予想外の夜 遅くまで仕事をこなして重くなった頭を休めるように目を閉じて、ふぅと一息つく。秘書課の人間も他の社員も居ないビルの社長室で戴天はふと昨日を振り返る。
昨日は戴天の誕生日だった。外出から戻ると雨竜を始め、社員から大々的にお祝いされた。取引先も戴天に会う人は皆お祝いの言葉をくれ、中にはいつもお世話になっているからと贈り物をくれる人もいた。相手の誕生日を把握し、贈り物を見繕う。それは相手を想い、労力を割くことで。これが当たり前でないことは戴天自身が身をもって知っている。
家に帰ってからは雨竜からもプレゼントを貰い、心温まる言葉もくれた。幸せになって欲しいと願う人々から貰う幸福は、戴天にとって気持ちを引き締めるきっかけの1つとなった。これからも高塔のために粉骨砕身すれば、願いは叶う気がした。
昨日のことを思い出し口元に笑みを浮かべていると、デスクに置いていたスマートフォンのアラームが鳴る。アラームを止めると共に時間を確認すると、あらかじめ指定しておいた迎えの車がそろそろ到着する頃だと気づき、社長室を後にした。
ビルの外に出ると、昼間の暖かさとはうって変わり、ひんやりと冷えている。風が強いせいで余計に寒く感じる。
「高塔」
不意に聞き覚えのある声で呼ばれる。余程のことがない限りこの場所で聞くことのない声。
「……宗雲さん?」
聞き間違いだと一瞬思ったが、そこには宗雲が立っていた。もちろん約束などしていない。何か連絡を見落としていたかとライダーフォンを確認するが、特に連絡も入っていないようだった。
「どうしてここに?何か用事でもありましたか?」
「これを渡しにきた」
宗雲は相変わらずにこりともせずに、持っていた紙袋を差し出す。戴天が戸惑っている様子を察したのか宗雲の左手がそっと戴天の右手を掴み、紙袋を握らせる。
「昨日は誕生日だっただろう。遅れたが、おめでとう」
「え、」
咄嗟のことに声が出ない。宗雲が戴天の誕生日を覚えていることも、わざわざ直接プレゼントを届けに来ることも予想だにしていない出来事だった。
「なんだその顔は」
「……あなたが覚えていたことに驚きました」
宗雲が心外だとでも言いたげにこちらをじっと見ている。
「俺の誕生日を祝ったことを忘れたのか?」
「忘れてはいません。ですが……」
確かに数ヶ月前にやや強引ではあるものの、宗雲の誕生日に祝いの言葉をかけた。プレゼントも何も用意せず2人の時間を過ごす、ただそれだけ。宗雲は喜んでいたようだし、戴天も良い時間を過ごせたとは思っている。それに宗雲は義理堅い男だ。己の誕生日を祝ってくれた相手の誕生日を無視するような人ではない。それでも、遠い道のりを会えるのかも分からない状況で、プレゼントを渡すためだけにやってくる価値があるのか、果たして疑問だった。祝いたいのであっても、他にいくらでもやり方はあるはずだ。
言い淀む様子の戴天をよそに、宗雲はくるりと踵を返し、去ろうとする。決して近くはない距離を本当にこのためだけにやって来たのか、そう思うと考えるよりも先に戴天の手が宗雲の腕を掴んだ。
「どうした。忙しい中突然悪かったな。早く帰って休め」
「本当にこれだけのために……?」
「直接渡したかったからな」
その言葉に腕を掴んでいた戴天の手に力が入る。くしゃりと歪んだ宗雲のジャケットを見てはっとして手を離す。
様々な感情が入り混じって言葉が出ない。お互いに無言で見つめ合っている奇妙な状況に、何か言わなくてはと口を開きかけた時、戴天のスマートフォンに送迎車の運転手から連絡が入る。道が混んでおり遅れたが到着したらしい。
「あなたに時間があれば、家に来ますか?」
