後編3. Eat to live, don't live to eat. (生きるために食べよ、食べるために生きるな)
一見変わりのない日々が粛々と続いた。江澄と藍渙の関係は相変わらず友人の形を保ちながら、週に一回だけ契約の顔つきになる。藍渙の愛撫は回数を重ねるごとに、江澄の息づかいに合わせて上達していった。
気がつけば藍渙が現れてからひと月以上たとうとしていた。すっかり秋は通り過ぎ、忍び寄る冬の気配に人々が肩を寄せ合う。この街の人間達は夏はバカンスだなんだと弾けたように盛り上がるが、冬は冬でまた夜な夜なパブに集まってホットラム片手に陽気に笑うのだ。
「江澄、今週末なんだけれど少し出かけられない?」
「悪いが仕事だ。多分帰りも遅いから先に寝てていい、夕飯もいらない」
「そう…最近忙しいね」
藍渙はあれから度々外出に誘ってきたが、それらしい理由をつけて江澄はのらりくらりと躱し続けた。帰宅も遅くしているので、冷蔵庫には藍渙が作った食事が毎晩ラップにくるまれてしまわれている。一緒に食事をとる機会はだいぶ減った。
カフェ・ペリカノで二人ケーキをつついた日にほんの少しだけ揺らぎかけた友人の線を、江澄はもう一度きっちりと引き直した。もっとと欲しがりそうになった自分を戒めるためだ。雨に濡れた藍渙をオカズにして後孔を慰めた罪悪感がついてまわる。それでなくてもこの男には週に一回性欲を慰めてもらっているというのに、貪欲な身体はもっと大きな熱を求めて卑しい妄想をしてしまった。
またあんな恋人ごっこのような勘違いした時間を過ごしたら、今度は妄想と現実の区別がつかなくなって抱いてくれと口走ってしまいそうだ。
「あと俺の分の洗濯も持っていかなくていい、職場で使うから自分でランドリーに行く」
「……わかった。他に何か手伝えることはある?」
「…特にない」
藍渙は気遣わしげだったが、江澄のよそよそしさに踏み込んでこない。時々心配そうに江澄を見て、どうしたら良いか迷っているようだった。仕事が忙しいという嘘を信じてくれているのだろう。本当はぶらぶらと外で時間を潰しているだけだ。
同じ部屋に住んでいるのに顔を合わせる時間は減っていき、ただ寝起きする場所を貸しているだけの状況になった。
けれど土曜日だけは必ず予定をあけておく。ちゃんと友人のラインを守ったご褒美に、江澄の張りつめた熱は好きな男の手で放たれた。
これでいい、と江澄は安堵した。いっそビジネスだと思って割り切れる。
「明日また、仕事で302号室の様子を見にいくことになったよ」
週の半ば、夜半に仕事を終えて江澄がフラットに戻ると、珍しく夜更かしをして江澄を待っていたらしい藍渙が開口一番そう言った。
302号室。以前藍渙の話していた、寝たきりの老人が住んでいる部屋だ。騒音の謝罪と挨拶に行こうと話をしたきりだった。
「良かったら江澄も行く? あれから壁を叩かれることはないけど、様子も気になるしいつかのことを謝りたい」
「明日か…ああ、午後なら休みだ」
「それなら一緒に行こう」
一緒に、という藍渙の言葉に江澄ははたと考え込んだ。「先日は深夜に俺達がうるさくしてごめんなさい」と男二人連れたって謝罪するのは恥知らずではないか。ただ騒いだのではなく、俺を抱くだなんだとゲイだとすぐ分かる内容だった。絶対にデキていると勘違いされている。
「その…二人で行ったらまずくないか?」
「? 騒いだのはわたし達でしょう?」
「そうだけど……」
気にし過ぎている自分のほうがおかしいのだろうか。年老いた病人の様子を見に行って、挨拶するだけだと思えばいいのかもしれない。
「……分かった、明日行こう」
「ちょっと、驚くかもしれないし気難しい人だけど、話せばきっと伝わるよ」
話すといっても、ホワイトボードで筆談をするのだと言っていなかったか。筆談だけでこのお人好しの男に〝気難しい〟と称されるのは、なかなか偏屈な人間かもしれない。
まあ無難にすませるさ、と江澄は深く考えずに話を終わらせ、シャワーを浴びに浴室へ向かう。藍渙は用件を伝えたので自身の布団にするりともぐり、先に眠ったようだった。
よく晴れた秋の終わりの気持ちのいい青空とは裏腹に、302号室は予想以上に酷いものだった。
鍵のかかっていない扉を開けてすぐ、むわりと煙草の匂いに襲われる。部屋いっぱいに充満して閉め切られていた分厚い煙が、解き放たれたように江澄と藍渙を囲んだ。
それに咳き込みながら、部屋の中を見て江澄は絶句した。同じ間取りの部屋とは思えない。床にはビール瓶が足の踏み場もないほど転がっている。全てキングフィッシャーの同じ瓶だ。確かイギリスでも現地生産されている――インドビールだ。
他にも油のシミがついて黒ずんだ紙袋や、いつのものか分からない茶色い水などが散乱している。何かぐじゅっとした液体が床や壁についているのを見た時は思わず顔を顰めて目を背けた。慎重に足の踏み場を探しながら、二人は部屋の奥へ向かう。
「うっ」
中に入るほど、煙草以外の臭いが際立ってくる。鼻をつく酸っぱい臭いと、筆舌に尽くしがたい生臭さがないまぜになって少し吐き気をおぼえた。この国のスラムでもここまで篭もった臭いはしない。
浅く小さな呼吸をしながら何とか足をすすめると、部屋の一番奥で、ベッドのようなものの上に茶色い布の塊が乗っていた。
錆びた鉄製の粗末なベッドは今にも崩れそうにひしゃげている。少し近づいて、乗っているのが茶色い布ではなく、もともとは白い綿布団だったものが擦り切れて、垢や何かの液体で汚れきったのだと気付き、思わず江澄は「ありえない」と呟いた。
「アド、こんにちは、起きている?」
藍渙は苦笑しながら布の塊に声をかけた。
もぞり、と布が動く。
「支援団体からの預かり物を持ってきたよ。それから今日は見舞いの品も」
見舞い、という言葉に反応したのか布の塊が大きく動き、中からギョロリとした目玉が二つ現れた。
彫りの深い顔は本来の色なのか、垢で汚れているのか、黄疸なのか、どれとも判断がつかないような土気色だった。
痩せこけた頬のせいで大きな鼻と目玉が目立つ。六十代ぐらいと聞いていたはずだが、皺だらけでどう若く見積もっても八十の男だ。
喉の辺りに1ペニー硬貨ほどの大きさの黒い丸と、それを囲うような円形のプラスチックがついている。そこは暗くくぼんで、奥はまるで穴のように――――そこまで見てハッと江澄は目をそらした。黒い丸ではない。本当に喉に穴が開いている。
『あのくそまずい栄養剤なら持って帰れ』
男がさらさらと手元のホワイトボードに書き付けた。
「…前回持ってきたものが、ほとんど残っているね」
男のベッドの近くには、一角だけゴミが片付けられた部分があった。
そこに派手なイラストが描かれた紙パックの栄養ジュースがいくつか積まれている。ポップな英語で書かれたそれらの味は飲まなくても想像できた。この国のこういった類のものはほとんど不味い。
「ビールばかりではいけないよ、何か食べるものも入れないと」
藍渙はそう言うと、持ってきた袋をもう一つあけた。
中から取り出したのは小ぶりのタッパーだ。江澄はつい朝方このタッパーをキッチンで見かけたばかりだった。何かしているとは思っていたが、見舞いの品を作っていたのか。
藍渙が蓋をあけると、異臭に満ちた室内に甘酸っぱい香りがふわりと顔をのぞかせた。中にはふっくらと蜜を含んだリンゴのコンポートが黄金色を放っている。
『酒じゃねぇのか気が利かねえ どうせ食いもんならラム肉のローストなんかがオツだろうが』
男は舌打ちすると、先程ボードに書いた文章を汚れた布団の端で乱雑にこすりとって消し、素早くそう書いた。
こうやって水性ペンで書いては手近な布団で消してを繰り返してきたのだろう。床にも、たくさんの黒マジックがばらばらと転がっている。全てインクを使い切った空ゴミだろうか。
男は藍渙の手元から興味を失うと、ガサガサと近くにあったビール瓶を手探りで何本か手に取り、中身が少しでも残っていないかと口を開けて振った。ぽたぽたと水滴のようなものがわずかに零れる。中身はない。
ツバでも飛ばしそうな勢いでもう一度下品な舌打ちをして、男は瓶をポイと放り捨てた。藍渙の足元にそれらがごとりと転がる。
「おい」
いよいよ我慢できなくなり、江澄は声をかけた。それはないんじゃないのか、と非難の視線を込める。
そこで初めて、男は江澄に気付いたように胡乱げな瞳を向けた。
「ああ、ええと彼は江澄といいます。303号室の住人です」
藍渙の紹介に江澄がムッとした顔のままどうも、と言うと、大きな目玉をぎょろりと動かしながら上から下までたっぷり眺めてくる。その不躾な視線がまた苛立たしい。
男はスラスラと何事かを書き付けて藍渙に差し出した。
『お前、こいつはやめておけ、夜な夜な違う男を連れ込んでるアバズレだ』
「ってめぇ」
「二人共落ち着いて」
『それともあんたも穴さえあれば相手は誰でもいいクチか?』
「おい! こいつは真っ当なヘテロだ! 変なこと吹き込んで一緒にすんな!」
『どうだか 何年も気色悪い声聞かせやがって』
「騒音は悪かったと思って謝りに来たんだろうが」
『ホモ野郎の謝罪になんか興味ないな』
「クソジジイ!」
まるで話しているかのようなスピードで男はホワイトボードを消しては書き消しては書き、江澄と言い合いを繰り広げる。
藍渙が割って入るように、「アド、先月の大声はわたしのせいでもあるんです、申し訳なかった」と謝った。
『どの騒音かなんか覚えちゃいねぇ 痴話喧嘩はよそでやれ』
「こいつとはそんなんじゃないって言ってんだろ!」
「江澄、相手は病人だ」
ごぼりと男の喉から痰の絡んだ音がする。こんな悪態つく病人がいてたまるかと江澄は忌々しげに口を噤んだ。
もういい出て行け、という意思表示のように男はそれっきりホワイトボードに何も書かず、真っ黒に汚れた布団の中に潜り込んでいった。
