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    8/6-7オンリーで展示予定の新作現代AUの前編です。40代の曦澄。

    以前ポイピクで展示していたバチェラーパーティ(バウムクーヘンエンド)のお話の続きです。(以前の投稿は0章に入れたので下げました)

    ※なんでも許せる方向けのR18です。最初の注意書きをご一読ください※

    #曦澄

    8/6-7オンリー新作現代AU曦澄 前編前編は0章(序章)~2章まで、サンプル代わりに8/2より公開します。


    ・長年藍渙に片想いをしていた江澄が失恋し、
    ・やけくそでイギリスのゲイタウンに逃亡してゲイ達と楽しくやっていたものの、
    ・藍渙が追いかけてきて奇妙な同居が始まりドタバタするお話。ハッピーエンド。


    特殊要素が多いパロディです。
    ※R18(前編も後編も)
    ※舞台がほぼイギリス、モブも出ます
    ※江澄がゲイ
    ※藍渙がちょこっと結婚します(お相手や具体的な描写はないです)
    ※その他何でも許せる人向け

    突拍子もないドパロディなので楽しんでもらえるのか不安で死にそうですが、当日に走りきれるよう頑張ります。




















    序章
    0.If Winter comes, can Spring be far behind(冬来たりなば、春遠からじ)



     金曜日の午後七時。
     日が伸びてまだ僅かに明るい宵の空と、少し歩くだけでそこら中から夕食の美味しそうな香りが漂ってくる上海郊外の住宅街。大量の酒やジュースと簡単なつまみを詰め込んだビニール袋を重そうにぶら下げて、江澄は週末の少し浮かれた街路を歩く。ちらほらと見える帰宅途中のサラリーマン達は心なしかいつもよりも足早だ。

     通りに並んだ小洒落たマンション郡の一つに、藍渙は住んでいる。
     曇り一つないガラス張りのエントランスで、滑らせるように部屋番号を押してインターホンを鳴らすとすぐに『いらっしゃい』と男の柔らかい声が響き、言い終わる前に自動ドアが開いた。江澄は何も言わずに入っていく。もう何年も同じようにしてきたやりとりだ。インターホンの先の男とは、学生時代からの長い付き合いがある。

     エレベーターに乗って居住階まで上がる。扉が開くまで少し時間がかかるが、部屋の前に着くと見計らったかのようにドアが開き藍渙が顔を覗かせた。大体どのぐらいで江澄が上がってくるのか分かりきっているのだろう。ふっくらと魚の焼ける香ばしい匂いが江澄の鼻腔に入り込んでくる。
     お邪魔します、と無意識にかしこまった挨拶が口をつくのは、初めてこの家に来たときからの癖だった。

     ビニール袋を藍渙に預け、勝手知ったる顔で洗面所へ手を洗いに行くと、廊下から笑みを含んだ声が「先日勧めてくれた石鹸置いてあるよ」と子供のように報告してきた。彼によく合う香りだと思って言ってみた金木犀の石鹸だ。勧めたものを使ってくれているのは嬉しい。藍渙が自分に影響されているような気がして、ふわりと手元と心が浮ついた。大ぶりでまだ新しい石鹸の香りが、少しでもあの男の日常に馴染むといい。


     「今日は随分買い込んできたね」
     キッチンでは藍渙が江澄がコンビニで買ってきたものを冷蔵庫へと入れていた。ビールやハイボールなどのありふれた缶だけでなく、日頃買わないワインに日本酒の瓶など。目についたアルコールは全部買い物カゴに放り込んだかもしれない。確かにいつも藍渙の家に来るときには二、三本缶チューハイを買ってくる程度だった。

     「心配しなくても酒は俺が飲むさ。あんたの分はこっち」
     そう言って男が昔からよく飲んでいるペットボトル入りの乳酸飲料と茶を渡すと、しばらく考えてから藍渙は「いや、」と口を開いた。

     「今日はわたしも少し飲んでみようかな」
     「……飲めるのか?」
     「どうだろう、昔少し酔ってからもう飲まないようにしてるから」
     「無理に飲まなくても」

     珍しく酒を飲むと言った藍渙に、江澄は手を止めた。買ってきた酒の量が多く気を遣わせただろうか。飲みきれなければ持って帰るつもりだから、と言ったものの、「特別な夜だから」と言って藍渙は普段は使わないようなロンググラスを二つ棚から出してきた。
     焼き上がったばかりのメインディッシュの魚と、彩り豊かな野菜の付け合せ、真珠色のじゃがいものポタージュ。江澄が買ってきた塩気の強いつまみに十分な量のアルコールが食卓を囲む。
     金曜日の夜を始めるには最高のテーブルだった。

     「ふふ…こんな風に誰かと宅飲みというものをするのは初めてだな」
     これまで江澄がこの家にきて酒を飲むことはあったが、藍渙が一緒に飲んだことはなかった。成人してまもない頃に酒で失態を犯して以来、全く飲んでいないようだ。だからこんなことを言い出すのは、本当に特別なことだった。 
     藍渙の特別なことが今日自分に対して許された。江澄は喜びと自嘲の混ざった笑みを男から見えないようにそっと浮かべた。


     そう、特別な夜だ。

     「…バチェラーパーティの始まりだ」

     藍渙の独身最後の、そして江澄が二十年抱えた片想いの最後の夜だった。




     +

     江澄が、藍渙と初めて出会ったのは十五歳頃のことだ。
     きっかけは何だったのかは覚えていない。同じ学校の先輩だった藍渙と、人づてに知り合った。義兄が藍渙の弟と仲が良かったのでその関係でだったろうか。一見性格の違う二人だったが、案外噛み合わないほうが惹きつけられるのか交友が続いた。他人との交流を得意としない江澄が、珍しく藍渙にはなついた。

     数年たって大学へと進学した頃、唐突に江澄は藍渙に抱かれる夢を見て夢精した。汗だくで、何の嫌悪感もなく興奮だけが残った夜を忘れたことはない。そこで初めて、藍渙を前にした時のぞわりと落ち着かない感情の正体に気がついてしまったのだ。

     ああ、好きなのか、と自認した江澄が最初に思ったのは「面倒なことになった」だ。
     藍渙との仲は決して悪くはないが、一緒に暮らすには生活の感覚はまるで異なっている。相手は同性愛者でもない。恋に必死になったとて、現実的にどうにかなりうる関係ではないと江澄は早々に見切りをつけた。
     恋の自覚は厄介事だ。未来のない恋など持て余してペースを乱されるだけだ。心穏やかに生きていたい。
     それなのに気づけば藍渙のことばかり考えている。あれを喜んでくれた、今日は一緒に過ごせた、最近誰かと仲が良さそうだ。一喜一憂する心の浮き沈みを必死でコントロールして「良い関係の友人」を保ってきた。

     いつか自分の気持ちが落ち着いて、本当に友人だと思えるようになると信じてきたのだ。
     それからもう二十年、飼い殺しにしてきた恋心はいまだに落ち着かない。



     四十近くになっても藍渙に恋人ができる気配がなかったので、すっかり油断してしまった。自分を見て欲しいとか、他の誰かに嫉妬したりといった青臭い感情はとうに息をひそめた。いつまでも誰のものにもならない男を信仰のように見つめていられれば、十分穏やかな心持ちで過ごすことができていたのだ。
     このままずっと、お互い独り身のままで傍にいられるとぬるま湯につかって居眠りでもしてしまっていたようだった。



     突然、藍渙から結婚式の招待状が届いた。


     届いたハガキの差出人を見た瞬間、ヒュ、と浅い息を何度も吸うことしかできずにひどく苦しくなったのを覚えている。上面に藍渙と並んで書かれていたのは全く知らない女の名前だ。
     気持ちよく眠っていたところをいきなり背後から包丁で刺されたかのような衝撃だった。そんな相手がいる素振りは微塵も見せていなかった。こんな、騙し討ちのようなことをされるなんて。
     江澄は手酷い裏切りにあったような気になっている自身に気付くと、裏切りも何も、そもそも自分は恋人でもなんでもない只の友人じゃないか、と刺された刃を更に自分でえぐったのだった。
     二十年以上連れ添った片想いが、悲鳴もあげられずに死んでいく。





     +




     「ふふふふふ夜更かしって楽しいですねえ! 深夜のパーティ!」
     「わかった、わかったから」
     「江澄、わたしね! 誰かとこうやって宅飲みするの初めてなんです!」
     「それはもう何度も聞いた」
     「あとは? あとは何をしますか? ババ抜きしますか?」

     深夜のリビングに、酔っ払いの声が楽しげに響いた。
     ――――酒で失敗したことがあると聞いたことはあったが、こういう方向性だとは思わなかった。
     うっすら赤らんだ頬でにこにこと大はしゃぎする藍渙を横目に、江澄は痛む頭を抱える。

     今までよりほんの少し気取ったテーブルで始まったバチェラーパーティは、またたく間に洒落っ気を失った。食事もそこそこに酔っ払いが出来上がり、今はソファの上で男二人が行儀悪く転がっている。

