メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です!× 【番外編】友人に頼まれて始めたお弁当屋のバイト。
そのお店に、毎週水曜日の夕方5時半頃、オレの“特別のお客さん”が来る。
【お弁当屋のバイトの子は、俳優さんを想って落ち着けない】
年が明けて、一ヶ月と少し。
風はまだまだ冷たい。お鍋とかおでんとか、温かいものが恋しい季節。スーパーやお店で売り出されるのは、そんな温かいものが多い。けれど、ここ最近はもう一つ注目されているコーナーがある。
(………チョコレート、か…)
ファンシーなポップで売り出されているコーナーをちら、と見て、息をひとつ吐く。
来週の火曜日は、バレンタインデーである。日本では女性が好きな人にチョコレートを渡す日として有名だ。妹の咲希も、幼馴染や友人達に配るのだと張り切っていた。えむも、お兄さん達にサプライズしたいと考えているようだ。オレの周りでそんな話を良く聞くからだろうか、ついついオレも気になってしまっている。
と言っても、浮かぶのはたった一人だ。
(…さすがに、今話題の人気俳優に、チョコレートなんて渡せるはずもないな…)
はぁ、ともう一度溜息を吐いてしまう。
オレが渡したいのは、毎週水曜日にお店に来てくれる、“特別のお客さん”だ。そのお客さんが、人気俳優の神代類。妹の咲希が大ファンで、家にはポスターや神代さんの出演するDVD等が沢山ある。CMや雑誌なんかでもよく顔を見るし、街中で女性が話題にしていることも珍しくない。SNSでもファンの人達がよく盛り上がっている。
そんな、世間で有名な俳優の神代さんは、オレのバイト先の常連さんである。
(…………)
ちら、ともう一度コーナーに目を向けて、唇を引き結ぶ。今、この辺りに人はいない。山になるチョコレートやデコレーション商品、それに簡単に作れるセットなんかも並んでいる。それらをじっと見つめて、掌を握り締めた。
―――
「…はぁあ……」
ゴン、と音が鳴りそうな勢いで、カウンターに額をつく。本日は二月十四日のバレンタインデー当日だ。朝からずっとスマホと睨めっこをしていて、疲れてしまった。時刻は夕方五時を過ぎた辺りである。生憎と今日は火曜日なので、神代さんはお店に来ない。
神代さんとは、たまたま縁があって知り合った。雨の日にお店に来てくれた神代さんに、傘を貸したのがきっかけかもしれん。名前を教えてもらって、軽い世間話をするようになって、劇のアドバイスももらった。休みの日に一緒に出かけたりもした。多分、店員とお客さん、よりも親しくなれたと思う。だが…。
「………一ファンからの贈り物なんて、普通受け取らないよな…」
俳優ともなれば、それなりに贈り物は貰うはずだ。それが神代さんなら尚のこと。けれど、贈り物なんて何があるか分からないから普通は受け取らないだろう。否、受け取ったとしても、飲食物は口にしないはずだ。つまり、バレンタインだからといって、オレが神代さんにチョコレートなんて渡せるはずもなく。
ここ数日、ずっと悩んでいた。いつもお世話になっている感謝も含めて、神代さんにお礼がしたい、と。バレンタインは好きな人にチョコレートを贈る日として有名だが、『感謝を伝える日』とも言われている。それならば、神代さんにお礼としてチョコレートを渡したい。
(…好き、とは、絶対に言えんから、こっそり気持ちだけ込めて渡したい、……)
かぁあ、と顔が熱くなっていくのが自分でも分かる。むに、と頬を指で軽く摘んで、顔を顰めた。正直に言うなら、『感謝』は建前だ。浮かれたイベントの熱に当てられて、オレも神代さんに、チョコを渡したい。オレの手料理が好きだと言ってくれる神代さんなら、もしかしたら受け取ってくれるんじゃないか、という期待もある。
だから困っていた。
「………これで断られたら、さすがに立ち直れないかもしれん…」
やめておこう、と何度も思った。考え直すべきだと、一人悩んで、うだうだとして…。だというのに、何故か嬉しそうに受け取ってくれる神代さんの顔が浮かんで、諦めきれなくなってしまうんだ。『ありがとう、天馬くん』と、あの綺麗な声まで聞こえた気がして、“渡さない”という選択肢が薄れていってしまう。
結果、用意だけはしてしまった。
「……渡す勇気もないのに、なにをしているのだろうか…」