運転手を待たせるわけにはいかず、かといってこのまま宗雲を帰してしまうのはなんだか惜しい気がして、言葉が口から転がり出る。
「雨竜くんは習い事の行事で……家には誰も居ません」
家に誰も居ないから家に来ないかなんて、まるで意中の相手を誘い込む常套句のような台詞を言っていることにも気づかないまま、戴天が宗雲の様子を伺う。宗雲は目を見開いたまま固まっている。
「あの……宗雲さん?」
「……いいのか?」
やや間を置いて、宗雲が問うてくる。
「運転手を待たせています。行きましょう」
送迎車が停まっている方向へ歩き出すと、後ろから宗雲が大人しくついてくる気配がした。
(どうして私はあんなことを……)
車に乗り込み送迎車が走り出してから数分後、戴天の脳内は軽くパニックを起こしていた。宗雲から渡された紙袋をぎゅっと胸に抱き、窓の外を流れる景色を見ていた。いや、正しくは見ているフリをしていた。頭には何も入ってきてはいない。
「良かったのか?随分と後悔しているようだが」
見かねた宗雲が話しかけてくる。長い足を持て余したように組んで、こちらをじっと見ている。
「何のことでしょう。後悔などしていません」
流れるように吐く嘘も落ち着き払ったフリをするのも、誤魔化すように自分の髪に触れる仕草で全て宗雲には筒抜けなのだろう。ただ宗雲はそうか、とだけ言い目を閉じた。そういうところは弁えている。それはそれで腹立たしい。
特に会話もないまま車は自宅の敷地内に入り、停車する。運転手へ声を掛けると、仕事を終えた車は早々に去っていった。
「お待たせしました。どうぞ」
玄関の扉を開け、誰も居ない自宅へと入る。後ろにいる宗雲が今どんな気持ちなのかは分からない。懐かしんでいるのか、何も感じていないのか。お互いに過去に何も無いと言い張っている以上、2人しかいなくても過去を想起させるような発言はできなかった。
宗雲をリビングのソファーに座らせ、キッチンへ向かう。使用人以外で来客は滅多にないが、常に誰が訪れても良いようにお茶やお茶請けは常備している。ただ、今日の来客はあの宗雲だ。きっとお茶よりも喜ぶだろうと、ある物を取り出すために棚を開いた。
「取引先からいただいたワインがあるのですが、いかがですか?」
「お前が良いのであれば」
ピクリと宗雲が反応するのが分かり、思わずふふと笑みが溢れる。ワインボトルとグラス2つを手に取り、リビングのテーブルへと並べると、戴天の手から取り上げるように宗雲が手を伸ばす。グラスに注いでくれるのであればと特に何も言わずに任せる。キッチンへ戻り、ワインと共に貰ったつまみを取り出してテーブルに戻る頃にはグラスにはワインが注がれ、澄んだ赤色がゆらゆらと揺れていた。
「それではいただきましょうか」
「あぁ。乾杯」
グラスを手に取り、まずは匂いを楽しもうとグラスに顔を近づけると芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。口に含むと嫌味のない爽やかな味が舌に触れ、こくりと嚥下する。
「お気に召しましたか?」
「良いワインだ」
「それは良かったです」
宗雲に尋ねると、満足そうに言葉を漏らし、もう一口こくりと飲んでいる。どうやら宗雲の口にも合ったようだ。勢いで宗雲を家に連れてきたものの、おもてなしの1つもできないなどという失態を晒さずに済んだことに安心する。
しばらくは黙々とワインを楽しんでいたが、ふと宗雲の目がじっとこちらを見つめていることに気がつく。こちらに疑いの目を向けている時とは違う、柔らかな視線。
「……どうかしましたか?」
「どうして家に招いたりした?」
「え?」
