目蕩み眠る 仏門をくぐる者もほとんどいない尸魂界では肉食禁止令が出されることもなく──そもそも食事を必要とする『死神』の方が少ない──豚の登場こそ遅れたが養鶏は円心からやや離れても比較的盛んに行われていて、飢えを覚えぬ常人とて衣類や住居を求め若きに卵を産ませ老いたものは捌いて廷内や流魂街の詰所に納めている。
「ウチはやっていなかったがな。皆んなは二日に一度くらい食べれば満足していたが、それでも食い詰めて鶏を飼うどころじゃなかった。飼料になるものはだいたい食べちまっていて。たまに貰ったり逃げてきたのを捕まえたりしても、窶れているから、卵を産めるのも二、三回きりだ、すぐに潰して食べてしまう。旨いのがまたいけない。それにあれは朝に鳴くだろう、起きるのが早くなってしまうから腹の減りも早くなる。結局は家畜、押し込められる小屋がしっかり分けてある家のものだよ」
京楽の想像を絶する話である。そんな話を手羽先でも食べながら涼しい顔でする浮竹の内情も同じく京楽には知れなかった。
似た話として牛や馬を飼う家の話も聞いたことがあった。なんでもひとには六畳とないのにそのすぐ隣で牛のための三畳分があるとかないとか、それでも歩かせて草を喰わせてとしているうちに三畳分と六畳一間が逆転しているという。移動の役目が少ない馬を飼っている家は少ないし、そうなると潰して納められる距離ではないこともあり、農作業のためにと備えているのだという。こちらは屋根を隔てていることが多いものの、両者ともに人が寝て起きて見たら殖えていることもままあると聞いて、これは京楽とて笑い飛ばさせてもらったのだが、いつぞやに学内で世間話として出したところ飼っていたという者から真なのだと請け合われた。
「牛の乳は飲んだことがあったろ。門の外まで行かずとも割合い近くでやっているぞ。たぶん臭いの出所が分からなかっただけで、飼っている建物はお前も見たことがあるはずだ」
「そう……なのかもねえ。ボク、牛は見たこと無かったから。そんなに臭うの?」
「まあ、家畜だからな」
そんな回想をしていた。
京楽は改めて手許を見る。牛乳二合、卵は小を四個、それに砂糖を二十四匁。白い粒の山は見ているだけで血糖値が上がりそうだった。卵を溶いた牛乳は砂糖の有る無しで分けて混ぜて、温めてから混合させてしまう。濾す必要があったり慣れない重みで慎重に動く必要があったりと苦労はするが、病人食の用意はできてあったから時間も余裕があった。
浮竹曰く卵粥は飽きたとのこと。食欲が落ちていないのは不幸中の幸い、というよりそこまで深刻でないからこそ出現した我儘である。卯ノ花の顔を借りるまでもなく拒んでやってもよい話だ。だが京楽はどうせならと、せっかくならと台所に立ってやる。先ほどまでは魚を触っていたのでやや生臭かったが、今はもう脂の臭いからも家畜の臭いからもほど遠い、甘ったるい匂いがしていた。
香料は迷って檸檬の汁として、古い湯呑みに注いでいく。当然それだけで足りず慌てて茶碗を引き出して、さてはて蒸す鍋に入るかと内心冷や冷やしたがどうにか蓋を閉められてほっと胸を撫で下ろした。
「何を作っている?」
「……寝てなくちゃダメじゃないの。君、いちおう病人でしょう」
「そんなこと言ったら俺はもう万年床になるじゃないか。寝腐れてしまう。それじゃ病人じゃなくて病床だ」
「寝足りているはずだけどまた熱が出てきたかしら」
ひたりと手を額に当ててやるが鍋に翳してあった手はまだ熱く浮竹の額は冷たく感ぜられた。浮竹はそんな手の在処など知らぬとばかりに京楽の肩を顎置きにして釜戸を覗き込んでくる。湯気が危ないと肩を押し返す必要があった。ついでに結いた髪も背中側へ流し直してやる。