二人は顔を見合わせてからどちらともなく玄関の方へと足を踏み出す。藍渙は去り際に「少しでもいいから食べて」と気遣う言葉をかけたようだったが、布団の塊は動かなかった。
自分の部屋へ戻ると、江澄は思いっきり息を吸った。古ぼけたカビの匂いがするのに、今までいた場所を思うと空気が美味しい。
「最低な隣人だった」
自分の身体に異臭が染みついているような気がして仕方ない。今すぐにでも服を脱いでシャワーを浴びたい。
「ごめんなさい、彼があんなに話すと思わなくて…君を傷つける言葉もあった」
「前回は違ったのか?」
「ほとんど会話してくれなかったからね、『置いとけ』『いらない』『出て行け』の3つぐらいだ。病状が悪くて気難しいのかと思っていたら、元気に喧嘩をしていて驚いたよ」
藍渙も服についた煙草の臭いが気になったのか、キッチンの換気扇のスイッチを押した。ガガガと耳につく音をたてながらファンが回る。いつかのように服を脱ぎださないでくれて助かったと江澄は内心で息をつく。
「その、江澄」
「なんだ?」
「聞いていいのか分からないのだけど、ヘテロって何だい」
藍渙の口から飛び出した言葉に、江澄はげほっとむせこんだ。先程勢いで言った言葉を律儀に気にしていたらしい。
「……ゲイじゃないってことだ」
「異性愛者という意味?」
「そう」
「君にとってはそれが真っ当なの?」
え?と江澄は藍渙を見た。何が言いたいのか分からない。藍渙のことを〝真っ当なヘテロ〟と称したことが何か気に入らないのだろうか。
藍渙は少し悲しげに瞼を伏せていたが、その声色にはわずかに怒気が含まれているようにも感じられる。
「まるで自分は真っ当じゃないと卑下しているように聞こえた。君とわたしは違うと」
「違うだろ、実際。俺みたいなのは真っ当じゃない、ゲイなんて」
「どうして? 愛する相手の性別に真っ当もなにもないだろう」
「そういう綺麗事は〝真っ当に〟人を好きになれてから言うんだな」
言ってしまってから、江澄はまずい、と唇を噛んだ。昔からどうにも言葉がきつくていけない。一歩立ち止まって考えてから言えばいいものを、カッとなった勢いだけで飛び出してしまう。
「…そうして自分を貶めて傷ついている君を思うと胸が痛くて」
「っ……同情か」
江澄はぐ、と拳を握りしめた。真っ当じゃない恋をしている俺は、そんな哀れそうな顔をするほど可哀想か。
「ちがう、己を卑下する必要はないと」
「っヘテロがそうやって高みからわざわざ言ってくるのを同情と言うんだ」
「言葉にしてわたしと君の属性を分ける必要なんてないという話だ」
「…頭を冷やしてくる。このままだとまた壁を叩かれるからな。あんたにお情けをかけてもらってるのも事実だ」
早口で言い捨てて江澄はすたすたと玄関に向かう。藍渙の顔を見たくない。この聖人のような男にとっては302号室の老人もゲイの友人も等しく憐憫の情を与える〝可哀想〟の対象なのだ。好きな男から哀れみの目で見られることほどしんどいことはない。
江澄は部屋を出る前に足を止め、これだけはと震える声で言い放った。
「藍渙は真っ当な側の人間だ。俺とは生きる世界が違う」
+
苛立ちの勢いで部屋をでた江澄は、長らく行っていなかったいつものパブの扉を久しぶりに開いた。
自分と同じ、真っ当ではない者達に紛れて安心したい。埋め合わせをすると言って一方的に帰したきりになっていたクラウスは居なかったが、見慣れたマスターや男達の陽気なムードは江澄のことを覚えていてくれた。藍渙との約束を反故にする気はなかったので、ギネスビール一杯をちびちびと飲みながら客達とフットボールの試合映像を見て他愛のない会話をしてきただけだ。
日付が変わった頃に帰宅すると藍渙は先に眠っていた。
けれどもついさっきまで起きていてくれたのだろう、洗面所が使われたばかりのように濡れている。一人用の狭いテーブルの上には肉団子とレンズ豆のスープが置かれ、軽くラップがかけられていた。江澄はそれに手を伸ばし、開けることなく冷蔵庫へとしまい込む。
なるべく軋まないよう古ベッドの機嫌を伺いながら、そっと冷たいマットレスの上に横になった。
先程までのパブの喧噪が恋しくなるような、一人で眠るには空虚な夜だった。夜な夜な違う男を連れ込むアバズレ。気色悪い声を聞かせやがって。真っ当じゃない恋。君を思うと胸が痛くて。
今日一日に痛感した言葉はどれも大したことじゃない。40年以上も生きていれば、このぐらいなんてことない。それなのに今夜はどうにも他人の言葉が突き刺さって仕方ない。誰か、抱きしめて一緒に眠ってくれたらいいのに。ついさっきまで居座っていた店には、そうしてくれる相手だっていたはずだ。
江澄は部屋の隅で静かに眠る男を見た。
さぞ今の自分は物欲しげな顔をしていることだろう。それでも、彼をこのベッドにだけは上げられない。
あの美しい男はここで自分を抱いてはくれない。
二日ほどなるべく顔を合わせないように過ごし、土曜がやってきた。
こうなってくるとますます気まずさが募り、今更普通に話しかけることもできない。時々何か言いたげな視線を感じるが、江澄は目を合わせず、話しかけるなと仕事をしているフリをしてやり過ごした。
「…少し買い物に行くけど、何か欲しいものは」
「ない」
「…」
打ち切られた会話に藍渙は諦めたのか、そっとフラットを出る。
近いうちに、本当にこんな風に音もなくあの男は出ていくのだろうな、と江澄はこの関係の終わりを予感した。
藍渙の気配がなくなり、江澄はぴりぴりと張っていた気を少し緩めた。手に持ったまま全く読んでいなかった仕事の書類を放り出す。
今日は土曜日だ。こんな空気ではいつものように浴室に行くこともないだろう。
もうこの同居生活もやめようと言うべきだろうか。恋人ができたとでも適当に嘘をついて、藍渙を上海に送り返してしまえばいいのかもしれない。
「………?」
江澄の耳がふと違和感を拾った。何かおかしな音がした気がする。
壁に体を寄せて聞き耳を立てるように集中すると、壁のほうからもう一度、ゴエッとカエルの鳴くような音が小さく聞こえた。こちらの壁向こうはあの生活態度の悪い隣人の部屋だ。こんな音はこれまでに一度も聞いたことがない。
カエルの鳴き声はそれからぱったりと止み、しばらくしてゴトリとした重い音が二回聞こえた。
江澄の頭の中に後味の悪い数日前の出来事が蘇る。口の悪い老人が、藍渙の善意を無下にしてアルコールの空き瓶を放り投げたときの音。あれに似ている。
「またビールでもかっ喰らってんのか…どこで手に入れるのやら」
胸糞悪い記憶が浮かび、江澄は行儀悪く舌打ちをした。聞く話ではあのアドという男は生活保護と慈善団体の支援を受けてなんとか生き長らえているという。支給された金の使い道は自由とはいえ、あんな部屋の様子を見てしまっては気分のいいものじゃない。
うるさいぞと壁を叩いてやろうかと思ったが、あまりにも子供っぽい行為だと気付き江澄は新聞を手に取った。読む習慣はないが、藍渙を避けるために買ってきた昨日の日付のものだ。ベッドに腰かけてカサカサとしたデイリー紙を開いてみる。
興味がないから文面が全く頭に入ってこないな、と文字を追っているうちに江澄の瞼はゆるやかに落ちていき、まもなくして安らかな寝息に変わっていった。
目を覚ますと身体の上でくたりと新聞が被さっていた。いつのまにか眠ってしまったようだ。
慌てて周囲を見回したが藍渙はまだ帰ってきていない。携帯を見ると30分ほど過ぎている。
もたれかかっていた体をよっこいせと起こしながら、そういえば、と江澄は壁に耳を当てた。何も聞こえない。
壁の向こうがしん…としているのはいつもとなんら変わらないはずだったが、なんだか妙に気になる。先程の聞いたことのないカエルのような声が耳の奥にこびりついているのだ。
「………どうせ布団被ってんだろうしな」
具合が悪くなって助けを求めていたのだとしたら寝覚めが悪い。何もなければないで、藍渙に頼まれて様子を見に来たとでも嘘をついて帰ってくればいい。
タッパーも返してもらわないといけないから、と自分に適当な理由をつけて江澄は部屋を出た。
すぐ隣の部屋の扉は相変わらず鍵がかかっていない。もしかしたら江澄が隣人をやっている一年間、ずっとかかっていなかったのかもしれない。
「おえ」
数日前と変わらぬ酷い悪臭だった。鼻が曲がりそうな空間をおそるおそる進む。煙草の臭いよりも、他の腐った臭いのほうが鼻につくようになった気がする。
部屋の奥へ入り、目の前に広がった光景を見て江澄は凍りついたように固まった。
乱雑な床では目を凝らさないと一見何が転がっているのか気が付かないが――――散らばったゴミの上に、人間が倒れている。
「おい! じいさん!」
江澄はガチャガチャと空き瓶を蹴散らしながら男に駆け寄った。靴に腐乱した何かの液体が付いたようだがそんなことを気にしている場合ではない。男は両手で胸を抱え、身を丸くしたまま横向きで倒れている。返事をしない。肩を揺らしてもうめき声ひとつ反応がない。――――声は出せないのだった。
「大丈夫か、返事しろって! っ、そうだ、救急車、」
慌ててポケットから携帯電話を取り出して999を押す。何コールかして、聞き取りやすい女性の声が「救急ですか、消防ですか」と問いかけてくる。動転して咄嗟に英語が出てこない、と焦ったが、女性の言った単語から選んで返事すればいいと気付いて救急!と大きな声で答えた。
冷静な女性は次の質問を始めた。江澄が一息に状況を説明しようとすると「yesかnoで!」とぴしゃりと遮られる。それから手短に二、三のやりとりをするうちに江澄は幾分か落ち着きを取り戻し、「息はしているか」の質問に老人を観察して「no」と答えた。倒れた男は呼吸をしていない。悠長に救急車を呼んでいる場合ではないのかもしれないと浅い息が早くなる。
脈はあるか?「no」。心臓マッサージはできるか?「yes、けれど…男が胸を抱えたままで胸骨を探せない。腕が伸びないんだ」江澄は目の前の様子を説明しながら老人を仰臥位にしようと試みたが、まるでそういう形に固めたかのように男の関節はぴくりとも動かない。何かおかしい。