     藍渙は缶ビールの一本あけたかどうかというのに、この男ときたら急に声を大きくして態度を一変させた。
     なんだなんだと目を瞠った江澄をソファーに座らせてホラー映画見ましょう!としがみつき、大人しく映画を見て怖がるような可愛げはなく意味不明に江澄に手ずからつまみを食べさせ続ける。カーテンが閉まって外など見えやしないのに「月が綺麗ですよ!」となにやら見えてはいけないものが見えていたし、0時を過ぎると「シンデレラはもう就寝時間ですが! なんとわたし達はまだ遊べます!」とトランプを持ち出してポーカーらしきものを始めた。負けたら一枚脱ぐという今どき大学生でもやらないような子供じみたルールだったが、酔っ払い同士なので結局何の勝負にもならなかった。

     これだけ酒に弱いのであれば、今後も飲まないほうがいい。二度と飲まないで欲しい。そうしたらこの男の情けない姿を知っているのはきっとこの世で自分だけだ。


     ふふふ、と隣に座っているご機嫌な幼児が、不意に江澄の肩に頭を預けてくる。
     柔らかなシャンプーの香りにどきりと一つ胸が鳴った。子供のように甘えてくれることなんてほとんどなかった。酔っ払ったおかげで触れられてラッキーだなと現金にも思ってしまう。肩に寄せられた藍渙の肌がじんわりと温かい。

     「わたしね、誰かとこうやって過ごすの初めてなんです」
     「はいはい」
     酔っ払いの戯言を適当にいなしながら、心の奥深くがチリ、と痛んだ。明日からは見知らぬ女がこうやって一緒に過ごしてくれるのだから、この男にとっては特別な夜でもないだろうに。

     「あとは? あとは何をしよう? こんな特別な夜に、江澄とすること」

     そう言って藍渙は不意に江澄のほうに顔を向けた。鼻息がうっすら感じられるほど顔が近い。四十にもなる酔っ払いだというのに深い森の奥のようないい匂いがする。頬は赤らんでいるが、見つめてくる視線は酔っ払いの据わった目ではなく、長い睫毛の一本一本に至るまですべてまっすぐに江澄を射抜いていた。まるでこの世界で江澄だけしか見えていないみたいに。

     「ねえ、あとは何をしたらいいかな……」
     「…っ、」

     魔が差した。
     あと数センチ顔を寄せればキスできる。酔っ払った男同士の悪ノリ、それも独身最後の日にやることとしては十分すぎるほど定番だ。朝になって忘れているかもしれない。覚えていたとしても十分に誤魔化せる。今しかない。
     揺らいでいる時間は永遠にも思えた。どくんどくんと心臓がうるさい。はちきれる寸前の心音まで全て掬い取ってしまいそうな目で男はこちらを見ている。この心音に気付いているのなら、二十年以上抑えてきた恋心に少しぐらいのご褒美をくれやしないか。

     江澄は意を決したように男を見つめ返した。なるべく不自然にならないようにそっと顔を動かす。
     その瞬間、男はふわりと笑って大事な宝物でも見るような顔で口を開いた。


     「江澄、わたし、君と〝友達〟で本当に良かった……」


     意識を失ったようにぐらりと傾いた藍渙は、ほんの僅かに江澄の唇をスッと掠めるとそのままばたりと倒れて深い眠りに落ちていった。



     +


     死ぬまで覚えていようと思った。
     江澄だけを大切に映していた瞳と、特別な夜だと言ってくれた声。傾いた男の顔と少しだけ皮が浮いてかさついた唇の感触。掠めた一瞬の熱さはどちらのせいだったのか。
     この思い出を食べて生きていける。この思い出ひとつを大切に抱きしめてあとは何もかも眠るように忘れてしまいたい。


     江澄は、この夜でもうこの男に会うのはやめようと決めていた。
     「良い友人」を続ける限り、今度は妻を紹介され、次は子供が生まれたと報告されるだろう。子を見にきてぐらいのことは言いかねない。藍渙の子と思えば少しは興味があるが、同時に見知らぬ女の面影を見つけて自分の心は死んでしまう。この男は誰かを抱いたのだと思い知らされて。

     いずれ現実になる妄想だ。だからその前に逃げ出すしかない。容易に会うことのできない所まで。
     海外がいい。どこかヨーロッパにでも住んで、そこで金髪碧眼で軽薄な男の恋人を作ろう。藍渙に少しも似ていないそいつと、気軽に慰めあうような関係。
     こんな二十年も拗らせた重石のような恋はどうか深く沈んでいって安らかに眠ってくれ。きっともうあと二十年あれば――――その頃には幸せな藍渙の家族にも笑顔で会えるようになるかもしれない。次に会うのは自分の恋心がきっちりと死んだあとだ。



     式には欠席する。幸いなことに外せない仕事があった。だからこそこうやって、前日に男の幸福を願いに来た。


     「おやすみ。……お幸せに」

     バチェラーパーティなのに、結婚前夜の男に肝心な一言を言っていなかった。どうか幸せに。本心からそう願っている。
     すやすやという音が聞こえてきそうな藍渙に近くにあったタオルケットをかけてやると、江澄は散らかったゴミを簡単に掃除して書き置きを残した。帰るので家の鍵を閉めて郵便ポストに入れておくという内容だ。掃除の途中、何度か大きな音を立ててしまったが、江澄が家を出るまでついぞ男が目を覚ますことはなかった。




     +




     深夜二時もすぎた屋外は半袖で出歩くには少し肌寒い。

     持ち帰ってきた空缶と瓶がゴミ袋の中でカチャカチャとひしめく。どれだけ飲んだんだ、と呆れるようなその金属音と、ぺたぺたと間の抜けた一人分のスニーカーの音だけが聞こえる。こんな深夜に出歩く者など自分のような酔っ払いしかいない。藍渙の家を出た時からがんがんと鳴り響く頭痛はひどくなっていた。どこにでもいるみじめな酔っ払いだ。まっとうな人間はみんな家で寝静まっているだろう、恋人や家族なんかと共に。

     「……っ」
     不意に足が止まる。目の奥がぐっと熱くなり空を見上げる。月。そう、月が見たくて上を向いた。決して涙がこぼれそうになったわけではない。

     「………月が綺麗だな…」

     透明にぼやけた視界には何も見えやしなかった。ただ漠然と多分月が綺麗なのだ、と思った。
     先程まで酔って騒いでいたあの男も、閉じたカーテンに向かって楽しそうにそう言っていた。きっと酔っ払いにだけ見える特別綺麗な月だ。声を上げることのできなかった片想いが、最後の夜に静かに丸く輝いている。本当は気付いて欲しかったと声もなくきらめく。

     誰かを心から好きになることができたなんて、それだけで何物にも代えがたい奇跡だ。誰もが当たり前にそんな相手に出会えるわけじゃない。
     自分にとってその奇跡は藍渙で――――ただ藍渙にとっては奇跡の相手が自分じゃなかっただけ。
     最後には何もかもが上手くいく物語の主人公には、自分はなれやしなかった。

     唇の触れたあの刹那を思い返す。それだけで質の悪い麻薬を吸ったかのようにふわふわと幸福で頭の中が微睡んだ。

     瞬きをすると熱をもった涙が頬を滑り落ちていった。
     ぼやけた視界で煌めいていた特別な月がほろほろと流れていく。そうして好きなだけ涙をこぼしてから目を開けると、はっきりと見えるようになった空には月はどこにも見つからない。


     「……月が綺麗だなあ……………………」


     それを告げたかった男は明日、結婚する。


















    1.What will be, will be.(なるようになる)




     半袖では少し肌寒い九月の半ば。イギリス、南東部の都市ブライトン。
     昼間は青空のビーチに白壁のアンティークな建物が並ぶ粋な光景の街だが、夕の六時にもなると顔つきをがらりと変える。
     夕暮れの橙に染まったブライトン駅前の大通りには扉を開け放した店々と、外まで聞こえてくる最新のポップ。漏れたネオンの光の間をドリンク片手に陽気な人間達が出入りする。彼らは音楽に合わせて踊りながら、楽しい夜の始まりをおおらかに謳う。

     その喧騒から一本通りを曲がったところに、ほんの少しだけ控えめな、けれども十分に賑わった小さなパブがあった。
     上海のパブと様子が異なることといえば、店の中にほとんど男しかいない点だ。見慣れない者には違和感があるだろう。客達は夜の空気をくすぶらせてゆったりと一夜の相手を見定めている。ガラスの扉には目立つように店名が印字され、堂々とした佇まいの店構えだった。この街ではひっそりと隠れる必要はない。マイノリティ達が息をひそめることなく寛げる、開かれた店。

     ブライトンはあらゆる人種、性別、思想や嗜好がまざりあう、イギリスで最もオープンな都市だった。








     「ワンイン! 君がこんな早い時間に来るなんて! 良かったら一杯奢っても?」
     「こんばんはワンイン、今夜はライバルが多そうだ」
     「来いよ、一緒に飲まないか? ラムの大瓶をあけたばかりなんだ」

     江澄がそのパブの扉を開けて入るなり、見知った男達が次々と手をあげて挨拶の声を飛ばしてきた。
     その群れの中の、美しいプラチナブロンドを丁寧にセットした男が嬉しそうな笑顔を浮かべて江澄のほうへ歩いてくる。ラフなリネンシャツのスタイルを綺麗に着こなせるイケメンだ。江澄の顔を覗き込むようにすると、にこりと甘い笑みを浮かべ英国紳士らしく手を差し出した。

