悪魔の髪の毛は伸びるのか「失礼しまーす」
今となっては勝手知ったるドアを開け、俺は新聞部の部室(ぶしつ)の中に入る。
正面のデスクに向かうメフィストフェレスがチラリと顔を上げてこちらを見たが、すぐに目線を戻した。今日も部室には彼の他に誰の姿もない。
迷わず真っ直ぐ突き当たりまで進み、デスクに向かうメフィストの斜め後ろの壁に寄りかかって腰を下ろした。視線を上げると、椅子の背もたれの向こうにメフィストのうなじが見える。綺麗に刈り揃えられた紫紺色の毛髪に褐色の肌が凛々しく眩しい。
「今日は何を?」
タイピングの手は止めずにメフィストが言う。
「今日は読書。サタンから借りてきた推理小説」
「そうか」
短い挨拶の後はお互いにほとんど何の干渉もしない。
時間と場所を共有するだけで、それぞれがやりたいようにして過ごしている。
話し好きのメフィストは、面白い情報が手に入ると興奮した演説家のように嬉々として話しかけてくるが、それ以外は黙々とデスクに向かって何かしらの作業をこなしている。真面目だ。けれども、その存在感が妙に心地良い。サタンに借りた本や、レヴィに借りた漫画やゲームを持って、ついつい俺はこの部室に通ってしまう。
部室は鍵が閉まっていて入れないことも多かったが、鍵が開いている時にはだいたいメフィストがひとりでデスクに向かっていた。たまに他の部員がやってきて取材の報告や原稿の受け渡しをしているが、滞在時間は短い。この部屋は、部室というよりはほとんど「部長室」のような用途なのだろう。メフィストは確かもう部長ではなかったはずだが、部員たちとのやりとりを見ると、形の上ではまだ部長のような役割を担っているように思えた。
読んでいた小説がひと段落したので、んーっと伸びをしながら俺はまたメフィストのうなじを眺める。
人の後ろ姿というのは思ったよりも雄弁で、力の入り具合で何となく緊張感や親密度を測ることができる。バチバチに警戒されていた最初の頃に比べるとメフィストの背中からはだいぶ力が抜けていて、少しは俺に対して気を許してくれているようだった。
メフィストのしゅっと伸びた背筋に、きっちりと整えられた襟元。相変わらず綺麗に整っている。
しかし、今日はよく見ると向かって左側の毛先が少しだけ跳ねていた。
「あれ。メフィスト、もしかして髪の毛伸びた?」
「ん? あぁ……そうだな、言われてみればそうかもしれないな」
メフィストが後頭部に手をやり髪を撫でつける。
(初めてここに来てから、もう一ヶ月半くらいになるのかな……)
お馴染みの魔界生活が始まり、しばらくした頃。
あの日はどうしても嘆きの館に帰りたくなくて、兄弟たちの誰にも会いたくなくて、放課後になってもRADの中を行くあてもなくフラフラと彷徨い歩いていた。誰かと喧嘩をしたわけでもないし、嫌な出来事があったわけでもない。ただ、なんとなく気持ちがどんよりとして、笑顔でいることができない日だった。
そうして、広い構内をひと通り歩き回り、立ち止まったのが新聞部の部室前だった。
(新聞部って、あの背が高くて声の大きい「貴族様」の……)
ドアの前に立ち、最近ちょくちょく姿を見る機会が多くなった新聞部員の顔が脳裏に浮かんだ。
(この中にいるんだろうか)
すると、自分でもなぜだかよく分からないが、にわかにそれを確かめたい衝動が湧き上がってきた。そっとドアノブに手をかけ耳を凝らす。中からはカタカタと小気味の良いタイピング音が聞こえてくる。メフィストフェレス。あの貴族様に違いない。記事の執筆が好調なのか、時折上機嫌な鼻歌も漏れてくる。
俺はドアノブを握ったまま、どうしようかと考えていたが、ついに堪えきれなくなり、意を決して勢いよくドアを押し開けた。
ガチャリ。
大きな音を立ててドアが開く。部室には他の部員の姿はなく、メフィストがひとりで正面奥のデスクに向かっていた。唐突に現れた俺に驚いて目を丸くしている。しばらくそのまま無言で見つめ合った。
「えっと……ちょっとひとりになりたくて」
聞かれる前に俺は答えた。
「ひとりだと?」
メフィストが眉を顰めて怪訝な顔をする。少し声がうわずっていた。
「ふたりになりたい、って、言ったほうがよかった?」
「……」
空気を和ませようと、おどけた感じでそう言ったが、かえって逆効果だったらしい。すごい顔で睨まれた。
しかし、出ていけ、とまでは言われなかったので俺はそのまま部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。そして、本棚や机の間をすり抜けて、一番奥のメフィストのデスクへ向かう。メフィストのすぐ後ろが壁だったので、とりあえず、そこに寄りかかって腰を下ろした。
