番 6(類side)
「…大丈夫、断られても、別の日にすればいいだけだから、とにかく、一度送って……」
じっ、とスマホの画面を見つめる事半日。否、正確には、朝から時間があればスマホのメッセージアプリを起動して睨めっこを続けている状態だ。仕事の間はスマホを見るわけにもいかないので見ていないのだけど、休憩時間になる度にその画面を開いては見続けている。この後は午後の稽古が始まる。そうなれば、次に送る機会がくるのは夜になってしまう。
「………はぁあ…、司くんには、頑張ると言ったのだけどね…」
寧々達に背中を押され、司くんともう一度話をする事が出来た。幸いにも、彼は僕にもう一度機会をくれた。気持ちは伝えなければならない、と助言も貰ったから、司くんが好きだと打ち明けた。言ったら困らせると思って、ずっと言わなかった想いだ。それでも、司くんはそれを受け止めてくれた。拒絶されなかったのは、彼が優しいからだろうね。それなら、彼の番として、この先も彼の隣に居てもいいと思ってもらえるよう、僕なりに想いを伝え続けたい。その為にも、もっと司くんとの距離を埋める必要がある。
(その初めの一歩に選んだのがメッセージアプリを使ったやり取りなのだけど、何故か中々送信ボタンが押せない…)
文面は何度も確認した。『おはよう』という何気ない挨拶から始めて、『話を聞いてくれてありがとう』と僕なりにこの機会を無駄にしないよう頑張るという決意、それから最後に『今度は二人で食事に行きたいな』というお誘いも。彼を傷付けた自覚はあるので、まだ二人で食事なんて難しいかもしれない。それでも、司くんとやり直すために、思った事は伝えていきたい。
もう一度読み返して変な所が無いかを確認し、送信ボタンに指を向ける。けれど、押す勇気が中々出なくて、スマホを机の上に置いた。
「はぁあ……」
何度目かの溜息が口からこぼれる。
自分が今、どれほど緊張しているかが分かる。舞台に立つのは慣れているのに、司くんにメッセージを送るのがこんなにも難しいとは。メッセージを無視されたら、と彼なら絶対にあり得ないと分かっている様な事も不安になってしまう。
どうしようか、と手元を見つめていれば、休憩終了の声がかかる。立ち上がる他のメンバーを見て、僕も慌てて立ち上がった。
真っ暗な画面のスマホをポケットにしまい、仕方なく練習にもどった。
―――
「すっかり遅くなってしまったね…」
息をゆっくりと吐き、スマホを開く。ロックを外して出てくるのは、送信されていないメッセージだ。何度も確認したそのメッセージを見て、もう一度溜息がこぼれた。
「………メッセージ一つも送れないなんて、僕はとんだ意気地無しだね…」
もうこのまま消してしまおうか。けれど、頑張ると言って早々に諦めては、今までと変わらないのかもしれない。言わないと決めていた想いも打ち明けたのだから、今更怯んでどうする。ここで諦めたら、結局何も進まずこのままだ。
ぐ、と指先に力を入れて、肺いっぱいに空気を吸い込む。息を止めて、そのまま目を瞑り指先で画面に触れた。ひゅぽ、と小さな電子音が聴こえて、画面に送信されたメッセージが映る。
「…ぉ、くって、しまった……」
司くんと結婚して六年以上になるのに、今更こんなメッセージ一つでここまで緊張するとは。情けない。
はぁあ、と大きく息を吐き出して、その場にしゃがみ込む。もう殆どの人達は帰宅したようだ。僕も荷物をまとめて家に帰らなければ。
「………迷惑、ではないかな…」
メッセージを見た司くんは、どう思うだろうか。今更なんだ、と怒らせてしまうだろうか。文字ではなく直接言えと機嫌を損ねてしまうだろうか。そんな事は無いと分かっているのに、嫌な方向へ想像が膨らんでいく。
今思えば、少し硬い文書になっていたかもしれない。何度も読み返して、沢山悩んだ文章だ。けれど、普段の僕が言わない言葉だって入っている。それが急に恥ずかしくなってしまって、慌ててメッセージアプリを開いた。自分の送信した文の横についた『既読』の文字に、反射的にスマホを閉じる。続いて、ぽこん、と軽快な音がして、息を飲んだ。
「…………………………………………」