徐に宗雲がソファーから立ち上がり、膝と膝がぶつかりそうな距離に詰めてくる。
「ちょっと、宗雲さん」
「あまりにも無防備だ。それとも俺だから、か?」
宗雲の暖かな腕が戴天の首に回される。抱き締められて緩く頭を撫でられる。宗雲の香水なのか、花のような良い香りがする。
「あなたが、遠いところからわざわざ来るから……」
肯定するのも否定するのもどちらも何か違う気がして、言い訳じみた答えを返す。お酒には弱くないはずなのに、じわりと頬に熱が集まる気がした。
「俺は嬉しかった」
「そう、ですか」
耳元で囁かれ、ますます顔が火照る。これはワインを飲んだせいだと自分に言い聞かせた。
「ん?あれは何だ」
ふと宗雲が何かを見つけたようで、体が離れていく。宗雲の目線の先を追うと、少し前に雨竜と共に遊園地に行った際に買ったカチューシャが目に入った。
「あれは仕事の一環で遊園地に行った時に、雨竜くんが私に選んでくれたんです」
「……付けたのか?」
「……はい」
「……」
何も発さなくなった宗雲を見ると、口元を抑えて視線を合わせないようにして……笑っていた。
「何か文句でもありますか?」
「いや」
「どうせ似合わないとでも言いたいんでしょう。でもあれは雨竜くんが私に選んでくれた大切なものです」
「似合わないとは思っていない。むしろ可愛くて良いんじゃないか?」
「……」
宗雲が褒めているのか貶しているのか分からない。ここでムキになって怒るのも大人気がないなと戴天は口を噤む。気を取り直して残りのワインを飲んでしまおうとグラスに手を伸ばそうとして、その手を掴まれる。それと同時に宗雲の空いている手が戴天の顎に添えられ、くっと持ち上げる。近づいてくる宗雲を跳ね除けることもできずに唇が重なった。
宗雲の舌が戴天の唇をなぞり、押し入ってくる。段々と息苦しくなり、体重をかけてくる宗雲の体を押し返そうとするが上手くいかない。支えきれなくなった体が後ろへ倒され、やがて背中がソファーへと沈む。宗雲の唇が離れていくと同時に目を開き、ふと周りの景色が目に入る。忘れかけていたがここは自宅のリビングだ。
「宗雲さん、ここでは……」
「……あぁ、悪い」
宗雲も気がついたのか、あっさりと体を起こし、体の熱を逃がすように大きく息を吐いた。
そわそわと落ち着かない空気が2人を包む。取り繕うように2人ともがワインを口に含んだ。
「そろそろ休みましょう」
ワインボトルの中身がなくなったのをきっかけに戴天がそう切り出す。ぐっと伸びをして時計を確認すると、そろそろ日付も変わる頃合いだった。
交代でシャワーを浴び終えた頃には既に夜中の1時を迎えていた。戴天が長い髪を乾かし終えてリビングへ戻ると、リビングのテーブルに広げられていたワインやつまみは宗雲が綺麗に片付けてくれていたようだった。
「客人に片付けをさせてしまうとは」
「客人だなんてそんな大層なものではないだろう」
そう言いながら宗雲が我が物顔で2階への階段を登ろうとするので、慌てて静止の声を掛ける。
「どこに行く気ですか」
「お前の部屋だ」
「なぜ?」
「……」
「……あなたはこちらです」
宗雲の不満そうな顔は見なかったことにして、1階にあるゲストルームへ連れて行く。扉を開けて中へ通し、部屋の中を一通り説明する。
「それでは、おやすみなさい」
「……おやすみ」
静かに扉を閉め、ゲストルームを後にする。戴天も自身の部屋へ行き、寝る支度を進めた。
自宅へ戻ったその足で自室へ置いておいた宗雲からのプレゼントを紙袋から取り出す。開けてみるとそれはピローミストだった。さっそく枕にシュッと吹きかける。戴天の好む甘すぎない爽やかな香りが辺りに漂った。