はぁ、ともう一度溜息が零れる。メッセージアプリで連絡を取るかも悩んだ。だが、ただでさえ忙しい神代さんに、『チョコを渡したいのでお時間をください』なんて言えるはずもなく。家に置いておくわけにも行かず、朝からずっと鞄の中にあるチョコを見る度に気が重くなる。運悪く今日は火曜日だ。神代さんが来るのは、決まって水曜日なので、呼び出さない限り今日渡せるわけがない。
カチ、カチ、カチ、と時計の針がすすむ音だけが店内に響く。誰もいないのをいい事にカウンターで項垂れる今のオレの姿は、傍から見たら完全なる職務放棄だ。
「こうなったら、あれは自分で全部食べよう」
うんうん、とそう結論づけて、顔を上げる。明日渡せばいいだろう、と思うかもしれんがそれすら恥ずかしくて無理だ。今日という後押しがなければ、あんなもの渡せるはずがない。残ったものを味見として食べたが、ちゃんと美味しかったからな。帰ってこっそり処理してしまおう。ぐっ、と丸まった背中を伸ばすために腕を思い切り上へあげる。と、入口の扉が開いて、聞き慣れたベルの音がした。
入ってきたその人と目が合って、思わず体が固まった。
「こんにちは、天馬くん」
「……か、かみ、し、ろさん………」
「ふふ、今日は体操でもしてたのかい?」
「っ…、ぃ、いらっしゃいませっ!」
硝子の厚い眼鏡を外して、神代さんがお店に入ってきた。今日は来ないと思っていたこともあって、頭が上手く追いつかない。そんなオレを見て、くすくすと目の前で神代さんに笑われてしまい、慌てて両手をおろした。ぶわわ、と顔が一気に熱くなって、隠すように深く頭を下げる。
「へ、変なところをお見せしてすみませんっ…!」
「天馬くんでも、仕事中に気が抜けることもあるんだね」
「……ぅ、…」
いまだにくすくすと小さく笑う神代さんに、言葉を飲み込む。貴方にチョコを渡すか悩んでいたんです、なんて言えるはずがない。ちら、と時計を見ると、五時半を少し過ぎたところだ。こんな奇跡があるのか。ぎゅ、とエプロンの裾を掴んで、視線を泳がせる。
「今日は、唐揚げと、鰤の照り焼きと――」
ショーケースを見ながら、よく注文してくれるおかずの名前を神代さんが読み上げる。それを聞きながら、一つ一つパックに詰め込んだ。相変わらず野菜は入っていない。オレが薦めたものばかりが並ぶのを見て、胸の奥がきゅぅ、と音を鳴らす。
「たらこのおにぎりも美味しいですよ。あと、こっちのツナマヨのおにぎりは友人が好きなやつで、オレも好きなんです!」
「なら、どちらもお願いしようかな」
「はいっ!」
いつも鮭のおにぎりだが、この前昆布のおにぎりも選んでいたから、今日は別のを薦めてみた。さすがに高菜やネギ味噌とかはやめておいた。今度、機会があったらそれとなく薦めてみよう。神代さんに野菜入りのものを薦める時だけは、少し慎重になってしまう。体調を崩してほしくないので、ほんの少しでも神代さんが食べれるものから量を増やしてほしいしな。
「丁度お預かりします」
ぴったり払ってくれた神代さんに、ぺこ、と頭を下げる。お金をしまってレジを閉めると、神代さんがレジ袋を片手にふわりと笑った。
「今日はこの後また仕事にもどらなくてはならなくてね。少しだけ寄らせてもらったんだ」
「そうだったんですね。忙しい中、ありがとうございます」
休憩時間に寄ってくれたらしい神代さんに、お礼を伝える。会計も終わったのでこの後仕事なら、もう帰ってしまうだろう。渡すなら、今しかない。せっかく当日に、神代さんが偶然お店に来てくれたのだ。これは渡せということだろう。
(………だが、こんな邪な気持ちが混ざったものを、渡していいのだろうか…)
神代さんには、もう相手がいるというのに。オレの一方的な想いで渡していいのか。感謝と言いながら、『神代さんが好きだ』という気持ちが混ざっていないわけではない。
黙ったまま、視線がカウンターの上を彷徨う。神代さんの顔が見れなくて、無意味に何度も握り締める手に力を入れた。足は床に縫い付けられたかの様に動かない。情けないが、土壇場になってやはり尻込みする自分がいた。
そんなオレの視線の先、カウンターの上にトン、と紙袋が置かれる。
「んぇ…」
「今日は、これを渡しに来たんだ」
「……オレ、に…?」
「うん。受け取ってくれるかい?」
薄い藤色の紙袋に、目を瞬く。顔を上げると、神代さんがふわりと笑った。きゅぅ、と胸が締め付けられるように苦しくなって、心音が早くなる。恐る恐る紙袋を受け取ると、予想以上に重たかった。