女性はその言葉にしばらく沈黙したあと、少しだけ早口で江澄に老人の体の、床についているところを見るように指示した。
「紫色の痣がある。…床についているところ、全部」
急に女性の質問の様相が変わったことに狼狽えながら見たままを答えると、電話の先の女性は言葉を詰まらせてから「残念だけど、」と申し訳なさそうに言った。そこで江澄はやっと、自分がいかに動転していたのか気がついた。
――――今から向かうのは救急車じゃなくて、警察よ。
男は、もう死んでいた。
+
藍渙が息を切らしてフラットに戻ってきたのは、警察が来るよりも少し前だった。江澄が緊急コール先との電話を終え、すぐに震える声で藍渙に連絡をしたからだ。アドが死んでる、と。
「江澄!」
フラットの廊下で座り込んで警察を待っていた江澄のところに、相当走ったのか汗を浮かべた藍渙が心配そうな顔で駆け寄ってくる。
その顔を見て、ようやく誰かがきたと朝方までの冷めきった空気も忘れ、江澄は「死んでた、どうしよう」と呟いた。
「とても驚いただろう」
藍渙はどうして死んだとか、なぜ302号室を見に行ったのかとか、そういったことは聞かず真っ先に江澄を気遣った。
その言葉に江澄はようやく詰めていた息を吐く。そしていくらか先程よりもマシになった声で、今までのことを説明した。
間もなくして警察はやってきた。でっぷり太った気怠げな男と、小太りの初老の男の二人組だ。
生活保護の移民の、それも末期がんの老人の死などさして調べる気もないようだった。
ただ状況だけを江澄にいくつか聞き、「災難だったな」と声をかけて離れていく。自分が殺したと疑われたらどうしようと心配していたのは杞憂に終わった。
「ああ~こいつで……したんだな」
302号室の奥から太った男の声が聞こえる。suffocationという単語が何か分からない。藍渙のほうを見ると、江澄の疑問を察したのか張りつめた表情で「…窒息、」と呟いた。
その不穏な単語が気になった二人は何も言わずに部屋へ足を踏み入れた。アドはビールを流し込むか、配給された栄養剤を飲むぐらいしかしていなかった。嫌な予感がする。
「なんだってこんなもんがあるんだか…家族でもいたのか?」
警察の男が手にしているのは、リンゴのコンポートが入ったタッパーだった。
「っ」
藍渙の表情がサッと強張ったのを江澄は見逃さなかった。
先程は気が付かなかったが、男の隣に真新しい吐瀉物がある。そこに形の残ったリンゴの塊が混ざっているように見える。あんな悪態をついておいて食べたのだ、アドは。藍渙の持ってきた差し入れを。
「俺の親父もそうだったから分かるけどさ。気管に穴なんかあけて口から流動食しか流せないやつが、こんなもん食えるわけねえのに」
「そう言ってやるな、最期にマシな味のもん食いたかったんだろうさ。誰だってあのひでぇ味の流動食で人生終えたかない」
「そら、誤嚥して気管の穴から食い物が出てきてやがる」
警察官達の会話を聞きながら、江澄は辻褄が合った、と蒼白な藍渙の唇を見つめた。
アドはもう、固形のものは食べられないほど嚥下の力が弱っていた。
だからあの不味い栄養剤がいつも届けられ、本人はビールだけを流し込む生活をしていた。
それが、唐突に見舞いだのと隣の部屋の人間達が現れて食べ物を置いていき――――どうしてかそれをアドは口にして、案の定誤嚥し、最後には窒息した。
江澄が聞いたのは詰まらせて嘔吐した声だったのだろう。それからしばらくして老人は意識を失い、ゴトリと音をたてて倒れた。
あの時、すぐに見に行っていれば。
後悔が、煙草の煙のように江澄を取り巻いた。
警察の男達は、やがて引き上げていった。遺体を持って帰るのは仕事のうちではないらしい。
代わりに市の職員が来て、埋葬の手続きをすると言うので、二人はそれについていきたいと申し出た。
火葬場に来たのは二人の他にはソーシャルワーカーだけだった。他の参列者も牧師の言葉もなく木製の箱は吸い込まれ、出てきたのは2キロの灰だった。
その灰は、火葬場に併設された『思い出の丘』に撒かれる。墓すら立たない。丘に生えた雑草の肥やしとなっていく。
身寄りのない者の、ありふれた末路だった。
「………………」
ソーシャルワーカーが帰って行ったあとも、二人は『思い出の丘』に残った。
一面を様々な種類の雑草が覆い尽くしている。冬が近いというのに枯れきった茶色の砂地ではないのが救いだった。色褪せていても、緑の丘だ。
丘の一番高いところまでくると、少し下の方にブライトンの街並みが見える。二人はそこから自分達のフラットのある方を見下ろした。
風が駆け抜けるように通り過ぎていく。さっき撒いた灰はもうどこかへと旅立っていってしまった。
「わたしが殺してしまったようなものだ」
ずっとだんまりだった藍渙が懺悔するように口を開いた。
「…違う」
「違わない。わたしのような者を、偽善者と言うんだろう。本当のことがどうだったかも知らずに」
「あんな様子じゃどっちにしろ長くなかった」
「だからとどめをさして良かったと?」
「そんなこと言ってない、己を卑下して傷つけるなと言ったのは藍渙だろう」
藍渙が俯いた。自分のことを〝真っ当じゃないゲイ〟と卑下した江澄に怒っていたのは藍渙だ。
丘には何もない。ここに無数の人が生きていた証は何も残っていない。
今日突然、自分の偽善が老人の存在を消してしまったのだと、藍渙は早くなる呼吸を抑えながら足元の土を眺めた。
「…それを言うならそもそも俺がアドのうめき声を放っておいたせいで死んだ」
「それは違う、君は彼を見つけたんだ。君が見に行かなければ数日は発見されなかった」
なんて無様な傷の舐め合いだろうと思う。お互い自分のせいだと爪をたてて慰め合っている。けれど今はそれでもいいから必要なのだ。目の前で人の死に出くわしてしまった。そばに居てくれる人が必要だ。自分にも、彼にも。
「どうして、無理だと分かっていて食べたのだろう…」
「……もしも俺がアドだったら、やっぱり食べると思う」
「それで死んでしまうと分かっているのに?」
「どうせ長くないのならあれが食べたかったって死ぬより、ああ美味かった、って死ぬほうが…幸せだろ」
最後くらいちゃんと食べたかったんだ、と江澄は呟いた。
慈善団体から広告チラシのように配られる栄養剤よりも、溺れるように流し込むしかなかったアルコールよりも、あのリンゴを食べたかった。誰かに向けられた純粋な善意を。
「身寄りのない偏屈な一人暮らしの老人の最期に、二人も参列者がいるんだ。…上等なほうだ」
江澄は自分に言い聞かせるために言ったつもりだったが、藍渙はその言葉をなんとか飲み込むように小さく頷いた。
江澄は草の上に腰をおろした。しばらくして藍渙も隣に座り込む。膝を抱え、言葉少なに街を眺める。太陽は今日のひと仕事を終えて徐々に傾き始めていた。少し肌寒い。
どちらからともなく肩が触れ合った。
「棺が焼かれている間、」
オレンジ色から青紫へと変わっていく街並みの色をぼんやりと辿っていると、藍渙がおもむろに口を開いた。
「うん?」
「君もいつか将来、ひとりで人知れず死んでしまうのかもしれない、と考えていた。今度は303号室で」
「……………」
「…君と夜を共にした者達の中に、一人でも君の最期に手を握っていてくれそうな人はいたのだろうか」
「……」
この男は容赦がないな、と江澄は奥歯を噛んだ。
独り身の男の行く末が、先程見たものとそう変わらないであろうことは江澄が一番よく理解し、覚悟している。気ままにパブに通い、時々寂しさを紛らわせるだけの日々に老いてからの約束などない。誰かと深く付き合いたいと思わないのだ。
江澄が黙り込んだのを、藍渙は「いない」という答えと正しく受け取ったようだった。この国の男達は優しく慰めてくれるが、添い遂げてはくれない。
「年老いて、身寄りも友達も誰もいない、満足に動けもせず、誰からも愛されずに死んでいく人生は、可哀想か?」
「そういう意味じゃ…」
「…アドの死に様を憐れんでいるならお門違いだ。あの男自身が選んだ人生だし、最期はあんたの優しさと一緒に逝けた」
「……」
「同じように、ひとりきりの俺を憐れむのもお門違いだ。俺はその可哀想な人生でいい。彼らに最期まで添い遂げて欲しいなんてそもそも望んじゃいない」
一夜の男に心なんてものまで求めてないんだ、といつか言ったはずの言葉を江澄は繰り返した。
「わたしには」
「え?」
「君がわたしのことを好きだった頃…わたしには、望んでくれていたの」
夕日を受け止めた琥珀色の瞳が、江澄の横顔に問いかけた。
残酷な男だ。自分と死ぬまで添い遂げたいかと聞いてくる。そんなの、できるならしたいに決まっている。最期まで連れ添ってもらえるほどの特別になりたい――――そんなこと、どうせ応えてくれない相手に言えるものか。
「……………望まない、そんなこと」
藍渙もあの優しい男達と同じなだけだ、と江澄は相手の顔を見ずに嘯いた。
アドですら最期に藍渙の善意に手を伸ばしたが、江澄には素直に目の前の男を欲しがれそうにない。それだけの年数拗らせてしまった。
「………それじゃあ、君はずっとひとりでいるというの」
藍渙がぽつりとこぼした声に憐れみは感じられず、当の江澄よりもずっと寂しさを孕んでいた。
そうなるだろうなと答えた言葉が藍渙に聞こえたのかは分からない。いつか自分も、人知れず死んで参列者の居ない火葬場で焼かれ、この丘で撒かれる灰になるつもりでいる。
一段と日が沈み、ぐんぐんと気温が下がっていく。
言葉を無くし気まずさの残った丘で、江澄はふるり、と小さく肩を震わせた。それを隣で感じ取った藍渙は触れ合わせた肩を少し強めに寄せてくる。触れあってるところだけが夜の気配から守られて冷えがこない。筋肉がついていると四十過ぎても代謝が良いのだろうかと羨ましく思っていると、隣から小さなくしゃみの音が聞こえる。