「牛の乳と卵を砂糖寄せにした温菓だって。甘い茶碗蒸しみたいなものらしいよ」
「ふうん? お前の作る茶碗蒸しは椎茸に豆腐も入っていて、変わり種と思っていたが。砂糖か」
「言っちゃあ栗だの梅だの餅だのを入れる地域もあるらしいじゃない。砂糖があってもいいんじゃない?」
そんなものなのかと問われても肩を竦めるだけで、いい加減冷めてきた掌をもう一度額に当ててやる。恐れていたよりは熱くないがやはり平静よりは冷たくなかった。咳が横臥を許さぬようでもないのが幸いだった。
喉が渇いたと持参されてきた急須の為に湯を沸かす。蒸し物の隣ということもあって浮竹が坊々めと苦笑いしていたが、今さら罪悪感など覚えようはずもなく、むしろ立場に依った贅沢にしては可愛いものだ、丁寧に茶葉を選んでやって意趣返しとする。咳もないし声が嗄れているようでもないので、それでと浮竹が話し続けることを京楽は咎めない。
「どれくらい蒸しておくんだ」
「四半時ぐらいかしら。もうちょっとしたら様子見するつもりだよ」
そうなのかと鍋を見つめる浮竹を、食い意地の張った男だと揶揄ってやる。今さら含羞の顔色など見せてくれない男はどころか胸を張って答える。
「お前が俺の為に作ってくれるんだろ。楽しみにして、ちゃんと食ってやらなくちゃ男が廃る」
「……男性死神協会で変な言葉を憶えてきたね」
「照れるな、それでもって隠すな。お前が照れ屋なのは知っているが、まるで俺がお前に尽くさせてばかりみたいじゃないか。こう云う時ぐらい、堂々、嬉しいと言え」
撫でるというより擦る勢いで髪をかき混ぜられるのを半分だけ逃げてもう半分は享受する。そんな半端な抵抗さえ見透かされているようで悔しく覚えないでもないが、嬉しい言葉だったのは事実で、仕方ないという顔を作って甘えてしまう。そこそこに歳をくっていて、職位もあり、おまけに男性であると、こういう時にあっけらかんと甘えるのはふざけてしなだれ掛かるよりよほど難しい。勤務中になだれ込んでくるのも咎めてこない浮竹だが、そこを甘やかしてもらえるのは機微のわからぬ彼の大雑把な遇いの為であれど、親友として数百年付き合っている甲斐もあるというものだ。それでも御礼の御挨拶は髭で済ませさせてもらう。
「そうだ。牛の乳って飲める飲めないがあるらしいけれど、君は慥か蘇も食べられたよね」
「食べた、食べた。直後に血を吐いたが、あれは、まあ、夜風が悪かったよ」
「……不安になるなあ!」
「何をしてもそうなる時はそうなる」
それはそうだけどと言いつつ、蘇に似た菓子も新しく出てきたのだと教えてやる。寝床に戻りたがらない浮竹が根掘り葉掘り聞いてくるのを、彼の腕を己の腰へ回させて、彼の顎を己の肩で受けて、ゆったりと、四方山話の勢いで教えてやる。実家で畜産をやっていた学友の子どもがどうも学院にいるらしいと聞いて時の流れに二人で呆れる。この甘味は果物や氷菓にも合うらしいという話をして、もし今回がうまくできれば次回にでもと請われて、気の早さを揶揄ってやる。食べるときには木の匙と陶器の匙のどちらがいいのかと問われて、考えが及んでいなかったと二人でうんうんと唸りあう。
そうしていればやがて京楽の背中に重みが掛かる。慌てて背中に腕を回して抱き留めると安堵の息を吐いて、それから火を止めた。
「……温菓だけど、冷やしても美味しいらしいからね」
順延を惜しむこともせず京楽は戸口だけ確かめると浮竹を抱き上げて寝室へ向かう。砂糖菓子がなくとも二人だけの時間は充分に作れた。