「……綺麗…」
紙袋の中を覗くと、白いカーネーションが丸い硝子の容器の中で咲いている。カーネーションの周りにも、小さな薄い桃色の花が入っていたりと、とても綺麗だ。
「いつもオススメを教えてくれたり、天馬くんにはお世話になっているからね」
「ぇ、いや、オレの方こそっ…」
「それ、ブリザーブドフラワーって言って、枯れない花なのだけど、受け取ってくれるかい?」
つい魅入ってしまったオレに、神代さんが優しい声でそう言った。慌てて顔を上げると、ふんわりと微笑まれてしまい、言葉を飲み込む。そんな顔をされては、断れるわけがない。小さく頷くと、神代さんは満足そうに笑ってくれた。
胸の奥が、ぎゅっとなる。本当はオレの方がずっとお世話になっているのに、神代さんがオレのために用意してくれたのがすごく嬉しい。緩みそうになる口元をきゅ、と引き結んで、紙袋を受け取る。
「…あ、りがとう、ございます……」
「それじゃぁ、またね、天馬くん」
「え、…ぁ…」
ひら、と手を振られて、神代さんが背を向けてしまう。慌ててカウンターから飛び出して、神代さんの服を掴んだ。ピン、と服が引かれて、神代さんの足が止まる。きょとんとした顔がこちらへ振り返り、月のような瞳と目が合った。
はく、はく、と上手く言葉が出てこなくて、視線が泳ぐ。けれど、今この手を離したら、もうチャンスはない。今日神代さんに会ったのに、次の時に渡すのは不自然だ。
(……『待っていてください』って、一言言えばいい…)
神代さんなら、待っていてくれる。ロッカーに入っているのを、取りに行くだけだ。取って、急いで戻ってきて、それで…。
そこまで考えて、服の裾を掴む手に力が籠る。
渡したい、と思うのに、渡していいのか、と、こんな時まで怖気付く自分が情けない。神代さんは、態々来てくれて、『いつもありがとう』と花をくれた。オレも、神代さんにお礼がしたい。いつも優しい神代さんに、渡したい。けれど、オレがチョコを渡したら、困らせてしまわないだろうか。この想いは、迷惑にならないだろうか。
そう思うと、そのたった一言が出てこない。
(……やはり、あれは、自分で…)
食べた方が良いか…。
これ以上引き止めるのが申し訳なくなって、指先から力が抜ける。裾を離すと、くる、と神代さんがこちらに体を向けてくれた。けれど、顔があげられなくて、少し俯きがちにへら、と笑って見せる。「すみません、なんでもないです」と、小さく謝って、両手を後ろへ隠した。諦めた事でもやもやとする気持ちが胸に残って、無意識にエプロンのリボンを後ろ手にいじる。
いつも通りの挨拶をして、笑顔で見送らねば。すぅ、と大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。気持ちを落ち着けようとするオレの頭に、ぽん、と大きな掌が乗せられた。
「あと少しなら、待てるよ?」
「……ぇ…」
「何か言いたいことがあるなら、話せるようになるまで待つよ。今が無理なら、仕事が終わった後でも良いしね」
「…………ぁ、…」
「困ってる事でも、くだらない話でもなんでも、天馬くんの話なら、僕は全部聞きたいかな」
「…っ……」
いつもより少しゆっくり目に話してくれる神代さんの声に、顔を上げる。ふわりと優しく微笑む様が綺麗で、息を飲んだ。神代さんは、オレに対して過保護過ぎる気がする。普通、行きつけのお店のバイトというだけで、ここまで優しくするはずがない。なのに、あの日名前を教えてもらってから、神代さんは優しかった。劇の台本作りや練習に付き合ってくれて、遊園地に連れて行ってくれたり、こまめに連絡をくれたり。オレの事を、とても気遣ってくれる。
(………そのお礼だけでも、したい…)
神代さんには、返しきれない程の恩がある。今だって、オレが何か言いたいことがあるのだと察して、待つと言ってくれた。ここで、『なんでもないです』と言ったら、きっと心配させてしまう。
迷惑でもなんでも、渡そう。神代さんのために用意したのだから、渡さなくてどうする。
「す、こしだけ、ここで、待っていてくださいっ…!」
「うん」
更衣室の方へ足を向けて、強く地面を蹴る。飛び込むように中へ入って、自分のロッカーを開けた。鞄の中にちょこん、と入っている紙袋を引っ張り出す。