     この街に江澄が来たのは一年程前のことだ。
     昨年のちょうど同じ季節の頃、江澄は二十年抱えた片思いに終止符を打った。打たれたという方が正しかった。失恋したのだ。

     四十歳にもなって、まさか失恋で逃避行などすることになるとは思わなかったが、勢いのままに好きだった男のそばを離れた。どんな偶然が重なっても絶対に出会うものかとやりすぎなぐらい離れて、海外逃亡を果たしたのは良い判断だったと今では思える。
     マイノリティやはぐれものに寛容なこの街へヤケクソで転がり込んで、気がつけば一年居着いていた。


     「クラウス」
     「しばらく顔を見せなかったから飽きられちゃったかと心配したよ」

     近寄って声をかけてきたのは、金髪にオーシャンブルーの瞳が美しい典型的なイギリス人の男だった。何度か江澄と関係を持ったことがある。離れたカウンター席で青年とカクテルを傾けているダークブロンドの男も、江澄と夜を共にしたことがある。今は居ないが、常連の淡い栗毛が可愛らしい若者も江澄を気に入っていた。
     失恋の色気をまとってやってきたアジア人の「ワンイン」は、密かな人気者なのだ。

     この店は、寂しい夜を抱えた男達が、一晩肌を寄せ合う相手を探すためのパブだった。



     クラウスと呼ばれた男は、江澄を連れてすぐ近くの空いているテーブル席へと腰をかけた。
     奥ではマスターが人差し指を立ててジェスチャーをしている。江澄が同じように指先で返事をすると、間もなくしてウォッカベースのカクテルが静かにテーブルに置かれた。アクダクト。キュラソー、アプリコット・ブランデー、ライムジュースを合わせたさっぱりとした味わいの飲みやすさが特徴だ。
     「今日は流れに逆らわず身を任せる」という意味を持つ。――今日はお前と流されるとしよう。

     夜の相手として選ばれたブロンドの男は、江澄の手をとり指先に軽く口付ける。
     そして江澄の好きなレモンチリ味のシーズニングがかかったシュリンプを注文すると、オーシャンブルーの瞳を悪戯っ子のように細めて「早く食べたいな」と江澄に囁いた。







     ワンナイトの場は大体江澄のワンルームのフラットだ。
     毎回宿をとっていては金がかかるのと、相手の縄張りに飛び込むのはどんなことがあるか分からないからだ。まだ来たばかりの頃、うっかり相手の家に行き監禁されそうになったことがある。自国とは異なり大麻や合成ドラッグもはびこる界隈だ。以来それなりに分別のありそうな相手を選んで、大して物もない自身の部屋で相手することにしている。

     「! おい」
     「ワンインの可愛いお尻が目の前にあるから! ねえ、とっても美味しそうだからスキンは無しでもいい?」
     「ふん、好きにしろ」

     古いフラット特有の軋む階段を男と二人で上がっていると、後ろから尻をつつかれる。
     不思議といやらしさのない愛嬌が憎めない男だ。面倒なことも言い出さないので、江澄の遊び相手としては比較的回数の多いほうだった。

     3階にある、金属板がところどころへこんだ踊り場を曲がった先、303号室。この国で見つけた江澄の住処だ。
     移民の多い地域なので、訳ありが集まる安フラットを見つけるのに苦労はしなかった。狭いワンルームに、簡易ベッド、小さなサイドテーブル。少しカビ臭いのはどうにもならないが、あとは物干し紐を吊るせば十分だった。壁はこれ以上ないほど薄い。
     このオンボロフラットを江澄はいたく気に入っている。この部屋には、藍渙の気配がない。長年江澄を苦しめて、そして甘やかな幸福を時々くれた片想いの欠片がどこにも存在しない。沈めた恋心は海を隔てた遠い国まではついてこなかった。




     カンカンと階段を上りきって踊り場まで来ると、男は江澄の腰にするりと手を回した。そして耳元に顔を近づけるとちゅ、と強いリップ音を立てて耳朶を吸った。ささやかな朱い痕が江澄の耳朶に散る。


     突如ガタン、と何かの音が廊下に響いた。

     思わぬ物音に二人はびくりと音の方を見る。廊下の先、ちょうど江澄の部屋の前あたりに――誰かいる。
     入居したときから廊下の天井灯のランプは切れている。しんと真っ暗な通路では顔まではよく見えない。うちの前で何者だ、と江澄が剣呑な視線を向ける。


     「……江澄?」

     長らく聞いていなかった故郷の発音が聞こえた。


     「…………え?」



     その聞き覚えのある柔らかな声に、心臓がばくばくと音を立て始める。
     部屋の前にいたのは一年前、江澄の恋心を殺した張本人――――藍渙だった。






     +




     思いもかけない来訪者に腰が抜けそうになった江澄を支えて、ブロンドの男は「とりあえず、部屋に」と303号室の扉まで連れて行った。江澄の腰に添えられた手を藍渙はちらりと見てから、突然すみません、と英語で男に話しかける。

     江澄が震える手で鞄から鍵を探す間、誰も一言も発しなかった。
     深夜の暗闇の中で、男が三人、おかしな空気をもたつかせる。ようやく鍵を取り出してガタつく鍵穴を強引に回すと、男は江澄を先に家に入れてから「あの人は知り合い?」と聞いた。

     「あ、ああ…そう、知り合いだ。とりあえず、藍渙も中に入れ」
     「…お邪魔します」

     きっちりと挨拶をして、暗がりに立っていた藍渙は江澄の部屋の中に入ってきた。
     玄関の小さなランプをつける。イギリスは電気代が高騰しているので、人々には夜半に煌々と明るい電気をつける習慣がない。夜になれば電気を落として人肌を求めるぐらいしかすることがないところも、江澄にとっては居心地が良かった。この街は傷ついた江澄を優しく隠して慰めてくれる。
     ぼんやりとしたランプに照らされて、藍渙の顔がもう少し詳細に見えるようになった。記憶のまま少しも違わない端正な顔があらわれるが、その申し訳無さそうな表情はやや暗い。ちょっと観光に来たというわけではなさそうだ。


     「…クラウス、悪いんだが今夜は帰ってもらえるか」
     藍渙の顔をみて、面倒な予感がする、と江澄は悟った。この一晩の男との関係を藍渙に追求されるのは御免だ。帰ってもらうしかない。
     今度必ず埋め合わせをするから今日のところは、と言うと、クラウスはじっと藍渙を見つめた。
     「彼に、今夜の君をとられてしまうのかな」
     男は珍しく聞き分けの悪いことを言う。江澄が藍渙と寝るために乗り換えたと思っているのだ。そんなわけがない。このヘテロの男はとっくに、既婚者なのだから。

     「そんなことはな「申し訳ありませんが、今日はお引取りいただけませんか」
     藍渙の流暢なクイーンズ・イングリッシュが割って入った。
     へ、と江澄が間の抜けた声で藍渙の顔を見る。よく見ると少し目の下がやつれたかもしれない。じいと見つめてくる金髪の男の視線を、藍渙はしっかりとした琥珀色の瞳で打ち返す。

     数秒の沈黙が落ちた。江澄は二人の間に流れる空気の重さに口を開けない。
     やがて降参、とおどけるように男が両手をあげた。
     「…ワンインを困らせたくないから、今夜の僕は退散しよう。けれど、」
     男はするりと先程己が江澄につけた耳朶のキスマークを撫でる。

     「マナー違反は感心しないよ、ニューフェイス」
     そう藍渙に牽制し、男はじゃあね、と通り過ぎざまに江澄の頬にキスを落として部屋から出ていった。








     「…江澄、突然押しかけてごめんなさい」
     「どうやってここに来た」

     二人きりになった玄関に、一年分の空いた距離がよそよそしい空気となって流れる。

     二十年以上かけて築き上げた〝良い友人〟という立場は、そっくりそのまま故郷に捨ててきた。
     この国にくる時に連絡先の一切を変え、行き先もごく一部の家族以外の誰にも告げず、誰にも知られないように逃げ出してきた。まして住所など姉にしか教えていないし、他言しないよう口止めしていたはずだ。藍渙が偶然江澄のフラットにたどり着く可能性はまずない。

     「君のお姉さんになんとか教えてもらって」
     「…やはりか」
     江澄は重たいため息をつく。藍渙と姉には接点が無いからと油断していた。
     吐いた息で何かの蓋が外れたかのように、何をしにきた、どうして今になってきた、家族はどうした、と、疑問が次々と江澄の中にわく。それらをひとまず飲み込んで、江澄は「とりあえずあがれ」と部屋の奥を指さした。


     狭いフラットに長身の藍渙は似合わない。部屋が小さいので居るだけで存在感が目立つ。椅子はないから、とベッドに腰かけるよう言うと、藍渙はぐるりと部屋を見てから座りもせずに口を開いた。

     「江澄、さっきの人は……恋人?」

     いきなりそうくるか、と江澄は身を固くする。もっと他に無いのか、かつての友人がもしかしなくてもゲイかもしれない現場を見て、オブラートに包んだりする配慮などは。
     「ただの友人だ」
     江澄は突き放すような声で答えた。
     信じてもらおうとは思っておらず、江澄は無意識に目を合わせないようにして形ばかりの嘘を吐いた。いや、嘘ではない、こちらでは肉体だけの関係を〝Friends with benefits〟と言うのだから、フレンドではある。
     「友人…」
     そう、と呟いた藍渙の視線は江澄の耳元を捉えている。キスマークを残す友人の定義は、きっと藍渙の中には存在しない。