いつもと変わらないベッドなはずなのに、香りが違うだけで自然と深く眠れそうな気がした。目を閉じて、ほどなくして戴天の意識は溶けていった。
頬を撫でる暖かな感触に、戴天の意識が浮上する。何か柔らかで暖かいものが頬をゆっくりとなぞり、顔にかかる髪を撫でるように流される。それが何なのか分からないが不快感は無かった。再び意識が落ちて行く寸前に、おめでとうと誰かの声が聞こえたような気がした。
トントン、トントン、と規則的に肩を叩かれる振動で、戴天は薄く目を開く。
「起きたか?」
真横から聞こえる声が誰のものなのか、まだ覚醒していない頭では分からなかった。
「うりゅ、くん……?」
毎朝決まった時間に内線で起こしてくれる雨竜かとも思ったが、その声はすぐ隣から聞こえる。
「雨竜はまだ帰ってきていない」
その落ち着いた声は、ずっと聞いていたいような憎しみが湧き出してくるような不思議な声だった。それが誰なのか考えるよりも先に頭は思考を放棄し、再び目が閉じていく。
「寝るな。起きろ」
トントンと叩かれていた肩をゆらゆらと揺らされる。睡眠を妨害されたことで戴天の眉間にわずかに皺が寄った。それを指摘するかのように眉間に柔らかな何かが触れる。
「なに、」
パチパチと何度か瞬きをし、視線を上げた瞬間にドキリと心臓が跳ねる。
「なっ、宗雲さん……?どうしてここに」
目の前には昨夜ゲストルームに押し込んだはずの宗雲が横たわっていた。
「さっそく使ってくれたんだな」
ベッドサイドのテーブルをチラリと見て宗雲が満足そうに微笑む。
「……えぇ。せっかくの頂きものなので」
とても好みの香りでした、とまでは気恥ずかしくて言えなかった。それでもある宗雲には伝わったのか少しほっとしたようだった。
バサリと戴天の許可も得ずに布団をめくり、宗雲がベッドから降りる。真冬のような寒さはなくなったものの、布団の暖かなぬくもりが恋しくて、思わず伸びた手を宗雲に掴まれた。
「そろそろ俺は帰る」
「……わかりました」
観念したように体を起こし、ひと足先に部屋を去る宗雲を見送ったあと、スマホを取り出して送迎車の手配をする。
身支度を済ませてリビングへ降りると、宗雲も私服に着替え終えていた。
「プレゼント、ありがとうございました」
贈り物を貰ったというのにお礼すら言えていなかったことを思い出して、戴天が告げると宗雲が軽く頷く。
「今年は良い誕生日を迎えられたか?」
「えぇ。とても良い誕生日を迎えられましたよ。ですが、今年は当日だけではなく次の日もサプライズを受けるなんて……ふふ」
誕生日当日の本社でのサプライズと昨日の宗雲のサプライズを思い出して、そういえばこんなに連続でサプライズを受けるなんてと思わず笑んでしまう。
「よく分からないが……お前が楽しそうにしていて良かった」
当日の出来事を知らない宗雲が首を傾げながらも満足そうにしている。
クラクションが外で鳴り、車の到着を告げた。
「車を呼びましたので、乗ってください」
「わざわざ良いのか?」
「車はあなたを降ろしたあとに雨竜くんを迎えに行きます。ついでなので」
2人で玄関を出て、車に向かう。運転手に挨拶をして、宗雲を後部座席へ乗るように促す。
「それでは、ありがとうございました」
「あぁ、こちらこそ」
第三者がいるだけで、こんなにも関係は気薄になる。でも、それが今の宗雲と戴天には適度な距離なのだろう。
去っていく車を見送ったあと、戴天は踵を返して自宅へと戻る。自室のピローミストを見て、宗雲のことを思い出すと思うとなんだか癪な気がしたが、きっとそれでも戴天は律儀に毎晩あの香りに包まれて眠りにつく。瓶の中身が無くなるまで、毎晩。でもそれも悪くない気がした。