夜霧より未定
咳き込み続ける浮竹をどうにか抱えて裏路地に入る。この辺りのはずなのだがと地図を見返すが何しろ勝手の分からぬ異国の地、読み方が合っているかどうかさえ不安で、さりとてこの格好で人に聞いて回ることもできず表音文字の並びに目を凝らしながら進むしかない。応急の薬が効いてもなお浮竹の肺は暴れている。然もありなんと睨み上げた空は濁った色をしていた。東梢局の何もなくただ広く山にさえ滲むような空はない。
「ああ、もう。何が挨拶さ……!」
吐き捨てること何度目か、置いて行けと訴える視線を無視すること数十分、ようやく目当ての通りに辿り着いて指定された通りに何故か水を撒き散らす装置を見つけた。なんでまたと見遣れば浮竹は最早難所を通り越していて虚な目でそれを見ている。
「……飲めるかな」
「やめときなさい、ほら濁ってる。もう少しなんだから」
小休止すると夜明けが近くなっていた。慌てて地図の残りを辿って更に通りを抜けて投書箱らしいところへ浮竹が預かっていた小さな硬貨を差し入れた。それが落ちる音は聞こえない。京楽は告げる。
「尸魂界東梢局護廷隊より移転祝いのご挨拶にあがりました──」
二人の地面がなくなる。恐れることなく京楽も浮竹も『裏側』を目指して落ちていった。
山本直々の任命であった。何故かと問えば若いからとのこと。そう答えたところで京楽が、年寄りに遠路は厳しいと茶化したら拳が返ってきたのも記憶に新しい。それが元で出立まで様々な雑務を押し付けられた京楽に代わって浮竹が調べたところ、なんでも西梢局は霊王権能が薄く現世の影へ隠れるように存在しているとの由、その現世が政変動乱により夜間の『ドラゴン』狩りに支障が出てきたとかで棲息分布にあわせて拠点を移したとか。夜間の灯火管制や外出制限があっては自由な活動は難しがろう、しかし脅威を野放しにしておくことはできずとなれば多少の不自由はあっても合理的な話だった。
とはいえその移転先の現世が黒煙に覆われているとは想定外であった。狼煙かと思えば人々は日常の顔をして生活していて、なんでも火種に炭や薪より効率的なものも利用しているとのこと、そこに灰色をした煙が付き纏っていた。若かろうと肺の弱い浮竹にはたいそう劣悪な環境だった。人目を避けて煙の薄い時間帯を選べば今度は霧煙る冷気に気道が狭められた。二度と来ないと来たばかりで恨み言のように呟いている彼に、京楽は、大変だったねえと周りを見渡す。次の機会は絶対に浮竹へ鉢を回さないと決めたところで今回生きて彼を帰せなければ意味がないのだ。折よく、揃いの羽織が三つ四つ駆け寄ってくる。彼らが歓待の声を上げるのを聞くより先に京楽は寝台を借りれるか交渉する必要があった。挨拶もそこそこに医務室へ流れ込むはめにはなるがお陰様で温かい飲み物に軽食まで貰える。助かったと伝えつつ浮竹を見れば目を閉じていた。結局喀血してしまったので終日安静が決まっている。額に張り付いた前髪を除けてやると京楽は彼を残してひとり立ち回る。三日の予定であった。
「これで二日も寝込むとは不覚……」
「ボクは見慣れてるけど、向こうさんからしたら血吐いてるのに二日で元気なのかよって感じだと思うよ」
挨拶回りもなにも隣部署ということになっている割に技術協力や人員連携もないのだから顔を繋ぐ先もそうなく、一日で終えてしまうと残りは篤志な者にドラゴン業務を見学させてもらうぐらい、ホロウとはまるで勝手が違うというのを話し合って二日目をやり過ごせば翌日には血の気の多い若手に捕まろうというもの、手伝いの戦力にはなれそうもないところから買って出て始解をして鬼道にも似たしかし全く異なる術を相手に苦戦していれば背後から慣れた霊圧を覚える。振り返るまでもなく浮竹はおかんむりの状態で、どうにか斬魄刀見学会に持ち込んでもなお京楽を睨みつけていた。昼食の時間だと呼ばれなければまだ睨まれていたかもしれない。
何のことやらと首を傾げる浮竹は病み上がりと思えない速度で皿を空にしていく。イカれてるとのどよめきは聞こえているのかいないのか、鶏の焼いたものや白身魚の野菜と揚げたものを凄まじい勢いでたいらげていき、どころか京楽の皿が減りの悪いと見るやその居残りを拐っていきさえする。先ほどまで駆け寄ってきて離さなかった連中だって今や遠巻きに眺めるのみ、京楽は諦めて皿ごと押しやった。
「食べないと力が出ないだろ。負けるぞ、俺に」
「戦う気かい?」
「お前も戦っていたろ。俺だってやりたい」
「叱られるよ。っていうかボクだってずっと睨まれてたんだよ。窓越しに。やめときなさいって」
だってと浮竹は野菜の酢漬けを飲み下すと不満げな顔を存分に見せてくれる。
「ずっと寝てたから。寝て起きて帰るとは入院しにきたみたいじゃないか」