――――なんだ、そちらも寒いんじゃないか。
江澄も同じようにぐいと肩を寄せ返して、隣の男と腕ごとぴったりとくっついた。今だけはひとりでいるには寒すぎるから、仕方がない。
「あのコンポートは、ちゃんと美味しかっただろうか………」
藍渙の侘びしげな指先が割れたホワイトボードの文字をなぞる。アドの火葬の前に「これを見て」と職員から渡された。
今際の際に殴り書いたのだろう、右上がりの読みにくい文字が並んでいる。
〝Eat to live, don't live to eat. (生きるために食べよ、食べるために生きるな)〟
話せない男が残した最後のメッセージは、消えないように油性マジックで書かれていた。
4. Every cloud has a silver lining.(どんなドン底にも希望はある)
江澄がまだゆらゆらと微睡んで、夢と現実の間でそろそろ起きようか起きまいか思案していると、こぽこぽとドリップバッグに沸かしたての湯を注ぐ音が聞こえてきた。鼻先に嗅ぎ慣れた安物のインスタントコーヒーと、焼けたカラメルのような香りがそろりそろりと広がっていく。カラメルというより、バターかもしれない。焼き菓子のような香りだ。藍渙が淹れているのだろうか。
今日は土曜日だったな、とゆっくりと薄目を開ける。仕事は入れていない。寝坊は気持ちいいなとぼうっとしながらおもむろに頭を動かすと、予想通り藍渙がコーヒーの入ったカップを片手に歩いてくるところだった。
「…江澄? 起こしてしまった?」
「…いいや……」
そうじゃない、と返事をしながら江澄の瞼は柔らかな男の声に再びとろりと微睡みそうになる。
「いま、なんじだ…?」
「もうすぐ10時になる。昨日は帰りが遅かったし疲れているんだろう」
「…もうおきる」
江澄はふわふわと回らない頭で何とかいつも通りに答えていたつもりだったが、寝起き特有の子供っぽい口調に藍渙はこっそりと口元を緩めていた。舌っ足らずな中国語は、英語よりも幼さが際立つ。
「コーヒーを飲む?」
「ほしい…」
おれのは、牛乳いっぱいにして。
思わずそのあと姉さん、と続けそうになり江澄はハッと目を覚ました。夢うつつの頭の中がすうっとクリアになっていく。危ない。寝ぼけまなこのまま恥ずかしい言い間違いをするところだった。他に変なことを口走らなかっただろうか、とのそのそとベッドから起き上がりながら江澄はそっと藍渙の様子を伺う。大きな背中はマグカップをもう一つ出してきて追加のコーヒーを準備してくれるところだ。
「…悪い、寝ぼけてた。牛乳はいらない」
「そう? 昨日買ってきたバタートフィーのフレーバーコーヒーだよ、牛乳によく合うなと思ったけど」
「ああ、どうりでこの匂いか」
なんだかほっと落ち着ける香りだ。思わず姉の名を呼びそうになったのも頷けた。学生の頃の姉は、休みの日になると実家でよく焼き菓子を作っている人だった。両親の口喧嘩が始まりそうになると決まって姉の作ったマドレーヌやクッキーが焼き上がり、江澄や義兄を気まずさから守ってくれたのだ。
隣の部屋が空室になって、ちょうど一週間たった。
人の死の瞬間に直面してざわついていた二人の心は、徐々に日常を取り戻している。
顔を洗い、新しい長袖のリブカットソーに着替えて洗面所から戻ると、甘い香りのコーヒーが江澄を出迎える。すっかり冬の気配がやってきて安フラットの室内に重たい冷気を忍ばせてくるので、淹れたてのコーヒーはありがたい。
「江澄、今日なんだけれど」
胸いっぱいに吸い込んだバタートフィーの芳しい香りはぐう、と江澄の腹を鳴らした。深煎りのコーヒー独特の苦味に牛乳のまろやかさと焼き菓子の香りがぴったりだ。江澄が機嫌よくカップに口をつけていると、少し緊張したような声で藍渙が声をかけてきた。
「いつもより少し早く…はじめてもいい?」
「何を? ……あ、」
つい何を、と聞いてから己の愚かさに気付き江澄はマグカップをがちゃりとテーブルに取り落とした。幸い音を立てただけで零れはしなかったが、あからさまな動揺を見られてしまい目を伏せる。今日は土曜日だ。先週はあんなことがあって何もしなかったので、間があいてすっかり忘れていた。藍渙に慰めてもらう日。
「夜に用でもあるのか? 別に無理にしなくても」
「違うよ、少しやってみたいことがある」
「やってみたいこと?」
「君が嫌がることはしないと約束する」
藍渙は「土曜日は君に触れてもいい約束でしょう?」という言い方をした。それじゃあまるで他の日にも触りたいみたいじゃないかと江澄は揺れているコーヒーの波を目で追う。
どうにも『思い出の丘』から帰ってきたあと藍渙には何か変化があったようだった。江澄の線引きにひるまない。今までの、気遣わしげな視線で離れたところから黙って見てくるような態度がすっかり消えて、狡猾に甘えてくるのだ。「一人で食べるのが寂しいから江澄が帰ってくるのを待っていてもいい?」「特売があるから一緒に買い物に来て欲しい」「コーヒーで舌を火傷したから代わりに味見して」仔犬がきゅうと鳴いてねだるような顔をしながら、藍渙は着実に踏み込んでくる。
はっきりと二人の関係を変えようとする藍渙の態度に、江澄は戸惑い、狼狽えた。この男は友人の線を越えようとしてきている。――どうして?
「…嫌だと思ったら言うからな」
江澄は藍渙の言う『やってみたいこと』にざわつく胸を落ち着かせるように、もう一度コーヒーに口をつけた。姉の焼き菓子を思い出させる甘い香りが、得体のしれない変化への不安をなだめてくれる。
いつもより早く、というので15時頃に江澄は浴室へとのろのろと向かった。最後に藍渙の手で果てたのは二週間前だ。久しぶりに好きな男に触れられるはずなのに、今日は妙な宣言をされているせいで気が重い。藍渙はこの関係をどうしたいというのだろう。
「一緒に入っても?」
江澄がぴったりとしたリブのカットソーを脱いでいると、藍渙が脱衣所に顔を覗かせる。ここでもまた、江澄が身体を洗い終わる頃に遅れて浴室に入ってくるはずのルーティンを越えてきた。
どうせすることは同じと江澄は頷きつつ、「服は脱ぐなよ」と釘をさす。裸の藍渙を見ると少し前の自慰行為を思い出してしまいそうになるのだ。はしたなく妄想にねだった記憶がいたたまれない。
浴室に足を踏み入れるなり、江澄、と甘えるような声で藍渙が名前を呼んだ。
「今日は君の…ここ以外も、触っていい? 顔や、他の身体の部分も」
「…なんだ、突然」
「嫌?」
「っ…嫌ってわけじゃ、ないけど…」
藍渙は大きな背を丸め、目を合わせようとしない江澄の顔を覗き込んだ。
シャワーの蛇口をひねろうとした江澄の手が、藍渙にそっと制される。どうしてだと藍渙の顔を見てその真剣な視線に江澄はぐ、と言葉を詰まらせた。どうにも立場が弱い。ここでは藍渙は自分の言う通りに黙って手を動かしているだけだったはずが、いつの間にか静かにイニシアチブをとられている。
嫌じゃないを許可と捉えたのか、藍渙はゆっくりと動き出し江澄の薄い胸の上にぴたりと手のひらをあてた。指先を優しくこするようにして肌を確かめられる。そのまますい、と滑らせるので大きな手のひらは江澄のまだやわらかい乳首を掠めていった。
「んっ」
思わず吐息のように漏れた声に江澄は慌てて手で口を覆った。
その様子を見て藍渙は手のひらでもう一度同じようにすすすと江澄の胸板を撫でる。細長く伸びた美しい指先が、ふにふにと乳首を軽くつつく。興味深そうに弄られたそこは次第に硬さを帯び、ほんのり赤く色づいていく。
「あっ、おい、やめろ」
「ここがこんな風に赤くなってたちあがるのは…気持ちいいから?」
「ちがう、ッまって…」
「君の肌はとてもすべすべしているんだね」
藍渙の手は江澄を検分しているようだった。
指先は江澄の肋骨に沿って、前から背中のほうへ流れるように移動していく。腰のあたりを撫であげられて、江澄は鼻から抜けるような声を漏らして背を震わせた。そんな様を藍渙はじっと観察している。尻をさするように柔く揉まれて小さな声をこぼしたのも藍渙はしっかりと拾い取って、また他の場所へと手を滑らせる。何か探しものをしているようだ。
内腿の、他よりもやわらかい肉の部分をするすると撫でられる。ガクガクと膝が笑って座り込んでしまいそうな江澄の腰を、藍渙がもう片方の手で抱えてぐっと抱き寄せた。
「あう、ッ、…もういいだろ、早く終わら」
「ここも、さわっていい?」
「、あッ…!?」
びくりと江澄の身体が跳ねた。
藍渙の指が、江澄の小さな尻の間をつたっていき後孔まで這いずってきたのだ。
「やめ、やめろ!」
「江澄?」
「いい、そんなことしなくて…!」
突然首を振ってもがき始めた江澄に、藍渙はあやすように一段と優しい声で尋ねる。
「どうして? ここを触られるのは嫌?」
「い、いやだ、その指でそんなとこ触るな…!」
江澄は力の入らない腕でぐいぐいと目の前の肩を押して、自身の尻をまさぐろうとする藍渙の手を止めた。嫌なことはしないと言ったはずだ、と目で訴える。
「…それはわたしの指だから駄目なのかい?」
「っ、そう、そうだ、そんなことは藍渙がする必要はないんだ、お願いだから」
江澄はやめてくれと必死で懇願する。自分のこんな汚いところまで好きな男の慈悲心につけこんで弄くらせたりしたら、江澄は己への自己嫌悪でもう生きていかれない。一体どこで後孔をいじるなどという行為を見聞きしてきたのか知らないが、この男がゲイの常識に染まる必要なんてないのだ。
江澄が身を捩って逃げようとするのを、そうはさせないと藍渙が抱えた腕に力を込める。
「でも、君は本当は欲しがっていた」
優しく江澄を殺す声が、浴室に響いた。
「君は確かにわたしの名を呼んで、欲しい、もっと奥に、と言ってたのに」
その瞬間何を言われたのか分からずに、江澄は真っ白になった頭で「…え?」とだけこぼした。藍渙は一体なんの話をしている?