     「そんなことより何しに来た。わざわざ姉の口を割らせてまで来たからには用があるんだろ」

     今度は江澄が質問する番だ。どうして突然現れた。せっかくこの男の気配がない国で、気軽に慰めあって抱えた傷を忘れて、楽しく過ごせていたのに。
     言外にあまり歓迎されていない空気を感じたのか、藍渙は戸惑ったように視線を彷徨わせる。

     「何って、突然君は居なくなったから」
     「突然じゃないだろう、もう一年もたってる。何を今更」
     「友人が急に一年も音信不通になったら普通心配するだろう?」

     友人、という言葉が突き刺さる。彼の無自覚のナイフに何度苦しんできたか、そして最後に結婚というとどめを刺されたから逃げ出したんだ。
     本当に心配なら普通居なくなってすぐ探すものだろう、と喉まで出かかった言葉をこらえて、江澄はできれば言いたくなかった単語を口にする。

     「かぞ…奥さん、は、どうした。もう子供の一人ぐらい居てもおかしくないだろ、こんなとこに来て」
     「離婚したんだ」

     「は、」


     今度こそ腰が抜けた。
     すぐそばにあったベッドにぼすりと江澄は座り込んだ。安物のベッドがギシリと音を立てる。今頃は別の男と鳴らすはずだったその音が、江澄を嘲笑う。


     離婚したんだ。今なんて言った? あんな突然俺を殺しておいて、もう離婚?


     無意識に藍渙の左手を見た。確かに、薬指にあるはずのものがない。
     しばらく訳が分からずに黙っていると、藍渙がゆっくりと江澄の横に腰掛けながら言葉を続ける。

     「半年程前に離婚して…それよりも君がどうしてしまったのか気になって」
     「っふざけるな!」
     深夜であることも忘れて江澄はカッと怒鳴った。

     「突然結婚して楽しくやってる間は気にもならなかったくせに、一人になって寂しくなったから俺のことを思い出したか?」
     「そんなんじゃない、君が居なくなってすぐに連絡したけれど何一つ繋がらなかった…君のお姉さんにも何度も聞いて、やっと教えてもらえたんだ…! わたし達はそこまで薄情な関係じゃなかったはずなのに…いや、特別な友人だと思っていたのはわたしだけ? 君に嫌われるような何かしてしまったのかとずっと悩んだよ、どうして突然居なくなったりしたの? 変な言い方だけど君に捨てられた思いで」
     「捨てられたのはこっちのほうだ!」
     
     江澄の声色は一段と強くなる。止まれない。お前が捨てられたと被害者ヅラをするのか、と江澄の中で理不尽な怒りが爆発する。

     「薄情な関係? ああそうだな、こんだけ役満でも分からないあんたには俺はただの薄情な友人だろうな。ならその疑問の答えが分かったらさっさと消えてくれるんだろうな、」
     言ってはいけない、と頭の中で警告の声が聞こえる。

     「俺はな…ずっとあんたが好きだったんだよ! 二十年良い友人の顔してその実あんたで抜いてたホモ野郎だ! それがある日突然結婚しますって見知らぬ女と並んだハガキが届いて終わったんだ! 四十にもなって失恋が苦しくてこんなとこまで逃げ出してきた負け犬だ! せっかく終わった恋のことを忘れて楽しくやっていたのにいきなりやってきてかき乱すな!」


     ――――――――言ってしまった。




     江澄はハッハッと過呼吸のように浅い息を繰り返した。藍渙は驚いたように目を見開いている。今初めて知りましたという顔だ。江澄の「良い友人」のフリはよほどうまく隠し通せてきたらしい。

     「好き、って…いうのは…」
     「今夜俺を抱くはずだった奴は男だったろう! そういうことだ!」
     「………」
     「分かったんならもう出てってくれ、終わった話だ。我慢して友人の顔を続けられなかった俺を責めたきゃ上海で好きなだけ罵ればいい。連絡を絶ったことに藍渙に非はないが、俺だって何一つ悪いことはしなかったんだ……」

     最後の方はもはや消え入るような独り言だった。真っ赤に爆発していた頭の中が急に冷えていく。言ってしまった。知られないようにそっと殺したはずの秘密を。自分がどんな目で藍渙のことを見ていたかを。あのバチェラーパーティの夜の綺麗な思い出のまま終わらせたかったのに。
     羞恥どころかいっそすっきりとして諦めに似た何かが湧き上がる。何もかも消えてなくなりたい。



     ドンドンドン!とすぐ隣の壁を叩く音が響いた。
     深夜に騒ぐ男二人の喧嘩に、隣人が怒っている。一年住んで顔も見かけたことのない隣人だったが、壁が薄いこのフラットでは江澄がパブから連れて帰った男と寝る夜にも、時折こうしてクレームの音を響かせた。

     再び二人の間に気まずい沈黙が落ちた。



     「…………ごめんなさい」
     「それは何に対する謝罪だ」

     返答次第では本当からここから叩き出す、と江澄は手負いの獣のように牙を剥いた。
     逃げてきた自分をつついて言いたくもなかった失恋をほじくり返した挙げ句の「ごめんなさい」だったら、例え好きだった男だとしても許さない。
     声のトーンを落とした二人に、隣人のクレームは収まったのか壁はもう叩かれなかった。
     「君をずっと苦しめていただろうわたしの鈍感さと、………」
     「………」
     「その、確認なのだけれど、君はわたしとセックスをしたいという意味での〝好き〟なんだよね。わたしに抱かれたいというほうの」
     「……………」
     あまりにもあけすけな言い草に江澄が黙り込むと、沈黙を肯定と受け取ったようだった。

     「わたしは君のことが好きだけれど……多分君と同じ好きを返してあげられない」

     江澄はびくりと肩を震わせた。胸の奥がぎゅうと掴まれたように痛い。
     そんなこととっくに分かってる。わざわざそんな追い討ちをかけにこんな遠い地まで執拗に追いかけてきたのか。今度こそこの部屋から叩き出そうと拳を握りしめる。そして今からでもクラウスを呼び戻そう。

     「でもそれは君が考えている理由とは違って、」
     「っなにが違う、そもそもハナから俺はあんたにゲイセックスしてくれなんて期待していない! 馬鹿にするな!」
     「違うんだ、君が男だからとかじゃなくて、」

     再び興奮しそうになった江澄を藍渙がそっととどめる。聞いて、と苦しげな瞳に見つめられて江澄は押し黙った。過去の恋だと言いながら、いまだにこの顔に弱い。
     藍渙は何か言いたげに口を開き、そして声にならずに口を閉じることを繰り返してから、ようやく詰まっていたものを吐き出すように呟いた。

     「さっき離婚したと言ったでしょう」
     「…それがなんだ」
     「妻となった相手を前にしても、…どうしてもそういった欲望が起こらずに、できなかった」
     「…そういった欲望?」

     ぼやかされた藍渙の言葉に、江澄は怪訝そうな顔をした。言っている意図がつかめない。
     頭の中で話の流れを整理する。江澄はセックスをしたいが藍渙は同じ気持ちを返せない。それは男だからではなく、妻を相手にしてもそういった欲望が起こらなかった。結果、出来なかった。

     「誰かとセックスをしたいという気持ちにはなれず」
     「………それは勃たなかったということか?」

     江澄ははっきりと聞いた。まどろっこしいのは好まない。
     先程藍渙も「あの金髪の男と付き合っているのか」と随分突っ込んだ質問をしてきたのだから、おあいこだ。

     「そう」
     藍渙はゆっくりと頷いて、江澄の顔をまっすぐに見た。

     「触れたいという性欲を抱けない。わたしは誰に対しても、君と同じ好きを返せないと思う」


     もう今日は抜かす腰も残っていない、と江澄は天を仰いだ。







     +



     備え付けのちゃちなキッチンストッカーからミネラルウォーターを二本、取ってくる。
     沈黙のまま二人並んでベッドに腰掛け、それを半分ほど飲み終わる頃には江澄の気持ちもいくらか落ち着いていた。

     藍渙はつつがなく良い夫としての立場をこなしていたが、妻となった女に子供が欲しいと言われ、いい年だしそういうものかと臨んだ夜に全く反応できず大泣きさせたらしい。妻に自分から触れたいという欲もなく、それを指摘されると「貴女を抱きしめて眠ってあげることぐらいならできる」と大真面目に答え、同情でしか相手を見られないのかと泣かれ更に酷い夜になったという。
     結局それが引き金となって夫婦関係は形ばかりとなり、相手に子供の持てない人生を強いるわけにはいかないと、藍渙の方から離婚を申し出た。

     思いがけない離婚の顛末を聞いて、江澄は相手の女を哀れに思った。藍渙という男の、無自覚に人の矜持を傷つける残酷な優しさには身に覚えがある。


     「身体の病気なのか?」
     「違うと思うよ…ちゃんと時々精子は出る…ただ、こればっかりは自分の意志と切り離されていてどうにもできない」
     「まあ、男の下半身なんてそんなもんだな」
     普通とは違った意味で下半身のコントロールができていないようだが。

