる。
いつものように難しそうな本を開いては読み込んで、ノートに何かを書き留めていた。
私は勉強なんてテスト前に詰め込む程度にしかしたりしないから、本当に毎日毎日偉いなと思う。
さて今日も日課のココくんを観察するとしますか。
そう思っていたのだけど、私は気付いたらついうたた寝をしてしまったらしい。
はっ、と目を覚ました頃にはもう夕方近くになっていた。
慌てて振り向けばまだそこにはココくんが座っていた。
良かった、まだ居てくれた。そう思って眠たい目を擦っていると聞き慣れたカツンカツンと床を蹴るような音。
自動ドアが開いて白い特攻服服の裾がふわりと翻る。
直ぐ近くを通り過ぎても当然私の存在など、視界には入っていない。
今日もイヌピーは赤いヒールを鳴らして傷だらけの顔をしている。
「イヌピー」
近付いてきた存在にココくんが顔を上げて笑う。
それに対してイヌピーはああ、と素っ気なく返事をする。
イヌピーはあまり笑いもしなければ怒りもしない。
感情がその顔に出ているのを私は見た事が無かった。
表情筋が死んでるんじゃないかと思うくらい無表情なのだ。
綺麗な顔なのに勿体無い。余計なお世話だろうけど。
「今日はまた派手にやったな。足もか?」
「別に対した事ねぇよ」
「手当てしてやるからこっち来いって」
渋るイヌピーをココくんが腕を引いて、それから窓際の低い棚の上に座らせた。
黒い通学鞄の中からポーチを取り出すと、絆創膏や消毒液なんか手に取ってココくんはイヌピーの傷の手当を始める。
時折痛そうに僅かに眉を顰めるイヌピーにそりゃ痛いだろ、と笑うココくん。
優しいな、と思う。怪我をした友達の手当をせっせとしてあげる様は、きっと彼女にも優しくしてるんだろうなと思わせる。
「あんまり傷作ってくるなよ」
「喧嘩してりゃ怪我くらいする」
「あのな、俺は心配して言ってんだぞ」
頬に絆創膏を貼ってやりながらも、ココくんが指先でイヌピーの額を軽く小突いた。
それをイヌピーは不満そうに見ている。やっぱり二人は仲が良いのだな。
そんな光景に和んでいると徐にココくんが、膝を折るようにイヌピーの前に跪く。
え、と何をしているんだと身を乗り出しそうになって、慌てて隠れる。
ココくんはぶらぶらと揺れているイヌピーの足首を掴むと、そっと赤い靴を脱がせた。
見えた白い足の先は赤くなっている。何をしたのか指先の爪が割れて血が滲んでいた。
「痛そうだな…」
そう言ったあと、ココくんは足の爪を包むように絆創膏を巻いてやる。
それをただされるがままにイヌピーは見ていた。
「痛くない?」
「さっきは平気だったけど、ココに触られたら痛くなった」
ココくんはイヌピーの足首から踵を細い指先で絡みつくように撫でたのに何故ドキリとしてしまった。
何だが友達同士の触れ方、というにはちょっと生々しいような…。
床に置かれていた赤い靴を手に取ると、またそれを元あったように履かせる。
それが童話に出てくる王子様みたいでちょっとときめいてしまった。
それから、ココくんは…真っ白な足の甲に唇を落とした。
一体何を、と驚きで目を見開いてしまう。
それを見て無表情でいたイヌピーは、ふふ、と擽ったそうに笑っている。
初めて見たイヌピーのその顔は幼げなのにどこか艶っぽくも見えた。
そんな顔もするんだ、とか何でココくんがイヌピーの足にあんな事とか色々と頭の中がぐちゃぐちゃになって混乱してしまう。
当然そんな私の事なんて知る由もないココくんは、何事も無かったように立ち上がった。
そのまま目を離せないで居ると、今度はイヌピーの頬にココくんの指先が触れ、二人は見つめ合った。
まるで大切なものを見つめるように互いに視線を交わらせている。
そしてココくんは上半身を屈めるようにすると、そっと唇を触れ合わせた。
イヌピーはそれを受け入れるように目蓋を閉じた。長い睫毛が頬に影を作る。
そこだけ、時が止まってしまったみたいに。
まるで美しく残酷な絵画のようだった。
ほんの僅かな、たった数秒が永遠にも思えた。
ゆっくりと唇が離れると、ココくんとイヌピーは額をコツンと合わせる。
「帰ろう、腹減った」
そのままにしていたらまた唇がくっついてしまいそうな雰囲気だった。
それをイヌピーの平坦な声が壊して、時が戻ってくる。
ココくんはそれに笑って俺も食べたい、と返した。
