神畑と冴木/灼カ 彼は一番隅で、まるで気配を消すように黙々と机に向かっていた。
「精が出るねえ」
声をかけ、冴木は手に持っていたペットボトルを彼の目の前に置いた。声と気配で分かっていたのだろう。神畑はちらりと視線を向けたが、すぐにノートに目を戻してシャーペンを走らせる。挨拶すらなかった。
冴木は小さく息をつき、彼の対面の席に座る。積み上げられた参考書の一番上を勝手に手に取り、パラパラと捲る。
「朝からやってんのか?」
「俺の成績ではかなり難しいところだからな。かなり無理をしないと遅れは取り戻せない」
「ま、今までカバディに忙しかったからな。お前だったらすぐ追いつけんだろ」
冴木はすぐに数式に飽きると、無造作にそれを机に放った。
「冴木」
「なんだよ」
「……私語は禁止だ」
「誰が守ってんだよ」
冴木は笑った。彼の言う通り、図書館は夏休みの子供たちの声でさざめいていた。
神畑がようやく顔を上げた。こけた頬はすでに膨らみを取り戻していたが、不思議と減量時よりも疲労が濃い印象を受けた。
「お前なら楽勝だろう」
冴木は眉をひそめた。一瞬、意図が掴みそこねたからだ。神畑が赤い本を手に取る——そこに書かれた『英峰高校』という文字を見て、思わず乾いた笑いが漏れた。
「は? なんでだよ。俺がお前にテストの点で勝ったことあるか?」
「手を抜いていただけだ」
神畑は断言した。まるで冴木自身よりも彼のことを分かっているかのように。そんな傲慢な響きがあった。
「お前なら選べるはずだ。どんな道だろうと」
神畑は真っ直ぐに冴木を見つめた。長い付き合いだ。彼の言う通り、冴木は聡かった。それだけで、冴木は何を求められているか察することができた。
「買い被りすぎだよ。俺のことも、お前自身も」
大きく溜息をつき、冴木は立ち上がる。そのまま立ち去ろうとしたが、珍しくつま先が惑う。
「お前、下手だな」
「何がだ」
「人を口説くの」
はっ、と冴木は馬鹿にするように鼻で笑った。一度口にしてしまえば、吹っ切れたように舌が回った。
「高校行ったら、彼女でも作れよ。その方がよっぽど生産的だぜ」
踵を返し、一歩踏み出す。
「……お前は上手かったな」
まるで独り言のような小さな声に、思わず足が止まる。
「人を誘うのが」
*
一瞬、まるで走馬灯のように過去の思い出が蘇る。その強烈さに眩暈を覚え、神畑は目を閉じた。
ゆっくりと、目を開ける。友人が置いていった未開封のペットボトルが汗をかいている。
顔を上げる——冴木の姿はもうなかった。