     もう、今までの何もかもが馬鹿馬鹿しい、と江澄はペットボトルを呷った。

     藍渙が不能だったとて、江澄のことをそういった意味で愛していないことには変わりない。結局こちらは恋愛で、あちらは友情。
     藍渙が誰のものにもならず、誰のことも抱けないと分かっただけ寧ろ朗報だった。好きだという気持ちは報われないが、神様に恋をしているようなものだと思えば、十分昇華できそうだ。神様は誰か一人を選んだりしない。いかにもキリスト教のこの国に住む者らしくていい。


     「…とにかく、俺の居場所が分かって気は済んだだろ、今日はこんな時間だから泊まらせてやる。明日上海に帰れ」

     それで終わりだ、と江澄は会話を終わらせた。いっときは怒鳴ってしまったが、穏やかにこの件は終わらせられそうだ。そして明日はクラウスに埋め合わせをしなければ。
     そう算段をつけていると、藍渙がぴたりと固まった。
     「君も?」
     「は?」
     何がだ、と視線だけ寄越すと藍渙は迷子の子供のような顔で江澄のほうを見つめている。渡したペットボトルの水はほとんど減っていない。

     「君も一緒に上海に帰ってくる?」

     はあ? と江澄は思わず声をあげた。何をどう考えたら一緒に帰るという発想に至るのだろうか。今までの話を聞いていたのか? と聞かざるを得ない。報われない恋と暮らしたくないから、逃げてきたと言っただろう。

     「帰るわけないだろ、疲れてるならさっさと寝ろ」
     軽く流そうとすると藍渙は江澄の腕を掴んだ。
     終わらせない。まだ確かめたいことがあるとその手の強さが物語っている。

     「さっきのあの人とは付き合っていないと言ったね」
     「……」
     「抱かれる予定だったとも」

     せっかく落ち着いたはずの空気にピシリと亀裂が入った。
     どうしてお前は見なかったフリができないんだ。それを知ってどうする、何を言える。

     また声を荒らげるわけにはいかないと、江澄は深く息を吸った。こうしている間は何も話せないから、怒りで思ってもいないことを言いそうになったら深呼吸をしなさいと、はるか昔に父親に言われたことがある。
     薄い壁の向こうでは見知らぬ隣人がすやすやと眠っている。騒音ごときでこのフラットを追い出されたくはない。

     「だったらなんだ、あんたにそれを止める権利はない」
     「恋人でもない相手にそんな風に身体を明け渡すのは良くない」
     「ハッ、恋人でもないのにセックスするなって? 夫婦なのにセックスできなかった男に言われるなんてな」
     「っ」
     すぐさま江澄は己の発言に後悔する。「…悪い、失言だ」と苦虫を噛み潰したような顔で謝ると、「その件はそもそもわたしの気持ちに問題があったから、いいんだ」と藍渙はあっさりと許した。

     「俺のプライベートに口を出す権利はない」
     「友人として止めるのはおかしいかい? 自暴自棄に安売りしているように見える」
     もう余計な言い争いはしたくないと願うのに藍渙は諦めない。江澄と、夜の相手達とのことを看過できないとはっきりと眉を顰めて告げてくる。
     「誰のせいだ。それに何も藍渙に迷惑をかけていないだろう」
     「君がぞんざいに扱われないか心配だ、相手がまちまちだなんて大切に扱われていない証拠だろう」
     
     平行線だ。割り切った関係というものがこの世にはあると、理解しない藍渙に苛立ちがつのる。
     十分ほど言い合ったが江澄の〝Friends with benefits〟に関して、藍渙は頑なで譲らなかった。

     「セックスとは大切にしてくれる人とするものでしょう」
     「そんな人間がいたらとっくにそうしてる。恋人のいない俺に坊主のように一生禁欲でもしてろってか?お綺麗な藍渙と違って俺は心なんてものをセックスに求めていない。ただの性欲の発散だ、大切にされたいとも思ってない」
     江澄はいい加減終わりにしてくれと一息に吐き捨てた。


     その言葉に藍渙は黙り込んだ。
     ようやく納得したかと江澄が安心しかけた瞬間、藍渙は据わった目でじとりと江澄の耳元を眺め、それまでとは違う、聞いたことのないような重たい声を発した。

     「……そう、そんなに自分を大事にできないのなら、わたしがやる」
     「……、?」
     「心の繋がりを求めていないのなら、契約か何かという形にするかい」

     何を言われているのか理解できずにいると、藍渙は江澄の肩を軽く押して、背中を打ちつけないよう優しい重みで腰掛けていたベッドに江澄を押し倒した。
     突然視界が一面の天井に変わる。契約? わたしがやる? なんの話だ?


     「?!」

     下半身に思ってもみなかった刺激が走った。
     ――股の間を撫でられている。指の長い、綺麗な形の骨が並んだ藍渙の大きな手で。

     藍渙は片方の手で江澄が暴れないようにそっと肩を抑えたまま、もう片方の手で江澄の股間をズボン越しにゆるゆるとまさぐっていた。指先で睾丸の輪郭をなぞり、手のひらで陰茎を包み込むようにゆっくり上下させる。さして上手くもない接触にもかかわらず、江澄の股間は熱をもってゆるりと勃ちあがった。
     「あっ、や、やめっ」
     江澄は与えられる刺激に抗うように、きっと藍渙を睨みつけた。思い詰めたような顔の男の目は据わっている。江澄の性欲の発散を、藍渙がやると言うのか。誰に対しても興奮できない清廉な身体で江澄の汚い欲を放ってくれると。
     「やめろ…! 同情で俺の捨てた恋につけ込むな…!」
     この男にだけは憐れまれたくない。他のどんな軽薄な男達に可哀想にと抱かれても構わないが、藍渙にだけは。
     「捨てたというけど君はちゃんと勃ってる」
     「くそ、くそ…!」
     「…挿れたりはできなくとも、君を満足させてみせる。君の好きとは違うかもしれないけれど大事な友人なんだ、他人にぞんざいに扱わせたくない」
     「ぞんざいになんて」
     江澄が口先だけで庇おうとすると、藍渙の視線がそれを制した。

     「少なくともあの人のような、スキン一つ付ける手間も惜しむような者になど」

     藍渙は悔しそうに呟く。クラウスとの踊り場でのやり取りを聞かれていたのだ。江澄の身体のことを顧みない、軽薄な男に見えたのだろう。

     「その代わり、君は他人に身体を触らせない。少なくとも君のことを正しく愛してくれる相手が見つかるまで」
     
     どんな拷問だ、と江澄は現金にも反応してみせた己の下半身に歯軋りをしながら、藍渙のズボンを盗み見た。
     …何もない、藍渙の平坦なスラックスは何の反応も見せていない。
     性欲の一片も感じていないのだ。江澄のことを心から「大切な友人」以外の何とも思っていない。

     同情ですらない。他人を憐れんでこんなことはしない。
     本当に心から江澄のことを友人として心配しているから、相手をとっかえひっかえする生活をやめさせたい。


     そういう男だから好きになった。



     江澄の耳元で悪魔が囁く。――――形だけでも、藍渙に触ってもらえるチャンスじゃないか。

     江澄はかたく目をつぶった。藍渙の手は江澄の様子を伺うようにそろそろと愛撫する。声を上げないよう耐えるほど、優しく撫でられた江澄の下半身は勘違いをして熱を持っていく。
     この手を突っぱねることができない。かつて一人で自身を慰める時にだけ思い描いていた藍渙の妄想が、現実になるかもしれない。触ってくれるだけでいい。もう同情だっていい。ここまで暴露してしまったら、男としてのちっぽけなプライドなんて。


     「…っ、くそ………っ………………好きにしろ………!」


     契約成立だ。頭の中で悪魔が「おめでとう」と笑った。












    2.No road is long with good company.(旅は道連れ世は情け)




     奇妙な関係が始まった。

     藍渙は江澄の狭い部屋へと転がりこんだ。
     この関係の条件として決めたのは三つ。週に一回、土曜日に江澄の性欲の発散を藍渙が手伝うこと、代わりに江澄は他の男に身体を扱わせないこと、江澄にちゃんとした恋人ができたら直ちに藍渙は部屋から出ていくこと。

     藍曦臣の荷物は小さなスーツケース一つだけだった。最低限の着替えしかない。江澄はすぐに居候のためのシャンプーや歯磨き粉、食器類を買い足した。これは同棲ではないとはっきりさせるため、自分のものとは全く異なるメーカーのものを一式。
     それから床に敷くマットレスを一枚購入させ、布団代わりにそれを使うように言った。友人が見知らぬ男と身体を重ねるのに使っていたベッドになど、藍渙は横になりたくないだろうとの江澄なりの配慮だ。それから藍渙とは一緒にベッドで眠る関係じゃないという線引きだった。あくまでも、契約で一緒にいるだけ。

     家賃は折半すると申し出があったが断った。いつこの関係が終わって藍渙が出て行くか分からないのだ。
     江澄に恋人ができる目算など無かったが、藍渙の方が友人の性欲発散というボランティアに飽きて上海へ戻る可能性は十分にある。別れ際に面倒がないよう、極力江澄は関わりを持たないように努めた。そして家賃代わりに、炊事や洗濯の家事を一部、藍渙が請け負うことになった。