「半月ぐらい前に、…ペリカノに一緒に行った日だよ、あの日確かに君は奥を触ってって、この浴室でわたしの名を呼んでいた。なのにどうして触っては」
最後まで言い終わらせる前に、江澄は今度は思いきり力を込めて藍渙を突き飛ばした。不意に全力の抵抗を食らって藍渙は腕をゆるめて後ろへ一歩よろめく。その隙に江澄は藍渙から距離をとって、可哀想なほど真っ青になった顔で嘘だ、と震える声を落とした。
「あ、あのとき、いたのか、」
「帰ってきたら浴室から君の声が聞こえたから…」
「ちがう、あれはちがうんだ、わすれてくれ…」
ちがうんだ、ごめん、そんなもの聞かせるつもりは、と消え入りそうな声で繰り返す。友人が自分の上裸を見ただけで興奮し、オカズにして抜いて――――それも肛門に突っ込まれている妄想で――――嬌声をあげているのを聞かされてさぞ気持ち悪かったことだろう。
「…忘れるなんてできないよ」
「っ!」
藍渙のどこか重みを含んだ声で告げられた言葉に、江澄はたまらず逃げ出した。
浴室から転がり出て近くに放りだされていた下着を急いで身につけると、玄関にかかっていた冬用のロングコートを引っ掴み乱雑に羽織る。ボタンをしめる余裕もなく片手で前がはだけないようにおさえながら部屋を飛び出した。外に出ると十一月の冷気が素肌を刺して、江澄のことを大馬鹿者と嘲笑する。愚かで我慢のできない恥知らず、好きな男にはしたない自慰を聞かれ、哀れに思った男に尻の穴にまで情けをかけられそうになって。
「江澄!!」
後ろから慌てた藍渙の声が響いたが、江澄は振り切るようにただひたすら走って逃げた。来ないでくれと祈りながら階段を駆け下りる。カンカンとうるさい音がフラット中に響き渡る。
通りに出るとすぐ人目を避けるように細い路地裏へ駆け込んだ。ひどい格好だ。ウールのロングコートの下にパンツ一枚の貧相な身体を隠した男が、全速力で何かから逃げている図はさぞ滑稽だろう。土曜日の午後ということもあって、路地裏にも人の影はちらほらと目立った。
――――どうして、今になって。
あのみっともない自慰の声を聞かれていたのなら、どうして今になって思い出したように持ち出してきたのだろう。今日までずっと何もなかったようにしていたではないか。なぜ今日は突然あんな風に全身を確認するように触って江澄を翻弄しようとしたのか。
「っは、…くそ…」
あまりの惨めさに涙が出てきて、ひんやりとした外気に混じってぱたぱたと頬を伝って落ちていった。もうこれからどうしたらいいのか分からない。冷たい空気が喉をヒュッヒュッと通るのが辛い。息を切らして走るのにも疲れて、足を動かす速度がだんだんと落ちていく。
「うわっ」
「あッ」
曲がり角で誰かとぶつかる。考え事ばかりに気をとられてすっかり前を見ていなかった。すみません、と身を縮こまらせ申し訳なさそうに謝りながら江澄は顔をあげ、自分と衝突した人物に驚いたように目を見開いた。
「……クラウス?」
そこには同じように驚いた顔で、コート一枚の江澄をしげしげと見つめる美しい金髪の男が立っていた。
+
「なんて姿だ」
かつての遊び仲間は、泣きながら路地裏を走る江澄にただならぬものを察したのか、すぐ近くだからと自身の部屋に連れて帰ってくれた。外はもうしんみりと夜を迎えはじめて暗くなっている。
先月、深夜に追い返すような真似をしたきり連絡もとっていなかった不義理を恥じる。体の関係はさておき、ラム酒の一杯ぐらいはあの店で詫びに返すべきだった。
レンガ造りのメゾネットは江澄の部屋よりもずっと広い。江澄の古フラットはいわゆるスタジオフラットで、ワンルームにおまけばかりのキッチンとバスルームがくっついているだけだが、このメゾネットはベッドルームと居間がきちんと分かれている。急に訪れたというのに部屋も片付いていた。
軽薄で優しさとセックスの上手さが取り柄の男だと思っていたが、案外地に足のついた生活をしているようだ。
「何があったの? 裸にコート一枚で泣きながら走っているなんて、変な男にでも当たって逃げてきた? ワンインは相手を選ぶのが上手だと思っていたけど」
「…………」
「ホットミルクをいれよう。そのままでもセクシーだけど、キミはとりあえず服を着たほうがいい」
そこにあるのを使ってと指差されたほうへ江澄はふらふらと歩いていった。ソファの上にブラウンのフランネルシャツと厚手のスラックスが畳まれているのを手にとり、そろそろと袖を通すと知らない柔軟剤の香りがふわりと広がる。
ネルシャツの袖が少しだけ余っているのを見て、江澄はあれと違和感を感じた。クラウスは江澄よりもずっと背が高く手足も長い。彼の服ならばもっとだぼだぼになるはずだ。誰か他の人の服なのだろうか。遊び人だから、連れ込んだ相手用に置いているのかもしれない。
「それは僕の恋人の服だよ」
見透かしたような答えが後ろから聞こえてきた。大きなマグカップに湯気をくゆらせながら金髪の男は江澄のほうへ歩いてくる。朝見たばかりの甘い香りのコーヒーを持った藍渙の姿と重なって、江澄の心はざわりとさざめいた。
「ああ………えっ? 恋人?」
適当な相槌をしきれずに江澄は目を瞬かせた。あのパブであれこれつまみ食いをしているくせに、恋人?
「何年も帰ってこないし、もう二度と帰ってこないだろうけどね」
「それは…フラれたというんじゃないか」
「でももしかしたらと思っちゃうから、僕は今もこの家で待っているのさ。寂しいからワンインや他の子達に慰めてもらうけど!」
けらけらと笑う男には話の内容に反してじめじめした暗さが全くない。そんな男だったとはと江澄は目の前で笑みを含んでいるオーシャンブルーの瞳を眺めた。ただ軽薄に浮ついた青だとばかり思っていた。なんて綺麗に恋を隠しているのだろう。
「ワンインみたいなストレートの黒髪の人で、ちょっと似てるんだ」
「そうか…いや、でも面影があったら嫌じゃないか?」
「どうして? 恋人に似てるなって思うから僕はワンインと寝るの好きだよ」
「ええ……」
「この家に誰かを連れてきたのはキミが初めてだけど、まるで彼が帰ってきたみたいだ」
「ニセモノだぞ」
自分はわざわざ藍渙に少しも似ていないような相手を選んでいた分、ちょっとその感覚は分からないなと江澄は引きながらマグカップに口をつけた。誰かに好きな人の面影を重ねて身代わりにするなんて虚しいばかりだ。どうにもこの男は誠実なのかそうじゃないのか分からない。
喉を通り過ぎたホットミルクは優しい口どけで江澄の冷えた身体を甘やかした。
暖まってくるとようやく頭の中が少しずつ落ち着いていくのが感じられた。勢いでフラットを飛び出したものの、いつかは戻らなければいけない。藍渙は自分がオカズにされていたと知りながら同じ部屋で今日までずっと過ごしていた。今更何も聞かずに出ていってはくれないだろう。
きちんと謝罪をし、今も藍渙のことが好きな気持ちを捨てきれそうになく側にいるのが辛いのだと説明をして、納得ずくで上海に帰ってもらうしかない。
二十年以上逃げ続けたツケがやってきただけだ。藍渙とちゃんと向き合って決別しなければならない。
「それよりキミの話だ。どうして裸で走っていたの?」
「あー、えっ、と………」
「誰かに襲われて逃げてたとか」
「そういうのじゃない、全部俺が悪いんだ………………」
途端に口を噤んで顔を曇らせた江澄に、クラウスは「まあ警察沙汰じゃないならいいか」と見なかったふりをしてくれた。そんな顔をしないで、と子供にするように俯いた江澄の額にキスをする。このあとの藍渙との別れを思って暗く沈みかけた心に、元気を出してと寄り添ってくれる。
「…これを飲んだら帰ろうと思う。服を借りていってもいいか? 必ず後日返す」
「いいよ、それはキミにあげる。でもそんなに悲しそうな顔のワンインをまだ帰したくないから…」
この間の埋め合わせを、今してもらってもいい?