ペロリと赤い舌で自分の唇を舐めるその様は、大人びて居て官能的な仕種に思えて私の頬が熱くなる。
何だが見てはいけないものを見てしまったような、そんな気になってしまった。
「馬鹿」
今度はさっきと逆にココくんの額をイヌピーが指先で小突いた。
それから楽しげに笑いながら、また赤い靴をカツンカツンと響かせて図書館を出て行ってしまう。
ココくんは何も無かったみたいに机の上の本を閉じて、ノートや筆記用具を片付けている。
その時に一度だけこちらを振り向いたような気がした。
棚の陰に居るこちらの事なんて当然見えていない筈なのに。まるで見透かされたみたいな気がして、ビクッとしてしまう。
何だか見てはいけない光景を目にしてしまったような気がする。
ココくんとイヌピーは友達同士の筈。だって二人とも男の子なんだから。
でも、友達同士であんな事をするのだろうか…でも、キス、していたように見えた。
何かを見間違えたのかもしれない。うん、きっとそうだろう。そんな事、普通あるわけ無い。
どうにか冷静になろうと呼吸を深く吸い込むと、ココくんが本を戻しに他の棚へ向かうのが見えた。
何故だか視界からココくんが見えなくなって、私は胸を撫で下ろしてしまう。
夢でも見ていたのかもしれない。きっとうたた寝なんてしてたから、寝惚けていたのだ。
ほう、と一息吐いて、これ以上ここに居ても仕方ないしと、自分も帰ろう。
そう思って顔を上げた瞬間、息が止まりそうになる。
いつの間にそこに居たのだろうか。音も無く直ぐ近くにココくんが立っていたのだ。
固まって体が動かない。私は早くこの場から立ち去るべきなのに、と気持ちばかり焦ってしまう。
でも、ココくんは私の事なんて知りもしない筈だし…そう思っていたのに。
ココくんは近付いて来て、あっという間に私の目の前まで来た。
じぃっと何も言わず黒い瞳だけが見つめてくる。
ただ覗き見るだけの存在だった彼が、こんなにも近くに居る。
憧れていた筈の彼は、綺麗なのに凄く冷たく感じて怖かった。
まるで蛇にでも睨まれた獲物のように、私は身を縮こませた。
こちらへ手が伸びて来て、ヒッ、と喉を引き攣らせぎゅっと目を閉じる。
何をされるのか解らない恐怖に脅えていたが、自分の頭上でカタリと音が聞こえた。
恐る恐る目を開くと、ココくんが自分の頭の上の棚へと本を戻していた。
もしかして…、勘違いしてしまったのか。自意識過剰だった。ココくんはただ本を戻しに来たのに私ってば恥ずかしい。
そう思って赤面していると、ふわりと大人びた香水の香りがした。
視線を横に向けると顔の直ぐ近く、本棚にココくんのあの細くて綺麗な指先が触れている。
え、と思い顔を上げればどういう状況なのか、ココくんの顔が近付いて来た。
何で何で、私こんな事になっているの?!こんなのまるで、少女漫画みたいな展開じゃないか。
だってココくんは私の事なんて知らない筈なのに、どうして。
頭の中はパニック状態で、男の子とこんなに近付いた事も無い私はどうしたら良いか解らずに固まってしまう。
耳元に、ココくんの吐息を感じて身を竦めた。
次に何が起きるのか、少しだけ期待してしまった私は馬鹿だった。
「イヌピーの事見てんじゃねーよ。アレは俺のものだから」
温度の感じられない低い声が、私の鼓膜を揺らした。
何を言われたのか、まるで理解出来ない。
初めて聞いたココくんの声はもっと優しくて、だから私はきっと良い人なんだって。
真面目で勉強をしている、そういう男の子なんだと思っていた。
呆然としたまま動けない私をココくんは見下ろして、そして完璧な笑みを浮かべた。
誰もが爽やかで良い人だと、そう思ってしまうような。
肩に掛かる私の三つ編みに掬いあげるように触れ、直ぐに興味を失くしたように手を離す。
その後はもう、私の事なんて居なかったみたいに一度もこちらを見る事は無いまま立ち去って行った。
自動ドアが閉まる音が聞こえて、私は足から力が抜けたみたいにズルズルとその場に蹲ってしまう。
ただ見ているだけで良かった。
その綺麗な横顔を眺め、どんな男の子なのか想像してるだけで幸せだったのに。
失恋してしまった胸の痛みなのか、それとも想像とは違った彼の姿になのか。
呼吸が苦しくなる程の胸の痛みに一人で声を殺して泣いた。
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