鰻の消失——渋谷から鰻が消えた。
「は?」
凛子の言葉に、KKは頓狂な声をあげた。
依頼が来たとアジトに呼び出された昼過ぎ。7月とは思えない猛烈な暑さの中、汗を流してアジトにやって来て告げられたのが「鰻が消えた」だ。
祓い屋のようなことをやっている自分たちへの依頼がなぜ鰻なのか。意図をつかめずKKは首を傾げる。
「鰻?」
「そう、鰻」
「土用の丑の日に食べる?」
「その鰻ね」
腕組みし、しばし考える。
「天候の影響とか……?」
「そういうことじゃない」
頭を振ると凛子は依頼書を差し出した。それを受け取り概要にさっと目を通し、別途添えられた地図を広げる。渋谷の地図だ。其処此処に赤丸がついている。よく見れば印がついているのはスーパー、魚屋、飲食店ばかりだ。
「今朝、忽然と鰻が消えたそうよ」
「鰻ねぇ……」
ことの深刻さがいまいち掴めずKKは生返事を返す。
「ちょっと、ちゃんと読みなさい」
「読んだよ。小売店や飲食店から鰻が消えたって話だろ」
「そう」
「なんで俺たちのとこに依頼が来るだよ。泥棒なら警察だろ」
凛子が呆れたようにため息をつく。
「こんな同時多発的に同じものが根こそぎ盗まれるなんて人の仕業とは思えないでしょ。だから私たちにお鉢が回ってきたわけ」
確かに人の仕業とも思えない。けれど、鰻が消えるなどと言う怪異も聞いたことがない。
KKは釈然としない想いのまま煙草を咥えた。
「それで依頼が『鰻を探す』だって?」
「その通りよ」
真面目に頷く凛子。それとは対照的にKKは煙草を吹かしながら、座するソファの背もたれに体重を預けた。いかにも面倒だというように。その態度に凛子が片眉をあげる。
「少しは真面目に考えたらどうなの」
「考えてるよ。つってもなんのアテもなくどこから調べろって——」
KKと凛子の会話は玄関からの物音により中断された。
長くない距離の廊下をバタバタと駆ける足音。
「KK! 大変だ!!」
扉を勢いよく開き、室に飛び込みながら暁人が声を張り上げる。
「鰻がどこにも売ってないんだ!! スーパーも魚屋さんも全部まわったのにどこにも売ってないんだよ!! 今日は土用の丑の日なのにどこにも売ってないっておかしくない!? 絶対妖怪の仕業だよ!!」
暁人を一瞥し、KKは溜息と共に紫煙を吐き出した。
凛子が勝ち誇ったように言う。
「ほら、相棒もああ言ってるんだし、早く調査に行ってきて」
太陽が高い位置にある時間に外に放り出された。ジリジリと照りつける太陽の下、KKは暁人と連れ立って歩く。
暑さで思考が鈍る中、何をどう調べたものかとKKは頭を捻っていた。
物を奪うような怪異や妖怪がいないわけではない。例えば『置いてけ堀』。魚を釣り、帰ろうとすると「おいてけ おいてけ」と不気味な声がする。その声は釣った魚を逃すまで聞こえるという。
だが、KKの元に舞い込んだ依頼にはそういった声が聞こえたというものはない。仕入れた鰻が忽然と消えた。それだけだ。この場合、真っ先に疑うべきは窃盗だろう。だが、消えた量が問題だ。今日一日分の仕入れ全てが一瞬で消えたらしい。あるスーパーは配送トラックからバッグヤードに積荷を移動している間に、ある魚屋は店頭に並べている最中に、ある寿司屋は仕込みの最中に、それらは姿を消した。
あまりに突然の出来事に、どこの店の従業員も何かの間違いではないかと辺りを探し回ったようだが、残念ながら鰻は見つからなかった。窃盗犯と思しき人影も見当たらない。困った店の責任者たちは状況がよくわからないままも警察に連絡をした。これが数件の話ならKKの元に依頼が来ることもなかっただろう。けれど、警察への届出は渋谷のほぼ全ての小売業や飲食店などから出されたのだ。その数の多さから、これは人の仕業ではないと警察——KKの刑事時代の同僚から連絡がきたのだった。
