今はさよなら、僕の春 その日、僕は人を殺した。
思い出すのも癪なほど、胸糞の悪い案件だった。術式で意識を乗っ取った少女たちの尊厳を奪い、変態どもに売る。そんな罪を重ねて笑う、呪詛師を殺した。
未来しかない幼気な少女を餌食にする大人が一番嫌いだ。そういう大人が我が物顔で世の中を牛耳るせいで、いつだって犠牲になるのは力ない子どもたちなのだ。そんな大人たちが蔓延るせいで、灰原は殺された。
五条にとって、灰原の命と、名も知らない呪詛師は同じ価値ではない。
灰原には未来があった。あのまま成長すれば、きっとたくさんの命を救う呪術師になれたはずだった。そんな光の真ん中に居るような後輩と、夜闇に身を落とした呪詛師が、同じ価値があるはずがない。
けれど、僕が奪ったのも、間違いなくひとつの命なのだ。たとえその魂がどれだけ穢れていたとしても。どんな人間だとしても命は理不尽に脅かされることのない、たった一つのものだ。それを五条は無関心に奪った。
命に貴賤はない。そう教えてくれたのは七海だった。
五条にとって、命とは価値のないものだ。指先ひとつで壊れてしまう、呆気ないほど脆いものでしかない。昔から、呪詛師を手にかけることを躊躇ったことも、悩んだこともない。
そんな僕に、七海が心を与えた。命の貴さを、身ひとつで教えてくれた。
七海が大切になるたびに、僕は怖くなる。この、どこにでもある命が。指先ひとつで壊れてしまうものが。呪霊が一薙ぎするだけで、あっけなく吹っ飛ぶようなものが。大切になるたびに、怖くなる。
この命を、誰かが奪ったなら。僕はどうするのだろう。僕の知らぬところで、この命を持つ少年が、誰かの手で無感動に意味なく終わらされたら。僕はいったい、何を思うだろう。
命の終焉を見るたびに、そこに七海を重ねてしまう。そうして、優秀な頭が鮮明に描く、七海の最期を見るたびに傑を思い出す。
非術師を嫌って、呪術界を呪った親友。あいつが目指す世界がどんなものであったのか、未だに理解できない。けれど、こんな世界など壊れてしまえばいいと呪う気持ちは分からなくはない。
だって、世界がこんなだから、僕たちの可愛い後輩が死んだんだ。だから、残された七海が後悔して憔悴している。
いっそ、傑と同じように世界を見捨ててみようか。
七海の手を握って、硝子の腕を引いて、夜蛾センは追いかけてくれるかな。そうして、大切なものだけを抱えて、逃げ出してみようか。そうして、優しいものが理不尽に奪われない世界を作ってみようか。
きっと僕なら、それができる。
こんな風に、価値のない命を手にかけることも、大切な誰かの手を穢させることもなくなる。そんな穏やかな世界を夢見て、何が悪い。
幼い頃、僕は呪術界の外に出られないのだと信じていた。望みもしないくせに手のひらに落とされた力に辟易としながら。けれど、この力で世界を守って生きていかなければならないのだと信じていた。
けれど。今の僕は知っている。人は信じればどこにでも行けるし、何にでもなれる。それは僕も同じなんだ。
この世界から足抜けするという選択肢がこの手にあることを。今の僕は知っている。
あり得ない未来を空想しながら高専に戻った。意識だけは明瞭な頭では、あり得ない未来をこの手に掴むところが見えていた。
「……おかえりなさい」
灰原と傑の居なくなった高専は、いつもひどく物寂しい空気に包まれている。そんな静寂が耳に響く場所の真ん中で、七海がぽつりと一人、佇んでいた。
いつも身綺麗にしていた七海からは想像できないほど薄汚れていた。目尻に浮かぶ隈。痛んだ髪の隙間から、荒みきった碧色が覗いている。
カサついた、薄くて色のない唇。触れると痛いだろうとわかりながらも、手を伸ばさずにはいられなかった。
触れたそこは、やっぱり痛かった。少しなぞるだけで、爪先の柔い皮膚が小さく引っかかる。
七海の笑顔を思い出せない。コイツが笑わなくなって、もうずいぶんと経つ。灰原が死んだあの日から、七海は一度も笑わない。
壊れてしまったの、だろうか。壊れたんだろうな。
ここで生きていくには、七海はあまりに真っ当すぎた。優しすぎた。弱かった。それだけ。けれど、いつものように〈それだけ〉と見捨てるには、あまりに七海が特別になりすぎてしまった。
本当は、手を離してやるべきなんだろう。わかっている。七海を本当に想うなら、自由にしてやるべきだ。生と死の境界線でしか生きられない此処を見捨てさせるべきなんだろう。頭ではわかっていた。理性では理解している。
けれど。七海の手を離せるほど、僕は強くない。このどうしようもない世界に帰るたびに、おかえりと言ってくれる声を喪って真っ当に生きていけるほど、僕は強くない。
七海の手を離してしまえば。僕は本当にひとりぼっちになってしまう。
