大海に抱かれて今日は散歩の気分だな。
三度の飯より剣が好きと言っても全く差し支え無い小次郎だが、たまにはそんな日もある。海岸線を当てもなくぶらぶら歩き、波止場で一休みをすることにした。
座り込み、果てが無いような錯覚に陥るほど、広大な海をぼうっと眺めた。目を閉じると海鳥が数羽、鳴きながら頭上を舞っている。波が作り物の岸に寄せては返す音は、耳に心地良い。青い空、白い雲、広くて大きな海とそれに比べるとずっと小さな自分。万物が己の師である小次郎だから、こうして何者にも心乱されず、自然の中に己の身を任せる時間が好きだった。
(海、か)
瞑想の最中、かつての宿敵の顔が浮かんだ。
彼奴は歌を歌っていたな…
剣士としての生しか知らない小次郎は、童謡やら子守唄やらを除き、歌などという文化的な物とは縁遠かった。今の小次郎の頭の中にある歌のレパートリーの殆どは、死後に耳に入れた物だ。ラグナロク直後の療養中、寝床から起き上がるのは固く禁じられていたため、看護の者たちが気が紛れるように、と小次郎が生まれた国の歌謡曲をランダムで再生してくれていた。
その中の一つが妙に印象に残った。確か節と歌詞は…こうだったか…
俺の海よ 大きなその愛よ
この命預けよう
俺の想いを その胸に抱き締めて
安らぎを与えておくれ
「さっきからなんだその珍妙な歌は」
小次郎のごく近くにその神は在った。気配すら悟らさず、海中から姿を顕した。海水を滴らせ、陽光に照らされて輝く金の髪。長い睫毛が縁取る蒼い瞳。日焼けを知らない白い肌。紛れも無く海神ポセイドンである。
ただ平素の彼に比べると、その肢体はかなり大きい。老いているとは言え背筋が張り、平均に比べると大柄な小次郎を、摘み上げて手に乗せられる程には。
「海の神様を讃える歌だよ」
つい今し方、神に取って食われるかのような目に遭ったとは思えないほど呑気な声の調子だった。
「くだらん嘘を吐くな」
吐き捨てるような評価である。少しばかり心外だ、一度しか聴いていない曲の欠片を拾い集めている最中だったのに。
「半分くらいは嘘じゃねえって…体感しづらいかも知れんが、人間は案外海が好きなんだぜ?」
「その歌は女神に向けてのものだろう。余ではない。半分などと宣いおってこの雑魚」
「妬くなよ」
「妬いてない」
「仕方ねえだろ吾の故郷では海は母なんだから…と言うかなかなかしっかり聴いてるじゃねえか…」
この大きさの海神を見たのは初めてではない。彼曰く、海に潜って仕事がてら海獣達と戯れる時はよくこの巨体になるらしい。なるほど大きな生き物もいるから、同じような体躯になるのが合理的なやり方なのだな。巨躯には同じ巨躯で接するときっとさぞかし安心するのだろう。
では、人は?
「…安らぎを与えておくれ」
海神は、先ほどのうろ覚えの歌詞を反芻する。結果的に敗北したとは言え、貴様に大怪我を負わせた余に安らぎを求めるとは。何たる皮肉よ。
「残念だな。余は母なる海などではなくその命を脅かす荒海…こんな風に」
少しずつ指に力を込めていく。今なら簡単に握り潰せる。血液循環が止まる方が早いか?骨が折れて肺に刺さるのが早いか?それとも
「海の怒りを買ったなら、そりゃあ飲み込まれるよなあ。お手上げだ、煮るなり焼くなりお前さんの好きにすると良いさ」
「…解せん。なぜ恐れが無いのだ」
「別に怖くない訳じゃねえ。吾だって無駄死にしたくはねえさ。けどな、」
海を見た。どこまでも続く地平線に沿って、穏やかに、全てを包み込むように、優しく波打つ蒼が広がっている。日光に反射して、きらきらと輝きを放っている。ただただ、美しかった。
「ここで逝けるならそれはそれで、と思ったまでよ…気が済んだら丁寧に扱ってくれよ、流石に土左衛門は勘弁な」
その言葉を聞いた海神は溜息を吐きながら掌を開き、緩慢に髪をかき上げた。
「…萎えた。今回は見逃してやる」
「おお、それは有難い。慈悲深い神様は懐の広さが違うねえ」
「図に乗るなよボウフラが…次は無いと思え」
「へいへいっと…ん、…じゃあついでに一個頼み事があるんだが…」