元同僚伝えに聞いた店主の話からしても、置いてけ堀の線は薄い。他にそれらしい怪異はあっただろうかと考えてはみるが、思いつかなかった。
そもそもが怪異らしくないのだ。
怪異とは、妖怪とは、単純だ。置いてけ堀は取られた魚を返して欲しいから「おいてけ」と囁くのだ。
では鰻を消すのは? 仮に『妖怪・鰻消し』がいたとして、鰻を消すことに何の意味があるのか。
怪異とは異なるもっと作為的なものをKKは感じていた。
隣を歩く暁人に自分の考えを伝えると、納得したのか否か微妙な調子で彼が言う。
「それって元刑事の勘ってやつ?」
「そんなとこだ」
「もしKKが言うように、誰かが意図して鰻を消したなら許せないな」
「お前、そんなに鰻好きなのか?」
初耳だとKKが言うと、暁人は困ったように笑う。
「好きと言うか、土用の丑の日は家族みんなで鰻を食べるのが習慣なんだ。父さんと母さんがいなくなってからも続けてた。今日の晩御飯は鰻だって麻里とも約束したしね」
だから鰻が消えた原因を突き止めてやるんだと暁人は拳を握りしめた。
「なるほどな。じゃ、頑張ってくれよ相棒」
KKの言葉に暁人が力強く頷いた。
気づけば御嶽商店街の近くまで来ていた。怪異か否かを判ずるためにも先ずは当事者の話を聞こうと、被害にあった店の一つである『ななほしまーと』を訪ねることにしたのだ。
日差しから逃げようと足速にアーケードに入る。直射日光を避けられるだけでも暑さはだいぶましになった。それでも吹き出る汗は止まらない。顎を滴るの汗を手の甲で拭いつつ、アーケードを進む。
もう少しで『ななほしまーと』だというところで、急に人が増えだした。
「なんだ?」
アーケードから少し離れたところにある広場に人が流れ込んでいるらしい。
その広場は覚えがある。穢れで赤く染まった桜木の思い出し、KKは眉間に皺を寄せた。また穢れがたまったのだろうか。それが人を呼んでいるのかもしれない。
KKと暁人は顔を見合わせると、広場に足を向けた。
広場に近づくと、人のざわめきの間から「鰻ー 美味しい鰻だよー」と呼び込みのような声が聞こえてきた。渋谷の鰻は一匹残らず姿を消していたはずだ。どういうことだと思い、先を急いだ。
広場に至る。人混みのその先、青々とした枝葉を伸ばす桜の木の前に屋台を引いている人影を認めた。その人影が威勢よく口上を述べている。
「さー! 安いよ安いよー! 今日は土用の丑の日、鰻を買わなきゃはじまらないよー! 美味しい鰻だよー!」
その声を聞き、我先に鰻を買おうと屋台の周りに人が集まっている。
「鰻は全部消えてんじゃなかったの?」
暁人が驚いたように声を上げる。けれど、KKはそういうことかと何かに気づいた様子で鰻売りを指差した。
「暁人、あの鰻売りを霊視してみろ」
「え?」
「いいから早くしろよ」
「わかった」
暁人は左手を差し出すと水面に水滴を落とすが如く、気の塊を落とした。霊気の波紋が拡がる。その波が鰻売りに至ると、ノイズがかかるようにその姿が乱れた。そして——
「猫又!?」
鰻売りの姿に、しっぽが二股に別れた猫——猫又の姿が重なる。普通の人間には猫又の姿は見えてはいない。
「化けて商売していやがる。鰻が消えたのはあいつの仕業だな。盗んだ鰻を売り捌いてるってところか」
渋谷から人が消えた例の事件以降、商売をしている猫又はついぞ見なかったが、まさか新たな商売をはじめるとは。KKは関心と呆れが混ざったそんな気持ちで猫又を見る。