きゅ、と唇を引き結んで、視線をさ迷わせる。心臓が大きな音をたてていて、手が震えた。ぽこん、ともう一度音が鳴り、自分でも驚く程肩が跳ね上がる。ぽこん、ぽこん、と手の下で繰り返される通知音に、目を瞑ってゆっくりと息を吸い込む。
「……よし…」
くるん、とスマホを取って画面をつける。通知欄に表示された『司くん』の文字に、一瞬指先に力が入った。一番上のメッセージ欄には、『スタンプが送られました』の文字。ロック画面を解除して、開いていたメッセージアプリを見れば、一気にメッセージが表示された。
一番上の文字を見て、思わず目を瞬く。
『おはよう』
スマホの左上の時間を確認して、もう一度メッセージを見る。確かに『おはよう』と書かれていた。夕方と言うにも少し遅い時刻だ。彼なら、『こんばんは』と送るだろうに。と、下のメッセージに目を向ければ、当たり障りのない僕の言葉一つひとつに返信が返されていた。彼らしい優しい言葉に、胸の奥が じぃん、と温かくなる。下の方に書かれた、『嬉しかった』は、僕の送ったメッセージの事なのだろう。その言葉に安堵して、肩の力が抜けていく。元気そうな兎のスタンプも、彼らしい。
「…………なんだか、久しぶりに彼と話した気がするな…」
返ってきたメッセージが司くんらしくて、彼が目の前にいるかのような気になる。離婚の話をする時も、食事会の時だって話はしたはずなのに、やっと司くんと話せた気がする。それが嬉しくて、先程の緊張が嘘のようにメッセージの返信を打ち込んだ。送信ボタンを押して、スマホを置く。すっかり人のいなくなった更衣室で、僕は慌てて着替えを始めた。
―――
(司side)
「お兄ちゃん、嬉しそうな顔してるね」
「む……」
「ふふん、今来たメッセージの相手、るいさんでしょ」
「…ぅ……」
隣でにまにまと笑う咲希に図星をつかれ、言葉に詰まる。急に届いたメッセージは、咲希の言う通り類からで、内容は類らしくない少し硬い文章だった。挨拶から始まって、何気ない話と謝罪や御礼、最後に少し遠回しな食事の誘い。
高校の時はもっと簡素で、砕けた感じだった気がするのだが…。
(それに、『おはよう』って…、もう夜なんだが……)
メッセージの冒頭に書かれた変な挨拶も類らしくない。けれど、文面を見る限り馬鹿にされている様な感じもしない。『司くん』とオレの名前が入っているから、他人宛てのメッセージでも無さそうだ。電波の問題かと思ったが、そういう訳でも無いのだろう。類が電波の繋がりにくい場所に行っているという話は聞いていない。
メッセージを打ち込んだ時と送る時の時間が違う、という事なら、納得いくが、朝打ち込んだメッセージを何故今送ってきたのだろうか。
(……仕事が忙しくて送れなかったのか…?)
それなら、文面を見返した時に気付くだろう。気付かないほど急いで送ったのか? だが見たところ急ぐ用件はなさそうだ。
ならば、急ぎの用件では無いが気付かなかったということか? 何故? そういう所は、しっかりしたやつだ。こんな些細なミスをするようなやつでは無いだろうに。
そこまで考えて、ふと思い至った可能性に苦笑する。いやいや、まさかそれは無いだろう。首を横に振ってその考えを否定するも、他に思い付かない。
(…………いや、類に限って、緊張していた、なんて…あるはずないだろう…)
うん、うん、と一人頷いては、同じ考えに至ってしまう。
きっと、オレが“そうであってほしい”んだ。オレも毎回悩むように、類も、悩んでくれたのかもしれないと。メッセージを打ち込んだのに、送信ボタンが押せない。どうしようと悩んでは何度も勇気を出そうとしてやめてしまう、あの葛藤が類にもあったなら、と。もしそうなら、この硬い文面も、時間に合わない挨拶も、間違いに気付かなかったことにも納得が出来てしまう。
否、そうであれば、オレが嬉しいんだ。
(……もし本当にそうなら、…今日一日、オレの事を考えてくれたのだろうか…)
初対面の相手に送るかのような硬い文面。類らしくない、丁寧な文。もしこれが、緊張していてのものなら、どれ程嬉しいか。どれ程幸せな事か。オレだけの為に沢山悩んで、沢山考えて打ち込まれたメッセージだ。読んだオレの反応を想像して、丁寧に傷付けない様にと気を遣ってくれたものだということになる。