その場で二回ほど深呼吸をして、ロッカーの戸を閉めた。急いで店内に戻ると、神代さんはその場で待ってくれている。なんとなく、気恥ずかしくなって、紙袋を後ろ手に隠した。が、今更渡さないという選択肢もない。
優しい表情のまま、オレを待ってくれる神代さんの目の前まで行って、もう一度大きく深呼吸をする。
「…その、いつも、お世話になっているので…」
「………ありがとう」
「お仕事があるのに、お待たせしてしまって、すみませんっ…!」
面と向かって渡す勇気はなくて、下を向いて赤い顔を隠した。きゅ、と目を強く瞑って、押し付けるように紙袋を差し出す。手が震えているのが、自分でもよくわかった。神代さんの優しい声で礼を言われたあと、紙袋が指先から離れていく。受け取ってもらえたことに、ほんの少し安堵した。緊張していたせいか心臓の鼓動がバクバクと煩くなっていて、少し苦しい。
ゆっくり呼吸を落ち着けていれば、視界の隅に影がさす。
「ね、天馬くん」
「…、……」
すぐ近くから神代さんの声が聞こえて、ビクッ、と肩が跳ねた。ぴたりと体が固まって、俯いたまま顔を上げることも出来なくなる。多分、少し視線を横へ向けるだけで、神代さんと目が合う気がした。それくらい近い位置に、神代さんがいる。
落ち着けようとしていた心臓が一気に跳ね上がって、さっきよりも大きく音を鳴らし始めた。喉が鳴って、無意識に息を詰める。ぎゅ、とエプロンの裾を掴むと、楽しそうな声音が落とされた。
「これ、もしかして、チョコレートかい?」
「………そ、ぅ、…です…」
「君の手作りかもしれない、なんて、期待してもいいのかな?」
「……っ、……………………」
沸騰してしまいそうな程顔が熱い。顔だけでなく、身体中が熱い気がした。熱すぎて頭はくらくらするし、手汗でエプロンの布地が湿っていくようだ。いつもより少し低い神代さんの声に、耳が溶けてしまう気がした。それ程、神代さんの声が大人の男性の様な色っぽさを滲ませていた。
あまりの衝撃に声が出なくなって、必死にこくこくと頷く。
中身はチョコレートで、お菓子作りは不慣れなオレの手作りだ。正直、市販の方が何倍も美味しいとは分かっている。それでも神代さんに渡すなら、自分で作りたいと思ってしまって、夜中に頑張ったものだ。
オレが何度も頷いたからか、神代さんがくすっと笑って一歩下がった。
「ありがとう、天馬くん」
「………こ、ち、らこそ…」
「大事に食べるね」
お礼を言われ、緊張が解けて気持ちが楽になった。迷惑に思われたりはしていないようだ。ちら、と視線を上げると、神代さんが嬉しそうに笑ってくれていて、ぶわっ、と頬が更に熱くなる。
ドラマとかで見るような、綺麗な笑みだった。キラキラしていて眩しい微笑みは、どことなく甘さを含んでいて、勘違いしてしまいそうになる。
(……こういう所が、神代さんが人気の理由なのだろうな…)
一ファンにも優しくて、まるで特別扱いをされているように錯覚してしまう。そう思わせる事が出来るだけの見せ方や振る舞い方、演技力がすごい。やはり、神代さんの隣に並ぶとなると、オレにはまだまだ高い壁がありそうだ。
だんだんと思考がぐちゃぐちゃになってきて、変な方向へ向かっていく。そんなオレに、神代さんがひらひらと手を振った。
「それじゃぁ、またね、天馬くん」
「………は、はぃ…」
「チョコ、ありがとう」
「……こちら、こそ…」
いつもより少し機嫌が良さそうに見えたのは、気のせいだろうか。きっと、オレがそう思いたいだけかもしれん。入口の扉が開くベルの音に、慌てて頭を下げた。
「ま、またのお越しを、お待ちしてますっ…!」
声が裏返った気はしたが、出来るだけ大きな声で言ったから聞こえただろう。硝子窓に、遠ざかっていく神代さんの後ろ姿が見える。まだ煩い心臓の鼓動が苦しい気がして、胸元を強く握った。足からふっ、と力が抜けて、その場にしゃがみ込む。誰もいなくなった店内はシン、としていて、オレの心臓の音だけが鳴り響いているみたいだった。
「…………す、き、が、足りない…」
あぁあああああ…、と変な唸り声が口から出ていく。神代さんはもういないのに、顔の熱は全然引いてくれん。心臓は破裂しそうだし、耳が溶けてしまいそうなあの甘い声はずっと脳内で繰り返し再生されてしまう。
会う度に、神代さんが優しくなる気がして、このままだとオーバーヒートで死んでしまいそうだ。きゅぅ、きゅぅ、と音を鳴らす胸を強くおさえて、膝に顔を埋める。
