「こいつが咲くのをじっと待ってる奴がいたのさ。咲いたことを教えてやろうと思ってね」
レッスン終わりの道すがら、出遅れてしまった花の開花を見た雨彦は、想楽とクリスに別れを告げて背を向けた。
「雨彦さん、お疲れさまー」
「お疲れさまです、雨彦」
そう声を掛けると、雨彦はひらひらと手を振ってみせる。小さくなっていく背中を見送りながら、想楽はまたいつものやつだろうかと思案した。
雨彦が時折少し不思議な理由で二人の前から姿を消すのは、今に始まったことではない。想楽もすっかり慣れてしまって、今となっては特段気にならなくなってしまった。興味がないわけでもないのだが、想楽はそれを追及するつもりがない。
全てを知る必要なんてないし、全てを話す必要もない。それが三人の間に最初から存在している不文律なのだ。
雨彦の姿が曲がり角に消えるのを見届けて、想楽は隣に立つクリスへ視線を送る。クリスは雨彦が去っていった方向を妙に嬉しそうな表情で見守っていて、想楽としてはむしろその表情の方が気になってしまう。
「クリスさん、何だか嬉しそうだねー」
「そうですか?……ええ、そうかもしれません」
当のクリス本人は、想楽に指摘されて初めて自身の感情に気づいたように頷く。
何か雨彦の言動に喜ぶ要素があっただろうか。思い返してみても、想楽には見当がつかない。
むしろここは引っかかるべきところなのではないだろうか。
「……クリスさんは、雨彦さんのこと気にならないのー?」
思わずそう聞いてしまったのは、想楽にとっての雨彦とクリスにとっての雨彦では、関係性が異なるからだ。
想楽にとっての雨彦は同じユニットの仲間でしかないが、今のクリスにとって雨彦は恋人でもある。自分の恋人が含みのある様子で誰かに会いに行くとなれば、気になって当然ではないだろうか。
三人の不文律、なんていうのはあくまでもユニットとしての話で、今のクリスにはちゃんと聞く権利があるのだ。
けれどクリスは小さく首を振り、穏やかな表情で想楽を見る。
「そうですね、全く気にならないというわけではないのですが……」
「……それはそんなに大事じゃない?」
「はい。それよりも、雨彦が誰かへ向ける優しさをほんの少し垣間見ることができたような気がして、それが嬉しいみたいです」
そう答えたクリスは、愛おしそうな表情で微笑んでみせた。
クリスはこんな時でも真っ直ぐだ。相手を信じて、受け入れて、ほんの些細なことにも喜んでみせる。雨彦がクリスのことを好いてしまった気持ちもわかる。
そんなクリスに真っ直ぐな信頼と愛を向けられている雨彦も、実際すごい男なのかもしれないのだが。
「ほんと、敵わないよねー」
そう言って笑う想楽の真意はわからなかったらしい。クリスが不思議そうに小首を傾げたけれど、あえて説明する気にはなれなかった。
「クリスさんって、雨彦さんのことが本当に好きなんだなって思っただけだよー」
「……はい」
少し頬を染めてはにかむクリスに、想楽の方までなんだかむず痒い感覚になる。直視し続けるのも照れくさくて、想楽は少しだけ目線を落とした。
それにしたって、大切な恋人であるクリスのことを、想楽の元に残していくのだから、雨彦には困ったものだ。想楽がいるから大丈夫だろうとでも思っているのかもしれないが、そうだとしたら随分と信頼されたものである。
さてこの後はどうしたものか。このまま別れてしまうのも一つだが、想楽としてはたまにクリスと二人で過ごすというのも捨てがたい。
「ねえクリスさん。雨彦さん行っちゃったし、今日は僕とデートしないー?」
「想楽とデートですか?」
ほんの少し芽生えた悪戯心に従ってそう尋ねると、クリスはきょとんとした。
もちろん想楽は、クリスに対して雨彦のような恋愛感情を抱いているわけではないし、二人の関係を邪魔するつもりもない。けれど想楽だってクリスのことを人として、仲間として好ましく思っているのだ。だからたまには、想楽がクリスを独り占めさせてもらおう、なんて。
「今日はまだ時間が早いでしょー?たまには二人でどこかに寄るのもいいんじゃないかなって」
「ふふ、それは楽しそうですね。行きましょうか」
想楽の言うデートに言葉通りの意味なんてないということは、クリスにもちゃんと伝わったらしい。ただの遊びの誘いと受け取ったクリスは、どこに行きましょうか、なんて言いながら、嬉しそうな表情を浮かべている。
そんな風にクリスが想楽の誘いを喜んでくれることを、内心嬉しいと思ってしまうのは仕方がないだろう。
「そうだ、近くの水族館ならまだ間に合うんじゃないー?」
そう言ってみれば、ぱっとクリスの表情が明るくなる。
クリスが喜びそうな場所を選んでしまうあたり、想楽もクリスに甘い。閉館までの少しの時間であれば、海の話に付き合うのも良いかもしれないなんて、昔の自分が今の想楽を見たら、きっと驚くだろう。
「でしたら、近くに海鮮が美味しいお店もありますよ。水族館の後はそこで食事でもいかがですか?」
「クリスさんのおすすめなら間違いないねー。喜んでー」
美味しい食事にありつけるとなると、想楽も楽しみが増す。
けれどそこでふと物足りなさを感じてしまうのは、想楽がきっと三人であることに慣れてしまったからだろう。
「想楽?」
「……もしかしたらそのくらいには用事が終わってるかもしれないし、雨彦さんにも声掛けてみよっかー」
「はい!」
そう答えるクリスが海を前にした時と同じくらい良い表情をしているのを、本人は気づいているだろうか。
クリスがこうして雨彦を想う時の表情は、二人の関係を知る想楽だけが見られるものなのかもしれない。そう考えると、こうして一番近くで二人を見守ることができる立ち位置も悪くないと思えた。
「それじゃあ行こうかー」
メッセージアプリで雨彦に手短に誘いの言葉を送って、想楽は歩き出す。数分後には雨彦から参加の返事が来て、クリスと二人で顔を見合わせて笑った。
想楽はこのまま、こんな風に三人で過ごすことができたらいいと思っている。そしてクリスと雨彦も、そうしたいと思ってくれている。
だから想楽はこれからも、二人の関係を特等席で見守り続けるのだ。