「商魂逞しいのは知ってたが、ここまでとはな」
例の事件の日、彼らのおかげで物資に困ることはなかった。しかし、人から盗んだものを売ることを見過ごすわけにはいかない。非合法な転売は即刻辞めさせなければ。
KKと暁人は人の間をぬって猫又に近づく。
あと数メートル。
そこで、鰻売りと目があった。
「あっ」
声は聞こえなかったが、明らかに驚いた表情をした鰻売りは一瞬後には逃げるように駆け出していた。気づけば変化は解けて猫又の姿だ。
猫又は桜の木を駆け上がると屋根伝いに商店街の方へと向かっていく。
「追うぞ!」
「うん!」
KK達以外には妖怪である猫又の姿は見えない。鰻売りが突然消え、周りはパニック状態だが今はそんなことに構っている余裕はない。KKと暁人は人混みをかき分けて商店街へと向かう。
「暁人! お前はこのまま商店街の中から追ってくれ!」
「わかった! KKは?」
「俺は——」
KKは上空に視線を走らせる。真っ昼間にそれがいるかはわからなかったが、目当ての妖怪の姿を認めた。
「上から行く!」
右手を掲げ、光り輝くワイヤーを上空の天狗目掛けて放つ。ぐんと身体が浮き上がる。その勢いを利用して身体を大きく前方に飛ばす。アーケードの屋根上に着地した。
視線を前に向ければ猫又の後ろ姿が見える。
「待て!」
叫んで駆ける。
下を見れば、半透明の屋根越しに暁人が走っているのが見える。やや暁人が先行しているようだ。
猫又が他の方向に逃げないようエーテルショットで牽制しながら、アーケードの屋根をKKは走った。
アーケードの終端が近い。再び下を見る。暁人がアーケードの出口で待ち構えている。
猫又が跳躍しようとしたタイミングでその足元に炎のエーテルを放った。爆音。
「んぎにゃ!?」
驚いた猫又が足を滑らせアーケードから落下する。
「捕まえた!」
落下した猫又を暁人が見事キャッチした。それを確認したKKは額の汗を拭った。
「鰻が消えたのはお前の仕業だな」
捕まえた猫又を連れてKKと暁人は先ほどの広場に戻ってきた。先ほどまで溢れていた人は、いつの間にかいなくなっている。
鰻が積まれた屋台を背に猫又が頭を掻くような仕草をする。
『いや〜。土用の丑の日は鰻が売れると聞いたもんで。これは一儲けできるなと少しばかり拝借させていただいた次第です』
「全部盗んでおいて何が『少し』だ。だいたい、お前らに人間の金は必要ないだろ。人相手に商売してどうするんだよ」
『いやいやいや。冥貨だけでは不便もあるってものですよ。人の世の通貨も持っていた方が何かと都合がよいのです』
猫又はにっこりと愛想笑いを浮かべる。もっとも、目が細いため表情にほとんど変化はないのだが。
『旦那方もどうです? お安くしておきますよぅ』
文字通りの猫撫で声で商売を続けようとする猫又に、KKは大仰にため息をついた。
「全く反省してねえな」
両前足の肉球を合わせ愛想を振り撒く猫又は、猫好きが見たら大層可愛く見えてただろう。けれど、KKはそうではない。誤魔化そうとしているのがバレバレだ。
「お前から買うつもりはない。さっさと鰻を返せ」
猫又は態とらしく顔を洗った。さも聞こえていないというように。
「こいつ!」
だんだん面倒になってきたKKがいっそ祓ってしまおうかと思った矢先、暁人が口を開いた。
「ねえ、僕と取引しない?」
『取引?』
「おい、暁人」
何を言い出すんだと暁人の肩を掴む。けれど、
「僕に任せてよ」
自信あり気な様子にKKは彼に任せることにした。
『妖怪である私と、人間が取引……面白いですね、伺いましょう』