     「藍渙、帰りに買ってくるものはあるか?」
     「牛乳がないかな…あとは食べたい野菜があれば買い足そう。君が良ければ仕事の帰りに迎えに行くから、一緒に買い出しに行く?」
     「…いや、いい。自分で買って帰る」
     日常の簡単なやり取りに、江澄は自身の中で密かなルールを決めた。
     同居する上で必要なことなら一緒にする。友人以上の関係に捉えられかねない行動はしない。例えば、夕飯の買い物を一緒にしたり、理由もなく並んで外を散歩したりなどはルール違反だ。
     この街の友人達としてきたようなスキンシップも藍渙にはさせなかった。パブの男達はよく江澄に憐憫と愛情の混ざったハグとキスをくれた。可愛いと可哀想が一緒くたになったスキンシップは、この国に来たばかりの頃の寂しい江澄をよく慰めてくれた。
     けれど藍渙は違う。彼自身の『江澄の自堕落な生活をやめさせたい』という我儘でここにいるのだ。お前はブロンドの優しい男達とは立場が違う、引き下がらないから仕方なくだ、と江澄は藍渙にさりげなく線を引いてみせた。

     「そう…じゃあ行ってくるね」
     その線引きに気付くと藍渙はわきまえたように引き下がる。


     江澄が仕事をしている間、藍渙は日雇いのアルバイトを探してみたり、そこらを自由に観光しているようだった。
    英語が使えるおかげで日銭を稼ぐぐらいはできるらしい。江澄は小さな貿易会社の中国顧客向けの通訳として、契約社員という形で仕事をしていたが、藍渙はその時々で様々なアルバイトを請け負っているようだ。
     これまで彼の会社員としての姿しか見たことがなかったので、フリーターのように単発の仕事を探す藍渙というのはどうにもしっくりこない。そんな泥臭いことできたんだな、と江澄が感心したように言うと、新しい世界を色々見られて楽しいと弾んだ返事がかえってきた。









     土曜日には、二人とも仕事を入れない。
     それぞれ部屋で雑誌を見て過ごしたり、外にランチを食べに行って各々で過ごす。なんとなく江澄は、顔を合わせないようにすることが多かった。
     そして夕方を過ぎると言葉少なくなった室内でふらりと江澄がシャワーを浴びに行き、少ししてから藍渙が追いかけるように浴室に向かうのだ。


     「…入るよ」
     必ず藍渙は浴室の外からそう声をかけてきた。
     江澄は藍渙に、服は脱ぐなと言った。二人裸になって睦まじくシャワー浴びるような関係ではないからだ。あくまでも、性欲発散のお手伝い。犬でも洗う時のような気分でいろと言うと、藍渙は黙ったままうなずいた。

     水流の弱いシャワーの蛇口を最大限ひねって、自身の男の声が水音に隠れるようにする。藍渙が余計なものを見なくてすむように鏡にぴったりと背をつける。
     そうすると藍渙はそろりと浴室内に入ってきて、伺うように「触っていい?」と聞いてきた。
    「ん」
     江澄が全身の泡を綺麗に流し終えてから返事をすると、江澄の下半身をTシャツにハーフパンツの藍渙が両手でそっと愛撫する。他人の陰茎など触ったことがない藍渙の手つきは稚拙でただ上下するだけだ。にもかかわらず江澄は簡単に息を上がらせる。時々我慢できずに小さく声を漏らすと、藍渙は覚えようとするかのように同じ動きを繰り返した。
     「っ、あ」
     先端から透明なカウパーがだらしなく漏れるのを、シャワーの水流が誤魔化してくれる。何回か触るうちに、藍渙はカウパーが流れてしまう前に亀頭に塗り込めるように優しくこすると、江澄の背がびくびくと大きくのけぞるのを覚えたようだった。

    「んっ、く、 ぁっ!」

     これまでの男達とは比べ物にならないような稚拙な藍渙の愛撫で、江澄は容易に果てた。
     「いつもはこんなに早くない」と初めてのときに言い訳したが、藍渙は嫌そうな顔をしたのでそれ以後は何も言っていない。男をイかせるスピードについてなど評されたくもないのだろう。
     一連のことが終わると江澄は逃げるように浴室から出て、ごおごおと音を立ててドライヤーで髪を乾かした。その間に藍渙もシャワーを浴び、出てくる頃には江澄はもうただの同居人の顔で「夕飯どうする」と日常の会話に戻る。





     一週間のうち六日間、只の友人として気をつけながら過ごす。
     そして一日だけ、約束通りに藍渙は江澄を愛撫する。挿入はおろか、後孔を見せも触らせもしたことはない子供の自慰のようなものだったが、一度失恋をした江澄にとっては信じがたい現実だ。
     藍渙は「満足させる代わりに他の男としないこと」の約束通り、江澄がちゃんと快感を拾えているか、いつもじっと黙って確認しているようだった。
     そして江澄もまた、あのパブには足を運んでいない。






     +




     ちょっと出かけようと言われたのは、ちぐはぐな一週間を何回か繰り返した日曜日だ。

     「通りのバスがあるでしょう、あれで少し行ったところにペリカノというカフェがあって」
     「ああ…それなら知ってる」
     藍渙がにこにこと話しているのは、観光雑誌にも載っているような有名なカフェのことだ。
     店は大きくないが、洒落たオークウッドのカウンターにいくつものケーキやマフィンが並びコーヒーの香ばしい香りを漂わせる、どこかほっとした雰囲気に人気がある。江澄も行ったことはないが評判の良さは知っていた。
     「そこに」
     「行かない」
     「待って、そこにビーツのチョコレートケーキがあって食べたいんだ」
     藍渙は、江澄が断るのを分かっていたように遮って話し続ける。意図が見えない。食べたいのなら、勝手に行って食べてくれば良い。
     そう視線を投げかけると、「あまりにも規格外で一人では食べきれそうにない」と真面目な顔をして藍渙がのたまった。

     「まさか俺に一緒にケーキをつつけと?」
     「駄目かい? 昔だって大量に貰った蓮根を家で一緒に食べたりした、友人としておかしくない範囲だ」
     江澄がこっそり引いていた「友人」と「気楽な夜の相手」の線を、藍渙は気付いているよと言葉にしてみせた。友人としておかしくないから、一緒にカフェに行けという。

     あまり頑なに線を引きすぎても友人としては不自然か、と江澄はここ数日の自分の態度を振り返った。確かに、カフェでコーヒーとケーキを腹に入れるぐらいなら、普通の友人でも通る。
     食べたらすぐに帰るからな、と財布を手に取り立ち上がった江澄に、藍渙は嬉しそうに「早く行こう」とフラットの扉をあけた。






     四十過ぎた男二人が連れたって小洒落たカフェに足を踏み入れても、どこにも可笑しさを感じさせないのはこのブライトンという大らかな街の美点だ。上海だったら浮いていた。
     店内は老若男女でごったがえしていた。肌の色も服装もまちまちだが、多様性の中にイギリスらしいマナー文化やユーモアがまとまって、一つの完成されたコミュニティになっている。

     「ケーキだけでこんなに種類があるのか」
     「江澄が気になるものはある? 上海では見かけないようなものが多いんだ」
     「食いたい物があるんだろ、任せる」

     一つ一つがまるで切りわける前の食パンのような大きさのケーキ達を眺める。アイシングのたっぷりかかったキャロットケーキ、バタークリームがこれでもかというぐらい豊潤に詰まったヴィクトリアケーキ、さくさくと小気味いい音が聞こえてきそうなアップル・クランブル。すぐそばで淹れられるブラックコーヒーの深い香りが、ケーキの甘そうな見た目をより魅力的に引き立てた。

     藍渙はそれじゃあ、とビーツの入ったチョコレートケーキを指さして、店員に声をかけた。
     ハキハキとしゃべる女性の店員と何言か会話をすると、彼女はけらけらと笑い始める。そのやり取りを江澄が少し離れたところから見ていると、しばらくして藍渙が戻ってくる。
     「loaf of cake(ケーキひとかたまり)と言ったら、店員さんに笑われてしまった」
     「え? なんでだ?」
     ケーキの数え方としては特に間違った用法ではない。発音も綺麗なので笑われるような英語ではないはずだ。
     「『こんなのpieceよ!』って。この国の人達にとっては前菜のブルスケッタぐらいの感覚なのかな」
     江澄はもう一度ケーキが飾り立てられた棚のほうを見たが、どう見ても子豚の丸焼きぐらいの大きさはある。その上にたっぷりとした生クリームまで乗っているのだ。
     間もなくして先程の彼女が、二人の座ったテーブル席にチョコレートケーキの乗った皿とコーヒーを置きにやってきた。ビーツの色合いでほんのり赤いそれは、ちょっとした鉱石の塊のようだ。

     店員はエプロンの胸ポケットから何かを取り出すと、ケーキにぷすりと突き刺す。レインボーフラッグの爪楊枝だった。

     「あなたたち観光? この街ではなんにも気にせず幸せな時間を過ごしてね、私達は応援してるわ」
     そう言って彼女は陽気な赤毛を揺らして訳知り顔で笑みを見せた。…どうやら観光に来たアジア人のゲイカップルと勘違いされている。
     「いや、俺達はそんなんじゃな…」
     「ありがとう、二人でケーキを楽しませてもらうよ」
     訂正しようとした江澄の声を、隣の男が綺麗な英語でさえぎる。
     何を言う、と藍渙の顔を見たが、店員はそんな江澄の様子に更に確信したように「心配しなくて大丈夫よ、お幸せにね」とウインクを残しカウンターへと戻っていった。



     「なんで嘘なんか」
     「…彼女の善意を突き返す必要もないと思って。嫌だったらごめん」
     眉間に皺を寄せながら、江澄はその派手なレインボーフラッグを引っこ抜いた。ぐしゃりと握り、藍渙から見えないようコーヒーの入ったカップの陰に置く。渋面の裏で江澄はまずったな、と内心舌打ちをした。この街ではカフェに男二人で入るのは友人以上に捉えられかねないようだ。
     反面、カップルのフリをしてくれたことに仄暗い喜びが生まれる。単に藍渙は話が長引くのが面倒だっただけだ。ゲイなんかじゃないと言って店の空気と江澄の気分を悪くしたくないだけ。優しい男なのだ。
     思い上がるな、本当の自分達の関係を思い出せ。実際は節操のないゲイの友人を見かねて、彼はボランティアで扱いてくれているだけですと言ったら、あの店員はどんな顔をするだろう?