メフィストは俺のことを目線で追いかけていたが、俺が後ろの壁際に腰を下ろすと、くるりと椅子を回転させて振り返った。俺は子犬の目線でメフィストを見上げる。
「どういうことだ? 兄弟とうまくいっていないのか?」
気を取り直したのか、いつもと同じはっきりとした聞き取りやすい声だったが、今は少しトーンが低かった。
「それって取材? 記事にしないでよ?」
「権威あるRAD新聞部をその辺の低俗な週刊誌と一緒にしてもらっては困る。しかし、内容次第では次号の一面に載せてやってもいいぞ」
鼻で笑い飛ばしながらもメフィストの瞳に力が入るのが分かったので、俺は慌てて否定した。
「嘘、嘘。全然そういうわけじゃないよ。みんなのことは大好きだし本当の家族だと思ってる。でも、たまにはひとりになりたい時もあるんだよ」
「ふん。まぁ、その気持ちは分からなくもないが……しかし、なぜひとりになるのにここを選ぶんだ。ここには私もいるし、ひとりにはなれないだろう」
前のめりになった体を後ろに引いて、椅子に座り直しながらメフィストが言う。
「うーん、なぜと言われても分からないけど、でも、このくらいがちょうどいいっていうか。あと、他の場所だとすぐに誰かに見つかってしまいそうだし」
心が吸い寄せられた、とはさすがに言えず、俺は言葉を濁す。
しかし、メフィストは良いように受け取って勝手に納得したようだった。
「確かにそれはあるな。それに……、留学生がひとりでいて何か事件に巻き込まれでもしたら、ディアボロ殿下の名前にも傷がつきかねない。私の監視下に置くのも理にかなっているかもしれないな」
「うん、メフィストが人間の留学生の面倒を見ていると知れば殿下もきっと喜ぶと思うよ」
ダメ押しにそう伝えると、メフィストは目を輝かせて大きく頷き、今日一番の満足そうな笑顔を見せた。
「おい、留学生。聞いているのか」
メフィストの声で現実に引き戻された。
いつの間にかこちらを向いていたメフィストが眉間に皺を寄せて俺を呼んでいた。
「あ、ごめん。呼んでた?」
「全く……何度も呼んだのだが。ぼーっとし過ぎだ」
昔から、自分の世界に入ると周りの声が聞こえなくなるのは俺の悪い癖だった。
「ところで……」
メフィストは何やらゴソゴソとデスクの下から大きめの紙袋を取り出し、俺に差し出した。
「お前にこれをくれてやる」
有無を言わさず押し付けられたその紙袋は、抱えるほどの大きさの割には軽くて柔らかかった。中身を引っぱり出すと、それはふわりとした大きなクッションだった。繊細な刺繍が施された手触りの良いカバーが掛けられている。
「ありがとう……クッション? これ、くれるの?」
ふかふかと気持ちの良い弾力がクセになる感触だ。ベルフェなら一瞬で眠りに落ちてしまうだろう。さすが貴族、と、何度も手のひらで押したり揉んだりして感触を味わっていると、メフィストが得意げに笑った。
「古くなって客間には置けなくなったものを持って来た。使い古しとは言っても、うちの客間にあったものだ。元は決して悪いものではないから、床に置いて使うのには十分すぎるだろう」
「へぇ……庶民にとってはまだまだもったいないような気がするけど。本当にいいの?」
「ふん。放っておいてもそのまま捨てられてしまうものだったんだ。そこで使ってやった方がそいつも幸せだろう。私に感謝して使え」
「メフィスト先輩、アリガトウゴザイマス」
俺は早速、クッションを壁と背中の間に挟んで座ってみた。すごくいい。体が楽だ。
「気に入ったようで何よりだ。おまえがずっと床に座っているのが、少しは気になっていたからな」
そして、用は済んだとばかりに、メフィストはまた椅子をくるりと回して後ろを向いてしまった。
(ああ見えて、意外と気にしてくれてたんだ)
そう思うと、妙に嬉しくてニヤニヤと口元が緩んだ。
「ねぇ、今度、新聞部の取材にもついていっていい?」
「調子に乗るんじゃない」
「えー、いいじゃん。手伝うから。お願い」
子供のように駄々をこねる俺にメフィストがため息をつく。
「はぁ。言っても聞かなさそうだな。仕方がない。邪魔だけはするんじゃないぞ」
再び振り向いたメフィストの襟足はやはり少しだけ跳ねていた。
(悪魔も髪の毛が伸びるのか)
こうして、俺は新聞部の端っこに、こっそりと自分の居場所を持つことができたのだ。