「何がついでだ…まあ良い、言ってみろ」
予想外だったのだろう、海神の返答を聞くや否や少し驚いた顔をしたが、すぐに破顔して臆面無く告げた。
「さっきみたいに包んで…加減はしてくれよ…よくはわからんが安心するもんでね…」
「………気でも触れたか」
神の気まぐれだった。言葉とは裏腹に、壊れ物を触るように両手でそっと小次郎の体を包んでやる。
「おお…あ、いかん…」
「どうした」
「お前さんその状態でも意外と体温はそのままなんだな…」
「………」
「寝そう…」
「そこで寝たら海へ落とす」
弾かれたように大笑いする老剣士に、喧しい、と眉間に皺を寄せる海神。側から見たら奇妙な光景だろうが、当人達の心中は凪いでいた。
「やっぱりお前さんは海なんだな」
「何だ今更…」
「次に死ぬときはお前さんの手の中でも良いかもなあ。暖かいまま逝ってもみたい」
「…心配せずとも貴様は余が殺してやる。時が満ちるまでそのちっぽけな命、大事に抱えておくことだ」
「そうか。神様のそういうところ、吾は好きだぜ」
「な、…」
動揺から覚醒する前に、小次郎は静かになった。耳をそば立てると、寝息を立てている。よもや本当に眠りに落ちるとは。
「おい、余は貴様の寝床では、」
顔やら腹やらを無遠慮につついたが、一向に起きる気配は無い。
「…起きぬならこのまま攫うが」
低い声で呟くが、返答は無く、波が岩壁に当たる音だけが海神の鼓膜を揺らす。神相手になんと不遜な男よ。今日何度目かの溜息を吐き、一先ず起きるまで様子を見ることにする。人の転寝など、神に取っては瞬き程でしかないのだから。
などと思いつつも、此奴の寝顔をじっと見るのも飽きてきた。どのくらいの時間が経ったか定かでないが、まだ日は高い。そもそも寝顔など閨で頻繁に見ているのだ。場所が海辺に変わっただけで目新しい物でもあるまい。起こすか。この季節の天気は変わりやすい。海神の機嫌もまた然り。
舌を出し、横たわる小次郎の爪先に先端で触れる。己の唾液が自然光に照らされててらてらと光っているのを見、えも言われぬ感情が腹の底から湧いてきた。
「起きろ雑魚」
このまま食べてしまうぞ。殺すより食べる方が案外良いかも知れん。此奴が言うところの、「楽しい」始末の付け方。
「ん…」
僅かにピクリと反応を零したが一向に覚醒する気配が無い。己の掌がよほど揺籠として優秀なのか。だがそんな評価は欲しくなどない。遠慮は不要。舌全体を使って顔の辺りを舐め上げてやる。
「ん…む、えっかみさ…あんた何を…っ?!」
飛び起きたようだがもう遅い。大海は哀れな小魚を飲み込みたい気分に変わっていた。余の海で油断するお前が悪いのだ。頬を舐めたり頭を甘噛みしたり首筋を吸ったり、抗議の声を無視して好き勝手に食んでやる。
ちゅる、ぴちゃ、ちゅ、ぢゅるる
波とは違う少し粘着質な水音が、小次郎の耳に大きく響く。ここで本当に食われてしまうかも知れん。脳内に警告音が鳴り響くが、同時に、奇妙なことに、心地良さのようなものも感じていた。
「か…神様、怒っとるのか?悪い、ほったらかしに、」
やっとこさ起き上がった小次郎が見た海神の表情は、閨で見る物とよく似ていた。いつもは暗い所で見る顔が、今日は陽に照らされてよく見える。海色の瞳は欲を湛え、頬はほんのりと上気している。お前さん、いつもそんな風だったんだな。
「ん…やっと起きたか…この寝坊助め…」
まじまじと顔を見ていると、何も言わない小次郎に痺れを切らして海神が口を開いた。そのまま、びしゃびしゃに濡れた小次郎に頬擦りする。
「ははっ、くすぐったい、って」
「小次郎」
ふいに低く名前を呼ばれて、改めてその顔を見詰めた。
「今晩もう一度ここに来い。来ぬなら攫いに行く」
何とも大胆な犯行予告。今に始まったことではないものの、いつも唐突だ。
「そいつは構わんが…夜まで待てるのかい、あんた」
夜の海は怖い。飲み込まれないよう、決して近づいてはならない。この波の乗りこなし方を知っている者だけが、生きて陸に戻って来られるのだから。
「生意気な小魚め」
この話はこれで仕舞いとばかりに、口を食まれた。