     江澄は今しがたのやりとり一つでざわついた心を落ち着かせるように、コーヒーをごくりと飲み込んだ。
     やってきたケーキを口に運ぶ藍渙を後目に、こんなにこの男にかき乱されてるんじゃ昔と同じだな、と自嘲する。自分はまたあの片想いを繰り返して、ほとほと成長しない。口に残ったブラックコーヒーの名残ががほろ苦い。







     「そういえば、お隣さんに会ったんだよ」

     岩のようにそびえていたケーキが半分ほど二人の腹におさまった頃、藍渙が思い出したように口を開いた。
     「お隣? どっちの?」
     「壁を叩かれたほうの」
     藍渙と言い合った夜に壁を叩いてきた隣人だ。
     以前から深夜に江澄が連れ込んだ男と盛り上がるとバンバンと叩かれるが、今まで一度も部屋の主を見かけたことがない。薄い壁のくせに、隣人の声が聞こえたこともない。
     ネット中毒の引きこもりか、はたまたイギリスらしくゴーストか。勝手にそんなことを思っていたが、ちゃんと住人は居たらしい。
     「隣人の足は生えていたか?」
     「? ちゃんとあったよ…いや、無いに等しいかも」
     「えっ?」
     ジョークのつもりが藍渙から真顔でけろりと返される。ワケアリが集うフラットに、足の無い隣人。いよいよファンタジーの国らしい。

     「この間引き受けた仕事がね、急にあいてしまった介護ボランティアの穴埋めだったんだけども」
     「ヘルパーか?」
     「そう、その行き先がお隣さんだったんだ」
     「まさか足が無いって、物理的に切断され…?」
     「あるよ、あったんだけど、寝たきりで動けないんだ。末期の喉頭がんの老人だった」

     予想していたよりも重い事実に、江澄はバツが悪そうに口を噤んだ。ゴーストだなんて冗談を言うのはいささかタチが悪い。

     老人はアドと呼ばれているという。藍渙の見立てでは南アジア系の移民の男らしい。パイプ煙草の煙を部屋いっぱいに染み込ませ、ゴミの散乱した部屋でほとんど寝たきりで過ごしている。喉のがんが進んで話すことができず、小さなひび割れたホワイトボードを首から下げて筆談をするのだと、藍渙は老人の人となりをざっくりと説明してくれた。

     「身寄りも何もなくて、慈善団体がたまに来るぐらいのようで」
     「…壁を叩く以外に俺にクレームつける方法もないってことか」
     「そう、だから今度一緒に謝りに行こう」
     藍渙のそういう律儀さは昔から変わらないなと思ったが、これまで寝たきりの病人に夜な夜な男の喘ぎ声を聞かせてきたかと思うと、悪いことをしたな、と江澄なりの罪悪感がわく。
     いっぺんぐらい挨拶したほうがいいだろう。今度の休みにでも行こうと相槌を打ってその話は終わった。


     ケーキの減るスピードはだいぶ落ちている。
     噂に違わぬ絶品ではあったが、いかんせん同じチョコレート味を食べ続けるのは四十過ぎた男達には荷が重い。こんなに美味いのにな、年だな、と呟くと、藍渙は残りの塊をフォークで二つに分け、「先に食べ終えたほうが夕飯のリクエストをできることにしよう」と言った。勝ったら、絶対に夕飯はあっさりとした青菜と春雨の汁物か、蒸し野菜を芝麻醤でいただくことにしたい。

     江澄は子供のように一息で頬張って、甘ったるい塊をごくりと飲み込んだ。
     「俺の方が数歳まだ若い」
     江澄がにやりと笑うと、藍渙は「どっちもおじさんだよ」と身も蓋もない返事をする。この国に来る前の、良き友人の頃に戻ったかのような時間だった。

     たまにはこうして一緒に出かけるのも悪くない。
     きっと十分に、友人の範疇のはずだ。








     たらふく糖分を腹に詰め込んだ帰り道は、歩いてフラットまで戻ることにした。途中で少し大きめのスーパーマーケットに寄る。江澄のリクエスト通りに食材を買って帰るのだ。

     江澄は、まあ今日の流れなら仕方がない、と密かに守ってきたルールを破った。
     二人で食事の買い出しに行くのは、友人以上の関係に捉えられかねないからルール違反だったはずだ。あんなに頑なに引いてきた〝藍渙はあくまでも友人〟のラインは、なあなあになってその範囲を広げてきている。



     店内はそれなりに賑わっている。ここでもまた雑多な人種でごちゃまぜだったが、明らかにそうだろうと分かる同性カップルの姿も目立ち江澄は少しだけ後悔した。どうにもオープンなこの街では、そこかしこで友人と恋人の境界線の判別がつかない光景が多い。それが良くてこの街に逃げ込んできたのに、こんな形で裏目に出てしまう。
     自分達は違う、少なくとも隣のこの男はヘテロだ、みんな勘違いしてくれるなよと江澄は藍渙からさりげなく距離をとって目当ての食品を探した。

     「こっちまで出てくれば意外にあるもんだな、中華の材料。いつものスーパーには何も無いのに」
     「大型マーケットだからかなあ」

     アジア系コーナーの棚に並んだ商品を眺めながら、英語とタイ語で書かれた春雨のパックを手に取る。
     いつも行く近場の格安スーパーやコーナーショップではアジアの食材は手に入らない。保存もきくのでいくつか買い置きしようと春雨達をカゴに放り込む。一人の時には、適当に近所で買ってきたもので自炊するか、あのパブに行って見知った男達が差し出す料理をつまんでいた。それが居候が増えてからというもの、随分と手料理に舌が慣れてしまったものだ。

     「江澄、江澄」
     「ん?」
     「パン粉を買っても? すごく量が多いんだけども」
     藍渙が指差す先を見た。ちょっとした枕ぐらいの大きさはある大袋に、パン粉がみっちりと詰まっている。何種類かあるが、どれもこれも似たような大袋ばかりだ。
     「どう見てもファミリー向けのお徳用だな…」
     「男二人ならそのうち食べ切れると信じたいのだけど」
     「なんでまたパン粉が欲しいんだ」
     江澄のフラットには、塩コショウとサラダ油、ところどころ焦げ付いた深めのフライパンと菜箸が一つあるだけだ。藍渙が来てから多少調味料が増えたかもしれない。狭いキッチンでは余計なものを置くスペースはないので、使い切れないものはあまり買わないようにしている。
     「スコッチエッグを作りたい」
     「うちで揚げ物なんかできないぞ」
     「フライパンでもできるって、マリエが言ってたんだ。二人分ぐらいならフライパンで焼くのでも作れるって」
     マリエ?と聞き返すと、下の階の留学生だよ、と藍渙がさらりと返す。知らないの、といった表情だ。一年住んでいる江澄よりも、たかだか一ヶ月ちょっと滞在しているだけの藍渙のほうが、よほどフラットの住人達と交流している。しかも江澄と一緒に暮らしていると教えたというのか。
     「そのうちハンバーグなんかもやれば、すぐ無くなると思うし」
     駄目かな? と藍渙が仔犬のように眉尻を下げて家主の顔色を伺う。あの手狭なキッチンとも呼べないエリアに勝手に置くには、がっしりと存在感のある大袋だった。
     「…構わないが…ハンバーグを作るならボウルもいるな…」
     「フライ返しも。ピーナッツバターを入れると美味しいらしいよ」
     「おい、また使い切れないもの増やす気か」
     「毎朝パンにつければいいでしょう。向かいの店のデニッシュが美味しいと最近気付いたんだ」
     「太るぞ、おじさん」

     小突きあいながらそんな会話をして、はたと江澄は我にかえる。なんだこの会話は。まるで本当に同棲しているカップルではないか。
     カッと顔が火照った気がして江澄は気づかれないようにそっと顔を背けた。棚の商品を物色しているかのように装う。違う、自惚れるな、どんなに甘やかな時間を与えられても、この男は裸の江澄を前に一切反応しない男だ。

