生者に似合わぬ月光よ「せいぜい月の光を浴びるがいいよ」
──『魍魎の匣』
秋の始まりといえば陽の落ちる早さだとか朝に寒くて目が醒めるだとか人により知る術があるだろう。京楽にとっては残念ながら、ようやく酷暑を乗り切った浮竹が寒暖差で体調を崩すことで知れた。一番悔しい思いをしているのは当人だろうから決して口にはしない。卯ノ花ぐらいだ、公言するのは。
「昔はまだ持ち堪えてた筈だがな」
「ボクらも歳を食ったってことでしょ。気にしなさんな。夏風邪と違って掛け布団があっても暑くならないんだし、大人しくしててよ」
宥められたところで浮竹の顔は晴れない。
昔はもっと耐えようがあった。なにせ中秋の名月、もとい中秋節に合わせて宴会があってそこに新人は駆り出されていた。拙くも琵琶を弾いたり筝を弾いたりした覚えがある。一方で京楽は風流な振る舞いに恥じぬ見事な横笛を披露して、本人は野郎相手に無駄な音を奏でたと嘆いていたが意地の悪い同僚たちでさえ感嘆の声を漏らすほどだった。浮竹は師匠がいたから聞くに耐えぬ音を出すことはなかったものの皆が皆そうであった訳でもなく、そもそも豊作の返礼が色濃くなってきて、そこに京楽の横笛で肥えてしまった耳で素人の音色に用がある者など居らず、二人が官位を戴いて暫くした頃にはそんな風習はなくなっていた。二人揃って若くして隊長羽織を受けた頃には廷内の茶屋が商魂逞しく気張る程度で、隊ごとに内々で屋根に上ったり見晴らしのいい丘へ行ったりすることもあるぐらいだ。今に至っては浮竹なぞ団子を食べる日とさえ捉えている。
その団子も満足に食べられないと浮竹は床に臥したまま嘆く。喉に詰まるねと京楽はぞんざいに遇らった。中秋節を憶えている数少ないうちのひとりこと京楽は月見障子と酒さえあれば良かった。友人が伏してしまっているのは残念だが秋口ともなればある程度仕方ない。雨乾堂に月見障子と雪見障子が季節で嵌め込まれるのは京楽の画策によるもので、つまり浮竹の病状さえ織り込み済みである。
「でも、最初の頃は豆じゃなかったっけ。ほら誰だったか鼓を持ち出してきた時とか」
「そう言えばそうだな。豆よりは団子の方が俺は好きだが、というか里芋のこともなかったか?」
「……芋煮になってた頃か」
「そう、そう。味付けで取っ組み合いが起きた時の」
二人ほどの古株ともなれば季節行事の経験も積み重なる。団子だって取り上げてみれば様々だ。
月見の供が団子になったのは同期の隊長が消えた頃で、つまりもう浮竹は寒暖差で布団の中から月を見上げるのが慣例と化していた。そんな彼の元にせっせと酒や団子を芒とあわせて持ってくるのが京楽だった。
「今年の団子は?」
「へそ餅って言うんだって。餡子付だよ、浮竹ってばこういうの好きでしょう」
「俺はおはぎが好きなんだよ……」
咎めるような物言いをしたところでへそ餅はとうに浮竹の口の中に放り込まれていた。月より団子と京楽は笑う。毎年のことなので、それこそ咎めようもなかった。
餡かぶりに雫型の餅が京楽は一番好みだが大半は浮竹の胃に収まった。餡がなくとも三色ういろうの餅だって浮竹はぺろりと平らげてしまっていた。珍しいものだと吹上餅のこともあって、これは確か志波夫婦と一緒に食べたのだがやはり浮竹が多く取っていた筈だ。
「丸型は月さえあればよね」
「お前の月は盃の中にある」
「あはは。違いないねえ」
笑いつつ京楽は掌の盃を弄ぶ。未だ乾かぬ陶器は硬い皮膚に当たってざらざらとした音を僅かに立てていた。
「君は、雫型の月じゃ締まらないかね」
「三日月だの上弦下弦だのあるだろ。欠けていようと膨らんでいようと月は月さ」
「君らしいや」
嘯きつつ浮竹は爪楊枝で小豆の皮を剥がす。花より月より団子という相場だ。風流なものは親友に任せるのが彼のやり口だった。
任された京楽にしたって、珍しく総隊長からとの伝言と共に雀部から貰った酒の方に執心しているように見える。どうせ口実だと浮竹は、酒代わりの湯呑みに手を出した。寝込んでいる時に盃を手にしたと卯ノ花に露呈したらとんでもないことになるのだ。前に屈んだので髪が垂れる。寝る時は結んだ方がいいと教えてくれたのはかつての三席だったか。なるほどと思った覚えはあったが彼らがいなくなったのに合わせて省略していた。どうせひと手間だと耳にかける。
嗚呼と京楽が声を漏らす。浮竹はじろりと見上げた。
「なんだ」
「いやさ、綺麗なものだと思った訳よ」
「そんなにか?」
急ぎ月見障子を仰ぎ見る。和紙に阻まれることなく夜空を見上げれば満月は裾あたりに薄雲を随えているところだった。絵になる構図ではあろう。
「そんなお気に召したか」
「……そうだねぇ。良いものだよ」
永く生きていると多少の年月は気にかけなくなる。日々の移ろいなどその最たるもので、病み伏すことの多い浮竹など寝込んでいるうちに季節のひとつも変わっていることすらあって、ただでさえ関心の薄いこと、あまり風情を解さない。京楽が詠嘆したところであまり理解できなかった。
「そんなものか」
口惜しいというほどでもない。別の個体なのだから理解に差異があることなど珍しくもなんともない。むしろ違いある方が、それを認め合える方が浮竹には気楽だった。それを分かっているのかいないのか、京楽はそうだと殊更に頷いた。
「綺麗な白銀色だよ」
「……ま、太陽に比べたらそんな色だよな。餅の色だ」
「そういや団子をひとつだけ黄色に作ることもあるらしいよ。来年はそれを探そうかしら」
「食べたことないな。ぜひそうしてくれ」
風情を解さずとも季節のものを時季に合わせて食べるぐらいなら浮竹だって従う。でなければ餅は餅だ。来年も親友と託けて過ごせるならそれに越したことはない。
「……勿論だよ。美味しいところを探しておくさ」
言いつつ、京楽は盃を傾ける。口許が見えなくなるなとぼんやり考えると、浮竹はふと意地の悪いことを言ってやろうという気になる。それをそのまま口に出した。
「出来た通い妻だな、お前は」
じろりと京楽は、酒で赤くなった顔で浮竹を見遣る。
「寝込んでいる旦那の前じゃただの親友さ」
それもそうだと浮竹は、色の抜けた髪を月明かりに晒すと、また湯呑みに手を出すことにした。