傑と七海が、そこは寂しいからと人を勝手に掬い上げたくせに。僕だけを残して、二人は僕の知らないどこかに行ってしまう。そして、知ってしまった寂寥だけがある場所に戻るなんて。そんなこと、できるはずがない。
だって、僕も人間なんだ。人間で居ていいんだって、二人が教えてくれた。
だから。
「ねぇ、七海。僕と一緒に行こうよ」
「どこに?」
「ここじゃないどこかに」
「イヤです」
「どうして? だってしんどいばっかじゃん」
「だってここは、五条さんが帰る場所なんでしょう。それにここには、灰原の思い出がたくさんあります。
……ここを捨てて、私だけ助かっても。きっと灰原は笑ってくれない。だから、ここに居ます」
相変わらず、七海はにこりとも笑わない。あんなに綺麗に廻っていた呪力だって澱んだまま。けれど、真っ直ぐ見つめてくる瞳には力があった。海を閉じ込めたような碧色が、目が眩むほど強く僕を射抜く。
ああ、この瞳を好きになったんだっけ。真っ直ぐで、眩しくて、僕には見えない世界を見る瞳。この目がとても、すきだった。
壊すことに特化した術式のくせに、内側に生命を受け入れて育む海を飼う、アンバランスなこども。最初はそんなところに興味を持って、辛辣さの裏側にある優しさと強さと弱さを知るたびに恋をした。七海が七海なところが、好きだった。
好きだった。好きだよ。好きだったにするからさ。
だから、ね。オマエは生きて。ここじゃないどこかで優しい場所で。
「僕、オマエがおかえりって言ってくれるとこ、すごく好きだよ」
「帰ってきた人に言うのは当たり前です」
「うん。でも、僕におかえりって言ってくれたの、オマエだけだからさ」
困惑を隠さない七海の唇にキスをした。触れたそこは乾燥していて、僅かに鉄の味がした。けれど、生を実感できる程度には温かい。
「なぁ。オマエだけでもここから逃げろ。
逃げて、逃げて、逃げて、にげて、生き延びて。その先で幸せになれよ。みんながそれを望んでる」
「嫌です。だいたい、皆って誰です?」
「僕。たぶん硝子も伊地知も、オマエが生きることを望んでる。傑と灰原も、オマエが壊れることなんて望んでない」
「嫌ですよ。私だって、みんなに託されたんですから」
「それなら、僕がこの世界を変える。
今の壊れかけたオマエが直るまでに、少しでも優しい世界にしてみせる。だから、優しいオマエがオマエらしく生きられる場所に逃げてくれよ」
「アナタは此処に残るのに?」
「だってオマエ、こんな場所でも見捨てれないんでしょ。だったら、そんなオマエごと受け入れるしかないじゃん。
僕、こう見えて、オマエのこと本気で好きなんだよ。オマエの全部を受け入れてやりたい。でも、大切だから、このまま壊れるオマエは見てられない。
此処を変えるのは僕でもちょっと骨が折れるからさ。だから、その間だけ、ここから離れててよ。そんなに待たせないからさ」
「……アナタがそこまで言うならいいですよ。
でも、どうせなら餞は何かないんですか」
「いいよ。何でもあげる。何がほしい?」
「アナタを。アナタが居る実感を」
光を取り戻した七海があわく微笑んだ。久しぶりに見た、零れるような笑顔に跳ねる心臓と裏腹に、指先が緊張で冷えていく。
それが、どういう意味があるのか測りかねるほど鈍いつもりはない。
七海と恋人という関係に落ち着いたのは、灰原が死ぬ、ほんの一週間前だった。お互いに心があるとわかりながらも、距離感を計りかねていた僕たちの背中を蹴飛ばした親友たちに支えられながら、ゆっくりと距離を縮めているところだった。
キスをしたのは、早かったように思う。けれど、そこから手を繋ぐまで時間がかかったし、抱きしめた時に驚いた七海が僕を殴らなくなるまで五日間かかった。
触れるだけのキスが精一杯の恋人だったのだ。いつも羞恥に顔を赤く染めていたのは七海の方で、僕はといえば、そんな七海が落ち着くのを面白がりながら待っていた。はずなのに。
「いいの?」
「私、五条さんが初めての恋人なんです。キスをしたのも、手を繋いだのも。だから、最後の初めても、五条さんがいい。
それじゃ、駄目ですか?」
どこか不安そうに見上げてくる七海を抱えて、僕ななけなしの理性を振り絞って、綺麗な呪力を練り上げる。気を抜くと暴走しそうな呪力では七海を傷つけかねない。それが本末転倒であることくらいはわかる。
抱きしめた七海からは、懐かしい桜の香りがした。出会った頃の、別れるときにも咲く花の香り。控えめなはずなのに、忘れられない華やかさのある匂いが七海には似合う。
きっと、これから先、桜が咲くたびに今日のことを思い出すのだろう。
そんなことを思いながら、僕は自分の部屋に飛んだ。
その先は二人だけの、秘密。
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