そう思うと、泣いてしまいそうな程嬉しいと思ってしまう。
「…お兄ちゃん、本当にるいさんが好きなんだね」
「ぇ……?」
「早く仲直りしないと、離れている時間が勿体ないよ」
「……仲直り…」
咲希の言葉に、目を丸くさせる。
離婚しようと思う、という話は、まだ両親にしかしていない。咲希は、オレと類が喧嘩したとしか知らない。あの食事会で類に言われた言葉も、何も知らない。だからこその発言なのだとは分かる。だが、咲希にはオレ達が“仲良く”しているように見えていたのだろうか。冬弥達にもそう見えていたのだから、そうなのかもしれんが。
にこにことお茶を飲む咲希を横目に、スマホにメッセージを打ち込んだ。出来るだけ素直に。
(…夫婦だった時は、こんな風にメッセージのやり取りもしなかったな……)
高校生の時に戻ったような気分だった。ほんの少しドキドキして、指先が緊張する。だが、あまり時間をあけたくない。勢いに任せて短い文を打っては送信ボタンを押す。ひゅぽ、ひゅぽ、と軽い音が鳴る度に、心臓が大きく跳ねた。それと同時に、やってやった、という変な達成感で心が軽くなっていく。怒ってないと表す為にスタンプも送って、ずるずるとソファーの背もたれを背中が滑り落ちる。別居中で離婚しようと宣言した相手ではあるが、自分の夫にメッセージを送るだけでここまで勇気がいるのか、となんだか可笑しくなって小さく吹き出してしまった。
そんなオレを見て首を傾げた咲希は、何も知らないのにオレに合わせて笑ってくれた。
その数分後に送られてきたメッセージは、以前の類らしい文だった。
―――
「暫くは類に『好きだ』なんて言わないこと」
「…………何故だ…?」
「制裁」
ずずーっ、とコップの飲み物を一気に飲み干した寧々に、顔が引き攣るのが分かった。
今回の件に関して、何故かオレよりも寧々の方が不機嫌だ。類との接し方を悩んでいたオレの相談に乗ってくれるのは有難いが、類と何かあったのだろうか。寧々と類は、仲の良い幼馴染のはずだが。ちら、と隣に座るえむを見れば、えむは何も考えていなさそうな顔でパフェを頬張っている。ずい、とオレの隣から顔を出した暁山は、ぴっ、と人差し指を立てると、オレの方へそれを向けてきた。
「そうそう、男は一度手に入れると飽きちゃう所があるから、簡単にヨリを戻したらまた同じ事の繰り返しだよ」
「オレも男なのだが?」
「そう簡単には許さないって態度で挑んで反省させないと、男は単純だからすぐ他の女性に唆されるかもしれないし」
「いや、オレも男なのだが」
暁山と寧々がとても意気投合しているのは何故だろうか。オレの言葉はもはや聞こえていないようだ。黙々とパフェを食べる えむに視線を向けると、「司くんも食べる?」とスプーンが向けられた。誰かオレにこの状況を説明してくれ。
はぁ、と一つ息を吐いて、ストローに口をつければ、タイミング良くスマホが鳴りだした。メッセージの通知音に、びく、と肩が跳ねる。聞き慣れたその音に、じわぁ、と頬が熱くなるのが自分でも分かった。
「あ、もしかして類から?」
「…………そ、のようだな…」
「類、なんだって?」
「……この後、少し会えないか、と…」
食事会後、類から殆ど毎日のようにメッセージが届くようになった。あの硬かった文も、かなり類らしくなっている。なんとなくこのやり取りが高校の時のようで、嬉しい反面照れくさい。
むにぃ、と頬を指で摘んで、届いたばかりのメッセージを何度も読み返せば、寧々が飲みきったグラスのストローから口を離した。
「二人きりで話すのはまだダメ。会いたいなら今ここに呼んだら?」
「へ…? いや、今からは……」
「自分のモノが離れていくのは許せないなんていう男心ってやつかもしれないよ? 変に優しくして浮気を誤魔化すつもりかも」
「………そ、そういうものなのか…?」
何故かオレが類との家を出て行ったのを知ってから、どこか類に対してあたりの強り寧々が じとりとオレを見てくる。いまだに不機嫌な寧々と、それを面白がっている様子の暁山に、はぁ、と溜息がこぼれた。イマイチ暁山の話は理解出来ん。