顔をあげるといつになくひたむきなオーシャンブルーが、江澄を熱っぽく見つめていた。
+
メゾネットを出ると深い濃紺の空に吐息が白いもやとなってかき消えていった。もうすぐ19時になる。
クラウスが家まで送るよ、といかにもな英国紳士のお手本を見せてくれたので、江澄は素直にそれを受け取って帰ることにした。
寒いからこれもとご丁寧にタータンチェック柄のマフラーまでぐるぐるに巻いてもらって、昼間よりも人影の減った通りを歩く。剥き出しの頬にこれからますます冷え込む予感を感じて、本格的な冬の到来を悟った。江澄の安フラットはすきま風を許すので冬は少し暮らしづらい。
隣を歩くクラウスは機嫌が良さそうに鼻歌を歌っていた。江澄はこれから対峙しなければならない男のことでいっぱいだ。会話もなく、踏み出す己の靴先を眺めながら歩いた。
「…江澄!!」
突如真正面から自分の名を呼ぶ声が飛び込んできて、江澄は跳ねるように頭を上げた。
通りの向こうから、見慣れた秋物のノーカラージャケットを着た藍渙が走ってくる。切羽詰まった顔をして息を切らし、髪はぼさぼさだ。予想外に早く対峙することになってしまったというのに、江澄はいい加減あのジャケットでは寒い季節になってしまったと、どうでもいいことを思った。
「江澄、どこに行っ…」
「こんばんは」
「っ貴方は……以前江澄の部屋にきた、」
「また会ったねニューフェイス。僕はちょっと驚いている」
隣にいた金髪の男は鼻歌をやめて江澄の前に一歩でると、藍渙に向かってにこりと笑ってみせた。この組み合わせは最初の晩と同じだ。藍渙の顔色を伺いながら江澄は二人の間の空気がぴんと張ったのを感じ取った。
「ワンイン、キミが泣いていたのはこの人のため? いつからブロンドキラーをやめてしまったの? 彼は全然キミの好みとは違うじゃないか」
クラウスは江澄のほうを振り返って、藍渙にも聞こえるような大きな声で問いかけてきた。
ブロンドキラー、という言葉に江澄の頬にカッと羞恥が走る。界隈の裏で、選り好みをするビッチという低俗な揶揄を少し含んだその呼び名で自分が呼ばれていることは知っていた。が、好きに言えばいいと特に気にしたことはない。藍渙を思い出したくないから、ブロンドの男ばかり選んでいたのは本当のことだ。
「ブロンドキラー?」
「知らないのかい? 〝ワンイン〟は絶対にブロンドの、セックスの上手な男にしか抱かれない。僕達の間じゃ有名な話さ」
「クラウス!!」
「ワンイン、彼のために泣いていたのならフラットには帰らないほうがいい。キミをあんな姿で外に放り出すなんてキミに相応しくないよ。もう一度僕の部屋に帰ろう」
もう一度僕の部屋に、という言葉に藍渙はサッと顔色を変えた。クラウスは「go home(帰ろう)」と敢えて言った。藍渙の元を離れて、クラウスの部屋を家にしようというニュアンスを込めたのだ。
藍渙は少し強引に江澄のほうに一歩進み出てくると、その腕をとってぐいと自分のほうに引き寄せた。
「江澄、帰るよ」
突然早口の中国語で告げられる。子供っぽいやり方で、クラウスに会話に入らせまいとしている。
江澄は二人のやりとりについていけずになすがままだった。ただ、どんな男達に抱かれてきたのかを暴露されたのは想定外だったので、余計なことを言ってくれたなと奥歯を噛み締めていた。どうせこの後藍渙とは綺麗さっぱり別れることになるのだから、今更何を知られてもかまやしないのだが。
「帰ろう」
もう一度藍渙は少し苛立った声でそう言って江澄の肩に手を添え、連れ帰るようにして歩き始めた。
挨拶もなく険悪なまま立ち去ろうするその態度は、藍渙にしては珍しく他人に対して無作法だ。がっしりと藍渙に抱えられた肩を促すように押され、江澄は慌てて「ありがとう、服は返すから」とだけ残してつんのめるようにしながら藍渙の隣に並んだ。
「お幸せに、ジャンチョン」
残されたブロンドの男は自分には教えてもらえなかった名前を一度口にした。それからクイーンの名曲〝ブライトン・ロック〟を口ずさみながら、自分のメゾネットへの道をゆっくりと戻っていったのだった。
5. Ask, and it shall be given to you.(求めよ、さらば与えられん)
バタン、と玄関の扉が閉まる音がしたのと、江澄に巻かれたマフラーがむしり取られたのは同時だった。
「どこに行っていたの」
藍渙のかたい声が江澄を責めるように玄関に突き刺さる。こんな声を向けられるのは初めてのことだ。
怒気を含んだ手がぐっと江澄の背中を強く壁に押しつけて、逃げられないよう肩を掴む。どうしてこんなに怒っているのかと江澄が狼狽しながら「あいつの家に…」と小さな声で答えると肩を握る力は強まった。
「どうして、君は」
藍渙は江澄の着ている、サイズの合わない見知らぬシャツをじとりと恨みがましそうに見てから、無理矢理脱がそうとボタンに手を伸ばしてきた。そしてその襟元、江澄の白く晒された首筋に小さな赤い痕を見つけて、バンッと一度壁を叩くとなにかに追い詰められたような形相で叫んだ。
「そんなに金髪の男がよければ今からでも染めてこようか!!」
「っ!」
「約束したはずだ、君は他の男に身体を差し出さないと!」
「し、してな」
「こんなものつけて、これみよがしに服まで着せられて一緒にこのフラットに帰ってくる気だった? それでわたしにもう終わりだと突きつけようとでも?!」
「ちがっ」
「君がセックスの上手い男にしか抱かれたくないというのなら、わたしもそこらで練習でもしてくればいいのか?!」
まくし立てる藍渙の声がガンガンと頭に響き、江澄の心臓はばくばくと音をたてている。藍渙が何を言っているのか分からない。掴まれた肩が痛い。
なかば千切るようにしてネルシャツのボタンが開けられる。するりと内側に入り込んできた手の冷たさに思わずびくりと身体を震わせるとそれにも苛立ったのか、藍渙の手は荒々しく江澄の腰を掴んで引き寄せた。
嫌だ、と身を捩るほど男の両手は力強く江澄を拘束する。
「どうせ君に望まれないのならいっそ…!」
どんなに抵抗してもこの強い力からはとても逃れられそうにない。江澄がぎゅっと目をつぶり顔を背けようとすると急に藍渙の大きな気配が目の前に迫ってきた。
「わたしの顔が見たくないならあのブロンドの彼のことでも思い浮かべていればいい」
「…っ!?、ッ…ん、っ、ふ、」
噛みつくようにキスをされる。驚いて嫌だと頭を振ると肩を押さえていた手が代わりに江澄の顎を掴み、藍渙のほうを向かされる。
「んん…く、やめ、ろ…ッ!」
「!!」
押し入ってくるようにねじ込まれた熱い舌に江澄は歯を立てた。ひるんだように藍渙の唇は離れていったが、噛まれたことに腹を立てたのか指先をたった今侵入したばかりの口腔内に手荒に突き入れ、唾液をめいっぱい掬いとるようにしてから江澄の下着の中にずぶりと突っ込んだ。
「あっなに、やめろ、ひっ…」
全身を使って壁に組み敷かれていた。藍渙の大きな身体が思いきり体重をかけるようにして江澄を玄関の壁に押さえつけてくる。下着の中でうごめく男の指先は、怯えた後孔に無理矢理押し入ろうとしていた。
――――――犯される。
力任せの指先が、固く閉ざされた蕾にぬるりとした唾液を擦りつけてつぷりと爪先を埋め込もうとする。江澄は慣らされもせずに皮膚を押し拡げられる痛みに思いきり顔を歪めた。
「あッ…いやだ、ッやめ…おねがい、いやだ…、やだ、いやだらんほぁん…っ!」
「………ッ!」
のしかかられて動けない体で精一杯の抵抗をした。声は震え、みっともなく助けを乞うしかできない。身を縮こまらせながらいやだ、らんほぁん、たのむ、ともう一度小さな声で懇願すると、恐怖に耐えきれなくなって涙が溢れた。熱い水がぼたぼたと密着した二人の間に垂れる。止まらない。目の前の男が怖くて仕方がない。
「……………………………できない…………っ君が、こんなに嫌がっているのに……!」
今までの強引さが嘘みたいに藍渙は動きを止めた。
涙でぼやけた視界の先で、藍渙もまた嗚咽を漏らして泣いていた。悔しそうに顔を歪めて、はらはらと涙を流している。江澄を押さえつける大きな体は、獲物を逃げられないようにしたいのに無体を働くことができない葛藤にうち震えていた。
「君が望んでいないのにできるわけがない!」
藍渙の悲痛な声が響いた。江澄の後孔を強引に押し開こうとしていた乱暴な指先は乾いている。もう無理に蹂躙しようとはしていなかった。
「お願いだ…江澄…欲しいと言って………わたしのことが欲しいと……!」
気がつけば今度は藍渙のほうが江澄に懇願している。江澄にのしかかる体は先程とは違い、縋りつくように江澄を抱きしめて額を肩に押しつけてきた。
「ほかの人のところにいかないで……………………………」
江澄の肩口に、熱い水滴がじわりと広がった。
江澄はそれからしばらく玄関で荒い息と早鐘のような心臓がおさまっていくのを感じながら、藍渙にきつく抱きしめられていた。
同じ姿勢に肩が痛くなってきてもぞりと動かそうとすると、藍渙がぎゅうとしがみついてくる。暖房もない冷えきった玄関で壁際に追いやられて、二人無言でぴったりとくっついている。藍渙を抱き返すのは少し怖かったので、落ち着いたかどうかを確かめたくて江澄は肩口にうずめられたままの男の頭をそろりと撫でた。
「………話さないといけないことが、たくさんありそうだな…」
江澄はなるべく藍渙を刺激しないよう慎重に言葉を選びながら言った。一体何が先程の彼をあんなに激昂させたのか、そして最後の懇願がどういうことなのかを話し合わなければならない。
「……何か勘違いしてるのかもしれないが、俺はクラウスと何もしていない」
びくり、と肩口の頭が動いて藍渙の黒髪が揺れた。
「ひどい格好でうろついていたところを偶然会って、服を借りただけだ」
あとは話を少し、と付け足すと「話って何」としがみついたままの藍渙が拗ねたように聞いてくる。その声にはクラウスの前で中国語で話をしたような、子供っぽさがのぞいている。
「俺が…今までどんなふうに、藍渙のことが好きだったかの話だよ」
埋め合わせをしてよ、と言ってきた男は、江澄がどうして上海から――――好きな男の前から逃げ出したのか、洗いざらい話せと要求してきた。
ある日忽然と居なくなってしまう者の気持ちが知りたいのだ、と男は笑っていたが、あのメゾネットで消えた恋人の帰りを今も待っているのは本当なのだろう。