先ほどまで愛想の良かった猫又が、妖怪らしく不敵に笑う。けれど暁人はそれに臆する様子もなく、鞄から何かを取り出し猫又の目の前に掲げた。
「これ知ってる?」
『そ、それは!!』
猫又の目が見開かれる。
『ニャオチール!!!』
暁人が手にするスティック状のパッケージには、猫のイラストとポップな字体の『NYAO チール』の文字。CMでもよく見る猫に大人気の商品であるが、そうとは知らないKKには、なぜ猫又が目を輝かせ今にも飛びつきそうな勢いになっているのか理解できない。
KKを置き去りに暁人は言う。
「君が盗んだ鰻を全部返してくれるなら、ニャオチール10本入セットをあげるよ」
『10本!?』
猫又の瞳孔が開く。よほど興奮しているのだろう。
「どう? 悪くない取引だと思うんだけどな」
にこりと暁人が笑い、むむむと猫又が悩む。どういうことだとKKが首を捻る。
『……その取引、お受けしましょう』
さも苦渋の選択だとでも言いたげに猫又が腕を組みつつ頷いた。
「取引成立だね。それじゃ、先に鰻をお店に返してくれるかな。また逃げられたら困るからね」
『仕方ないですね』
一度逃げている手前、猫又は了承するとポンっと前足を合わせた。すると屋台に積まれた鰻がドロンと消える。
『全部お返ししましたよ』
「KK」
呼ばれてKKはスマホを取り出し凛子に電話をかけた。猫又のこと、鰻が返されたことを手短に説明すると、確認してから折り返すと言って電話は切られた。
凛子からの連絡を待っている間、暁人は猫又の顎の下を撫でている。妖怪としての矜持なのか、初めは撫でられるのを嫌がっていたようだが、ニャオチールをチラつかされたからだろうか。今は大人しく撫でられ喉を鳴らしている。
わざわざ猫を触るやつの気が知れないと、その様子を遠巻きに見ていると凛子からの着信がきた。
「凛子か」
『お疲れ様。確認が取れた。鰻は店にかえってきたって』
「わかった。連絡ありがとな」
電話を切り、猫又と戯れ合う暁人に声をかける。
「確認とれたぞ。鰻は店に戻ったとよ」
「よかった」
暁人は安堵すると、鞄からニャオチール(10本入り)の大袋を取り出した。
「はい、約束のニャオチール。もう悪さしないでよね」
『はいはい。このニャオチールがある限りはお約束しますよ』
言うが早いか、ニャオチールを受け取った猫又はその場を走り去った。
「あいつ、また何かやらかしそうだな」
「そうだね。でも、また何かあったらニャオチールで交渉すればいいんじゃない?」
楽観的なことを言う暁人。KKはニャオチールにそこまでの力があるのかと思う反面、実際それで解決したのだから、まあいいかと嘆息した。
「解決したことだし、帰るか」
「アジトに帰る前にさ、ななほしまーとに寄っても良い? 鰻買ってから帰ろうよ」
「そういや、鰻買おうとしてたんだったな」
アジトに駆け込んできた暁人の姿を思い出す。
「KKも食べるでしょ? 鰻」
アジトのみんなの分も買って帰ろうと暁人は意気込む。
KKは眉を顰めた。鰻が嫌いなわけではない。けれど、猫又が触れたであろう鰻というのにいささか抵抗がある。これは気分の問題なのだが。
返答に窮していると暁人が小首を傾げ、KKの顔を覗き込む。
「さっき話したっけ。土用の丑の日は家族で鰻を食べるのが習慣だったって。僕にとってはKKもアジトのみんなも家族同然なんだよ。だからみんなで一緒に鰻を食べたいんだ」
上目遣いで縋るように言われたら、ノーと言えるはずもない。
「わかったよ」
言って、KKはななほしまーとに向かって歩きだす。
気づけば太陽は随分と西に移動していた。アジトに戻るころには、夕飯にちょうど良い時間になっているだろう。
(終)