怒っていないかと問われれば、素直に頷けない。あの食事会で類が言った言葉を、信じたい気持ちもある。だが、腑に落ちないものも幾つかあるのが現実だ。寧々の言う通り、類と二人で会うとなれば、多少の緊張もある。今だって、メッセージのやり取りだから上手くできている所もあるだろう。
だが、類を嫌いになれないのも事実だ。
「とにかく、司が類と会うなら一緒にいるから」
「類に聞いてみればいいんじゃない? 嫌ならまた今度って言うかもしれないし」
「……まぁ、聞くだけなら…」
頑なな寧々に苦笑して、メッセージの返事を打ち込む。今寧々達と一緒にいること。そして、今の場所も。ひゅぽ、とメッセージが送信された音がして、そっと肩の力を抜く。
類の事だから、『邪魔をするのは悪いから、また今度にするよ』と遠慮しそうだ。その時は、日を改めて会えばいいだろう。もしくは、メッセージで事足りるのなら、それで済ませてもらえばいい。
「あの日からメッセージでやり取りしてるんだっけ?」
「あぁ、お互いに練習もあって忙しくてな。何度か類の方から『会いたい』とは来るが、まだ、なんと返せばいいか分からん」
「類に協力した手前何も言えないけど、司先輩が許せるまで怒ったふりでも続ければいいと思うよ」
「………許せるまで…」
暁山の言葉に、視線が手元へ向く。
許すも何も、終わった話なのではないだろうか。別れ話をして離婚届も渡したのだ。やり直したいとは言われたが、それがどこまで本気なのか、分からん。もし、Ωであるオレの体質や体裁を気にしての事なのだとしたら、そんな気遣いで類とやり直すのは嫌だ。オレを引き止めるためだけに『好きだ』と言うのなら、聞きたくない。オレの立場を考えて、類がオレと夫婦を続けるのはもう無理だ。
ぽこん、と音の鳴ったスマホに気付いて画面を見れば、類から返事が返ってきていた。『五分待っていて』という文字に、目を瞬く。
「…どうかしたの?」
「いや、…類から、五分まってくれ、と…」
「おおぉ! 類くん、司くんに会いに来るんだね!」
パッ、と顔を上げた えむの言葉に、思わず言葉を飲み込んだ。
『五分待っていて』というのは、ここで、ということだ。つまり、えむの言う通りそういう事なのだろう。『また後日』を予想していただけに、理解が追いつかない。スマホの画面をもう一度見て、送られたメッセージを読み返す。確かに『五分待っていて』と短く返されている。他には何も無い。
(という事は、今から類に会うのか…?)
じわりと頬が熱くなるのは、この前の事があったからだろう。寧々達がいるから何も無いとは思うが、顔を合わせるのは緊張してしまう。
そわそわとするオレを見た寧々が、頬杖をつく。その不思議そうな顔と目が合うと、寧々が小さくオレの名を呼んだ。
「司は、好きな人がいるの?」
「…は……?」
「司くんは、ずっと前から類くん大好きだよね!」
「ぅ…」
突然の質問に目を丸くさせれば、えむが直球で答えてしまった。確かにその通りなのだが、はっきり言われてしまうと恥ずかしい。
ぶわわ、と顔が熱くなってしまって、慌ててストローを咥える。一気に飲み込めば、冷たい液体が急激に喉を冷やしてくれた。それを隣で見ていた暁山がにまにまとした顔で見てくる。えむもにこにこと笑顔を向けてくるので、なんだか居た堪れない。
ちら、と寧々を見ると、寧々も変な顔をしていた。
「まぁ、司が類の為に頑張っていたのは知ってるけど…」
「司先輩、類以外に好きな人がいたりしない? 例えば初恋の人、とか」
「いるわけないだろう。オレが好きなのは類だけだ。初めて好きになったのも、類なのだからな…」
何故か真剣な顔をこちらへ向ける寧々と暁山に、小さく息を吐く。
本人がいなければ、これくらいは言える。ずっと好きだったんだ。類の事が好きで、類の傍に居たいと願うようになって、色々考えた。類と籍をいれた後も、変わらず類だけが好きだった。いつか、一緒にいれば想いが返ってくると信じて。それで悩んで離婚していては意味が無いが。
「…ここまで想われていて、なんで他に好きな人がいる、なんて話になるのよ…」
「ボク、二人が離婚しようとしてるなんていまだに信じられないなぁ…」
「………む…? 何か言ったか?」