江澄はクラウスにすべて吐き出した。どんな出会いで、いつから好きになって、どういうところが特別に好きで、けれど初めから諦めていた恋だったことも、友人でいられるだけで十分満足していたことも。最後には相手が結婚するというありがちなオチで突然恋は終わったのだというと、可哀想にと悲しんでくれた。
「それだけだ」
「…この首の赤い痕は」
「…? 何かあるか?」
少し顔をあげた藍渙が、うらめしそうに江澄の首元の一点を見つめて呟く。これ、と触られてチリリと軽い痛みが走った。そういえば、フラットから逃げ出したときに慌てて羽織ったコートの金具で引っ掻いたかもしれない。江澄はコートの襟についた留め金に触り、ああこれだなと確かめた。
「………………ごめんなさい」
納得したのか藍渙は両腕の力をゆるめ、江澄の顔をきちんと見たあと少し瞳を揺らし、心底すまなそうに謝った。己のしでかした事の重大さに動揺しているようだ。藍渙の先ほどの行為はあと一歩でレイプだ。
「ごめんなさい…………君を怖がらせて…………」
「…俺も、謝りたいことがある」
江澄は藍渙の謝罪を受け止めながら、今なら言える、と大きく息を吸い込んだ。
そのことは何も無かったように忘れて欲しいと思っていたけれど、向き合うと決めたのだ。
「藍渙で、抜いたり…その、オカズにしてたのを、聞かせて悪かった。…帰ってくるかもしれないって分かっていたのに」
気持ち悪いものを聞かせてごめん、もうしないからと言い切ろうとしたが最後のほうは声が震えてしまう。藍渙は忘れるなんてできないと確かに言っていた。ひどいトラウマを植え付けてしまった。
藍渙は黙ったまま蒼白な江澄の顔をじいっと見ていた。その顔には嫌悪感や不快そうな色は少しもない。ただ怯えたように「もうしないから」と言った江澄の言葉に、藍渙は静かに首を振った。
「…江澄。あの日、わたしは浴室の外で君の嬌声を聞いて、」
「君がわたしの名前を呼びながら、欲しい、とねだるのを聞いて、……腹の底がひどく興奮した」
ここ、と藍渙が江澄の手を持って、今は何の反応も示していない己の股の間へと誘導し触らせた。
「…っ、え」
「熱を持って勃っていると気付いて、でも君がどんな表情をしているかとか、何をしているかも分からないのに、と混乱したけれど………もっと欲しい、という声が扉ごしに聞こえる度苦しくなって、どんどん熱は増していった。…あの場で抑えきれなかったぐらい」
「……?」
江澄がぽかんとしているのを見てとり、藍渙は続きを少し躊躇ってから目を伏せて「トイレで一人で出したんだよ」と小さな声で告白した。
「昔から君と過ごす時間はいつだって楽しかったけれど、そんな風に苦しくなったのは初めてだ。それであの持て余した熱の正体を確かめたいと思った。けれども、君はわたしとはっきりと距離を置く」
ちょうど江澄があの自慰のあと、これ以上おかしな期待と妄想を抱かないよう、藍渙に必要以上に線を引いていた頃だ。
「アドが亡くなった日、君は誰にも一緒に生きて欲しいと望まないと言った。君が一人で死んでしまわないように守ってあげたいと思ったのに、わたしにそれを望んでいなかった」
「ならばせめて体だけでも君の口から欲しがってもらいたいのに、わたしは君のペニスを扱くことしかさせてもらえない」
藍渙は口元を歪めると、己に触れさせていた江澄の手をとりぎゅっと握った。君にいやだとやめろしか言われない、と寂しげな声で告げられて、江澄は自分の張ってきた防御線を顧みる。だって、そんなこと、ボランティアでしてくれていると思っていたから。
藍渙の手はひんやりと冷たくて、小刻みに震えている。けれどそれは寒さのためではないのだろう、この男もまた江澄と同じように恋に臆病だった。
「江澄は、わたしと、君の夜の相手とでは立場が違うと言う」
「…当たり前だ、藍渙とあいつらじゃ俺にとって全然違う」
「立場が違うから、わたしは彼らのように君と気軽にハグをしたり、君のベッドで一緒に眠ってはいけない。裸の君の前では服を脱いではいけないし、君の身体をすみずみまで触らせてはもらえない」
「――――もし同じことをしてしまえば、わたしも彼らと同じ、君にとって〝その他大勢の男達〟の一人だ」
江澄は頭をあげてそういう意味じゃないと言おうとしたが、藍渙の顔を見て口を噤んだ。男の表情はひどく思い詰め、何かの強迫観念に追われているかのようだ。
「だから君を抱いてはいけない。君はセックスの相手に心なんて求めないと言った。わたしは…江澄を抱いて、君の、君にとってどうでもいい〝Friends with benefits〟の一人にはなりたくないんだ…………」
君に求められたら、きっとわたしの体はひどく興奮して君の性欲を満たしてあげられるけれど。
心を求めてもらえない体では、意味がない。
「どうしたら君はわたしを欲しがってくれる?」
藍渙は両手で江澄の顔をそっと挟み込んで、おしえて、と呟いた。
「そんな、それじゃまるで、俺のことが好きみたいじゃないか………」
せっかくおさまったというのに、再び泣き出しそうな声が江澄の唇からこぼれ落ちる。藍渙の親指が、江澄の古い涙の痕を拭うように一回、小さく撫でた。
「今はかつての君と同じ〝好き〟だ」
いつかの夜に、同じ好きを返せないと言われた言葉が脳裏をよぎる。藍渙は、誰にも性欲を抱けないと言った。
「もし、やっぱり違ったら?」
「違わない。今朝君に寝ぼけた声で『ほしい』とコーヒーをねだられただけで、ちょっとぐっときたぐらいにはわたしは君の愛に飢えてる」
「っ、…え、」
「江澄。もしも、と自分が傷つくかもしれない未来を思って臆病になるのはやめにしよう」
鼻先が擦れ合いそうなほど近づいて、藍渙の琥珀色の瞳が一度、掬い上げるように江澄を見上げた。それから「君のことが好きだ」とはっきりとした声で告げ、触れ合うだけのキスをした。
「ん、」
「…どう?」
「どうとは?」
「君は今のキスをもっとしたい? 明日も明後日も、何曜日でも。わたしとだけ」
「っ」
藍渙は目の前の頬を包む両方の手にほんの少し力をこめた。冷たい玄関だというのに江澄の頬はサッと上気したように赤らんでいる。
もう一度唇が重なった。江澄が自分からくっつけたのだ。面と向かって言うのは恥ずかしかったので、江澄は顔を見られないよう唇を合わせたまま「もういっかい、」と掠れた声を出した。
「…!」
「あっ」
今度は藍渙は少し強く、角度を変えて江澄を食んでから、もういっかいとねだってくれた唇にぬるりと舌を差し込んだ。
「ふ、っん…、ぁ、あッん」
「江澄っ…もっと、…、もっと欲しい?」
「あっ…ぅ…、ふっ、ぁ、ほし、ほしい…!」
たまらなくなって江澄は欲しい、と差し出された男の舌を吸った。望んだ愛が手に入らなかったときの哀しみは、子供の頃に見た両親の姿が教えてくれた。だから見込みのない恋になど期待しないようにしてきたのに、今目の前にいる男は欲しがれと言う。必ずあげるから、と。
何か熱いものが下半身に集まっていくのが分かった。藍渙は江澄が欲しいというたび、深く口づけて口腔内をあますことなく蹂躙した。気がつけば藍渙の手は江澄の頬から離れ、中途半端に引っかかっていた服を全部脱がせて江澄をかき抱いている。
「江澄……わかる?」
「んっ、…は、…なに…」
大きな手で腰骨をゆるく触られるのが気持ち良くて、江澄は喉の奥で小さく喘ぎながら返事をした。藍渙はそんな江澄に目を細めてから、江澄がちゃんと聞こえるよう耳元に口を寄せた。
「…勃ってる」
耳のすぐそばで、藍渙の熱を含んだ声が囁いた。
てっきり下半身が熱いのは自分のせいだとばかり思っていた江澄は、そこで初めて擦り付けられている巨大な熱の塊が藍渙のものだと気がついた。ぴったりとくっついた二人の体の間で、硬く張りつめたものがそそり立って自分に押しつけられている。藍渙のスラックス越しでもじんじんと熱い。この熱量が、自分に向けられている。
「ッあ、うそ、………ッあ!」
ぐ、と硬い熱が下腹部を圧迫した。今目の前にいる男は聖人君子なんかじゃなく、いやらしい欲望で江澄に狙いを定めている。それをはっきりと認識して江澄はビクと身体を震わせた。――軽くイきそうになった。
少し腰を動かされただけで、その熱い塊は同じように興奮した江澄の股間を刺激してくちりと湿らせる。己の陰茎からだらだらと我慢できずにカウパーが漏れてくる。こんな自分は知らない。かろうじて着ている下着に色濃く染みが広がっていく。足をすり合わせて内腿に力をいれようとすると、そうはさせまいと藍渙の膝が割り込んできた。
「藍渙、おれ…あっ、も、立ってられな…」
「いいよ、それより江澄、もう一回言って」
「あっなに、を」
「もっと欲しい、って」
藍渙の指は江澄の乳首の上でくるりと円を描いてから、つつと下へおりていき小さな縦長の臍をくすぐるように可愛がった。そんなちょっとした触れ合いにも江澄の劣情は先走りをこぼすのを我慢できない。藍渙はかつて学んだように、江澄の亀頭に溢れた透明な液体を塗り込んで、上下にゆるゆると扱き始めた。
「はぁ、あッ……あッ、きもち、い、ッ…もっと……!」
「江澄、江澄…ッ」
「あっ藍渙、くち、口あけ、ろっ…」
江澄は無意識にがばりと腕をまわして、藍渙の首を己のほうへ引き寄せキスをする。薄く開かれた唇に己の舌を挿れて、れ、と舌の裏を差し出すと、藍渙は心得たように舌先で愛撫してくれた。
「んっぅ、…ふ、ぁっ…」
「は、じゃん、ちょ、」
快感と興奮とこの後の予感に何もかも訳がわからなくなって、江澄はひたすら喘いだ。唇を離すと混ざりあった唾液がつうと糸を引いて垂れる。
「藍渙…あっまて、手、とめ…」
「江澄?」
江澄は気を抜くと今にも達してしまいそうな己の下半身に力を込めて、藍渙の手をなんとか止めた。突然の制止に男の顔がわずかに曇る。何かいやだった、と少し強張った声で藍渙が尋ねてくるのでそうじゃないと頭を振る。
決意のようにひとつ、息を飲み込んだ。これだけは伝えなければいけない。互いの興奮に流されて勢いだけで繋がるのでは、〝Friends with benefits〟と変わらない。藍渙の不安を引きずったままになってしまう。
どうせ手に入らないと卑屈になって逃げてばかりいるのでは、この男の熱は灯せない。
「藍渙、俺、ずっと……に、にじゅうねん、藍渙が………好きで…っ、……」
緊張で喉が焼けついて上手く喋れない。伝えなければと思うほど涙と嗚咽がこみ上げてきて言葉は詰まった。たどたどしく紡がれはじめた江澄の言葉を、藍渙は瞬きひとつせずじっと待つ。