いつか笑顔で祝福するって、諦めるって決めたというのに、どんどん好きになっている気がする。
「………どうすればいいんだ…」
泣き言のような独り言は、誰にも聞かれず消えていった。
―――
(類side)
バン、と車のドアを閉めると、すぐさまエンジンがかかる。買ったお弁当は後部座席において、シートベルトをしっかりとつけてから眼鏡を外した。面倒なマスクも帽子も外して、紙袋を開く。
中に入っていたのは、四角い箱だった。
「その様子だと、会えたんだ?」
「会えたよ。寧々も時間を作ってくれてありがとう」
「はいはい。あんたが仕事さえしっかりしてくれれば、わたしはそれでいいし」
寧々の言葉を聞きながら、可愛らしいリボンを解く。箱の中は6つに仕切られていて、それぞれに一つづつ丸いチョコレートが入っていた。一つを摘んで、口に入れれば、ココアパウダーのほろ苦い味が口に広がっていく。次いで、それを上書きするほど甘いチョコレートが舌先の熱でゆっくり溶けた。口内を甘く塗り替えるチョコレートに、自然と口元が弧を描く。
(……彼の作るものは、どれも好きだなぁ…)
料理も特別好きだったけれど、お菓子も好きだ。以前貰ったクッキーも美味しかった。彼が作るものは、何故こんなにも僕を魅了するのか。食べるのはもったいないけれど、もう一つ食べたいと、心の中で葛藤が起きる。逡巡して、結局一つ摘んで口に入れた。
ふわりと口内にほろ苦さが広がって、すぐにとろりと溶けたチョコレートで塗り替えられていく。このままでは全てなくなってしまいそうで、溶けたチョコレートを舌で楽しみながら箱の蓋を閉めた。紙袋へしまい、それを後部座席の方へ置く。
「良かったじゃん、類」
「ふふ、まさか天馬くんから貰えるなんて思わなくてね、つい動揺してしまったよ」
「他のファンやスタッフの人達からは絶対受け取らないくせに、“天馬くん”のはあっさり受け取るんだ」
「彼以外からは要らないからね。本当はホワイトデーのお返しを期待していたのだけど」
たまたま気に入って通うようになったお店のバイトの子。最初はそれだけだったのに、彼と話すようになって、どんどん惹かれていく自分に気付いた。連絡も頻繁に送るようになって、彼を思い出す度に会いたいと思ってしまう程、僕の中で天馬くんの存在が大きくなっていった。
バレンタインは、海外では男性から女性へ花を贈る。なら、僕は彼に贈りたいと思った。まさか、彼からチョコレートを貰えるなんて思ってはなかった。本音を言うと期待する気持ちは少なからずあったけれど、今日は火曜日で会う予定もなかったから用意はしてないだろうな、と諦めていた。
僕から渡せば、律儀な彼はきっと申し訳ないと思うだろうし、お返しは何がいいかと悩んでくれるはずだ。だから、お返しにデートに誘おうかと思っていたのだけど、どうやらそれはまた別の機会になってしまったようだ。彼の手作りチョコレートが貰えるなんて、嬉しい誤算だね。
「そういえば、類は花を渡したんだっけ」
「白いカーネーションをね。彼の部屋にでも飾ってくれるといいのだけど」
「あんたのファンなら、卒倒するわね」
寧々が呆れたような顔でそう言った。
まぁ、僕が渡すのは天馬くんだけだから、ほかの事は気にしないかな。それに、反応は悪くなかったからね。紙袋の中を覗く天馬くんの目はキラキラしていて、その反応が見られただけでも十分だ。彼が喜んでくれたのだと、一目でわかったしね。
あの時の天馬くんの表情を思い出すと、つい口元が緩んでしまう。
「でも、バレンタインにカーネーションって、どうなの?」
「あぁ、…寧々は、カーネーションの花言葉を知っているかい?」
「母の日に贈る花なんだから、『感謝』じゃないの?」
「ふふ、それはどうだろうね?」
元々、母の日に『カーネーション』を贈るようになったのは、ある人物が『母親の好きな花であるカーネーション』を贈ったのが由来であると言う話もある。だから、感謝の気持ちを込めてカーネーションを贈るようになったのだけど、実際に『感謝』の花言葉を含むのは、ピンク色のカーネーションだ。
「…さて、彼はいつ気付くかな」
来年は、四本のカーネーションを贈るのもいいね。その時は今度こそ、赤いカーネーションを贈ろう。
きっと気付くことはないだろう天馬くんを思い浮かべて、小さく笑みを零した。