ぼそぼそと何かを呟いた二人に首を傾げて見せれば、二人が「なんでもない」と声を揃えて首を横へ振る。この二人は仲が良いのだな。
何を言われたのかは気になるが、教えたくないのなら仕方がない。新しく飲み物でも取りに行くか、と手元のグラスを見つめていれば、カラン、と店の扉が開く音が聞こえてきた。顔を上げると、入口で店内を見回す類がいて、思わず息を飲む。
ぱち、と目が合ってしまって、類の表情が安堵するようなものへ変わった。
「司くん…!」
「…ぁ、……」
早足でこちらへ近寄ってくるその姿に、肩に力が入る。後退ろうとした体が、ソファーの背もたれに当たる。テーブル席で座っているのだから逃げ道がないのは当たり前だ。そもそも逃げる必要はないのだが、体が無意識に類と距離を取ろうとしてしまう。
そんなオレの隣に、寧々が どか、と座ってきた。二人ならゆったり座れるソファー席の奥へ押し込まれ、暁山と寧々に左右を挟まれる。
それを見て きょとんと目を瞬く類に、寧々が じとりとした目を向けた。
「あまり司に近付くのは禁止だから」
「類くん、あたしの隣座る?」
「……まぁ、それは仕方ないと思うけど…、瑞希、それ以上司くんに近付かないでよ」
「えー…どうしようかな?」
これは一体どういう状況なのか。
オレ抜きでどんどん話が進んでいく。寧々の代わりに えむの隣へ座った類が、じとりと暁山を見る。にこにこと楽しそうな暁山は、何故かオレの肩に腕を回して抱き着いてきた。それを見た類の表情が更に不機嫌なものへ変わっていくのを見て、視線を下げる。
これも浮気に入るのだろうか。いや、類とは別れようと言ったのだから、オレの場合は浮気にはならないのではないか。だが、離婚が成立していないなら、浮気か…。などと現実逃避してしまう。
(……暁山の事では、類も嫉妬するのか…)
なんとも複雑な気分だ。
オレが誰かと一緒にいて嫉妬をすることは無いのに、仲の良い暁山にはするのか。むす、と顔を顰めれば、向かいの席で えむがにこにこと笑った。「司くん、類くんの事とってもとっても大好きだね」とマイペースな えむに、寧々も暁山も目が点になる。オレも、ぶわりと一気に顔が熱くなって、慌てて首を左右へ振った。
何故急にオレの話になったんだ。わけが分からないまま黙って首を振るオレを見て、類がへらりと笑った。
「司くんに嫌われているのは承知の上だよ。それでも、頑張ると決めたからね」
「……ぇ…」
「もう一度僕と一緒に居ても良いと言ってもらえるよう、努力する。だから、無理に僕に気を遣わなくてもいいよ」
「…ぁ………」
真っ直ぐオレに向けられた類の真剣な顔に、思わず息を飲む。
『嫌い』になんてなれなかった。離婚しようと言い出したのは、他の人の隣にいる類を見るのが辛かったからだ。上手く噛み合わないと、感じたからだ。類が、オレを友達以上に想ってはくれないのだと、そう思ったからだ。“友人”としてなら、上手くやれたんだ。“夫婦”というのが、オレと類には合わなかった。ただそれだけだと、思っていた。
類がオレの為に何かを頑張る必要は、元々無いのだが。
「かっこつけてるけど、司を裏切って浮気したんでしょ?」
「…いや、あれは……」
「なら今しっかり説明しなさいよ。なんで毎晩他の女性と…、それもΩの女性と一緒にいたのか、ってね」
「っ……」
容赦のない寧々の問いに、類の表情が固くなる。ちら、とオレを見た類は、そのまま視線を下げてしまった。オレの両隣で じとっとした目を類へ向ける二人は、どこか不機嫌そうだ。それに構わずメニュー表を眺める えむが、呼び鈴を押した。店内に、ぽーん、と店員を呼び出す音が響く。
ぎゅ、と握る拳に力を入れると、類が一つ息を吐いた。
「Ωの女性なのは知っていたのだけど、自己紹介の時に『番がいる』と聞いていたから、匂いを付けることはないと思っていたんだよ」
「それで司先輩にバレずに浮気出来ると思ったんだね」
「してないからっ…! 近所のバーに通ってはいたけど、彼女が断っても隣に座るから、面倒くさくて放っておいただけで…」
眉尻を下げて顔を逸らした類に、きゅ、と唇を引き結ぶ。