「今も、いまもずっと好きだ…、ッほ、本当はただの友達じゃ…なくて、………うっ、ひっく、…藍渙に、おれは……っあ、……ッあいされたい……!」
他の誰でもない、藍渙しか欲しくない。この先もずっといっしょにいたい。
言った。二十年抱えて隠してきたものを、ちゃんと言えた。臆病になるのはやめにしようと藍渙が言ったから、江澄も欲しいものに手を伸ばせた。
言い終わる前にきつく抱きしめられていた。ぎゅうぎゅうとこれ以上力を込めたら身体が一つになってしまうのではないかと思うぐらいの痛さで、藍渙は江澄を抱きしめて何かを噛み締めている。江澄は初めて、この男を死ぬまで諦めたくないと思って腕を伸ばし、同じぐらい強くかき抱いた。どくどくとした胸の鼓動がどちらのものなのかは分からない。腕の中の男のすべてが欲しいと思う気持ちは、どちらにもあった。
互いの興奮を発散させるには玄関は寒すぎると、二人はようやく部屋の中へ入った。早く抱えた熱をどうにかしたくてたまらない。江澄は触れるだけのキスを繰り返す藍渙に、寝床を貸せと囁いた。お前の寝床で、早く俺を抱けと。
「ん、……っ、江澄、本当に…こっちでいいの」
狭い部屋の床に敷かれたマットレスに、藍渙はそっと江澄を組み敷いて口づける。この部屋に来たばかりの頃に買った、薄くて弾力のない敷布団の寝心地はあまりよくない。
「いい、…こっちのほうがいい、藍渙の匂いがする…ッん!」
「君はそういうことを!」
江澄の煽るような発言が妙に手慣れて感じられて、藍渙は江澄の喉元を甘噛みした。ちゅうと軽く吸って痕を散らす。藍渙はその自分のつけた痕をみて、いつか江澄の耳元に他の男の痕跡を見つけ心がざわついたのを思い出した。――やっていることが同じだ。
「江澄、わたしは経験がないから、あの人達のように上手にできないかもしれない」
ちゅ、ちゅ、と小鳥が啄むように江澄の肌のあちこちを吸いながら、時々藍渙は痕をつける。
「あっ…ん、ふっ…そんなの比べられるわけ…んっ」
「ねえ…君はどんなふうにされるのが良かった?」
他人と同じに扱われるのは嫌だが、他人ができたことを自分ができないのは悔しい。そういうどうしようもない我儘を唇にのせて、藍渙は濡れた舌先で江澄の膨らんだ乳首をこね回す。江澄がびくりとのけぞるたびに突き出されるそれを可愛がっては、同じ姿を見てきたのかと顔も知らない男に苛立った。
「んっ、あ、……藍渙、俺は今まで」
「うん」
「…誰かに玄関でひんむかれたり、襲われたり泣いたり…、っあ、…好きだって言ったことはないし」
「……」
「他人の匂いがするところで、裸になるのも初めてだし、」
「……江澄」
「…あと、好きな男に抱かれるのも初めてだ」
だから比べようがない、と江澄が笑うと、藍渙はがばりと腕の中の体を抱きこんで笑ったばかりの唇を貪った。背中を固いマットレスに押しつけられて江澄はのしかかってくる藍渙の熱い体を受け止める。男の劣情は信じられないほど大きく膨らんで、ずりずりと江澄の下腹部に擦り付けられている。
江澄はゆっくりと藍渙の手をとると、己のすぼまった後孔へと誘導した。そこは江澄自身がこぼした先走りがだらだらと垂れてきてぬるりと濡れている。
「ここ、に…あっ、ゆび、挿れて」
「ッ!…痛かったら言うんだよ」
「だいじょ…っあ、あん、…はっ、ぁ、…ァあ」
藍渙の太い指が一本、ぬるぬるとした液体を塗り込めながら入ってきた。いつか思い描いていた通りみちみちと狭い後孔いっぱいに埋め込まれて江澄のナカを押し拡げようとする。ぬめった先走りがとめどなく流れて、白いマットレスに染みを広げた。
「藍渙、もっと…奥に、…んッ」
「江澄、江澄……っすごく熱い…柔らかくて、まだまだ奥に吸い込まれて」
「ん、欲し、…奥まだはいる…からッ、はやくひろげろ…!」
ふうふうと息をつきながら無自覚に腰を揺らして藍渙に催促する。早く入り口を拡げて、その熱でかき混ぜられたい。
その光景に藍渙はぐ、と息を詰めてぐちぐちと指を大きく動かした。しばらくそうしてからゆっくり引き抜いてきて、びしょびしょに濡れた後孔の縁に指先をひっかけて強引に拡げる。
「あっあっ、藍渙、らんほぁ…それきもち、い…あ、」
「…ッ、江澄はっ…強くされるのが好きなの、…君をそんな風にした男達全員どうにかしてやりたいな…!」
「ちが、藍渙に…そうされるのが、」
いいんだろ、と言い終わる前に、江澄の後孔に感じたことのない熱量が押し込まれた。
耐えきれなくなった藍渙が、自身の硬く今にも弾けそうなほど張りつめたそれを江澄の濡れて赤くなった入り口にぴったりと押し当てて、ずるりと入り込んでくる。指では到底拡げ足りなかった入り口がズキリと痛みを訴えたがそれすら江澄は快感として拾い上げてはくはくと喘ぐ。声もだせないほどの圧迫感だ。熱くて、大きい。藍渙の陰茎がどんなものかしっかりと見えなかったが、おそろしく長大で張り出したカリ首が主張していることを江澄は腹の奥で感じ、離さないとばかりにきゅうと締めつけた。
「あっ…江澄…ッ! ごめ、スキン、っ……」
「いい、いらな、…ひ、ぁ熱い、んっ…きもちい、」
藍渙がずくりと突き込んでは引き抜き、江澄の粘膜を絡めとりながら腰を振る。熱に浮かされた男に名前を呼ばれながら、荒々しく揺すぶられるのがたまらなく気持ちいい。
「ッはあっ、あっ…藍渙、名前、ッもっと…!」
「江澄っ江澄…!!!!」
「んあああぁ…あっうそ、もう、イく…ッ、あっ藍渙、あっああ!」
「…! ッく、江澄………っ!!」
江澄の白い足がビクンと跳ね上がる。腹の奥で大きな熱の塊がぶわりと膨らんで一番奥を甘やかに痺れさせたかと思うと、腹の奥までかけのぼってくるような鋭い快感が江澄を襲い、その直後ぱたぱた、と腹の上に熱い精液が飛び散った。
それからくたりと力を失って江澄の手足はマットレスの上に投げ出され、「うそだろ………」という情けない声が残された。
「こんな…挿れられてすぐ、イくなんて………」
同じく江澄の中で精を放った藍渙も、ずるりと後孔から己を引き抜きながらこちらはやや蒼白な顔をして江澄のほうを見る。はぁはぁと荒い息をついて、江澄の頬を撫で心底困ったような顔をした。
「ごめん……夢中になりすぎてスキンを…つけられなかった」
最低だ、君の体も考えずに、これじゃあの人達と同じだ、と藍渙は懺悔のように江澄の腹に額を当てて、下腹部に口づける。
「…はは、ナマでやるのも………初めてだ」
「……本当に?」
「今更嘘言ってどうすんだ、……うわ、シーツべたべたで汚いな」
「本当だ、江澄のここがすごく欲しがって泣いてたから」
「やめろ、おっさんくさいことを言うのは」
なんだかひどく面白くなってきてしまって江澄は声を上げて笑った。藍渙も一緒に笑い始め、それからもう今日は動けない、と二人で狭いマットレスに身を投げ出して夢の中へと微睡んだ。
意識を手放す直前、藍渙の腕がそっと自身の背に回されたのを感じて、長い長い片想いの終わりが今度こそやってきたのだと江澄は静かにひとつ、涙をこぼした。
+
金曜日の午後七時。
これから盛り上がるブライトンの繁華街を抜けて、しんみりとした住宅街の通りへ曲がると、帰宅を急ぐ人達の姿がぽつぽつと見える。
江澄は大量のエールビールやアップルタイザー、塩気のきいたソーセージとベーコンブロックを詰め込んだ買い物袋を抱えて帰り道を歩いて行く。頼まれた通りピーナッツバターも忘れなかった。
江澄と藍渙がこの街に住むようになって数年が過ぎた。
似たような色のコンバージョンフラットがいくつも立ち並んだ中の一つに、二人の部屋はある。マスタード色のモダンな壁に淡い緑の屋根が特徴の建物だ。すこし割高の家賃だが、壁が分厚いのが決め手だった。
階段を上がって自宅の鍵を取り出そうとすると、玄関がひとりでに開く。扉の向こうに藍渙が顔を覗かせて「おかえり、窓から見えた」とにこりと嬉しそうにした。外はだいぶ暗いのに、江澄の影を見つけるのが上手な男なのだ。
「魚は」
「もう焼けてるよ、あとは君を待ってた」
「俺じゃなくてこいつをだろう」
ピーナッツバターの大瓶を取り出して、キッチンにどんと置く。この国のサイズ感にも慣れてしまったものだ。お徳用のスーパーサイズを二人であれこれしながら簡単に使い切れるようになった。
「エールビールばっかり買ってきたね、あんなに太ると言ってたのに」
「今日ぐらい、いいだろう。俺が飲むんだし」
「今日ぐらい、わたしも飲むよ」
「やめとけ、ひどいことになる。今日は特別な夜なんだから」
ぱん、と軽く藍渙の尻を触って言外に誘ってから、江澄は洗面所へ向かった。
買い物袋の中身を冷蔵庫に詰めながら、藍渙はビールとサイダーの瓶を数えて自分達の腹回りの心配をした。最近どちらも少し太った気がする。一本ずつペリエに差し替えてしまおうと、こそこそ瓶をストッカーにしまっていると江澄が戻ってきた。藍渙の心配をよそにいそいそと腕まくりをして、てっかりとしたベーコンブロックを刻もうとしている。
仕上げのピーナッツバターでまろやかに煮込まれたメインディッシュの魚と、ラディッシュと刻みベーコンのサラダ、お隣さんにいただいたグリーンアスパラを濾した、冷たいポタージュ。エールビールとアップルタイザーは、江澄の姉が先日贈ってくれた揃いのバカラグラスに注がれた。
金曜日の夜を始めるには最高のテーブルだった。
「今日までの日々に乾杯」
藍渙は自分のグラスに江澄よりもはるかに少ない量のエールビールを注いで、グラスを軽く持ち上げた。少ないといっても、200mlぐらいはある。かつて缶ビール一本で大暴れしてみせたこの男の姿を江澄は忘れていない。
「本当に飲むのか? 独身の俺を抱けるのは今夜が最後だぞ?」
「飲むし君も抱くさ、最後だから思う存分。明日からは人妻の江澄だからね。…わたしのだけども」
「…やっぱり飲んで寝てしまえ」
寝ないよ、いいや寝る、とくだらない言い合いをしながら二人の夜は幕を開ける。
人生で二回目、顔ぶれも全く同じバチェラーパーティ。独身最後の夜だ。
「…藍渙、ちょっとこっち」
「どうかした、……、!」
江澄は向かいに座った藍渙を引き寄せて、ほんのりアルコールの香りがする唇にちゅ、と触れるだけのキスをした。
「…末永くお幸せに」
「君も一緒にね」
特別な夜だからともう一度顔を寄せた。二人は明日、結婚する。
fin.