     この時間は一体なんなのだろう、と思う。昔だってこんな風にでかけたり、一緒に食事をする時間はあった。
    けれどあの頃は好きな男と一緒にいても、幸せの裏に不安がつきまとった。今のは不自然じゃなかっただろうか、おかしな距離感じゃなかっただろうか、好きだと気づかれてしまったのではないか。

     お前のことが好きなゲイなんだと開き直って――――体だけ慰めてもらう関係のほうが、いっそ自由に振る舞えている。
     割り切れ。この男の愛は、結婚までした女ですら手に入れられなかった。男の自分にはもっと手に入らない。
     楽しめ。あのバチェラーパーティの夜に一度死んだはずの恋に、こんなチャンスが与えられたのだ。例え形ばかりの愛撫でも与えてもらえる。

     いつ藍渙がこの茶番の契約に飽きてあのフラットを出ていくかわからないのだから、少しぐらい恋人ごっこを楽しんだって――――――。



     「…っ」
     江澄はハッと甘い囁きを振り切るようにカートを押して早足で歩きだした。早く帰ろう。今日はどうにも藍渙に近づきすぎてしまって、おかしな期待が湧いてしまう。
     藍渙がパン粉の大袋を抱えて追いかけてくる。やっぱりピーナッツバターも買おうよ、と言うのんきな言葉に、江澄は「今日はやめておこう」と答えた。

     この男がいつか出ていったあと、キッチンに使いかけのピーナッツバターの瓶が残っているのを想像するのは少し、胸にくるものがあった。











     スーパーを出てフラットへ戻る途中、急な夕立に見舞われた。比較的年間の降水量が少ないこの街で大雨は珍しい。
     傘など当然持っていなかったので、二人とも全身ずぶ濡れだ。部屋へ駆け込む頃には買い込んだ食材達を包む紙袋もたっぷりと湿気を含んでしまっていた。

    「風邪を引くといけない、先に濡れた服を脱いで」
     江澄が小さな冷蔵庫に野菜や卵を放り込んでいると、藍渙がすぐさま声をかけてきた。
     雨が上がったら安いほうのランドリーまで持っていくよと、節約主婦のような言葉が続く。すっかりこの国での生活が板についてきたようだ。
     あと牛乳だけ入れたら着替える、と江澄は返事をしようと声の主のほうに顔を向ける。そこで手が止まった。
     ――すぐ目の前に、Tシャツを脱いで上半身裸になった藍渙が立って、江澄のほうを覗き込んでいる。

     思わずまじまじと見てしまった。土曜日に見る彼の身体は、シャワーに濡れているとはいえ服越しだ。
     自分よりも幾分年をとっているはずなのに、美しく引き締まった体だった。均等のとれた筋肉の陰影が、汗でもかいたようにしっとりと濡れている。体毛は薄い。
     水を含んで艶めいた黒髪から、ぽたりと雫が垂れた。くっきりとした喉仏のラインに沿って流れていく。肌の色は比較的白いほうにもかかわらず、大胸筋の影がはっきりとしている。腰はスッとくびれているが、江澄のそれよりもずっとがっしりとしていた。
     そしてその先は、ずぶ濡れのジーンズが重そうに下半身を覆っている。

     着痩せするタイプなのだろう。美しい顔面に反して藍渙の身体つきはしっかりとした男のものだった。

     「っ」
     江澄はその芸術品のような身体に己の劣情がチリ、と反応したことに気付き、立ち上がるのをやめた。いけない。あんなものは目に毒だ。好きな男が、しっとりと濡れた裸で自分に近寄ってくる。
     「…江澄、大変だ」
     「っ、な、んだ」
     どきりと胸が鼓動を跳ね上げる。まさか裸体に欲情しておったてたのがバレたのか。
     「軟水を忘れた」
     「…は、」
     「硬水じゃ春雨は美味しくないよ。すっかり忘れてた…ちょっと買ってくる」

     そう言うと藍渙は置いてあった新しいシャツを羽織って手早くボタンをきっちりと締め、借りるよ、と傘を手に部屋から出ていく。


     江澄は床にへたり込んだ。冷蔵庫行きの順番待ちをしていた野菜達が、ごろごろと袋から転がり落ちていく。
     頭の中でたった今見た光景が反芻される。張りついた前髪と零れた水滴、江澄のことをまるごと抱きしめてくれそうな厚い身体に、長い指と湿った下半身。「濡れた服を脱いで」と確かに自分に言った。

     己の股間に熱が集まる。あの身体に愛されたい。ぴったりと抱き合って、少し骨ばった指で全身くまなく触られたい。あのいつもは優しい声が余裕をなくして江澄の名前を呼びながら、身体に見合った立派なものを興奮させて。ジーンズを脱いだ姿を想像すると、ぶわりといっそうの熱が集まった。

     「っ、う、」
     這うようによろよろと浴室へと駆け込んだ。
     雨に濡れた服を全て脱いで放り出すと、シャワーの蛇口をひねって目一杯の水を出す。この家の安っぽいシャワーはすぐには温まらない。冷たい水をざばざばと浴びながら、おさまれ、藍渙が帰って来る前に、と念じたが、藍渙と名前を思い浮かべただけで興奮がひどくなっていく。

     ――――今日は何曜日だっけ。

     ふとそんなことがよぎったが、すぐに消えていった。今日は日曜日だ。昨日、約束の時間は終わったばかり。契約を理由に慰めてもらうことはできない。そんなことを一瞬でも考えた己の浅ましさにじわりと涙が滲む。


     「…んっ…」
     そろり、と我慢できずに右手を股間へとのばす。
     いけない、と思うのに止められない。すっかり勃ちあがったそれをゆるゆると扱きながら、今しがた見た藍渙の肌を思い出した。空いている方の左手で内腿をなぞる。頭の中で、男の大きな手は江澄を焦らすように太腿の間を愛撫する。いつものそれとは違う、これからじっくり隅々まで可愛がるからと言いたげな前戯だ。

     皮膚の薄い睾丸から裏筋を強めに扱くと、手の中の熱情はふるりと震えた。先走りが溢れてくる。
     君は少し痛いぐらいがいいの、と優しい幻聴が囁いた。うん、と舌っ足らずの子供のように答えながら右手を動かす。気持ちいい。もっと強くさわって。
     「あっ、ぁ、もっと…」
     どうしても足りない。もっと藍渙が欲しい。
     もっと、と一度口にしてしまうと、こんな自慰はやめなくてはという羞恥はすっかりどこかに行ってしまった。幻聴は「どうしてほしい?」と問いかけてくる。後ろを触って、腹の奥まで愛して欲しい。

     江澄の指はおそるおそる後孔へと移動すると、固く閉ざされたそこをゆるくなぞった。
     藍渙がこのフラットに来てから使われなくなった後孔は、すっかり男を受け入れられないものになってしまった。「これじゃあ入らないね」と頭の中で藍渙が言う。違う、ちゃんと入るようにするから、やめないで。

     「ふ、っ、んぁ あっ」
     降り注ぐシャワーの水をたっぷりとまとわせながら、人差し指をぷつり、と差し込む。狭い。指一本でも己の後孔はみちみちと締めつけてくる。身体のナカが熱い。苦しい。

     「あん、ぁっらん、ほぁ、入らな、っ」

     狭い穴にめいっぱい入り込んでくる感覚に、おかしくなっていた。
     いつのまにか頭の中では藍渙の張りつめたそれが、後孔に突き入れられている。おおきい、はいらない、きもちいい、とうわ言のように繰り返す江澄の声が浴室にこもる。太く大きな陰茎でかき混ぜられているかのように、指をぐにぐにと動かした。腹の奥にずくりとゆるい刺激が響く。腰が動くのを止められない。
     シャワーのぴちゃぴちゃとした水音は嬌声を隠すどころか、いっそ盛り立てていた。まとわりつく前髪も肌を打つ水滴も激しく交わっている最中のようだ。藍渙と、セックスしている。

     「っ もっとおく、ん、欲し、」

     藍渙の劣情は、こんな指よりももっともっと大きいはずだった。
     江澄の身体に興奮しきって、弾けそうなほどに張りつめた熱量の塊が、我慢できないとばかりに奥に押し入ってきて江澄を貪る。男の荒い息遣いが耳元で聞こえる。時々唇をあわせて、同じく貪るように舌を差し入れてくる。その肉厚の舌に絡めたい。唾液を混ぜ合わせて、ひとつになって。
     「ぁっきもちい、おく、にっ、いれ…っ、らんほぁ、っん」
     そんな妄想に浮かされながら、江澄は奥まで届かない己の指にもどかしそうにいれて、と喘ぐしかなかった。




     しばらく幻に後孔を慰められて精を放ち、江澄は己の熱情から解放された。
     白濁した液体が浴室の床を流れていくのを見た途端、それまで熱に浮かされていた頭がスーッ冷えていく。先程まで後孔に突っ込まれていた己の指に虚しさがまとわりつく。残ったのはどうしようもない自己嫌悪だけだ。
     藍渙の純粋な友情を利用して汚している自分の、なんと賤しいことか。藍渙があんな風に江澄に興奮してくれることなど無いのに。

     すっかり湯がでるようになったシャワーを、しばらく呆然と俯いたまま浴びる。



     浴室の外に誰かがいたことに、江澄が気がつくことはなかった。







    to be continued...
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