帰ってきた時に相手の匂いがしたということは、番はいなかったのだろう。何故類にそんな嘘をついたのかは分からんが、オレ以外のΩの匂いが分からない類は、気付けないのだろうな。それはそれとして、毎晩話しかけられるのを分かっていて同じお店に通うのは、会いに行っていたのと何が違うのか。
なんとなく類の顔が見られなくて俯けば、寧々がほんの少しオレの方へ体重をかけて寄りかかってくる。
「でも、毎日通ったんでしょ? 会いたかったからじゃないの?」
「会いに行っていたわけではないよ。…ただ、司くんが……」
「オレが……?」
突然類の言葉の中にオレの名が出てきて、思わず聞き返した。ちら、と類を見れば、困った様に眉を下げている。何故、そんな顔をするのだろうか。類が帰って来ない事とオレになんの関係があるというのか。
黙って類の言葉を待てば、ゆっくりと息を吸い込む音が聞こえてくる。氷が溶けて、カラン、という音が響いた。
「……僕が傍に居ない方が、落ち着けると思ったんだ…」
「…は……?」
「本当は、僕が君と顔を合わせるのが怖かっただけかもしれない。変に緊張してしまって、君とまともに会話も出来ていなかったから、いつ出て行かれるのかと、不安で堪らなかったんだ」
「……………そ、れは…」
力なく笑った類に、胸の奥が ぎゅ、と苦しくなる。
それは、オレも同じだった。会話もまともに出来なくて、一緒に過ごす時間も殆ど無かった。類と離れるのだけは嫌で、繋ぎ止める方法を探して、だがそれも上手くいかなくて逃げ出してしまった。
家に居ないのは、オレが嫌になったからなのだと、思っていた。オレ以外に好きな人が出来たのか、と、悔しくなった。こんなにも一緒にいて、こんなにも類が好きで、それなのに他人に負けたのかと。
(……もしこれが、オレを引き止めるための嘘なのだとしたら、とても酷い嘘だな…)
類の言葉はまるで、“オレが好きだ”と言っているようではないか。オレが好きだから、オレを気遣って帰らなかった、と。そう言っているように聞こえる。その言葉を、まだ信じたくない。
ことん、とテーブルの上に置かれた箱が、オレの方に差し出される。それが視界に映って反射的に顔を上げると、へらりと笑う類が、どこか照れくさそうに首を少し傾けた。
「受け取ってくれると嬉しいな。今日は、これを渡しに来ただけだから」
「……これ、は…?」
「君に渡すか悩んでいた贈り物。
この前も言ったのだけど、僕が好きなのは司くんだけなんだ。他の人に目移りしたことは無いし、君でなければ意味が無いよ」
「…………」
口を開きかけて、閉じる。
胸の奥が、苦しい。嬉しい気持ちともやもやとした気持ちがごちゃ混ぜになって詰まっている感じだ。ずっと欲しかった言葉なのに、素直に喜べない。こんな風に類からプレゼントを貰うことなんて殆ど無かった。これではまるで、ご機嫌取りのようではないか。
じ、と箱を見つめていれば、類が立ち上がる。本当に帰るつもりなのだろう。えむが「もう帰っちゃうの?」と問いかけている。多分だが、頷いているのだろう。えむと少し言葉を交わす類の声が聞こえてくるが、その言葉の意味が上手く頭に入ってこない。
(………このまま何も言わなくて、良いのだろうか…)
寧々と暁山のお陰で、オレが聞かなくても、聞きたかったことに類が答えてくれた。それが嘘か本当かは分からんが、確かに類の言葉で返ってきている。ずっと欲しかった言葉を、類が言ってくれた。それなら、オレも思っていた事を打ち明けるべきではないのか。
カラン、と店の扉が開く音に、慌てて顔を上げる。いつの間にか類の姿が見えなくなっていて、テーブルの上には箱が置かれているだけだった。
「……ぁ…」
立ち上がりかけて、体が急に重くなる。追い掛けて、なんと言えばいいのか。言いたいことがあるはずなのに、なんと言えばいいか分からない。それなら、後でメッセージでお礼だけすればいいのではないか。楽な方に思考が向かっていき、体がどんどん重たくなっていく。追い掛けて、類に声をかけるのが怖いのかもしれない。
視線がだんだんと下へ向くオレの背を、寧々が ぽん、と叩いた。びく、と肩が跳ねて顔を上げれば、隣に座る寧々が席を立つ。
「行ってらっしゃい」
先程の不機嫌そうな顔ではなく、優しい顔していた。そんな寧々の言葉に頷いて、急いで店を飛び出した。